〔2〕





───────昨夜のことみんな、夢ならいいのに。




 そんなことを思いつつ、明朝、梓はいつものように出社する。会社を目前にしてかけられるのは、聞き慣れた声。

「先輩、おはようございますっ!!

 いま一番、会いたくない相手の声だった。

「……おはよう」

 いつも以上にテンション上がりまくりの相手とは対照的に、梓の機嫌は急降下していく。

「元気ないですね、どうかしたんですか?」

 誰のせいだと思っているんだと言いたいのを抑えながら、「昨夜ちょっと眠りが浅くてね」とだけ答える。実際、眠りが浅かったせいかあまりよろしくない夢ばかり見てしまって、気分は最悪なのだ。現実とほとんどテンションの変わらない誰かさんが夢の中でも押しまくってくるわ、般若の面を被った優樹菜が出てきて恨み事を延々呟きまくるわで、目が覚めた時の安堵感は半端なかった。けれど、現実も大して変わりがないことに気付いて、気分は再び最悪状態である。

「大丈夫ですか? 体調が悪いなら、無理に来られなくても……」

「体調は大丈夫」

 それだけ答えて、梓は再び前を向いて歩きだす。

 あの後─────何度もキスを交わして気が済んだらしく、最高に上機嫌になった沢村とは対照的に、予想外の展開に「明日の昼は何を食べるかな」などと現実逃避としか思えないことばかり梓は考えてしまって。浮かれまくった沢村は何も話さなくても満足気だったが、梓はもはや何を言っていいのかわからなくて、沈黙に包まれた車内のまま、沢村は梓を家まで送ってくれた。常の梓なら、個人的に親しくない相手には家の近くにまでしか近寄らせないが、沢村には年賀状交換で住所もバッチリ知られているので、もうどうでもよくなっていた。「よかったら、食事でもご一緒に」とも言われたが、とにかくもう一刻でも早く帰りたかったので、「食べちゃわなきゃいけない食材があるから」と断った。

「送ってくれて、サンキュ」

 とりあえず礼だけはちゃんと言わないとと思い、車から降りてから運転席側に回って告げた梓に、沢村は満面の笑みで、

「いえいえ。こちらこそ、ご馳走様でした」

 などと言ってきたので、梓は反射的に右ストレートを繰り出しかける自分の拳を押しとどめるのに、精いっぱいの努力を要することとなった。

 よくもぬけぬけと言いくさりやがって…!

 半ば無理やりだったくせにと思いつつ、別れの言葉を口にしてきびすを返し、そのまま一度も振り返ることなく一人暮らしの部屋へと入って行く。それを見届けていたらしく、その直後沢村の車が去っていく音を聞きながら、梓はやはりどうでもいいことを考えながら、着替えたり風呂を沸かしたり休みの日にストックしておいた食料で食事を済ませたり……とにかく何も考えたくなくて、さっさと日課を済ませて寝てしまった。それで安息が得られたかどうかは、前述の通りだが。

 冗談じゃない、と梓は思う。沢村のことは決して嫌いではないが、それはあくまでも後輩としてであって、男性としてではない。そもそもそんな対象として考えたこともないのに、いきなり言われてもそう簡単に結論を出せるものか。それでなくても、今回は優樹菜のこともある。だいたい梓は、恋人を奪われることはあっても、奪ったことは一度もない。奪っていく相手は、たいてい優樹菜のようなタイプの女の子で、梓にとっては鬼門といえるタイプといえよう。だから極力近付きたくないというのに、何ゆえこんな形で巻き込まれなければならないのか。「彼女は俺がついてなきゃダメなんだ」と男に言わせるタイプほど中身は誰よりもしたたかであるということを、梓は誰よりも知り尽くしている。

「これだけは言っとくけど。会社では、個人的な感情は持ち込まないこと。わかってるね?」

 沢村の説得は時間がかかりそうなので、とりあえず社内で妙な言動をまき散らさないように、釘を刺す。沢村はそれを梓が照れているものと思っているのか、満面の笑みでよいこのお返事をやってのけた。勘弁してくれと梓は思う。

 いつものように会社のビルに入り、エレベーターホールに向かうと、沢村同様、いま一番会いたくない相手と出くわしてしまった。用事を思い出したふりをして逃げようかと思った瞬間、その相手の向こう側にいた見知った顔にさわやかに挨拶を投げかけられて、それもかなわなくなってしまった。

「おはようございます、岡田係長…と、千葉サンでしたっけ?」

 すっとぼけて笑顔で言うと、向こうもさすがに上司の前では公私混同ができないのか「おはようございます」と言いながら会釈してくる。その俯いた頭の下で、どんな表情を浮かべているのかと想像するだけで、梓のテンションはさらに急降下してしまう。こちらもさすがに顔には出さないが。

「おはよう、千葉」

「あら、沢村くんも一緒だったの? おはよう」

 しらじらしいなあと思いつつ、やってきたエレベーターに皆で乗り込む。正直このメンバーで乗り込むのは勘弁してほしいが、仕方ない。まあ係長や他の社員もいれば、そうそう優樹菜もあからさまな行動には出ないだろう。

「…坂本くん、何だかいつもより元気がないように見えるけど、体調でも悪いのかい?」

 岡田の声にハッとして、すぐに笑顔で手を振って見せる。

「全然、元気ですよ。ただちょっと、昨夜は眠りが浅かったので眠いだけです」

「ならいいけど」

 ああ、いまの自分には、係長はオアシスだなあと梓は思う。さわやかな顔で、俗世の喧騒とは無縁そうだ。

 梓・沢村・優樹菜・岡田の順で横に並んでいたので、岡田から視線を外した際に、ふと小柄な優樹菜の横顔が目に入った。優樹菜はこちらを見ようともせずに軽く俯いていて、そっと瞳を閉じている。直毛で真っ黒な梓の髪とは全然違う、やわらかそうな長い髪をいつも女らしい凝った髪形で束ねていて、色白の肌はきめ細かく、二重の瞳はくっきりはっきり、薄い唇にはピンクのルージュがよく似合っている。何ゆえ受付嬢にされなかったのか不思議になるほどの美少女────沢村の同期なら二十は確実に越えているはずだが、「少女」という形容がぴったりくる愛らしさだ────で、自分とはえらい違いだと梓は思った。

 沢村が隣にいるせいか、わずかに頬が紅潮しているように見えるのは気のせいか。

 こうしてれば、ただの可愛い恋する乙女にしか見えないのになあ………。

 たとえ、中身が般若だとしても。今朝の夢を思い出し、梓は誰にも気付かれないように小さなため息をついた。


 それから二、三日は、平和な日々が過ぎていった。心配していた沢村も、公私混同はしないと決めているのか社内では以前と変わりなく接してくるので、あの日のことは夢だったのではないかと思うほど、梓の気分は楽になってきていた。……その日までは。

 沢村と取引先に出向いた帰り。あちら側にもこちら側にもハプニングが生じたため、思っていた時間をだいぶ過ぎてからの帰宅と相成ってしまった。一応直帰になる可能性も告げていたので、職場には電話一本しただけで済んだのだが、問題はマイカー通勤している沢村だった。

「これから社に戻って車で帰るんでしょ? 大変だね。あたしは電車通勤でよかったー」

 取引先の位置関係から、これから社に戻ってから帰るとなると、かなり大回りをしなくてはならない。けれど電車なら、一度の乗り換え程度で済むので、帰るには楽なのだ。肉体的な疲労もさることながら、いまはとにかく沢村から離れたかった。素知らぬ顔をして以前のように振舞うのは、思った以上に精神力を必要とする行為で、精神的な疲労が半端なかったからだ。

「いえ、俺も今日は電車で帰ります。車は会社に置いていって、明日の朝は電車で行けばいいし。それに……まだ先輩と別れがたいし」

 照れもせずに笑顔で告げる沢村に、梓は「はは…」と乾いた笑いを浮かべる。さすがに限界を越えてしまって、途中にあった橋の上の歩道で、ずっと言いたくて仕方なかったことをついに口にしてしまった。すっかり暗くなった橋の上は、ひっきりなしにライトを照らして車は通るものの、歩いて渡る人間は他にほとんどいなかったせいもあるだろう。

「─────あんたさあ。何か勘違いしてるんじゃない?」

「何がですか?」

「あたしのこと好きだとか何とか言ってたけどさ、それってできる先輩に対するって自分で言うのも何だけどさ…尊敬とか憧れとかなんじゃないの? あたしがたまたま女だったから、勘違いしちゃってるだけなんだよ、きっと。学生時代からよくあったしさ」

 できるだけあっさりとした口調で、さらりと言い切ってやる。学生時代から云々という話は、実際にあったことなので、安易に想像がつく。だから、そう簡単に浮かれてはいけないのだ。冷静になれば、男は結局自分が守りたいと思う相手の元へと走って行くのだから。

「だから、もう少し頭を冷やして……」

 言いかけた梓の言葉は、そこで不自然に途切れさせられた。梓の肩を掴んでそちらを向かせて、突然唇を奪ってきた沢村によって! 唇が離れると同時に、先ほどまでの淡白さはどこへやら、梓はカッとなって叫んでいた。

「あんた…あたしの話聞いてたの!?

「聞いてましたよ」

「だからあ、あんたのそれは恋愛感情じゃないって……」

「先輩は俺じゃないのに、どうして俺の気持ちがそうじゃないってわかるんですか」

 梓でさえ気圧されそうなほどの、気迫に満ちた瞳と声だった。

「だ…だって、いままで告ってきた年下の奴みんなそうだったんだよ? そうとしか思えないじゃん」

 それも、事実。

「そんな、先輩の表面しか見ていなかったような奴らと一緒にされたくありませんね」

「あ…あんたにあたしの何がわかるっていうのよ!? たかだか一年、仕事で一緒に過ごしただけの奴に!!

 普段の梓なら絶対にしないような、感情的な叫びだった。そんな部分を見せたが最後、「所詮女は感情でしか物を言えない生き物だ」と、二度と剥がすことのできないレッテルを貼られることがわかっていたから、それだけはするまいと就職した時に誓いを立てて、それ以来どれほど理不尽な扱いを受けようともすべて冷静に乗り越えてきたというのに。

「─────俺。去年の初冬の頃、仕事を辞めようかと思うほど、鬱っぽくなってたんです」

 唐突に。ほんとうに唐突に、沢村は意味のわからない話を話し始めた。いったい、いままでの話と何の関連があるというのだ?

「先輩に親身になって仕事を教えてもらっても、全然活かせなくて……契約も全然取れないし、自分は営業に向いてないんじゃないかって毎日悩んで。先輩の前ではおくびにも出さなかったけど、毎日仕事に行くのが苦痛で苦痛で仕方なかったんです」

 訳がわからなくて、梓は口を挟むこともできず、淡々と語り続ける沢村を見つめることしかできなかった。

「あの日も、まっすぐ帰る気になれなくて途中の喫茶店に入ってぼーっとしてたら、先輩が男の人と待ち合わせしてたみたいで入ってきて。何か顔合わせづらくて、俺思わず隠れちまったんですよ。会社で見せてたみたいな、『悩みなんか何にもありませーん』ってな顔作れる自信がなくて……」

 去年の初冬の待ち合わせ? まさかとは思うが……あの別れ話の時のことではあるまいな!? いつもはどちらかの部屋か食事のできるところで会っていたから、あれ以外のことで喫茶店に入った記憶など、梓にはない。

「そしたら、相手の男の人が別れを切り出してて……俺、二重にヤバいことになったって思って、本読むふりしてそっちに顔を向けないようにして。だって、万が一修羅場になった時に俺が聞いてたって知られたら、その後先輩とどう接していいかわかんなくなっちまうじゃないですか。会社では冷静極まりない先輩だけど、プライベートでまでそうとは限らないし。厄介なことになったなーと思いながら、先輩の動向についつい聞き耳立ててたら、ホントにあっさりと『いいよ、別れよう』って……あの時他に聞いてた人も同じこと思ったと思いますけど、どっちが男だよと思っちまいましたよ。相手はまだグダグダ言ってるのに、先輩はサバサバした態度でさっさと席を立って。やっぱ先輩はすげえなあ、プライベートでも全然性格変わんねえんだあって変なとこで感心しながら、店を出ていく先輩の横顔を見た瞬間、何か気になるものを感じちまって……いつもの先輩とほとんど変わんないのに、何故かその時はどうしても見過ごすことができなくて、さりげなく席を立って先輩の後を追っかけたんです」

 何だろう。その先は、聞きたくないことのような気がする。梓は耳を塞ぎたい衝動に駆られてしまった。

「急いで会計して先輩の向かった方向へ走ったんですけど、先輩の姿は既に見えなくて。いくら何でも、俺の脚より速く去れるはずなんかないのにってぼんやりと歩いていたら、どこからか掠れた声みたいのが聞こえてきて……どこからだろうとほとんど無意識に探していたら……」

「わ─────っ!! やめてっ もう聞きたくないっ!!

 梓には、そこまでが限界だった。




          *      *     *




 どうして梓が急にそんなことを言い出したのか。沢村巧にはわからなかった。

「あたしのこと好きだとか何とか言ってたけどさ、それってできる先輩に対するって自分で言うのも何だけどさ…尊敬とか憧れとかなんじゃないの? あたしがたまたま女だったから、勘違いしちゃってるだけなんだよ、きっと」

 そんなんじゃないと反論しかけたその時、「学生時代からよくあったしさ」と付け足しのように付け加えられた一言で、沢村はすべてを悟った。

 そうか。以前このひとに告白した奴らがそんな奴ばっかりだったから、自分の告白もそれと同じようにとらえられていたのか。冗談じゃない。そんな、彼女の表面だけしか見ていない連中と一緒にされてたまるものか。

「あ…あんたにあたしの何がわかるっていうのよ!? たかだか一年、仕事で一緒に過ごしただけの奴に!!

 普段の梓を知る者が見たら心底驚くに違いないほど、感情をあらわにした叫びだった。沢村だとて、こういう話をしている自覚がなかったら、きっと驚いていたことだろう。だから、彼女を好きになったきっかけを話すことにした。梓本人にしてみれば、絶対に誰にも知られたくない事柄だっただろうけれど、自分がどれだけ本気かわかってもらうために、背に腹はかえられなかった。

 突然、脈絡のない話を始めた沢村に、梓は怪訝そうな表情を隠すことなくこちらを見つめてきた。彼女からすれば、当然のことだろう。実際、いままで話していた内容とはかすりもしない、沢村自身の独白のようなものだったから。沢村からしてみれば、あのことがなかったらいまごろ会社を辞めて、彼女のほんとうの姿など知ることもなくそのまま一生を終えていたかも知れなかったのだから、ある意味人生を変えてしまうほどの衝撃的な出来事だったのだ、あの晩のことは。


『─────他に好きなひとができた。別れてほしいんだ』

 見知らぬ男の声が聞こえてきた時は、「おいおい、修羅場かよ。勘弁してくれ」としか思わなかったというのに。

『君はひとりでも生きていけるけど。彼女は俺がついていないとダメなんだ』

 うわー、すげーありきたりなセリフ。てゆーか、んなセリフいまどきマジで使う奴いるんだ。先輩、男の趣味わりーなあ。

 などと、失礼極まりない感想ばかり抱いていた沢村だったが、梓の態度には思わず感嘆し、毅然と立ち去る姿を是非拝顔したいと思ってそちらを向いた瞬間。いままで感じたことのない何かを梓の横顔から感じ取って、ほとんど無意識に立ち上がっていた。あの時感じたそれが何だったのかは、いまでもわからない。けれど、その時の梓からは、放っておけない何かを感じたのだ。理屈ではなく、心の奥底で。

 気付いたら、荷物をすべて持ってレジに向かっていた。財布を開けるのももどかしく、代金を渡して釣りを受け取るわずかな間にコートを羽織り、すぐにでも走れる準備を整える。受け取った釣りを財布に入れている間に、脚は既に走り出していた。ほんの数十秒前に出ていったばかりの梓を追って。彼女に追いついて、どうするのかなど考えていなかった。ただ、いまの彼女をひとりで放っておくことなど、この時の沢村にはできなかったのだ。理由なんて、自分にもわからないのに。

 慰めたかった? 励ましたかった? 梓自身は放っておいてほしいかも知れないのに? 同じ会社の、指導係として接している後輩になんて見られたくなかったかも知れないのに? それでも、追わずにはいられなかったのだ。

 いない─────? 店を出た時間差はほんの数十秒しかなかったというのに?

 自慢ではないが、沢村は決して鈍足ではない。学生時代は、ほとんど毎回リレーの選手に選ばれていたほどだ。しかもいまは、梓の姿を見逃すものかと目を皿のようにしていたのだから、見逃したということもない。となると、どこかそのへんのビルか店に入った? そうだとすると、沢村にはもうどうしようもない。焦りが心を占め始めた沢村の耳に、小さな、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの声が届いたのは、次の瞬間だった。

「……っ ひ…っ」

 一瞬、誰かのしゃっくりかと思えるような声だった。けれど、沢村はその声が妙に気になって……気付いたら、そちらに向かって歩みを進めていた。

 それは、ビルとビルの間─────通用口が違う側についていて、双方とも壁しかない側でありなおかつその先は突き当たりで誰もいないはずのそこに、沢村は気配を感じた。一瞬ネコか何かかと思ったが、そうではなかった。積み上げられた箱の向こう側で、座り込んでいるらしい女性の脚がちらりと見えて……顔も服装も見えないのに、沢村にはそれが梓だと確信できた。相手に気付かれないように、少しずつ身体をずらして角度を変えて、女性の顔を確認する。

「…っ!」

 ほとんど無意識に確信していたが、改めて確認すると衝撃は段違いだった。

 あの、梓が。普段は「竹を割ったような性格」と評されて、どんなことがあっても冷静に大人の対応で対処している梓が。まるで小さな子どものように、大粒の涙をぼろぼろとこぼし、けれど嗚咽すら漏らすまいと懸命に声を圧し殺して、こんな…誰からも見えないようなところで独りで泣いているなんて。沢村は、頭を強く殴られた錯覚を覚えるほどの衝撃を受けた。

 家に帰りつくまでの時間も耐えられないほど────もしかしたら、あれ以上あの場に留まっていたら決壊していたほど、梓の中では限界が迫っていたのだろうか?

 それならば、あの潔さも納得がいく。別れを切り出されて泣いて縋る女性も多いだろうが、既に心変わりをしている男をそれでつなぎとめることができる可能性は限りなく低いだろう。だから梓は、最後まで徹底的に自分のスタイルを崩さず、「いい女」を演じきったのか。相手を想うあまりに困らせたくなかったからなのか、それとも自身のそんな部分を見せたくないという自尊心からなのかはわからない。けれど梓は、完璧に演じきり、誰もが梓は「そういう女だ」と感嘆せずにはいられないほどだっただろう。ほんとうの梓の姿など、誰一人知ることもなく────これまでもずっと、いまのように陰で独りで泣いていたのだろうか。こんな、お世辞にも綺麗とはいえないような場所で。誰にも気付かれないように声さえ圧し殺して。

 さりげなく、ほんとうにさりげなく少しずつ身をずらして、ビルの壁の端に寄り掛かるようにして、沢村はポケットから携帯を取り出して着信チェックでもしているような顔をして、いかにも人待ちをしているかのように装ってみせる。沢村のように、ほんの小さなきっかけから梓に気付く人間がいないとも限らない。だから、梓の姿がギリギリ見える位置に自分の身を置いて、他の誰からも梓の姿が見えないように─────梓が気の済むまでそうしていられるように、沢村はいつまでもその場に立ち尽くしていた。そして、梓が身じろぎをして立ち上がろうとする気配を察すると同時に、またさりげなく通行人にまぎれて夜の街に溶け込み、自分とは反対の方向────梓が利用している線の駅がある方向に彼女が向かうのを見届けてから、沢村はそれからようやく自分も帰路についた。

 梓が気になりだしたのは、それからだった。

 家に帰っても、食事をしていても、テレビを見ていても、頭を占めるのは梓のことばかり。いまごろまた独りで泣いているのだろうか、それとも彼との想い出の品でも放り投げているのだろうか、それともふたりで写した写真でも破っているのか─────考えても仕方のないことだとわかっていても、考えずにはいられなくて。深夜ベッドに入っても、なかなか寝付かれなかった。

 寝不足の頭を抱えながら出社した沢村の前に現れたのは、いつもと変わらない────否、変わらないのは態度と笑顔だけで、心なしか化粧もいつもより濃い目で、ケアをしても間に合わなかったのか目元もいくらか腫れていて……目ざとい女性社員に指摘されてもまるで慌てることなく、

「最近買った村上の本が読み終わらなくってさ〜。つい夜更かしして読んじゃったよー。おかげで寝不足だわ顔色もよくないわで、さんざん。まあ面白かったからいいけどさ、これで面白くなかったら本放り投げてるところよ」

 と普段と変わらずけろりとして答えたから、誰も疑うことなく「あるある」などと笑ってその話はそこで終わりになった。

「沢村くん、何ぼーっとしてんの。ほら、B社さんのアポに遅れるよ、さっさと支度して!」

「は、はいっ!!

 あまりにも。あまりにもいつもと変わらなかったから、沢村のほうが慌ててしまうほどだった。

「あそこは遅れるとうるさいからねー、よく覚えておきなね」

 梓の後に続きながら、沢村は思わず自分より頭一つ分低い梓の背を凝視してしまう。いままで意識したことはなかったが、細い… 細い肩だった。腕だって首だって、自分のそれとは違い過ぎるほどに細く、力いっぱい抱き締めでもしたら、折れてしまうのではないだろうかと不安になるほどだった。こんな細い身体で、あんなにも深く苦しい悲しみに耐えていたのか。誰にも頼ることなく、誰にも真相を明かすこともなく─────ずっと独りで。

 そう思ったら、沢村は堪らなくなった。少しでも、彼女の肩にかかる重圧を減らしてあげたいと思った。彼女の心を苛む憂いを、なくしてあげたいと思った。彼女がほんとうの意味で笑っていられるように、守りたいと思った──────。


 橋の欄干に腕を乗せて川を眺めながら、沢村が長い話を終えた時。その耳に、ドサ…と何かが落ちる音が届いた。思わずそちらを見ると、梓の足元に彼女が持っていたさまざまな資料が入っていたショルダーバックが落ちていて、当の梓は真っ赤な顔をして震える両手で口元を覆っていて……その表情は、想い出の中の彼女と同じように初めて見せる、どうしていいのかわからないと言いたげな、戸惑いと羞恥のみに彩られた表情だった。

「──────どう…して……」

 梓の唇が、震える声を紡ぐ。

「どうしてよりによってそんなとこ見てるのよ!?

「だから、偶然だって……」

「偶然でも何でも、そんなとこにいないでよっ 気付かないでよっ」

 無茶苦茶な言い分だ。とても梓の言うこととは思えない。

「何で追いかけてくるのよっ 何で見つけるのよっ」

 もう、梓自身さえも自分が何を言っているのかわかっていないのかも知れない。

「あんたがそんなことしなければ……そんなこと話したりなんかしなければ、あたしはいままでのあたしのままでいられたのに!」

 いまにも泣き出しそうな声と表情だった。あの時と同じ────否、あの時と違って、彼女にそんな思いをさせているのが誰でもない自分だとわかっているからこそ、胸が締め付けられそうになるほどせつないそれだった。気付いたら沢村は走り出して、梓をその胸の中に抱き締めていた。

「は、放してよっ!!

 胸の中で梓が力いっぱいの抵抗を見せるが、沢村は頑として退かなかった。どれだけ胸や腕をたたかれようが、腕を伸ばしてきた梓に何度頬をひっぱたかれようが、絶対にその身体を抱き締める腕の力を緩めることなく、梓が根負けしておとなしくその身を委ねるまで、抱き締め続けていた。

 そんなふたりの姿を、ひっきりなしに通り過ぎる車のヘッドライトが照らし続ける。それでも沢村は、ようやく腕の中に閉じ込めた愛しい存在を、強く、けれど決して壊してしまわないように大事に大事に抱き締めていた。他の誰にも渡したくないと思う心のままに。

 悲しみからではなく、恐らくは羞恥や屈辱のために涙をこぼし、肩を震わせる彼女の身体を抱き締めながら、彼女の内面を知ったあの日からずっと伝えたかった言葉を、もう一度繰り返す。

「何度でも言います。尊敬や憧れなんかじゃない。等身大の貴女だからこそ、俺は貴女が好きなんです───────」





    


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2010.9.21up

梓さん、災難の回です。
誰にも見られたくなかった姿をしっかり見られていて、
それがきっかけで惚れたと言われてしまっては…。
次回、急展開です。

背景素材「空に咲く花」さま