〔3〕





───────悔しさと怒りと恥ずかしさが頭の中を渦巻いて。




 いま自分の心を占める感情を何と呼ぶものなのか、梓自身にもわからない。


 いつだって、冷静ぶって。いつだって、格好つけて。いつだって……いい女ぶって。ホントの自分をさらけだすのは、家の中、それもひとりでいる時だけと決めていたのに。なのに、いまの自分はどうだ? 他のどんな時よりも見られたくないと思っていた泣き顔────それも嬉し涙とか悔し涙とかそんなんじゃなく、たかだか男にフラレた時に堪えられなかった涙を見られて。それもあそこなら絶対に誰にも見られないと思っていた場所に隠れていたというのに、しっかり見られて、他の人からは見られないようにと武士の情け()までかけられて。

 完全に冷静さを欠いて、感情の昂るままに叫んでいたところを抱き締められて、必死に抵抗をしたにも関わらずすべて抑え込まれて、ほんとうにもうどうしていいのかわからなかった。いままで培ってきたすべてが、足元から崩れた気さえした。自分のすべてをかけて作り上げてきたものなんて所詮砂上の楼閣だったのだと、頭のどこかから声がする。それが悲しくて悔しくて情けなくて、自分でも気付かないうちに、瞳から涙があふれだしていた。もう、止められないほどに。


「何度でも言います。尊敬や憧れなんかじゃない。等身大の貴女だからこそ、俺は貴女が好きなんです───────」


 いろんな感情がごっちゃになって、もう自分でも何が何やらわからなくなっている梓の耳に、静かな沢村の声が届く。かすかな、安堵感と共に。


 すべての鎧も武器もなくなって。取り繕うことさえできない状態なのに。「そのままの自分でいい」と言われた気がした。社会の第一線で戦う者としては、それは失格を意味するのに。武装していなければ、自分さえ保っていられない気さえするのに───────。

「だから、俺は強くなろうと思ったんです。貴女を守りたいなんて、おこがましくてまだまだ言えませんが。せめて、貴女の支えになりたいと……少しでも、貴女のお役に立てるぐらいになろうと─────誓ったんです」


 沢村の言葉が、自分の心にどう作用したのかは、梓にはわからなかった。けれど、涙は少しずつ止まり始め、あれほど昂っていた感情さえも凪いだ海の如く静まって行くのを、梓は確かに感じていた。

「他の誰にも、貴女のほんとうの姿を話すつもりなんかありません。貴女を傷つけるつもりなんか……初めからなかった。いや違うな。貴女を傷つけるものすべてから……貴女を守りたかった。いつだって、心から笑ってほしかったんです──────」

 もう一度、梓の身体を強く抱き締めながら、沢村は告げた。嘘偽りなど、まるで感じ取れない真剣な声で。

「もう、独りで戦ってほしくなかった。まだまだ頼りにならない俺だけど、いつだって貴女のために持てるすべてをなげうってでも、貴女の盾になりたいと……思ったんです」

 そこで沢村は、そっと梓を解放した。梓は化粧が崩れてぐしゃぐしゃになっていることも忘れ、彼の顔をじっと見上げていた。先ほどまでの激情も、すべて忘れたかのように。梓の手を握ったまま、沢村は続ける。

「この間は、初契約がとれて浮かれてました。『何でもいいからご褒美をやる』なんて言われて、つい我を忘れてしまって……貴女が嫌なら、無理に貴女を自分のものにしようなんて思いません。ただ時々、プライベートで会ったり話してくれるのを許してさえもらえれば…………」

 優しい、けれど真剣な声。その瞳は誠実そのもので、疑う余地などないように思えた。ほんとうに……沢村の言葉は、気持ちは真実なのだろうかと思い始めたところで、その瞳に映る自分の姿を見てハッとする。

「ちょ、ちょっと待って! いまあたし、めちゃくちゃひどい顔になってるから!! ど、どこかトイレとか洗面所のある場所ない!?

 くるりと沢村に背を向けて、慌てて先刻落としたバッグを拾う。中からコンパクトを取り出して鏡にみずからの顔を映してみると、よくもまあ他人に見せられたものだと自分でも感心するほどのひどい化粧崩れをした顔がそこに映っていた。

「た、確かこの橋を渡った先にコンビニが……」

 梓の剣幕に気圧されたような沢村の声を聞くや否や、梓は背を向けたまま歩き出していた。

「とにかく話は後! 先に化粧直させてっ こんな顔じゃ、電車にも乗れやしないわ!!

 言うが早いか、ほとんど小走りで歩き出す。

「あっ 先輩、待ってください!」

 後から追いすがるような沢村の声にも、一度も振り返らずコンビニを目指す。さすがに明るすぎるほどに明るいコンビニに入る時には、沢村を盾にして後から入り、他の誰にも顔を見せないようにしてトイレへと駆け込んだが。明るいトイレの鏡で改めて見ると、ほんとうにひどい顔をしていて。よくもまあ、沢村はこの顔を見てビビらなかったものだと感心してしまうほどだった。一度携帯用のクレンジングを使ってから、もう一度化粧をし直す。それくらいしないと、とてもではないが直しきれないほどだったから。そして気付く。沢村のスーツにも、顔拓とでもいうのだろうか、とにかくそういうものを、べったり付けてしまったのではないかと。

 うあー、まいったー。満員電車から降りた後、たまにみかけるんだよね、たまたま隣り合わせた見知らぬ女にべったり化粧をこすりつけられちゃってるリーマンとか。あたしはずっと気をつけてたってのに、こんなところでやっちゃうなんてー。沢村くんにも悪いことしちゃったなあ、クリーニング代出させてもらわないと。

 そもそもそんな事態に陥ったのは、沢村の信じられない告白がきっかけだということをすっかり忘れている梓である。化粧を何とか直してからトイレから出ると、その前の通路で所在なさ気に雑誌をパラ見している沢村の姿が目に入った。


「あ、済みました?」

 笑顔が眩しいのは、照明のせいなのか、それとも自分の心のせいなのか。

「……ごめん」

「? 何がですか?」

「スーツ。べったり化粧、付けちゃったよね?」

 ほんとうに申し訳なくて小さめの声で言うと、沢村は「何だ、そんなことか」と言いたげな顔で笑ってみせた。

「上着の前を開けてましたから、汚れたのはワイシャツだけで済みましたよ。前さえ閉めちゃえば、全然わかりません」

「でも内側は汚れちゃったよね。クリーニング代は出すから」

「いいですって。そもそもそうなった原因は俺なんですから」

 トイレを借りた礼代わりに適当に飲み物を買って、ふたり揃ってコンビニを出る。駅までは、歩いてあと十分くらいだった。

 何を話していいのかわからずに、梓は何も言えない。沢村も何も言わない。ふたりでゆっくりと歩きながら、駅へと向かって、電車に乗る。電車の中はちょうど学校帰りや仕事帰りの人たちでごった返していたが、無言のままに沢村が色々と気を遣ってくれて、梓はそれほど辛い思いをしなくて済んだ。最近ではそれが当たり前のようになっていて、いままで気がつかなかったけれど……梓自身が気付かないほどにさりげなく、沢村は自分を労わってくれていたのかと思うと、これまで気付かなかった自分の鈍さが情けなくなってくる。いったい、いつから? やっぱり、あの初冬の日以来なのだろうか。

「じゃ、俺はここで」

 乗り換えのために降りた駅で、沢村は笑顔で手を上げる。

「また明日、よろしくお願いします」

「あ、うん。頑張ろうね」

 それだけ言って、実にあっさりとふたりは別れる。梓とは違うホームへと向かう沢村の後ろ姿を見つめながら、梓はひとり、つい数十分前のことを思い出す。


『何度でも言います。尊敬や憧れなんかじゃない。等身大の貴女だからこそ、俺は貴女が好きなんです───────』


 素のままの梓でいいと。沢村は言った。虚勢も意地もすべて取り払った、素顔のままの梓でいいと…………。

 ほんとうに。このままのあたしでいいのかな。何も気負わない、何も飾らない自分で……。

 何だかとても、気分が軽くなった気がした。そんなこと、いままで誰にも言われたことはなかった。いつだって誰だって、梓の見せている面をほんとうの彼女だと思っていて。「支えたい」なんて……ましてや「守りたい」なんて、言われたことはなかった。梓自身が隙を見せなかったせいもあるのだけど。五歳も年下の男の子────優樹菜と同じく、二十代に入った相手に『子』なんて失礼だけど────に、甘えても…よいのだろうか。
自分でもわからない感情を胸に抱えたまま、梓はそっときびすを返した。




          *      *      *




 それからしばらくはいい天気が続いて。理由もないけれど、梓は何となく気分よく出勤することができた。優樹菜の冷たい視線や態度は相変わらずだけれど────さすがに仕事絡みの時は普通に接してはくるが、他の相手との温度差が顕著なのだ、非常にわかりやすい────以前ほど気にならなくなっている自分に、梓は驚いていた。以前から感じていた、自分でも説明のしようがない罪悪感はまだ多少残ってはいるものの、それでも平気でいられるのは、去年の初冬以来、少しずつ成長していっている沢村がそばにいるせいか。


 あの翌日以降、沢村とどんな顔をして会えばいいのかわからなかったけれど、一晩経ってみたら、意外に素直な気持ちで接することができている自分に気付いて、梓は自分自身に軽く驚きを覚えていた。ほんとうの自分を知っていてくれるひとがいるというだけで、こんなにも心が楽になるものなのだろうか? 女友達ともまた違う心強さを、沢村の存在から感じ取っていた。


「最近の坂本くんは、何だかいい感じだね。肩から力が抜けたとでもいうのかな」


 昼食時、亮子と食堂で食事をしていた梓の向かい側に座った岡田が笑顔で切り出してきたので、梓は驚いてしまった。

「そんなに以前のあたしは、力が入りすぎてました?」

「うん。何ていうか、『女だからってなめられてたまるか』って感じで、すごく肩肘はっているように見えたというか。見ていて、何だか力みすぎてる感じがしたかな」

「ああそれ、わかる気がします。もちょっと余裕持てばいいのにって、あたしもいつも思ってました」

 亮子にまで言われてしまうのなら、ほんとうにそうなのだろう。

「そうですか……」

 思わず、少し反省してしまう。そういえば、「ちょっと声をかけづらい」と言われたことも一度や二度ではない。

「でも最近、角がとれたっていうのかな。雰囲気がやわらかくなった感じで、すごくいいと思うよ」

 岡田こそ、いい感じ全開の笑顔で言うので、亮子ともども思わず顔を赤らめてしまう。

「係長こそ、最近ますますいい感じじゃないですかー。何かあったんですかー?」

「いやあ、何もないよ。それはともかく、坂本くんは営業としても女性としても、これからはプラスになっていくんじゃないかな」

「あ、そうそう。いまは梓の話だったわ。で、どうしたの? いいひとでもできたのー?」

 亮子が指でつんつんと、梓の食べ物が詰まったリスのような頬をつついてくるので、ぺしっとはたき落としてから、口の中の物をごくりと飲み込む。

「何もないわよー。ただ最近、指導している沢村くんの成長めざましいから、それで安心しちゃったかな」

 それも事実。思い返せば去年の初冬以来、沢村の気合いの入りようは目をみはるほどだった。「梓を支えたい」と言った言葉は嘘ではなかったということか。

「ああ、それはそうかもね。うちでも噂になってるわよ、沢村くんが一皮むけたって」

「確かに、それは見ててわかるよ。何か、心境の変化でもあったのかな」

 答えを求めるかのように二人が梓を見つめてきたので、お茶を一口飲んでから梓は軽く咳払いをして。

「ようやく、社会人としての心構えができてきたってことかしらね」

 と、すっとぼけて答える。

「何をえらそーにっ」

「ちょい待った、亮子、ギブギブっ」

 などと浮かれていたから。梓は、自分が大事なことから目をそらしている事実をあえて忘れていたことに、その直後嫌というほど思い知らされることとなる。嵐は、もうすぐそこにまで迫っていた…………。


 その日の夕刻。営業先から沢村と共に帰社した梓は、総務部の前を通った折にふと用事を思い出して、沢村に声をかける。


「悪いんだけど、この書類、総務部に提出しといてくれる? 自分で出すのが筋なんだろうけど、あたし戻ったらすぐ課長のとこに来いって言われてたのよ、ごめんね」

「あ、いいですよ。先に戻っていてください」

「ホントごめん、頼むわ」

 書類を沢村に手渡して、総務部の前で別れる。そのまま数メートル歩いてから、他にも総務部に用があったことを思い出す。しまったと思いつつ、来た道を戻ったその時。偶然にも、見てしまったのだ。沢村と岡田が話している様子を、同じ女の自分から見ても胸が締めつけられそうになるほどにせつない瞳で見つめている、優樹菜がいたことに…………。

「─────っ!」

 その瞳は深い悲しみの色に彩られていて……いまにも大粒の涙がこぼれるのではなかろうかと思ってしまうほど、せつなすぎる瞳だった。その小柄な身体の中に、どれだけの深い苦しみを抱え込んでいるのか。いままで見た優樹菜の表情の中でも、段違いに憂いを帯びた瞳で─────優樹菜が梓に気付いて慌てて目をそむけるまで、梓は目が離せなかった、その瞳から。

 あのコはほんとうに……沢村くんのことが好きなんだ──────。

 胸の奥で眠っていた罪悪感が、むくむくと大きくなって首をもたげ始めたのが、梓にはわかった。自分が敢えて目をそらしていた事実────自分が沢村の優しさに甘えている陰で、以前の自分のように泣いている人がいるというそれだ────その事実が、梓の心に暗い影を落とした。沢村のことは好きだ。けれどそれは、やはり後輩として、と、自分の貴重な理解者として…ではないのだろうか。優樹菜のように、あんな真剣な瞳で、感情で、沢村を想っているのかと言われると……答えられない。沢村は、あくまでも梓の気持ちを尊重して、無理に梓を自分のものにしたいとは思っていないとハッキリと言った。自分はその沢村の優しさに、甘えているのではないのだろうか?

「先輩?」


 オフィスに戻って業務に励んでいても、その考えが頭から離れなくて、ついには不審に思ったらしい沢村に声をかけられてしまった。

「どうしたんですか? 気分でも悪いんですか?」

「う、ううん、何でもないよ」

 そう答えるしか、梓にはできなくて。

 そうして、決定的な出来事が、その翌日に起こってしまったのである…………。


 午後。バサバサっ!と、大きな音が鳴り響いて、皆が思わずそちらを向いたそこで、優樹菜がへたり込んでいる姿が梓の目に映った。歩いている最中に貧血でも起こしたらしく、派手な音は優樹菜の持っていたファイルの束が落ちたためだということにすぐ気付いた。


「千葉さん、大丈夫!?

 慌てて声をかけるが、優樹菜の顔色は真っ青だ。近くの総務部に誰かが知らせたらしく、岡田が焦った表情で駆けつける。「ちょっと失礼」と一言断って優樹菜の小柄な身体を抱え上げるのを見て、梓はそばにいた総務の別のОLに声をかける。

「あなた、このファイルを総務部に持っていって。係長、医務室まで先導します」

 一応自社ビルなので、医務室なるものも存在するのだが、医者は常駐まではしていない。けれど一応常備薬やベッドという設備は整っているので、とりあえず休ませるには一番適切な場所だ。

「沢村くん、悪いけどこれあたしのデスクに置いておいて」

 背後にいた沢村に書類や資料を渡して、梓は小走りで岡田の先を進む。幸運なことに、突き当たりはエレベーターホールだから、医務室のある階まで一直線に行ける。岡田が追いつくより速くボタンを押すと、さらに幸運なことに岡田がたどり着くと同時にチャイムが鳴って、エレベーターの扉が開いた。開ボタンを押したまま目的の階のボタンを押して、岡田が乗り込むのを確認してから、閉ボタンを押してドアを閉める。

「す…すみませ……」

「いいから。少しの間だけ辛抱していてくれ」

 か細い優樹菜の声に岡田が即座に応えると、優樹菜は力なくこくりと頷いた。

 医務室には誰もおらず、清潔そうなシーツのかけられたベッドの上に、岡田はまるで壊れものを扱うかのようにそっと優樹菜を下ろした。優樹菜の顔色は相変わらず真っ青で、目を開ける余力もないのか目を閉じたままぐったりとしている。

「千葉くん、意識はあるか? 私が誰かわかるか?」

「は、い……」

「車で病院に連れていったほうがいいだろうか? それとも救急車を呼んだほうがいいだろうか」

「い、いえ…っ そこまでする必要は…ありません……っ」

 その言葉でぴんときた梓は、

「しかし、その様子は尋常じゃないぞ」

 と心配そうに続ける岡田の言葉を遮るように口を挟んだ。

「係長、とりあえず二、三時間寝かせておいて、それでも回復しなかったら病院ということで。後は私に任せて、一度オフィスに戻ってください。何かあったら、すぐ内線でお知らせしますから」

 そう告げると、岡田はようやく普段の冷静さを取り戻したようで、狼狽しながらも頷いてみせた。

「そ、そうだな。とりあえず、同じ女性が付き添っていたほうがいいだろう。済まないが、坂本くんそうしてくれるかな。営業の課長には私から連絡しておくから」

「はい」

「じゃあ、千葉くん。私は一度戻っているから、何かあったらすぐこの坂本くんに言うんだぞ。くれぐれも無理はしてはいけないぞ」

 岡田が言うと、優樹菜は消えいりそうな声で「はい…」と答えた。それを見て安心したのか、岡田は梓に一言二言告げてから、そっと医務室から出ていった。あんなに狼狽した岡田の姿を梓は初めて見たので、驚きを隠せない。が、それはとりあえず横に置いておいて、「さて」と呟いてから優樹菜に優しく声をかける。

「千葉さん、とにかく楽にしていたほうがいいから、とりあえず服を緩めるわね。ちょっとごめんなさいね」

 断ってから、優樹菜の制服のベストのボタンやブラウスの第一ボタンと、スカートの腰のホックを緩めて、その上から上掛けを掛けてやる。それから、常備薬の棚を見回しながら、再び声をかける。

「係長の前じゃちょっと訊けなかったけど、もしかして千葉さんいまアレだったりする?」

 女性が貧血を起こす第一の理由に挙げられる可能性を挙げてみる。

「はい……実は、二日目で…」

「ああ、やっぱり。重い人はホント重いっていうものね、辛いわよね」

 梓はここまで重いほうではないが、同じ女性として辛さはわかるので、つい同情してしまう。

「なら、とりあえず常備薬を飲んでおけば大丈夫かな。それとも、もうお薬飲んでたりする?」

「いえ…今日はまだ……」

「そう。なら、友人から聞いた、よく効くって評判のを出してみるわね。でもあんまりひどいのが続くようなら、一度病院で相談してみたほうがいいかも。将来赤ちゃんを産む、大事な身体ですものね」

 言いながら、最近友人から聞いた薬を棚から出す。医師が常駐していない分、常備薬の豊富さは見事なもので、梓は思わず舌をまいてしまった。やっぱり口コミで「いい」と評判になったものをどんどん入れているのかな、などと半ばどうでもいいことを思いながら。

「辛いとこ、ちょっとごめんなさいね。とりあえず少しだけ起きて、お薬だけ飲んでもらえるかな? あとは、寝ていれば大丈夫じゃないかと思うんだけど」

 そっと手を貸して優樹菜を起き上がらせて、薬とグラスに汲んだ水を慎重に手渡す。優樹菜が飲み干すのを確認してから、それを受け取って脇に置いて、もう一度手を貸して再び横たわらせる。上掛けを掛け直し、グラスや薬の残りを片付けていた梓の耳に、か細い声が届いた。

「──────すみません……」

「いいのよー、同じ女同士、困った時はお互いさまよ」

「そっちじゃ、ありません」

「え?」

 見ると優樹菜は上掛けでほとんど顔を隠し、どんな表情を浮かべているまでは見えない。

「あたし……嫉妬してたんです」

 いえそれはバレバレでしたがと、梓は内心で呟く。

「あたしの好きなあのひとと、とっても仲が良くて。その上美人で仕事ができて、あたしには真似できないぐらい大人の女性でカッコいい坂本さんに……嫉妬して。一生懸命、嫌いになろうとしてたのに。あたしの気持ちになんてとっくに気付いてたんでしょう? なのに、こんなに優しくしてくれて……あたしなんか、とてもかなわない。あのひとが好きになるのも、当然です…………」

 最後のほうは完全に涙声になって、優樹菜は一気に言いきった。考えなくてもわかる。これが、演技でもなく優樹菜のほんとうの気持ちそのものだということが。梓の胸が、ずきんと痛んだ。

「あたしだって……貴女が思うほど、できた人間じゃないわよ」

 思わずぽつりと呟く。

「え?」

 よく聞こえなかったらしい優樹菜が聞き返すのを敢えて黙殺して、笑顔を浮かべながら優樹菜の頭を優しく撫でる。

「貴女は可愛いわよ……あたしなんかよりずっとずっと。正直に自分の気持ちを恋仇に話せるその素直さが、いまのあたしには眩しくて仕方ないわ」

 それは、梓がとうの昔にどこかに置いてきてしまった、懐かしい感情。

「もう、何も考えないで。いまはとにかく、ゆっくりお眠りなさい。また後で、様子を見に来るから。いいわね、何も考えないでぐっすり眠るのよ。そうすれば、目覚めた時にはきっとスッキリしているから───────」

 それだけ言って、優樹菜の頭を軽くぽんぽん、とたたいてから、梓は医務室を後にする。それからみずからのオフィスに向かって歩き出すが、いまはエレベーターに乗りたい気分ではなかった。社屋の端のほうにある階段を、ゆっくりと上がりだす。

「…………っ!!

 思い出すのは、たったいま垣間見た優樹菜の涙。彼女はほんとうに……沢村が好きなのだ。こんな、何もかも中途半端な自分とは違い、一途に真剣に。なのに、自分はそれを知っていながら沢村の気持ちに甘えていた。自分などより、よっぽど弱い存在がより沢村を必要としていたのに。

 自分は狡い女だと、思わずにいられなかった。初めて自分の内面を理解してくれた人を得て、自分だけが楽になろうとしていた。 あんなにも、あんなにも素直な気持ちを優樹菜は自分に吐露してくれたのに。五歳も年下の後輩たちに甘え、ぬくぬくとその恩恵にあずかろうとしていた自分自身が、汚らわしく思えて仕方がなかった。そんなこと、許しておけるはずもなかった。

 だから、決意した。誰よりも素直に、嘘偽りのない自分たちの気持ちをぶつけてくれる後輩たちのために、自分ができることをするために。自分はもう、大丈夫だから。一度でもちゃんと理解してくれる人に出逢えたから、それだけでもう十分だった。それだけで、これからもきっと戦っていけると思うから、だから。あの可愛らしい後輩たちのために、先輩として自分にできることをやるだけだと梓は思う。それが、自分にできるただひとつの恩返しだから。

 だから、終業時刻になってから、仕事を手早く切り上げて、沢村のデスクに行った。

「沢村くん、キリのいいところで切り上げて、ちょっと来てくれる? 大事な話があるのよ」

 そう告げると、沢村は快諾して、仕事を早々に切り上げて椅子から立ち上がった。

「はい。どちらに行かれるんですか?」

「そうね、天気もいいし、屋上にでも行きましょうか」

 全身から、心のすべてから勇気を振り絞り、できるだけ何気なさを装って、沢村を背後に従えて梓は歩き始めた──────。




    


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2010.9.29up

梓が思っていたよりずっとずっと純粋だった優樹菜の想い…。
梓はいったいどんな決意をしたのか?
次回、最終回です。

背景素材「空に咲く花」さま