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──────ひとの心なんて、外からは見えないのに。「強い」とか「弱い」とか、どうやって決めるの?



「……君はひとりでも生きていけるけど。彼女は俺がついてなきゃダメなんだ」

 平日、会社帰りの喫茶店で。対面に座った男がうなだれて、それでもハッキリ告げるのを、坂本梓はぼんやりと見つめていた。ああ。このセリフを言われるのは、いったい何度目だろう? 古くは学生の頃から、つきあった時間は最短で一ヶ月から最長で数年単位まで、ひとりとして同じ相手はいないのに、告げられる言葉は一言一句ほぼ同じだ。

「君にはほんとうに済まないと思ってる。だけど……」

「いいよ。別れよ」

 男の言葉を遮るように言ってから、すっかり冷めてしまった目前のコーヒーをすする。

「え…っ」

「そんかし、ここの代金はあんた持ちね。それくらいの慰謝料は払ってよね」

 もしも煙草が喫えたなら、ここで一発煙でも吹きかけてやるところだ。

「ばいばい。それなりに楽しかったよ」

 まだ何か言い募ろうとする男を無視して、自分の荷物を持って立ち上がる。店を出ると同時に、すべて聞こえていたらしいウエイトレスのどこかひきつった「ありがとうございましたー」という声が聞こえてくるが、いまの梓にはもうどうでもいいことで…。外に出たとたん、初冬の冷たい風がいきなり吹き荒んで、梓の鼻の辺りまで伸びた前髪────もう少しで顎のラインまでの後ろ髪に届きそうだ────を容赦なく乱す。まだ手袋をしていなかった手で軽く整えながら、梓はぽつりと呟く。

「……バカヤローが。別れの言葉ぐらい、個性を見せてみろってんだ」

 コートの前を押さえながら、梓は夜の街をひとり歩き始めた。




          
      *     *




 そして、翌年の春。営業で二度目に訪れたばかりの会社のソファの上で、梓は驚きのあまり目をむいていた。


 驚きの対象は、これから取引先となり得るかも知れない会社の社員ではない。梓が指導係として普段自分に同行させている、同じ会社の後輩営業だ。一年前に大学を卒業して入社したばかりで、まだ自分の力だけでは新規契約をとったことのない若い青年だった。その青年がいま、普段の梓の押しにも負けないほどの熱心さで、つい先日飛び込みで訪れたばかりの会社の社員を相手に、自社製品について熱弁をふるっている。

「ほほう。なるほどなあ」

 いまや梓が口を挟む隙もないほど、青年────沢村巧(たくみ)は新製品である自社製品のセールスポイントを正確につかんでおり、相手が興味をひかれずにいられないほど絶妙なセールストークを繰り広げている。最近、ヤケに熱心にサービス残業を自発的に行っているなと思っていたが、それはこのためだったのか。同じようにセールスポイントと、さらにウイークポイントまで把握している梓でさえ、引き込まれずにはいられないほど見事なトークだった。


「……やりましたね、先輩っ!!


 先ほどまでいた会社を辞して二十分ほど歩いたところで、ようやく実感がわいてきたのか沢村が隣を歩く梓に声をかけてきた。

「やったのはあんただって。あたしなんか口を挟む暇もなかったぐらい、見事なトークだったわよ」

 本気で感嘆しているのを隠さず笑顔で伝えてやると、よほど嬉しかったのか沢村が両手で拳をつくり、「よっしゃあっ!!」と叫ぶ。周りを歩いていた見知らぬリーマンたちが驚いて振り返るのを見て、梓は思わず苦笑する。思えば、自分も初契約をとった時にはこんな感じだった。梓が入社した六年前は、「女に営業がつとまるのか」と冷笑を浴びせる頭の固い上役たちがまだ現役で生息していたから、その悔しさをバネにして努力した結果だったために喜びもひとしおだった。その勢いのままがむしゃらにやってきたから、うるさいオヤジ連中もいまでは黙らざるを得なくなったが。

「全部、先輩が一から仕込んでくれたおかげっス! 心から感謝してますっ!!

「あたしの力ばっかりじゃないよ。あんた自身も半端なく努力した結果だよ、胸を張りなね」

「ありがとうございますっ!!

 どうして自分と関わる男子社員はこう体育会系になるのか。やはり自分自身に女としての色気が足りないせいなのか。それは梓の密かな悩みであったりする。

 いつもの癖で後ろ髪を耳のあたりから後ろに払う。しかし思ったほどの重量も長さも感じないので一瞬驚くが、そういえば先週切ったばっかりだったことを思い出して、すぐに納得する。去年の初冬の頃には鼻先の辺りまでだった前髪が顎の辺りにまで伸びたので、この春思い切って後ろ髪と長さを揃えたのだった。

 二人で会社に戻ると同時に真っ先に直属の上司に報告し、今回は特に沢村が頑張ったことを告げると、上司はまるで我がことのように喜んでくれ、営業部全体が祝いのムードに包まれた。昨年入った新入社員の中で、ほとんど自分の力だけで新規契約をとったのは今回の沢村が初だったため、同期の間からは「自分も負けてなるものか」という活気がわいていたが。

「やったじゃん、梓。指導係としては、鼻が高いんじゃない?」

 社内の自販機の前でコーヒーを飲んでいた梓に話しかけてきたのは、同期の企画部社員の斉田亮子だった。

「相変わらず情報が早いねー」

 いつもながら、人並み外れた情報収集能力を誇る友人に、梓は苦笑いを浮べずにはいられない。すると亮子は、自販機で買った紅茶を取り出しながら、意外なことを言い出した。

「それくらい、と言いたいところだけど、あれに関しては注意して行く末を見守ってたからね。あれの企画書出したの、あたしなのよ」

「マジで?」

「そー。だから下手な営業に回されたらたまんないなーと思ってさ。そしたらあんたたちだっていうじゃない、あんたなら安心だと思ってたら、メインになって契約とったのは沢村くんだって聞いて、驚いたの何のって」

「へえ、そうなんだ」

 そんな話をしている背後から、梓に声をかける存在があった。

「あ、岡田係長」

 梓の入社当時から何かと目をかけてくれている、総務部の岡田和之係長だった。三十になって少々経った頃に係長に昇進し、三十五歳になった現在、そろそろ課長に昇進するだろうと社内でも評判になるほどデキる人物だ。芸能人にたとえるなら谷原章介に似ていると女子社員の間でも評判の、穏やかで人あたりのいい人物だ。

「沢村くんが、自力で初契約をとったって? おめでとう、やっぱり指導係がいいと伸びも違うね」

「いえいえ。今回のアレは、沢村くんの努力の賜物ですよ。私だって、あそこまでセールスポイントをつかんでるなんて思ってもみませんでしたし」

「何にしても、またひとり将来が楽しみな社員が増えた訳だ。君の次に期待しているよ」

 そう言って、係長は笑顔で去って行った。あとには、褒めちぎられて気恥ずかしい梓と、からかうような表情を浮かべた亮子が残される。

「『君の次に期待しているよ』だってさ。やっぱりあの噂はホントなのかねえ?」

「何よ、噂って」

「ほら、岡田係長って二十代の若い頃に奥さまを病気で亡くされて以来、独身じゃん。後添いには、元気が良過ぎるほど元気な梓をって考えてるんじゃないかって、もっぱらの噂よ?」

 そんな話、初耳だ。

「ある訳ないじゃん、そんなことっ 誰よ、んな無責任な噂を流してるのは」

「だって、あんたの入社以来、それまで女性にどれだけアプローチされても軽くかわしてきてたってのに、あんたのことはえらい気にかけてるってうっとこの上司も言ってたわよ? どうすんのよ、プロポーズなんてされたら」

「ないない。『食べっぷりが見てて気持ちいい』なんて、普通狙ってる女に言う台詞じゃないっしょ」

「なに、そんなこと言われたのー!?

 ぶはっと吹き出した亮子の肩越しに視線を感じて、梓は思わずそちらを見る。その瞬間、可愛らしい顔立ちに似つかわしくない鋭い視線を投げかけてくる若い女性と、目が合った。同じ会社の人間だ、見覚えはもちろんある。総務部の、千葉優樹菜────岡田係長の部下で、若い男性社員たちからは『我が社のユッキーナ』と呼ばれて人気ナンバー1を誇っている、去年入社したばかりの女性のはずだ。

 わからないのは、何故自分がそんな視線を向けられなければならないのかということ。ほとんど話もしたことがないはずなのに、まるで憎んでいるかのような刺すような視線は何なのだろう?

「うわ……あんた、いったい何したのよ。あの目、尋常じゃないわよ?」

 梓の異変に気付いた亮子が、その視線をたどっていって気付いたらしく、小声で訊ねてくる。問われても、梓自身心当たりがないのだから、答えようがない。やがて亮子の視線に気付いたらしい優樹菜が視線をそらしたせいで、不毛な見つめ合いは終わりを告げた。

「わかんないわよ……ろくに話もしたことないってのに」

「そういえば、あのコって沢村くんと同期じゃん。じゃああの噂はマジなのかな」

「何よ、噂って」

 先刻のこともあるので、半ば警戒しながら梓は訊く。

「あのコが、沢村くんにホの字だって」

 時代劇好きな亮子は、時々古風な言葉遣いをする。

「ちょくちょく一緒にいて話してるのみかけるって、みんな言ってるわよ?」

「ちょっと待ってよ、あたしと沢村くんは、単なる指導係と後輩の間柄よ? それで睨まれたんじゃ、たまんないわよ〜」

 それは、偽らざる本音。でなくても沢村とは五歳も離れているのだ、あっちにしたって自分などが恋愛対象になるはずがないだろう。

「まあ、恋する女には理屈は通じないもんだからね。沢村くんが何かしら決着をつけてくれるまで待つしかないんじゃない?」

 それまで、優樹菜の嫉妬の矢面に立たされるのか……ひとごとだと思って、亮子は勝手なことを言ってくれる。

「まあ何にしても、めでたい愛弟子の門出じゃん。今回はめいっぱいねぎらってやんなさいな」

「そうだね、飲みにでも連れてってやるかあ」

 気を取り直して軽口をたたいてから、梓は友人と別れてみずからのデスクに戻る。この後の自分の運命の激変に、まるで気付かないままで………。




           
       *     *




 その日の終業後。軽い残業の後、自分とタッチの差でオフィスを出てしまった後輩を追いかけて、梓は慌ててオフィスを後にする。あの後急ぎの仕事が入ってしまったため、「祝いに飲みに行こう」の一言すら後輩本人に告げることができなかったのだ。

「ちょ…っ 待って、沢村く…!」

 普段は男に負けないほどの仕事ぶりを誇っていても、さすがに女性である梓の脚で男の沢村に追いつくのは、骨が折れた。間にエレベーター一回分のロスを挟んでいるから、なおさらだ。ようやく追いついたのは、駐車場で沢村が自分の車らしいものに乗りかける直前だった。

「坂本先輩!? どうしたんですか、何かご用があるなら、携帯にかけてくれればよかったのに」

「あ」

 言われるまで、完全に失念していた。

「そんなに息切れするほど走って……それほど急ぎの用があったんですか?」

「急ぎって訳でもないけど…いや、初契約のお祝いをさ、してやんなきゃと思ってさ……」

 何とか呼吸を整えながら告げると、沢村は瞬時に驚いたような顔をして。それから、恐縮するような表情を浮かべて、顔の前で両手を振って見せた。

「いえいえ、そんなこといいんですよっ」

「いくないって。誰だって初契約とった時には先輩に奢ってもらって、そんで自分が先輩になった時には後輩に同じことしてやんの。そうやって、順番に回っていくんだよ」

 笑顔でそう言ってやると、沢村は「そういうものですか…」と呟いた。

「そーゆーもんなのっ さ、飲み行こうかって、車だから今日はダメかあ。それとも、代行車代金くらいおまけしたげるから、今日行くのとどっちがいい?」

 言いながら沢村の腕に軽く手をかけると、沢村は一瞬考え込んだような表情を見せて。それから。

「祝いって、飲み以外でもいいんですか?」

 と訊いてきた。

「それは、祝ってもらう本人の意向次第だね。形に残るものがいいっつって物をもらった人もいるし、一緒に遊びに行った人もいるし」

 と、過去の事例を思い出して軽く言っただけだったのだが。まさか、それ以上の衝撃的な要求をされるなんて、この時の梓には思いもよらなかった。

「なら、先輩に一緒に行ってもらいたい場所があるんスよ。ちょっと、ひとりじゃ行けないところで」

「ああ、沢村くんがそれでいいなら構わないよ。あたしでお役に立てるんならいくらでも」

 彼女と行きたい店の下見にでも行きたいのかな、などと梓は考えたので、まったく深く考えずに答えていた。

「で、どこ行くの?」

「とりあえず、助手席に乗ってもらえます?」

「はいはーい」

 やはり深く考えないまま、沢村に促されるままに助手席に乗り込んだ。

 何か変だなと思い始めたのは、車が繁華街とはまるで別方向に進んでいくことに気付いた頃だった。知る人ぞ知る隠れ家的な店なのだろうか?

「ねえ、どのへん向かってんの?」

「もう少しですよ」

 梓も免許は持っているが、普段はペーパードライバーに近いため────営業という仕事柄、場合によっては社用車を運転せざるを得ない場合もあるから、完全なペーパードライバーとも言いきれないのだ─────入り組んだ道にはそれほど詳しくない。だから、気付かなかった。沢村が、どこに向かおうとしているのか。

「着きましたよ」

 車が到着した場所を見て、梓は驚いた。そこは、お店の駐車場などでもなく、市内でよく使われているイベント会場の駐車場であったから。さすがに時間が時間なだけに、イベントもとっくに終わって、広い駐車場にもちらほらと車が点在するのみだが。

「なに、ここ○○プラザじゃないの? こんなとこにお店なんかあんの?」

「あれ、俺どっかの店に行くって言いましたっけ?」

 『他の人の目があるところではあれだけど、二人だけの時は「俺」でも構わないよ、気疲れするでしょ』と前に告げた通り、沢村の口調もくだけたものになっている。

「『ひとりじゃ行けないとこに行く』って言ったじゃん。だから、あたしてっきり、彼女とのデートの下見にでも行くんだと思って……」

「俺、彼女なんていませんよ。好きなひとならいますけど」

 しれっとして言う沢村に、梓の好奇心が刺激される。例の優樹菜ならいいのに、というか優樹菜であってほしいという思いが心を満たしていく。これからずっと、誤解されたままなのはたまらないからだ。

「へえ、そんなひといたんだ。あたしの知ってるひと?」

「よーく知ってるひとだと思いますよ」

 ということは、優樹菜ではないということか。まさか、亮子だなんて言う訳ではあるまいな?

「俺のことばっか訊いて、そういう先輩はどうなんですか。恋人とか好きなひとはいないんですか」

「あたし?」

 予想外の質問だった。

「いないよ、そんなん。いまのあたしは仕事が恋人なのよ〜」

 そう答えたとたん、沢村の瞳が意味深な色を浮かべたが、梓は気付かない。


「ところで先輩、シートの左側にあるレバー。ちょっと上に引いてもらえます?」

 梓の向こう側を指差しながら、沢村が言う。梓は何の疑いも持たず、暗くてよく見えない中に左手を差し込んで、ごそごそとレバーを探す。

「レバー、レバー……あ、これかな?」

「それを、ゆっくり上に上げてください」

「はいはい」

 普段車にあまり乗らないから、沢村の意図にまるで気付かないままで、言われた通りにしてしまった。背中を預けていたシートが、ガクン!と勢いよく後ろに倒れて、何の気構えもしていなかった梓の身体も必然的にそれを追うように倒れ込んでしまったために、思わず悲鳴を上げてしまった。

「ひゃあっ!?

 シートのおかげか痛みはほとんど感じないで済んだが、驚きのほうが大き過ぎて、とっさに目が開けられない。もう何も起こらないことを確認してから、ゆっくりと目を開けたとたん、近くの街灯が車の屋根に遮られてできる影とは明らかに違う影が自分に覆いかぶさっていることに気付いて、ぎょっとする。悲鳴が喉から漏れる前にその正体がよく見知っている人物だということに気付き、何とか悲鳴を喉に封じ込んだ。

「さわむら、くん…?」

 いったいいつの間に倒したのか、隣の運転席のシートも倒されており、そちらに座っていたはずの沢村が、サイドブレーキやシフトレバーを乗り越えてこちら側にやってきていた。梓の身体に体重をかけないように、器用に脚や腕をシートの端について、梓の顔を覗き込むような体勢の彼の顔は、暗さのせいでどんな表情を浮かべているのかわからない。

「─────自分にできることならいくらでもって言いましたよね」

 いつもより低い、感情の読み取れない声。

「確かに言った……けど」

 これいったい、どういう状況? 何か…沢村くん、いつもと違う感じで何だか怖いんですけど。

 突然の沢村の変貌に、梓の思考はついていけない。思考につられて動けないままだった両手首に沢村の手が伸びて、胸の上にあった両手が左右に広げらける。それでも思考は追いつかず、沢村の目的の見当もつかないまま、身体に力が入らない。


「だったら俺、先輩から是非もらいたいものがあるんです」

 言いながら、沢村の顔が近付いてくる。ここまでくるとさすがに目が慣れて、沢村の表情も見えるようになるが、真剣極まりない瞳がそこにあった。

「あ、の……」

「ちょっと黙ってもらえます?」

 思わず黙ったとたん、唇に温かいものが触れて、何も言えなくなってしまった。それが沢村の唇だと気付くのに、きっかり二秒ほどかかってしまい、梓がようやく正気を取り戻した時には沢村の顔は既に離れていて……。

「…ちょっと!? 確かに言ったけど、望みがこんなことだなんて聞いてないわよ!?

 欲求不満の捌け口なら、よそあたってよ!!

 そう続けて、梓は両手にぐっと力を込めた…が、両手ともぴくりとも動かない。抑え込んでいる沢村の力がそれを上回ったためだ。

「そんなんじゃありませんよ」

 落ち着いたままの沢村の声が、密室に響く。

「相手が先輩だから、したいと思っただけです。先輩じゃなかったら、こんなこと思いもしませんよ」

「はあ!?

 梓の更なる反論は、再び封じられる。またしても近付いてきた沢村の唇によって!

「…っ!!

 今度はまるで味わうように舌が唇の輪郭をなぞり、一瞬の隙を突いてわずかに開いた唇から中へと侵入してくる。

「…っ んーっ」

 必死に抵抗を試みるが、男の力にはかなわない。奥に引っ込めていた舌まで強引に絡めとられ、存分に口腔を蹂躙されてから、ようやく梓は解放された。互いに少々乱れた呼吸を整えながら、沢村は再び運転席へと戻り、運転席のシートを元通り起こす。

「なん…っ の、真似、よ…っ」

 いまだ整えきれない呼吸の中、途切れ途切れに言いながら、キッと沢村を睨みつける。その視線の鋭さに気付いていないはずもないのに、沢村は平然と「したかったから」と答えた。それを聞いた瞬間、シートを起こしたほうが楽であることも忘れ、梓はみずからの腹筋の力で勢いよく起き上がり、憤怒に燃える瞳で真正面から沢村を見据えた。梓が本気で怒っていることも、この一年のつきあいでわかっているだろうに、沢村はまったく動じることなくその視線をまっすぐ受け止めている。

「ざけんじゃないわよ、アラサーでフリーの女だったら、喜んでほいほいさせるとでも思った!? 女コケにすんのもいい加減にしなさいよっ!?

「そんなんじゃないって、言ってるじゃないですかっ!!

 梓の声に負けないぐらいの大声で、沢村が叫び返してきた。それにはさすがの梓も驚いて、一瞬押し黙ってしまう。

「『相手が先輩だからしたいと思った』って、俺ちゃんと言ったじゃないですか。信じてくれないんですか?」

「はあ?」

 梓には、何が何だかさっぱりわからない。

「先輩が好きだからに決まってるじゃないですか」

 さすがにその言葉は恥ずかしかったのか、沢村は夜目にもわかるほどに頬を朱く染めて、ハンドルの上部に両手をかけてフロントガラスの向こう側を見やった。

 好きって……沢村くんが? あたしを──────?

 梓の思考が一瞬止まり、それからじわじわと言われた言葉が心に浸透していく。


「……はああっ!?

 思わず素っ頓狂な声を出してしまったとしても、梓には罪はないだろう。

「恥ずかしいじゃないですか、あんまり派手に驚かないでくださいよ」

 沢村の言葉を聞きながら、先刻と同じようにレバーを引いてシートを起こして、微調整をして体重をあずけてからそちらを向くと、沢村は気恥ずかしそうな苛立っているような、微妙な表情を浮かべた横顔を見せている。

「あんた何言ってんの?」

 梓の唇が、ほとんど無意識に言葉を紡ぎだしていた。

「あたしといくつ差があると思ってんの? 五歳よ、五歳!」

「わかってますよ」

 間髪入れずに返る、どこか拗ねた響きを残した声。

「まだまだ青二才のくせして生意気言うなっていうんでしょう」

 青二才? 確かに思わなくもないが、それより大きな期待感────今日の初契約の手際といい、こいつは大化けするかも知れないぞ、という、近い将来自分の地位を脅かすのではないかという焦燥感と同じくらいのそれだ────を沢村には抱いていたため、そんなことは頭からすっかり抜け落ちていた。思わずきょとんとした梓に気付いたのか、半ば恐る恐るの表情で沢村が下から梓の顔を覗き込んでくる。

「……違うんですか?」

「つか、経験不足はこれからの頑張り次第でいくらでも埋めていけるというのが、あたしの持論のひとつだけど?」

 ほとんど無意識に持論のひとつを展開した梓の前で、沢村の表情がぱあっと輝いた。それを見た梓は、つい先刻までの流れといまのそれとを結び付けて、ようやくそれが何を意味している言葉だったのかを悟った。しまったと思った時にはもう遅い。気付いた時には、歓声を上げて抱きついてくる沢村の胸の中に閉じ込められていた。

「ちょ、ちょっと沢村くん…!」

「五歳年上だって、俺は全然気にしないっスよーっ! つか先輩なら、十歳年上だって全然構わないぐらいっス!!

「ちょっと待ってって…!!

 必死で言い募るが、沢村は止まらない。気付いたら、再び唇を塞がれて、また何も言えなくなってしまった。

 頼むから、あたしの話を聞けっての!!

 梓の頭の中で、昼間聞いた亮子の言葉がぐるぐると回る。総務のユッキーナこと、千葉優樹菜のことだ。あんなに想ってくれている、若くて可愛い同期の女の子がいるというのに、何故自分なのだ? もしかして、頼りになる先輩に対する尊敬の念を、恋と勘違いしているのではないだろうか。そう言ってやりたいけれど、沢村の暴走は止まることなく、梓には発言する隙さえ与えられない。


 まあいまさらこれぐらいで照れる歳でもあるまいし、と梓は延々と続く若さゆえの過ちとしかいいようのない暴走を、冷静極まりない精神状態で受け容れていた……………。






  


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2010.9.12up

予想外の相手からの予想外の告白…。
しかも、彼を好きな相手までいて…? 梓、苦悩の日々が始まります。

背景素材「空に咲く花」さま