最初に『彼女』を知ったのは、高校に入ってすぐに入部した美術部の部室。顧問の教師に「以前描いたものがあるなら見せてみろ」と言われ、彼女が差し出した……キャンパスを埋め尽くさんばかりの、あまりにも瑞々しい─────『緑』。
それは自分の心に大きな衝撃を残し、決して忘れられない色となった。高槻広也、十五歳の春…………。
「さっきからうっさいわよ、高槻っ! おかげで全然集中できないじゃないっ!!」
あれから一年後の春。三年生が進路指導でいなかったので、ちょっとした息抜きのつもりでキャンバスに向かいながら友人と談笑していた広也は、そばで同じようにキャンバスに向かっていた『彼女』こと小野崎萌が突然怒鳴りつけてきたので、思わず目を丸くする。
「あー? 騒いでんのは俺だけじゃねーじゃん、何で俺だけ名指しなんだよ」
「あんたが率先して騒いでんでしょ、一年生が注意できないと思って、調子に乗ってんじゃないわよ!?」
「ったく、小野崎は神経質過ぎんだよ、そんなケチな了見でいい絵が描けんのかよ?」
「あんたが静かにしてれば、いくらだって描けんのよっ」
初めてあの『緑』を見た時は、もっと包容力のある人間かと思ったというのに、実際の彼女はかなり生真面目で…更に、内面にため込まないタイプだった。
「おっ 言ったな? なら次のコンクールで勝負すっか!?」
売り言葉に買い言葉で、広也がもちかけた瞬間、脇からベチベチ!とふたりの頭をスケッチブックでたたく存在があった。
「こーら。一年生がびっくりしてるでしょ、先輩が大声で怒鳴り散らしてんじゃないの」
現部長で三年生の、今村結衣だった。
「すみません…」
「すんません…」
普段から礼儀にうるさい萌らしく、広也と共に素直に謝罪の言葉を口にする。でなくてもこの今村という先輩は、どんな時でも頼りになって、男女問わず後輩たちの憧れの存在であったから。萌も例にもれず尊敬している対象なのだろう。もちろん広也も、この一年でどれだけ世話になったか知れない。
「わかったら、続きにとりかかりなさい。次のコンクールまでそんなに余裕はないのよ?」
「はーい」
よい子のお返事をして、ふたりは元の場所に再び腰を下ろす。
「そういえば今村先輩は描くモチーフは決まったんですか? こないだまで悩んでましたよね」
萌が何気なく訊いたらしい言葉に、結衣は微妙に困ったような表情を浮かべて。
「もう少し、なんだけどねー。最後のコンクールだし、頑張りたいんだけど」
「そうですよね……」
それだけ言って、萌は自分の絵に集中してしまったらしく、陰で結衣がため息をついたことには気付かなかったようだ。気付いたところで、自分よりはるかに上の実力や処理能力に長けている彼女の助けになれることなど、自分にあるとは思えなくて、広也も無言のままで自分の描きかけの絵に向かってしまった。
それから。
校舎の渡り廊下に飾ってある絵を、今日も熱心に見つめる広也の姿があった。瑞々しい…本物の樹や花を思い出さずにはいられないほど、生き生きとした緑。自分でもこの緑を表現したくて、何度試行錯誤したか知れない。けれど、出せなかった。広也のみならず、他の部活仲間も、先輩すらも内緒で試していたことも知っている。
「ちくしょー……悔しいけど、この緑は小野崎にしか出せねえよなあ…」
思わず呟いた瞬間、誰かがやってくる気配がして、慌ててすぐそばの柱の陰に隠れる。別に隠れる必要もなかったのだが、普段あれだけ反発し合っている萌の絵を熱心に見ていたなんて、誰にも知られたくなかったのだ。
すぐに通り過ぎていくだろうと思った足音は、広也が身を隠している柱の手前で止まり、そのまましばし留まっているようだった。確かそちらには、広也自身の絵が飾ってあるはずだったが…もしかして、自分の絵を見ている……? 物音を立てないようにしてそっとそちらを見てみると、周囲などまるで見ていないような真剣な瞳で、自分の絵を見ているらしい萌の横顔が目に入って…そんな真剣な顔、滅多に見たことがない気がする。そのうちに、ぽつりと呟くような声が聞こえてきて……。
「やっぱりこの青は…高槻にしか出せないのよね……悔しいけど」
いままで、直接褒められたことなど一度もなかったのに……自分の絵のことを、そんな風に思っていてくれたのか…?
「へえー。俺、小野崎に初めて褒められた気がするよ」
照れ隠しも兼ねて面白がるような響きで背後に回りながら言ってやると、広也にまったく気付いていなかったらしい萌が、すさまじい勢いで振り返った。
「たっ 高槻っ!? い、いまの聞いて…!?」
「へっへー。普段、あれだけ俺に張り合ってくる小野崎がねー。いいこと聞いちった♪」
「幻聴よ、忘れなさいっ あんたは夢を見ていたの!」
羞恥のせいか、いつもは決して言わないような低レベルなごまかしを口にする萌が何だか可愛くて、ついにやけてしまう。けれど萌は、それをひやかされているととったようで、ますます怒ったような顔になっていく。
「……でもさ」
「え?」
「小野崎の描く緑だって……誰にも真似できないんだぜ?」
信じられないものを見る目で萌が見返してきたので、何となく居心地が悪い思いを味わいながらも、以前から思っていたことを正直に口にする。
「悔しいけどさ。俺も同じように描いてみたくて、内緒で真似してみたことあるんだよ。だけど絶対に…同じような緑にはならなかった。他の奴らや先輩も、こっそりやってたみたいだけどな」
ほんとうに悔しいけれど、事実だから仕方がない。
「あっ だけど、まだ負けた訳じゃないからなっ 俺にはまだこの青があるんだからなっっ」
自分でも、負け惜しみにしか聞こえないと思う。萌もそう思ったようで、軽く吹き出した後、くすくすと笑いだした。普段は見せたことのない素直な笑顔が、何だかとてつもなく可愛く見えて……。
「笑うなよっ」
「わかってるわよ。あたしだって、負けないからね」
ずっと、自分とは合わないと思っていた彼女だったけれど。もしかしたら、まるで鏡に映したように、ただ同じライバル心を持っていただけなのかも知れない。
─────目前に広がるのは、どこまでも鮮やかな、緑、緑、緑…………。
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