『White White White』





 一年の頃から、ずっと同じクラスの『彼』が好きだった。けれど。彼が選んだのは、自分とは正反対の可愛い女の子だった…………。


「失礼しました」

 三年生になった春、美術部部長の今村結衣は、個人面談を終えてふうとため息をつく。まだまだ先だと思っていたが、もういい加減に進路を本格的に決めなければならない。短大か四年制の大学か、それとも美大か……。

 廊下を歩きながらふと校庭を見やると、野球部の彼の姿が目に入った。運動部は文化部より引退が早いから、彼も必死なのだろう。そっと視線を動かすと、ネットの陰で控えめに彼を応援しているらしい彼女の姿…。ちくん、と胸が痛んで、思わず目をそらしてそのまま足早に美術室へと向かった。

「さっきからうっさいわよ、高槻っ! おかげで全然集中できないじゃないっ!!

「あー? 騒いでんのは俺だけじゃねーじゃん、何で俺だけ名指しなんだよ」

「あんたが率先して騒いでんでしょ、一年生が注意できないと思って、調子に乗ってんじゃないわよ!?

 ああ。また、後輩のあのふたりがケンカをしている。性格上の問題なのか、何かというとぶつかり合うから、困ったものである。

「こーら。一年生がびっくりしてるでしょ、先輩が大声で怒鳴り散らしてんじゃないの」

 たしなめるように言うと、ふたりはすぐに静かになって謝罪の言葉を口にする。ちゃんと話せば各々は素直なのに、ふたり揃うとどうしてすぐケンカになってしまうのだろう?

「そういえば今村先輩は描くモチーフは決まったんですか? こないだまで悩んでましたよね」

「もう少し、なんだけどねー。最後のコンクールだし、頑張りたいんだけど」

「そうですよね……」

 それだけ呟いて、萌はすぐに自分の絵に集中してしまったから、結衣が小さくため息をついたことには気付かれずに済んだ。

 最後のコンクールが近付いているのだし、頑張りたいのはやまやまなのだけど。失恋して以来、どうにも描けなくなってしまったのだ。以前なら、彼に似合うのはこんな色だろうか、それともあんな色だろうかと、いくらでも思いつけたのに。いまは、頭の中に何のビジョンも浮かんでこない。自分で描いたスケッチブックの絵を見ても、まるで別人が描いたかのような錯覚を覚えてしまうほどだ。

 どうしたらいいのかと思っているうちに、どんどん時間は過ぎて、結局今日も下校時刻がやってきてしまった。

 家に帰る途中で、鳴りだした携帯電話に出てみると、すでに短大を卒業して就職している姉からだった。

『あ、結衣? 今夜はお父さんとお母さんがいないでしょ、同僚に教えてもらった美味しいレストランがあるから、二人で食べに行かない?』

 即座に了承の返事をすると、「帰って着替えてから、私の会社の近くまで来てね」と言い残して、姉は電話を切った。もう少しだけ、仕事が残っているらしい。言われた通りにして、姉の会社の近くに着いてからメールを送ると、分ほど待っただけですぐに姉がやってきた。

「ちょっと大通りから外れてるんだけど、隠れ家的レストランで、結構美味しいんだって」

「へえー」

 姉の案内の元、その店に入ったとたん、若い男性の声に出迎えられて、思わずそちらを向いた結衣は、とてつもなく驚いてしまった。

「…今村…?」

「大前田先輩!?

 一学年上で、今年の春に卒業したばかりの美術部の前部長だった。「大前田」と「今村」だったので、部長職を引き継ぐ時に「『前』から『今』に引き継ぎだな」と皆で笑ったことを覚えている。

 大前田はすぐにハッとして、「お席にご案内致します」と言って、二人を席に案内してくれた。仕事中だから、あまり個人的な話はできないのだろう。

「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」

 お冷やを置いてそれだけ言ってから、大前田は他のテーブルに呼ばれて行ってしまった。その後ろ姿を見つめていた結衣に、姉が声をかけてくる。

「ねえ、あの子学校の先輩なの?」

「うん。美術部の前の部長で、一年上の先輩」

 大前田は確か、美大に合格してそちらに進学したと思ったが、ここではアルバイトをしているのだろうか?

 深く気にしないでいるうちに注文を済ませ、来た順から料理に手をつけ始める。

「ね? 美味しいでしょ?」

「ほんとだ、お姉ちゃんに教えてくれた人、よくこんなとこ知ってたね」

「すごいグルメな人でね、あちこち食べに行ってる人なのよ。そういえば、その人とはお昼に食べに来たんだけど、あの男の子その時もいたわね。バイトじゃなくて、もしかしてここに就職した従業員なのかしら」

「え」

 美大に入ったのなら、毎度課題に追われて、昼間バイトする暇などなさそうな気がするが…いったい、どういうことなのだろう?

 疑問を抱えたまま食事を終えて、会計を済ませて姉と一緒に店を出る。大前田は、休憩にでも入ったのか就業時間が終わったのか、姿は見えない。やがて一、二分も歩かないうちに、背後から呼ばれた気がして振り返る。

「今村!」

「先輩」

「いま、店の裏手で休憩してたら姿が見えたから……あ、もしかしてお姉さんですか? じゃあお姉さんも『今村』ですよね、呼び捨てにしたみたいですみません」

「いいわよ、ちゃんとわかってるから」

「それより先輩、あのお店で昼間も働いてる日があるって聞きましたけど…美大って課題が多くてそんなに暇がないんじゃないんですか?」

 素朴に疑問に思ってそう訊くと、大前田の顔が微妙に歪んだ。悲しそうなと表現していいのか、笑っているのかわからないような複雑な表情だった。

「実は俺…美大には受かったけど入学しないで、高校卒業後そのままあそこに就職して働いてるんだ」

「えっ!?

「担任とか顧問と親しい奴にしか言ってなかったけど……実は今年になってからすぐ、親父が急死してさ。俺長男だし、おふくろを支えなくちゃって思って、最後のわがままで受験だけさせてもらったんだ。あそこのマスターは親父の古い知り合いだし、あそこで勉強しながら調理士免許をとろうと思ってるんだ」

 驚きが大きすぎて、声すら出せない。だって大前田の態度は、その前と卒業するまでと、全然変わらなかったのに…………。

「今村にはバレちまったから正直に話したけど、他の奴には黙っててくれな? 自分で選んだ道だし、下手に気ぃ遣われたくないから。ああ、もう帰るところ引き止めちゃってごめんな。俺も、そろそろ戻らなきゃ。今村も、後悔しないように頑張れな」

 そう言って去っていこうとする大前田を、結衣はやっとの思いで呼び止める。声は、なかなか出せなかったけれど。

「せ…先輩も……どうか、負けないで──────」

 「頑張れ」なんて、とても言えなかった。そんな結衣の気持ちを察したのか、大前田はふっと微笑って────在学中に励ましてくれた時と、何ら変わらない優しい笑顔だった────軽く手を振った。

「ああ。負けないよ。何てったって俺は、『おお前だ、進むぞ』だからな!」

 それだけ言い残して、大前田は今度こそ去っていってしまった。後には、結衣と姉だけがその場に残される。

 「おお前だ、進むぞ」とは、下の名前が「進」である大前田が駄洒落でよく言っていた言葉だった。以前は冗談にしか聞こえなかった言葉だったが、いまでは大前田の決意のほどがよくわかる、彼の強さをよく表している言葉だと……結衣は思った。

「……結衣。帰ろうか」

 いつの間にか涙をこぼしていた結衣の肩に手を回し、姉がゆっくりと歩き出す。結衣はハンカチを顔に当てたまま、顔を上げられなかったが、姉が丁重に誘導してくれたので、危ないことなど何ひとつなかった。その上で、何も訊かないでいてくれる姉の優しさが、ただ、嬉しかった…………。


「………………」

 翌日の放課後。美術部の部室で、真っ白なキャンバスに向かったまま、じっとそれを見つめ続ける結衣の姿があった。同級生も後輩も、何かを察しているのか声もかけてこない。

 自分はいったい何をしていたのだろうと、結衣は思う。あんなにも素晴らしい絵が描けて、誰よりも絵が好きだった人が絵を描けなくなっているというのに、いつでも好きなように描ける自分が、ささいなことに気をとられて描かないなんて、愚の骨頂もいいところだ。自分は、いったい誰のために絵を描いているのだ? 絵が描きたい自分のためではないか。

 だから、心のすべてをリセットした。自分が何を描きたいのか、もう一度ちゃんと考えるために。応援してくれた、彼の気持ちに応えるために。



 そうして、もう一度真っ白なキャンバスに向かい始めた……。



──────目前に広がるのは、どこまでも鮮やかな、白、白、白…………。





   





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2012.4.14up

同じく短編連作最後の三作目です。
結衣と大前田くんの未来は、明るいものになってほしいものです。

背景素材「tricot」さま