それは自分の心に大きな衝撃を残し、決して忘れられない色となった。小野崎萌、十五歳の春…………。 「えー?」 「『寝てませんっ 夢の中でちゃんと授業受けてました!』だとよ」 「ぎゃははは、バッカでー!」 あれから一年後の春。『彼』こと高槻広也は、描きかけのキャンバスに向かいながら、友人と馬鹿話に興じていた。鉛筆を握っていた萌の右手が、ぶるぶると震える。初めてあの『青』を見た時は、もっと繊細な人間かと思ったというのに! 「さっきからうっさいわよ、高槻っ! おかげで全然集中できないじゃないっ!!」 いくら三年生が進路指導でいないからといって、大騒ぎしていいという訳ではない。そもそも萌は、静かな環境で心を穏やかにして描きたいタイプなのだ、同じ部室の中で騒がれたら集中したくてもできないではないか。 「あー? 騒いでんのは俺だけじゃねーじゃん、何で俺だけ名指しなんだよ」 「あんたが率先して騒いでんでしょ、一年生が注意できないと思って、調子に乗ってんじゃないわよ!?」 「ったく、小野崎は神経質過ぎんだよ、そんなケチな了見でいい絵が描けんのかよ?」 「あんたが静かにしてれば、いくらだって描けんのよっ」 「おっ 言ったな? なら次のコンクールで勝負すっか!?」 高槻少年が面白そうに言った瞬間、脇からベチベチ!とふたりの頭をスケッチブックでたたく存在があった。 「こーら。一年生がびっくりしてるでしょ、先輩が大声で怒鳴り散らしてんじゃないの」 現部長で三年生の、今村結衣だった。 「すみません…」 「すんません…」 さすがに高槻も先輩には頭が上がらないらしく、素直に謝罪の言葉を口にする。でなくてもこの今村という先輩は、どんな時でも頼りになって、男女問わず後輩たちの憧れの存在であったから。高槻も何度助言や手助けをしてもらったか知れないからだろう。 「わかったら、続きにとりかかりなさい。次のコンクールまでそんなに余裕はないのよ?」 「はーい」 よい子のお返事をして、ふたりは元の場所に再び腰を下ろす。 「そういえば今村先輩は描くモチーフは決まったんですか? こないだまで悩んでましたよね」 萌が何気なく訊くと、結衣は微妙に困ったような表情を浮かべて。 「もう少し、なんだけどねー。最後のコンクールだし、頑張りたいんだけど」 「そうですよね……」 それだけ言って、萌は自分の絵に没頭してしまったから。陰で結衣がため息をついたことには気付かなかった。 それから。 校舎の渡り廊下に飾ってある絵を、今日も熱心に見つめる萌の姿があった。鮮やかな…一度見たら忘れられないくらい、強烈な印象を醸しだす青。自分でもこの青を表現したくて、何度試行錯誤したか知れない。けれど、出せなかった。萌のみならず、他の部活仲間も、先輩すらも内緒で試していたことも知っている。 「やっぱりこの青は…高槻にしか出せないのよね……悔しいけど」 口に出すとよけい悔しいけれど、あれだけ苦心惨憺しても出せなかったのだ、ほんとうに悔しいけれど、彼の手腕は認めるしかない。 そんな萌の背後から、突如聞こえてくる声。 「へえー。俺、小野崎に初めて褒められた気がするよ」 その声は、いま一番聞きたくなかった相手のもので…! 「たっ 高槻っ!? い、いまの聞いて…!?」 慌てて振り返ると、実に楽しそうな高槻少年の顔がそこにあった。 「へっへー。普段、あれだけ俺に張り合ってくる小野崎がねー。いいこと聞いちった♪」 「幻聴よ、忘れなさいっ あんたは夢を見ていたの!」 よりによって本人に聞かれるなんて、恥ずかしいことこの上ない。できることなら、彼の記憶からそこの部分だけ抹消したい気分だ。 「……でもさ」 「え?」 屈辱と羞恥に悶絶していた萌の耳に届いたのは、思わず耳を疑いたくなる言葉だった。 「小野崎の描く緑だって……誰にも真似できないんだぜ?」 信じられなくて…あまりにも信じられなくて。萌は、自分のほうが夢を見ているのかと思ってしまった。 「悔しいけどさ。俺も同じように描いてみたくて、内緒で真似してみたことあるんだよ。だけど絶対に…同じような緑にはならなかった。他の奴らや先輩も、こっそりやってたみたいだけどな」 弱みを握られたとばかり思っていたのに……まさか、自分が何気なく描いていた緑を、高槻までもがそんな風に思ってくれていたなんて…………。 「あっ だけど、まだ負けた訳じゃないからなっ 俺にはまだこの青があるんだからなっっ」 いつもとは違い、負け惜しみにしか見えない表情が何だか可愛らしくて、萌は思わず吹き出してしまった。 「笑うなよっ」 ずっと、彼に置いていかれてばかりだと思っていたけれど。もしかしたら、彼も同じ思いだったのかも知れない。 「わかってるわよ。あたしだって、負けないからね」
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2012.4.14up
某所にて発表していた短編連作の一つ目です。
時間が足りなくて、少々悔いの残る出来かも。
背景素材「tricot」さま