〔9〕





「…………」

 一度深く呼吸をしてから、珠美は意を決して閉じられていたドアを開く。少し間隔を空けたところで雑誌をパラパラと流し読みしていたらしい潮がそれに気付き、雑誌を元あったと思われる場所に戻して、口元にホッとしたような微かな笑みを浮かべて声をかけてきた。

「落ち着いたか? なら、ちょっと買い物してくるから表で待っていてくれ」

 再会してから初めて見せる落ち着いた笑顔────というより、再会してから初めて潮が見せた普通の笑顔だったかも知れないそれに、珠美の胸が一瞬高鳴る。再会してからこっち、潮が見せた笑顔といえば、嫌味ったらしさや冷笑を前面に出したものばかりだったから。もちろん、珠美を自分から遠ざけるためのそれだとわかっていたから、気にはしていなかったけれど。それでも、無邪気さやいたずら心を表に出した子どもの頃とは違い、初めて見せる潮が成長した証しのような表情に、珠美は時が確実に流れていることを実感した。

 潮に言われた通り外に出ると、学校を出た時より確実に太陽が西へと傾いていて、初夏でまだ明るいとはいえ夕刻に近付いていることを知らしめる。あの後────崇との思わぬ遭遇に平常心ではいられなくなって思わず涙をこぼしてしまった珠美を、潮は近くのコンビニにまで連れてきてくれて、化粧室へと導いてくれた。確かに、先刻までいた公園にはもう戻れないし、何より泣いている顔など不特定多数の人間に見られたくなかったから、潮の判断は妥当といえるだろう。化粧室の中で顔を整えて、出てきた珠美を潮が待っていてくれたのは、とても嬉しいことだった。とはいえ、今回の騒動のそもそもの原因は、潮の幼友達である珠美に、異母兄だという崇が勝手に興味を抱いて恐らくはよからぬことを企んでやってきたという事実だから、ここで珠美を置いて潮が帰ってしまったらどれだけ薄情な人間かというところだが。

「ほら、飲めよ。喉渇いたろ」

 コンビニから出てきた潮が差し出してきたのは、清算済みのテープが貼ってあるペットボトルの清涼飲料水。学校の自動販売機にも置いてあって、珠美が普段よく飲んでいるものだった。

「あ、ありがとう……お金…」

「いやいい。身内が迷惑をかけた詫びだ。お前、それ好きだろ?」

 学校の自販機は種類が少ないから消去法でこれを選ぶしかなかった、という訳でもない。何故ならC学園は私立、更に小等部、中等部、高等部まで擁するかなりの規模の学園であって、学食や購買部、自販機などの設備は充実しているのだから。もっとも中等部までは給食があるから、それらをフルに活用できるのは自然と高等部以上になるが。したがって、潮が渡してきた飲み物は、珠美がほんとうに好んでいるそれで……。

「何であたしがこれ好きって知ってるの?」

「それ持って歩いてたり飲んでるの、よく見かけたからな」

「…っ!」

 次の瞬間、珠美は驚きに目をみはり、潮は対照的に「しまった」とでも言いたげな顔をした。珠美がこれを持ち歩いたり飲んだりしているのは、昼休みや体育の後など、比較的潮と顔を合わせることが多い通学時間帯や移動教室の時間ではない時ばかりだ。ということは、顔を合わせることがなくとも珠美が気付いていなくとも、潮は珠美のことを多少は気にかけてくれているということで……。

「えへへー」

「い、いいから早く飲めよっ 温くなるぞっ」

「うん、いただきまーす」

 照れ隠しなのか、潮は自分の分の微糖のコーヒーの缶のプルタブを引いて、それを口へと運ぶ。潮がそんなものを飲むようになるなんて、あの頃には想像もしていなかった。

「─────今日は悪かったな」

「え?」

「あのバカのことだよ。翔兄貴ならともかく、あいつにだけは絶対お前のことを知られないように気をつけてたんだけどな」

 その言葉はほんとうなのだろう、潮の顔が忌々しいものを思い出すような表情────否、実際に忌々しいものなのだろう────になった。

「気にしてないよ」

 ほとんど無意識に、珠美はそう言葉を紡いでいた。

「だって、あの人潮と全然似てないし。もちろん、広崎先輩…あ、潮が言うところの『翔』先輩ね、にも全っ然似てないし。ホントにあの人と、あんたたち二人血がつながってるの? あの人だけ橋の下で拾われてきたとかじゃないの?」

「おま…っ 橋の下っていつの時代の発想だよっ あいつらの母親が聞いたら『何と無礼な小娘!』っつって怒るぞ」

「そっちのほうがいつの時代ってもんよ。翔先輩もそんなようなこと言ってたけど、その母親ってひと、あんな最低な息子にも甘いの?」

「というより、優し過ぎて他人を押しのけられないような翔兄貴のほうを情けなく思ってる節はあるな。何だかんだで元は甘やかされて育ってきた、苦労知らずの上流階級のお嬢らしいから」

「えー、やだ、そんな母親っ もしかして、リアルで『おーほっほっほっ』とか笑ったり、『ざあます』なんて言ったりするのーっ!?

 そこで耐えきれなくなったらしい潮が、盛大に吹き出した。

「や、やめろよ、お前…っ 思いっきり想像しちまっただろ、マジでやってもおかしくないような相手なんだからな」

「うそぉ、そんなひと昔読んだ漫画とかでしか見たことないわよーっ 翔先輩、ホントに似ないでよかったーっ そういえば翔先輩が言ってたけど、お父さんのほうは兄弟の誰とも性格似てないみたいね。顔は見た事ないから知らないけどさ。それとさ、翔先輩ってうちのおねえと並んでるの今日初めて見たけど、落ち着いてる者同士で案外お似合いだと思わない? あの長男は死んでもやだし、おねえ本人も絶対嫌がると思うけど、翔先輩が相手ならあたし断然応援しちゃうっ」

 などと珠美が熱弁をふるった直後、信じられないものを見る目で自分を見ている潮に気付く。

「な…なに?」

「お前…ほんのついさっき、あのバカに嫌な目に遭わされたばっかだっていうのに、よくそんな能天気なこと言ってられるな。怖くなかったのか? 仮にも年頃の女だろ?」

「仮じゃなくても年頃の女の子よっ ……何でかな。おねえも翔先輩も来てくれたし、大したことされないうちに撃退してくれたし…」

ああそうだ、と珠美は思う。何より……。

「何より、あんなにあたしを冷たくあしらってた潮まで、あんなに余裕のない様子で駆けつけてきてくれたのが嬉しいの」

 そう笑顔で告げた瞬間、潮の顔が急激に赤くなり始め、本人もそれに気付いて止めようとしているらしいのに、かえってその動揺のために更に紅潮が進行しているように見える。そんな姿は、いままで見たことがなかった。だからこそ、より潮が歳相応の少年に見えて…。

「よかった。潮の根っこのとこはやっぱ変わってなかった」

「な…何言って…っ」

 いつものように冷たい態度をとろうとしているが、そんな真っ赤な顔でされても、説得力も何もない。

「潮、何か可愛い」

「ふ、ふざけんな、俺はなあっ」

 再会してから、初めてあの頃のままの潮に逢えた気がして、珠美は再び涙がこぼれそうになる。今度は先ほどとはまるっきり違う、歓喜の涙だ。潮の根本的な部分は変わっていないことはわかっていた。けれど、表に出している部分があの頃とはあまりにも違い過ぎていて…少し、淋しく思っていたのも事実だった。

 珠美はこの日、久しぶりにほんとうの潮に逢えたような気がしていた…………。




                    *     *




 珠美が潮との友情を再確認できたような気がした、その日から。事態は予想もしない方向に転がっていくことになったことを、珠美はもちろん潮も気付いていなかったようだ。

「潮ー。体育、男子はマラソン大会の練習だって?」

「まあな」

「そう。まあ、くれぐれも転んで怪我しないようにね」

「そんなにトロくねえよ」

 潮の態度は以前と変わらない素っ気ないものだったけれど、周囲のふたりを見る目が変わっていたことに、不覚にもふたりは気付いていなかった。

「ねえ、珠美ちゃん」

 潮と会った教室の前から、席に戻った珠美を待っていたのは、先刻のやりとりを見ていたらしい奈美と近藤だった。

「なに?」

「珠美ちゃんと広崎くんって、つきあい始めたの?」

「潮とは元々友達だけど…『始めた』って何よ? 何か日本語変じゃない?」

「そういう意味じゃなくて。恋人同士としてつきあい始めたらしいって、あちこちでもっぱらの噂よ」

「はあっ!? いったい何がどうして急にそんなことになる訳!?

 追って説明してくれたのは近藤だった。

「…二、三日前だったかな、ガッコの近くのコンビニ前で、お前と広崎がいちゃこいてたのを見たって奴が、何人もいるんだよ」

「いちゃこいてたって…!」

 心当たりなら、なくはない。あの、崇襲来の際のことだ。確かにあの時は、いままで以上に潮と接近できた気がするが…それを「いちゃこいてた」などと評されるのは心外だ。

「あくまでも友達として、仲良くしてただけよ!? 誰よ、そんな無責任な噂を流すのはっ」

「事態はもう、誰が流したとかいうレベルじゃなくなってるんだよ。完全に学年、いや高等部中の噂になっちまってるし、広崎本人の耳に入るのも時間の問題じゃねえ? さっきのお前ら見てたらまだ何も知らなさそうだったけどよ」

「…っ!」

 何ということだ。珠美と潮が幼友達だという話はもう知らない者はいないだろうと思ってはいたが、よもやまさか、その途中の過程をすっ飛ばしてそんなところまで話が行ってしまうとは。人の噂話は怖いものだと、珠美はしみじみと実感していた。

 そして、その真の恐ろしさをほんとうに実感したのは、その日の昼休みのことだった。

「失礼しまーす、先生、ご用って何ですかー?」

「ああ、越野、お前明日日直だったろ? これ、クラスの人数分コピーしておいたから、明日の朝学校に来たらすぐこっち来て、これを持ってって授業前に配っておいてほしいんだ」

「何ですか?」

「明日の授業でやる、小テストだ」

「うえ〜、そんなのやるんですかー」

「生徒の務めだ、やる時はしっかりやれ。もう一人の日直にも伝えておけよ」

「はあ〜い…」

 半ばうんざりした顔のまま職員室を出たところで、くるりと丸めたプリントで、軽く頭を叩かれる。ものがものだし、軽い力でだったので、叩かれたと気付かなくてもおかしくないほどの感覚だったけれど。

「また何かやって呼び出されたのか?」

 ほんの少し、皮肉めいた笑みを浮かべた潮が背後に立っていた。

「別に何もやってないし。てか『また』って何よ」

「入学早々にも先輩女子たちと一悶着起こしたらしいじゃん」

「あれはあたしが悪いんじゃないわよ。あんたのファンだっていう向こうが勝手にいちゃもんつけてきただけ。そうよ、あれの原因はそもそもあんたじゃないの、どうしてあたしが呼び出されて文句言われなきゃならない訳っ?」

「あー?」

 廊下を歩きながら、そんなことを話していた珠美の視線の先で、ふたりのほうをちらちら見ながらひそひそと何かを話している女生徒が二人。

「…ほら。やっぱ噂はホントなんじゃない?」

「うそー、広崎くん、あたし秘かに憧れてたのにーっ」

 ここで違うと否定したところで、彼女たちは恐らく信じないだろうし、近藤たちから聞いた噂の広まり具合からして焼け石に水なのだろうなと思ったところで、くしゃりと頭に何かが触れる感触。

「何だよ、人と話してる最中によそ見なんかして」

 自分の頭に潮が手を乗せていることに気付いて、ハッとする。骨張った指が、髪を梳く感触が気持ちいい。

 あの頃はあたしと全然変わらない体格だったのに。いつの間に、こんなに男らしくなってたの? 指だって、あたしと同じくらいちっちゃくって…他の女の子の手に触るのと全然違いなんかなくて。背だってあたしのがほんのちょっと高いくらいだったのに。いまの潮の髪に同じように触ろうとしたって、あたし背伸びでもしないと届かないよ─────。

「お前の髪…こんなにやわらかかったっけ?」

 その言葉に、カーッと顔が熱くなる。

「こ、子どもにするみたいなことしないでよっ あたしこれでもタメ年なんだからねっ」

「ああ、悪かった悪かった。昔と違って、お前がずいぶん縮んでたからさ」

 明らかに、からかいの響きを含むその言葉にカッとなる。

「あたしが縮んだんじゃなくて、あんたが勝手に伸びたんでしょーっ!? 何よ、図体ばっかり一人だけどんどんでっかくなってっ」

「はっはっはっ 負け犬の遠吠えは心地いいなあ」

 そのまま潮は笑いながら去っていってしまったので、珠美の怒りもそう長く持続せず、すぐに冷静に戻ってしまった。

 あの崇の来訪以来、潮は徐々に昔の彼に戻りつつある気がする────といっても、あくまでも現在の潮にもまだ残っている部分だけだが。子どものままではいられなかった部分は、珠美にも存在するので、それについては何とも思わない。けれど、それがいまの珠美には困ることもあり、気恥ずかしくもある。

 あの時……この上なく真剣な表情で自分の元に駆けつけてくれた潮。自分の心の傷を、何よりも気にしてくれた潮。そんな彼に対して、いままでは抱いていなかった種類の感情が芽生え始めている自分に、珠美は気付いていて──────。

 どうしよう。「友達に戻れればいい」ってずっと思ってたのに。違う関係になりたいと思い始めているあたしも、あたしの中に確かに存在してる。「友達」なんかじゃ我慢できないって、騒いでるあたしも心の中にいるよ…………。

 以前、潮に押し倒された────といっても、あの時の彼が本気でなかったことは、いまならわかることだけれど────時にはそれほど強く感じなかった、「男」としての潮に落ち着かない気分になる「女」としての自分が、自身の中には確かに存在していて。けれど、潮が求めているのはあくまでも「友達」としての珠美だということも、重々わかっていて…両親のことがあるから、彼が「恋愛」を求めていないこともよくわかっている。彼が欲しいのは、あくまでも「永遠に変わることのない何か」なのだ──────。

 珠美はもう、どうしていいかわからなくなってしまった……。




    




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2014.1.16up


ついに「友情」以外の気持ちにも気付いてしまった珠美。
けれども潮がそれを望んでいないことも知っているから
出口の見えない迷路に入り込んでいってしまいます…。


背景素材「空に咲く花」さま