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 最近、珠美の様子が少し変わったと潮は思い始めていた。

 表面上はいままでとそんなに変わらないように見えるのだが、時折何かを考え込んでいる様子で、潮が通学途中や校内で珠美の存在に気付いても、珠美のほうはこちらから声をかけるまで気付かないことが多くなった。何かあったのかと訊いても「何もない」と答えるだけで────初めは長兄の崇がまた性懲りもなく珠美にちょっかいをかけているのかとも思ったが、翔から聞いた話ではそんな素振りはまるで見えないという。翔に言わせれば、崇はあの母親にそっくりだそうだから、何か企んでいれば目に見えてわかるそうだ。つくづく、翔が母親に似なくてよかったと思う。まあ父親似とも言い難いが────ほんとうに表立って何かがあったようではないようだった。

 もしかしたらと潮が思ったのは、例の、高等部内を駆け巡っている噂のこと。潮がどれだけ否定しても、周囲はその時は納得したような素振りを見せるが、内心では潮の言葉を額面通りにとっていないことも知っている。どうも、これまでの珠美に対する態度から、照れていると解釈されているようだ。そのことで、他の女子たちから珠美が何か言われたり嫌がらせをされたりしているのではとも思ったが、高等部入学当時のあの騒ぎからして、珠美がそう簡単にへこたれるとは思えない。何かされたら、どこぞのドラマの主人公でもないが倍返しで相手をやり込めるような少女なのだ、彼女は。

 となると、ますます理由がわからなくなってくる。隣のクラスである珠美のクラスとの合同体育で女子のほうがグラウンドに出ている時などに、体育館の中などからこっそり様子をうかがってみると、他の友人やクラスメートたちと接している時には普段とそう変わりなく見える。けれど、ふとひとりになった時などに、ふいにため息をついたりぼんやりしているようなのだ。ああいう状態を何というものなのかわからなくて、家に帰ってから翔にこっそり訊いてみたところ────もちろん誰のことかは適当にぼかして、だ────「いわゆる恋煩いになった人間がそういう風になっているのを見たことがある」という答えが返ってきた。潮にはまだ本気で誰かを好きになった経験はないが、翔ならそういう人間から相談を受けていてもおかしくはないので、信憑性はある。珠美とて年頃の少女だ、知らぬ間に誰かに恋をしていてもおかしくはない。

 だから。

「ひょっとしてお前、好きな男でもできた?」

 と、他に誰もいない渡り廊下で偶然珠美と会った時に、何の気なしに訊いてしまった。もしも自分にできることがあったなら、協力は惜しまないつもりだったけれど。珠美から返ってきたのは、予想外の言葉だった。

「あんたには関係ないでしょ、よけいなお世話よ、かばーっ!!

 言うだけ言って潮に背を向けて、頭頂部から湯気でも噴きそうな勢いで去っていってしまった。

「な…何なんだよ、あいつ……」

 そして学内では、再びふたりについての噂が飛び交うこととなる。「広崎()と越野()が痴話ゲンカをしていた」と。世間なんてそんなものである……。




                       *      *




「信っじらんない、潮のバカたれっ デリカシーゼロ男っ 女の子の気持ちなんか全然わかってないっ みんなよくあんな奴好きになるわよね、世の中の女の子は見る目ないわねっっ」

 土曜日の昼下がり、自室でぼすぼすっと枕に拳を打ちつけながら、ひとりぶつぶつと愚痴をこぼす珠美の姿があった。

「…………」

 一番見る目がないのは……あたしか。

 内心で、自嘲気味に呟く。いくら幼い頃からの友達とはいえ、あんなに変わってしまった潮を相手に、友情をすっ飛ばしてこんな想いを抱いてしまうなんて。自分でも、呆れてしまうほどの見る目のなさだ。あの頃から一度も離れることもなくずっとそばにいたら、いまこんな風になっていただろうかと考えもしたが、もしそんな状態だったなら自分の性格からして可能性は低そうだとも思う。ほんとうに、考えても栓ないことだけれど。

 そんな時だった。

「まああ! あんなに小さかったのに、ずいぶん立派になって…すっかり見違えちゃったわ!!

 階下から響く、母親の素っ頓狂な声。そういえばさっき玄関のチャイムが鳴ったなと思い出し、誰か母親の友達が子どもか孫でも連れてきたのだろうかと珠美はのん気に思っていたのだけれど。

「珠美ちゃーん、あなたも下りてらっしゃい」

 などと姉の声で呼ばれてしまっては、行かない訳にはいかない。どうせ、挨拶でもしろというのだろう、さっさと役目を果たしてまた部屋にこもろうと軽く考えて階段を下りていった珠美は、その先で予想もつかない事態に遭遇することとなる。

「なん…で……?」

 玄関先に立っていたのは、いつもの穏やかな笑顔をたたえた翔と、当惑しているような表情の潮。最近の潮にしては、非常に珍しい類いの表情だ。

「ほんとうに……あなたのお母さまがお元気でいらしたら、どんなに喜んだことでしょうね」

「そうだな、珠美と一緒にじゃれていた頃とは、まったく違う。どこからどう見ても、立派な若者だ」

「まあ、こんなところで立ち話も何だし、上がってちょうだい。ええと、こちらの方は翔さんとおっしゃったかしら? 潮くんの御親戚の方なの?」

「!」

 マズい、と珠美は思う。珠美はもう知っているが、両親は潮のその後のことを何も知らないのだ。ここで潮に真相を話させるのも酷な話だと思った…のだけれど。

「ええ、潮の父方の従兄弟にあたります。上にもう一人兄がいますが、僕たちも弟ができて嬉しくて、三兄弟として仲良くやっています。それに、越野さん…ああここでは光枝さんと呼んだほうがわかりやすいですね、彼女と、この春同じ高等部に入学した珠美さんも偶然潮ととても仲の良かった幼友達ということで、二人揃ってとてもお世話になっております」

 すらすらすら。よくもまあ、そんな立て板に水で事実をところどころ変えたことを語れるものだ。あらかじめ考えていたとしか思えない。

「お二人とも、こちらへどうぞ。ほら珠美ちゃん、広崎くんたちがわざわざケーキを持ってきてくださったのよ、お茶の準備、手伝って」

 両親にはわからないように目配せをしながら言う姉に、珠美の脳裏に「確信犯」という言葉がよぎる─────この場合は正しい意味ではなく、誤用として広まっているほうの意味だ。翔に聞いたのか、これまでの情報を総合して正しい結論に至ったのかまでは知らないが、光枝は恐らく確実に翔と潮の真の関係を知っている。その上で、潮と珠美のいまの関係をどうにかしようとして、両親もいるいまこの時に潮を家に連れてこさせたのだ。どこかぎこちない潮の様子を見れば、この現状が潮の意によってのものではないことはすぐにわかる。まったく、よけいなことをしてくれる兄、姉だ。

「どうぞ」

 応接間に通した潮と翔の前に紅茶を淹れたティーカップを置くと、翔は変わらない笑顔で、潮はどこか遠慮があるような笑顔で「ありがとう」と答える。

「それで? いまはうちの子たちと同じ学校に通ってるの?」

「はい、ほんとうに偶然だったのですが、光枝さんと同じクラスになって、いろいろ話をしているうちに、潮のことを知っていることがわかって…」

「まあまあ、潮くんのお母さんの思し召しかしらねえ。あの方には、珠美も光枝もほんとうによくしていただいたから。とくに珠美のことは、潮くんの『お嫁さんにもらいたいくらい』なんて言ってくださって……いまは外見はまだしも、あの頃はホント潮くんと双子の兄弟みたいに男の子そのもので、そんな風に言ってもらえるのがかえって申し訳ないくらいで……」

「それにしても、珠美も光枝も、家では潮くんの話ひとつしなかったな。こんな季節になるまで黙っているなんて、人が悪いじゃないか。父さんも母さんも、潮くんのことを気にかけているのを知っていただろうに」

 痛いところを突かれて、珠美は一瞬言葉に詰まってしまう。それは、致し方のないことだ。再会を喜ぶ間もなく冷たくされて、半ば自棄気味に家庭の事情を話されて、努力の末に最近になってからやっと態度が軟化してきただなんて、とても話せるものではない。

「お父さん、それは仕方ないのよー。珠美ちゃんてば昔がああだったでしょ、だからふたりとも何だか照れちゃって、なかなか昔みたいに話せなかったもんだから、私と広崎くんで背中を押して、やっと最近普通に話せるようになったぐらいなんだから」

「あらあら、珠美もやっと思春期の女の子らしくなったのねえ」

 はっはっはっ、ほっほっほっと意味深な笑顔を浮かべる両親の視線が痛い。

 おねえめ〜っ あたしたちが真相を話せないからって、好き勝手言ってくれる〜っ!

 下手に口をはさむとヤブヘビになりかねないので、珠美は黙ってケーキを口に運ぶ。箱を開けて中身を見てから気付いたが、彼らがケーキを買ったという店は、家族の中で人気が高く珠美も一番気に入っている店だった。少しでも珠美のご機嫌をとろうという光枝の入れ知恵に違いないだろう。

 やがて、ケーキも食べ終わった頃、「私たちは勉強があるから」と言って、光枝は翔と潮を連れて、二階へと上がっていった。もちろん、珠美も一緒だ。

「…よくもいけしゃあしゃあとあれだけ大嘘…全部が嘘って訳でもないけど、言ってのけたもんね」

 珠美の追及に、光枝はまるっきり涼しい顔だ。

「だって、お父さんたちによけいな心配かけたくないじゃない? ふたりとも、潮くんのその後を我が子同然に気にかけていたのはホントなんだし」

「それはそうだけど……ならせめて、あたしにぐらいは事前に話しておいてほしかったわよ」

「あらやだ、そんなことしたら、珠美ちゃんてば何だかんだ理由をつけて逃げちゃってたでしょ?」

「…っ」

 ほんとうに。自分のことをよくわかっている姉という存在は、厄介なものである。

「それじゃ、私たちはここまででいったんお別れね。広崎くんは私の部屋にきてくださいな」

「はあっ!?

 これは、潮も聞いていなかったらしい。珠美と一緒に素っ頓狂な声を上げている。

「兄貴、俺は!?

「お前はそっちの越野さんの部屋にお邪魔して、一緒に勉強するといいよ」

「分かれて勉強する必要ないじゃ…」

「あら珠美ちゃん、三年生の勉強について話してるのを横で聞きながらお勉強したいの?」

「うっっ」

 いまの自分たちが該当する一年生の勉強でさえいっぱいいっぱいの状況なのに、その上呪文にしか見えない────たまたま中を見た光枝の教科書に対して珠美が述べた感想を、光枝は覚えていたらしい────三年生の勉強まで耳にしながら勉強するなんて、いったいどんな拷問だ。おとなしく引き下がった珠美とその後ろに立つ潮に笑みを浮かべて、光枝は翔を自室へと招き入れる。

「そうそう、前にお母さんに広崎くんについて話した時、『弟さんも同様に成績優秀』って言ったと思うから、次のテストの点数が上がってないと、お母さんたちに『潮くんに勉強を教えてもらったんじゃなかったのか!』って多分叱られるわよ〜。ちゃんとお勉強しなさいね、珠美ちゃん」

 世にも恐ろしい無責任なことを言い残して、光枝は翔と共に自室へと消えていった。やがて聞こえてくるのは、「何から始める?」「じゃあ○×△♯から…」などという、珠美には呪文にしか聞こえない会話のみ……。はあ、とため息をついてから潮を振り返って、自室のドアを指差す。

「とりあえず、あたしの部屋はこっちだから…入って」

 力なく促して、自分の部屋へとふたりで入っていった…。


 午前中のうちに部屋を掃除して片付けておいてよかったと、珠美は思った。いま思うと、こうなることがわかっていた姉の画策の結果なのだろうが。

「すげー」

 驚きを隠しもしないような潮の声に、どきりとする。

「な、何が?」

「昔のお前の部屋と全然違う。ちゃんと女の部屋に見える」

「悪かったわねっ」

 確かに昔は、潮や他の男友達と何ら変わりのない部屋だったけれど…。

「褒めてんだよ、女の子らしい可愛い部屋になったなって。つっても、他の女の部屋なんてろくに知らないけどさ」

 それはそうだろう。奈美や近藤といった中等部から潮を知っている面子に言わせれば、これまで潮にはとくに親しい女子はいなかったそうだったから。その上きょうだいも男ばかりとあっては、年頃の女の子の部屋などほとんど見たことがないのだろう。

「あたしだって、いつまでも子どもの頃のままじゃないわよ」

 それでなくても、中学の思春期真っ只中に引っ越しをしたのだ、根本的に部屋の中のものも違ってくるのが当たり前というもので。

「昔のお前だったら全然興味持たなかっただろうものがあるってのがすげー新鮮…」

「それ褒めてんの?」

 不機嫌な顔と声で言ったところで、返事が聞こえなくなったので不思議に思って振り返ると、潮がひとつのフォトフレームを手にとって見ている姿が目に入った。潮が珠美の前から消えて以来、ずっと飾っている一枚の写真だった。潮がいなくなる前の最後の春に撮った、浜辺でふたりで笑っている写真で…そのわずか後方で、日傘を差して微笑んでいる潮の母親も写っている。もう長いこと飾っていたから、ずいぶん日に焼けてしまっているけれど、大元のデータはちゃんと保管してあるし、風景も人物もちゃんとわかるからそのままにしていたものだった。

「ずっと……大事に持っててくれたんだな」

「あったり前じゃん。あんたやあんたのお母さんと一緒に写ってる、最後の写真だもの」

 その少し後、潮の母親が体調を崩して入院して…すぐに帰ってくるものと思っていたのに、入院したとたん目に見えて痩せていって。次の秋を待たずに、この世を去ったのだ。春の潮の誕生日は、家で一緒に祝うことができたのに。六月の珠美の誕生日は、「何もしてあげられなくてごめんね」と、こっちが恐縮するぐらい真摯に謝られたことを覚えている。そんなことより、彼女が一日でも早く病気を治して退院してくれることのほうが、あの時もいまも嬉しかったのに……。

 ことん…と音を立ててフォトフレームを戻した潮は、後ろ姿しか見えなかったけれど、何だか泣いているように思えて。珠美は思わず抱き締めたくなる自分を、懸命に抑えることしかできなかった。

「…どんなに祈っても。過去は変えられないもんな。いまできることは、現在と未来を変えることだけだ。という訳で、ビシビシしごいてくぞ、覚悟しろっ」

 振り返った潮は、既に現在の潮でしかなくて。

「冗談でしょ〜っ!?

 珠美は、情けない声を上げて逃げようと、無駄な抵抗をすることしかできなかった。




                      *      *




 それから、数日経ったある日のことだった。

 休み時間、廊下にあるロッカーに荷物をしまいにいった珠美は、別のクラスになった中学時代からの友人の一人である橋本に声をかけられて、ひとけの少ないあたりへと呼び出され、そこで信じられない話を聞かされることになる。

「嘘…でしょ?」

「俺だって嘘だと思いたいけどさ。信じられないことに、マジなんだよな、これが」

 橋本が言うには、前日の放課後、同じく中学時代からの友人である早苗が現在のクラスメートである男子に呼び出されて告白をされているところに、やはり中学時代からのつきあいである池田と共に偶然通りかかったのだという。その時はそのまま何も気付かないふりで通り過ぎようとしたのだけれど、件の男子生徒が返答に困っている早苗を前に、何故か池田に対して「まだとぼけているつもりか」と挑発めいたことを口にして……橋本にもその時は意味がわからなかったそうだが、相手の意図を正確に読み取ったらしい池田が、突然相手につかみかかったので、驚いて彼を咄嗟に制止したところ─────池田が、「自分だって、ずっと彼女を好きだったんだ」と。唐突な告白をしたのだそうだ……。

「…全っ然。気付かなかったわよ……不覚もいいとこ」

 自分では他人のそういうことに鈍くないつもりだったのに。

「俺もだよ…一番あいつと長くつきあってたってのにさ」

 以前聞いた話では、池田と橋本は小学生時代からの仲だという。その彼が気付かなかったのでは、珠美が気付けなくても無理はないのかも知れない。

「で、当の早苗は?」

「わりと近くで待ってたらしい宮原に連れられて帰ってったけど…塚本もかなり混乱してたみたいでさ。池田も反省して今朝ソッコー謝りに行ったんだけど、何だかんだと理由をつけて、まともに話もできないうちに逃げられちまったんだよな」

「安易に想像がつくわ」

 由梨香ならともかく、あの少々内気なところがある早苗では仕方がないことといえよう。

「んで池田も落ち込んじまってさ…塚本のほうは宮原がフォローしてくれるって話だし、俺は池田のフォローに回るから、お前は何も知らないふりを装って、塚本のほう頼むわ。とりあえず当事者たちが落ち着くまでは、その件については触れないほうがいいだろうって宮原とも昨夜こっそり話したんだけどさ」

「そうね、そのほうがいいわ」

「んじゃ、頼むな」

「了ー解」

 他の人間に聞かれないように多少声をひそめて話を終えてから、珠美と橋本はそれぞれの教室へと戻っていく。そんな自分たちを、誰が見ていたのか、まるで知らないままで……。




    





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2014.2,12up


いろいろなことが変わっていく中、
変わらないものもあると思っていたのに…。

時は容赦なくすべてを少しずつ変えていくようです。


背景素材「空に咲く花」さま