〔8〕





 それから。

 少し、ほんとうに少しだけだけれど、潮の態度が軟化したように、珠美には思えた。他の友人たちに言うと、「そうかなあ」という答えが返るだけだったけれど、珠美にはあのゴールデンウィークの予想もしない邂逅から、確実に変わったような気がしていた。だから、自然と上機嫌になって無意識に鼻歌を口ずさんでいたりして、周りを少々驚かせてしまったのも、ささいな話で。

 けれど、そんな珠美の浮かれ気分を吹き飛ばすような出来事が待っているなんて、珠美はおろか、周囲の誰も気付いていなかった。


「─────越野…珠美さん?」

 ゴールデンウィークも明けた学校帰り。早苗と由梨香と共に、最寄り駅に向かう途中で唐突に声をかけられた珠美は、思わずそちらを振り返る。そこに立っていたのは、見覚えはまったくない男。二十代前半だろうか。もちろん心当たりなどない相手だが、その相手の面差しから連想させる人物がいたことは確かで…けれど、とっさにそれが誰なのかは思い浮かばない。

「…何ですか? あなた、どちらさまですか」

 硬い表情と口調で、その場を動かぬまま問いかける。見知らぬ男に安易に近付いてはいけないということは、いまや幼児にだって常識の事柄だ。

「ああ、失礼。俺は広崎崇(たかし)。潮と翔の兄なんだけど、あいつらから聞いたことないかな。潮のことで話があるんだけど、ちょっといいかな?」

「じゃあ、あたしたちも一緒に…」

 共にいた由梨香の言葉を遮るように、崇は続ける。

「ああ、ちょっと込み入った話なんで、お友達は抜きにして二人だけで話したいんだけど」

 崇の表情と口調は、あくまで穏やかで友好的に見える。けれど、外から見えることだけがすべてではないことも、珠美はよく知っていて……。

「珠美ちゃん、やめといたほうがいいわよ……」

 後ろから、早苗が小声で告げてくる。池田や橋本も一緒にいたなら、彼女らの盾となって強い態度で崇に接してくれたかも知れないが、いかんせん彼らはそれぞれの事情でいまこの場にいない。しばし無言のままで、珠美は考える。

「…いいですよ。お話を聞きましょう」

「珠美!」

「珠美ちゃん!」

 後ろから二人の制止の響きを含んだ声が飛ぶが、珠美は構わず続ける。

「ただし、ここからどこかに行くようなことはしないで…そうですね、そこの公園ででも話しましょうか。でなければ、お断りさせていただきます」

 毅然とした態度で、一歩も退かぬ覚悟で言い切る。そんな、四方八方から他人の目があるようなところでできない話なら、聞く価値も意味もないと珠美は思ったのだ。

「いいだろう。そこで話をしようじゃないか」

 そう言って崇は相好を崩した。

「珠美ちゃん…」

「心配しないで。ホントに話をするだけだし、そんな人目の多いところでバカな真似をするほど間抜けな人でもないだろうから。何かあったら、すぐ大声を出すから」

 あたしの根性の図太さは、知ってるでしょ?

 そう続けると、早苗はまだ心配そうな顔をしていたが、そっと珠美の腕から手を離した。由梨香も心配そうであったが、強い光を宿す瞳でまっすぐに珠美を見つめてきたので、同じようにまっすぐにその目を見て笑顔を見せる。それなりのつきあいがあるからこそわかるアイコンタクトだ。

「では、行きましょうか。二人は先に帰ってて」

「…わかった」

「由梨香ちゃん!?

 崇と共に────もちろん一定の距離は保ったままだが────歩き始めた珠美の視界の端に、慌てだす早苗を宥める由梨香の姿が見えた。由梨香なら、珠美の言いたいことをちゃんと汲み取ってくれているだろうという、信頼感が胸にはあった。

 公園の中は、無邪気に遊ぶ小さな子どもたちとそれを見守る母親たちがちらほらといるだけで、とりあえず変に立ち聞きや詮索をされるような様子もなかったので少しホッとする。もっとも崇の意図が見えないうちは、ほんとうの意味で気を抜くことなどできないだろうが。

「……それで。お話って何ですか? 潮のことだそうですけど」

 足を止めると同時に話を切り出すと、崇がわざとらしく肩を竦める様子が目に入った。

「やれやれ、せっかちなお嬢さんだなあ。そんなに俺と話すのは嫌かい?」

「初対面の、ろくに知りもしない男性に警戒心を抱くのは、年頃の女としては当然と思いますけど」

 あえて事務的に、辛辣にも聞こえるように言ってやるが、崇はまるで応えている様子はない。

「じゃあ、さっそく本題に入らせてもらうけど。君、潮の幼なじみなんだって?」

「厳密に言えば違うかも知れませんが、まあ似たようなものです」

「なら、あいつの家庭の事情も全部知ってる?」

「全部ではないですが、まあ…ある程度は」

 崇の意図も本性も見えないうちは、そうそう内情を明かすものではない。だから、珠美はあえてぼかした答えを返した。翔とは違う、得体の知れない何かを崇から感じ取っていたからかも知れない。ブラウスの下に隠れている肌に、鳥肌が浮かんでいる気さえする。珠美が猫だったなら、全身の毛を逆撫でるくらいのことはしていたかも知れない。

「あいつの母親が、実は妻子ある男とデキちまってその結果あいつが生まれたってことは……知ってるのかな?」

!!

 歯に衣着せぬ…というよりは、潮の母親に対して悪意しか抱いていないような言い方をする崇に、珠美の中で非常警報が鳴り響いた。こいつは、潮にとっての味方ではない。翔も以前言っていた通り、「敵」だ!

「お話の主旨も見えませんので、私帰らせてもらいますね」

 もうこれ以上、崇と話などしていたくない。不愉快になることしか聞かされないだろうと結論を出した珠美の勘は、当たっていたようだ。

「まあ待ちなよ。俺は忠告に来たんだぜ。あんな、泥棒猫の子とつきあうより、大病院の院長になることが決まってる俺のような人間と親しくするほうが何かと得だって」

 『親しく』の部分に妙に力がこもっているような気がして、珠美の背筋をぞわりとした感覚を生み出す何かが駆けめぐる。

 やだ、この人何か気持ち悪い!

 理屈ではない、本能的な部分で嫌悪を覚え、珠美は一歩後ずさる。確かに、両親共に同じだという翔と顔立ち自体は似ていると思う。けれど、翔とは根本的なところで何かが違うのだ。翔からは感じなかった、得体の知れない嫌悪感しかもよおさない何かが、崇の視線や声となって、ねっとりと珠美の全身に絡みついてくるような気さえする。いけない。このまま崇と一緒にいたら、この訳のわからない感覚に全身を浸食されてしまう。そう反射的に思って、珠美は即座にその場から立ち去ろうとしたのだが、それより一瞬早く崇に進行方向に回り込まれて、とっさにきびすを返した…のだが。

「おいおい、まだ話は終わってないんだぜ?」

 鞄を持っていなかったほうの手首を掴まれて、ぐいと引かれる。以前潮を相手にした時と同じように、自分の力ではとても対抗しきれないほど強い力。けれど、潮の時とは決定的に違う。違うのだ!

 たとえるなら、潮は昔共に過ごしたあの町の、時には恐ろしい姿を見せるけれど、普段は爽快感や包容力を感じさせるあの海。そして翔は、穏やかな…まるで春の暖かい陽射しを思わせる、落ち着く空気のようなそれ。けれど崇は…不快感や吐き気しか感じない、まるで汚泥のような何かなのだ。

「や…やめて、放してっ!!

 珠美が思わず声を上げた瞬間、カシャ…ッという音が響き、珠美も、そして崇も動きを止める。

「そこまでにしておいてくれませんかね、兄さん。広崎家の長男ともあろう人が、末弟の友人、それも嫌がる女の子をどうにかしようとしている姿は、醜聞以外の何物でもありませんよ」

 兄相手だというのに、辛辣な言葉を言ってのけたのは、携帯のカメラレンズをこちらに向けて、息を切らしながら崇に厳しい視線を向けている翔だった。

「いまの様子は、しっかりこの携帯におさめてあります。母さんはもみ消そうとするでしょうが、父さんが見たら、何と言うでしょうね。息子相手といえど、決して甘い措置をとるような人ではないことは、兄さんもよくわかっているはずですよ」

「翔、てめえ…! 兄を脅そうってのか!?

 珠美から手を放し、崇は今度は翔に掴みかかろうとする。が、それを止めたのは、またもや意外な人物であった。

「─────ならば、被害者側から訴えれば文句はないでしょう?」

 翔同様、普段とは較べ物にならないほど厳しい表情と視線と口調をたたえた、姉の光枝だった。

「────おねえっ!!

 即座に姉の胸に飛び込んだ珠美を、光枝は優しく、そして力強く抱き締める。そうして、一瞬だけ見せた慈愛の表情をすぐに険しいそれに戻し、崇の断罪を続ける。

「たとえここで力ずくで弟さんの口を塞いだとしても、私はおとなしく黙ってなんかいませんよ。可愛い妹に取り返しのつかないような真似をしようとする人なんて、私は決して尊重致しませんし、許しませんから」

「な…姉貴かよっ」

「……っ」

 珠美はここにきて初めて姉の真の強さを見た気がした。否、以前から決して軽んじていた訳ではないが、珠美を護るために、いつもは穏やかで慈愛に満ちた表情や感情しか見せなかったこの姉が、ここまで強い口調と態度で毅然と男に向かっていく姿を見せるなんて、とても信じられなかったから。

「腕を掴んだだけだろうがっ」

「仮にそれがほんとうだとしても、普段は強気なこの子をここまで怯えさせたのは事実です。もし罪に問えなかったとしても、お父さまをはじめ周囲の人々からの貴方の評価は地に落ちるでしょうね」

 揶揄するような口調の光枝の言葉に、崇は何も言えなくなっているようだ。どんな表情を浮かべているかまでは、珠美は怖くて振り返れなかったからわからないけれど。

「それがお嫌でしたら、二度とこの子に近付かないでください。お聞き入れいただけないのでしたら、たったいま撮った写真をお父さまやこちらの学校側、更にそちらの学校側や然るべき機関に提出させていただきます」

「…僕としても身内から犯罪者を出したくはないけど、こんなか弱い年下の女の子を傷つけるような人を、同じ男としても弟としても野放しにしてはおけないんでね。いまの画像は、こっちの彼女にもデータを渡しておくよ」

 翔の言う「彼女」とは、光枝のことであろう。

「さあ、どうします? 兄さん」

 四人の間のただならぬ空気を察知したのか、近くで立ち話をしていた母親たちが、それぞれに自分たちの子どもを守るように腕の中におさめながら、眉をひそめて小声で何かを話しつつ崇を見つめているのがわかった。さすがにこれには崇も己の不利を存分に感じたらしく、捨て台詞を吐いてきびすを返した。

「わかったよ、退けばいいんだろ、退けば! 言われなくても、そっちの姉ちゃんたちには二度と近付かねえよ!!

「わかっていただけて、恐縮です」

 光枝は魅力的な笑みを浮かべてはいるが、目が笑っていない。そのギャップが、珠美に姉の怒りの深さをより強く知らしめた。

「ただし翔。お前は別だ。俺に盾ついたことを、絶対後悔させてやるからな、覚えてろ!」

 翔は少々顔を青ざめさせただけで、何も答えない。兄を怒らせた結果どうなるかを、誰よりも身に染みてわかっているからだろう。確かにあの気性の持ち主では、何をしでかすかわかったものではない。

「……珠美ちゃん。大丈夫?」

 姉の、常と変わらない優しい声にハッとする。

「あ……大丈夫…」

 言いながら姉の胸から身を起こす。驚きと安堵に心を支配されて、いままで考えることすらできなかったが、どうして光枝と翔はこんなにも最良のタイミングで駆けつけてきてくれたのだろう? そのことを問うた珠美に返ってきたのは、実にシンプルな理由だった。

 あの後────珠美が崇についていった後のことだ────何やら不穏なものを感じて、由梨香と早苗は学校に戻って、まだ教室に残っていた光枝にことの次第を報告したらしい。そして、崇が名乗った「広崎」という姓から翔や潮の兄であることを確信し、翔にも来てもらった、ということだそうだ。

「来る途中、潮にも報せたからそろそろ来ると思うよ。ほんとうはあいつも間に合っていたほうがよかったのかも知れないけど…ああいや、普段から兄貴や母親からひどい態度をとられているから、憎まれるのは僕ひとりでかえってよかったかも知れない。……ごめんね」

 翔のこの謝罪は、兄のことだけでなく、潮がこの場に間に合わなかったことなのだろうと、珠美は何の根拠もなくそう感じていた。以前、潮本人や翔に聞いた話から察するに、潮は家でかなり微妙な立場らしいから、これ以上彼を苦しめる要因に自分がなり得るなんて、珠美には耐えられなかったから、だから。

 だから、こぼれそうになる涙を懸命に堪えて、光枝に手を引かれながら公園を後にする。

「珠美!」

「珠美ちゃんっ!」

 だから、公園の出入り口で由梨香と早苗が待っていてくれて名を呼ばれた時も、何とか笑顔を作ってみせた。

「大丈夫!? あいつに何かされなかった!?

「あの人、先輩たちが駆け込んでいった後すごい形相で出てきて、そこらへんのもの蹴り飛ばしながらどっかに行っちゃったの、怖かった〜っ」

 だろうな、と珠美は思う。あの性格なら、そんな傍迷惑なことをしたとしてもおかしくはない。

「うん、大丈夫。何かされる前に、おねえと先輩が来て追っ払ってくれたから。それより、二人ともわざわざ学校に戻って、おねえたちを呼んできてくれたんだって? ありがとうね、大変だったでしょ」

「何あたしらにまで遠慮してんのよっ」

「友達だもの、当たり前でしょっ!?

「二人とも……」

 二人の友情に胸が熱くなって、思わず涙がこぼれそうになった、その時。

「珠美っ!!

 聞き慣れた、けれどとてもそのひとのそれとは思えないほど焦りを含んだ声が、割って入ってきた。

「─────潮……」

 呟くようにその名を口にして、緩慢な動作で茫然と振り返ってしまったから、その後ろで他の皆がどういう反応を示していたか、珠美は知らない。

「大丈夫かっ!? あのエロバカに何かされやしなかったか!?

「『エロバカ』って…仮にもお兄さんに対して……」

「あんな奴、『エロバカ』で十分だ」

 はは…と力なく笑った瞬間、ぽろりとこぼれ落ちる涙。

「あ…あれ……?」

 思わず目元に手をやって、止めようとするが止まらない。さっきまでは、何とか堪えられたのに。潮のぎょっとしたような顔も、ちゃんと見えてるのに……。

「じゃ、大丈夫だったみたいだし、あたしらは先に帰るわね」

「広崎くん、珠美ちゃんのことお願いね」

「ああ、僕らも鞄とか学校に置いたままだった、取りに戻らなきゃ。越野さん、うちの愚兄がホントに済まなかった。報復相手の代理人として、潮を置いていくから好きにやっちゃって構わないよ」

「潮くん、妹のことよろしく頼むわねー」

「えっ!? ちょ、おいっ」

 皆、好き勝手なことを言って散り散りに去っていく。後には、涙の止まらない珠美と、いつものポーカーフェイスはどこへやら、焦りまくった潮だけが取り残されて……。

「と、とにかく場所を移ろうっ ここじゃ人目につくからっっ」

 弱り切った声で言う潮が可笑しくて可愛くて、涙を流しながらも珠美は笑いまで込み上げてきそうになってしまった…………。




    




誤字脱字報告もこちらからどうぞ
返信はブログにて




2013.12.16up


ついに珠美にまで魔の手を伸ばそうとしてきた、潮の悪夢。
げにありがたきは、友人や兄弟姉妹でした…。
ってヒーローどこ行った()

背景素材「空に咲く花」さま