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 高校入学三日目。



「うっしおー! おはよーっ!!

 背後から、潮の広い背中をばしっとたたく珠美の姿があった。声と笑顔こそは元気そのものだが、力は潮が痛くないようにちゃんと加減はしている。だから、潮が不機嫌そうな表情で振り返ったのは痛みのせいでは決してないことを珠美はわかっているけれど、先に心に決めていた通り絶対に退こうとはしない。

「…………」

「『おはよう』は? 挨拶されたらちゃんと返すのが人としての礼儀でしょ?」

「……ならこっちも『俺に関わるな』と言ったはずだがな。お前には日本語が通じてないのか?」

「通じてるわよ。でもあたしは了承してないもん。理由も話さないで要求だけ突きつけられて、誰が聞くことができるっていうの? そっちの勝手ばかり貫こうとするのだって、ずいぶん礼儀知らずじゃないの? だからあたしは諦めないよ。潮がちゃんと話してくれるまで、絶対離れていかないから」

 それは、あの後よく考えて出した結論。潮が珠美とつきあいたくないというのなら、仕方がない。あの頃といまでは、お互いいろいろなことが違ってしまっているから。友達づきあいさえもしたくないというのなら、仕方がない。けれど、いまの自分たちは昔別れた後のお互いのことを何も知らない。いまの珠美を知ってもらって、その上で潮がどうしてもいまの珠美とは合わないと思うのなら、淋しいけれど珠美だって無理に追いかけようとは思わない。けれど、話すことすら拒絶されて一方的に突っぱねられて、誰が納得できようか。

「忘れてるかも知れないけど、あたしはしぶといわよ〜? 納得できない理由だったら、絶対引き下がらないから」

 そう。潮なら、珠美の諦めの悪さは知っているはずだ。体育などでできないことがあっても、男子とケンカをしても、絶対にできないままや負けたままではいなかったのだから────さすがにケンカについては、潮が去った後は年齢、体格的な問題から肉体を使うそれは親や教師から言われてやめたのだが、とりあえずここでは言わないでおく。

「じゃあね〜♪」

 どことなく茫然としているように見える潮を残し、ひらひらと手を振りながら珠美は去っていく。一部始終を見ていた、一緒にいた友人らしき男子生徒と潮がその後どんなことを話していたのか知らないままで。

「…何つーか…パワフルなコだよなあ。彼女、昔からああなのか?」

「……ほんの少ししか話してないのに…明らかに変わってないなと思えるぐらい、変わってないよ─────」

 だから、戸惑ってるんだ─────。

 そんな潮の小さな小さな呟きは、誰の耳にも入ることなく風に乗って消えた……。


「おはよー、珠美ちゃん。今朝も挨拶してきたの?」

「おはよー、奈美ちゃん。あったぼうよ!」

「あの広崎にあんな体当たりの挨拶かますのって、お前ぐらいのもんだぜ?」

「いいじゃん、昔馴染みなんだから。ちゃんと手加減もしてるしー」

 中学時代からの友人たちとまったく違うクラスに振り分けられてしまった珠美だったが、その生来の明るさと人懐っこさで、少しずつクラスの中に新たな友人関係を築き始めていた。けれど、そんな彼女を好意的に見ていない人間もいるのも世の常というもので…。

 移動教室から戻ってきた珠美は、机の中に入れていたはずの教科書やノートが消えていることに気付いた。

「あれ?」

「どうしたの?」

「んー、教科書やノートがないのよ。どこ行ったのかな」

 首を傾げる二人の背後、教室の後方から聞こえてくる、同じクラスの男子の声。

「おい、誰のか知らねーけど、ゴミ箱に教科書やらノートやら入れられてんぞー? 心当たりのある奴いるかー?」

「!」

 即座にそちらに駆けていくと、確かにゴミ箱に入っている教科書やノート。拾い上げて確認すると、書かれている名は間違いなく珠美の名だった。入っていたゴミが紙くずやジュースの空の紙パックくらいだったので────それも紙くずのほうが手前だったため、ほとんど汚れていなかったのは幸いというべきか。

「やだ…誰がこんなこと」

 一緒に埃を払いながら辛そうに言う奈美に、珠美はにこりと笑う。

「へーきへーき。落書きもされてないし、かわいいもんよ」

 もし犯人が同じクラスの人間だったなら、単に移動教室のためにそこまで時間がなかっただけのことかも知れないが。どこか不快な甲高い笑い声が聞こえてきたのは、次の瞬間のこと。

「あーら、誰かさんは男を追っかけるのに忙しいから、教科書なんかいらないんじゃないのー?」

「必要なのは男を落とすためのテクの教科書って?」

 おかしくてたまらない、と言いたげに笑うのは、窓際の席に集まっていた女生徒たち。まだ、全員の名前は覚えきっていないが。

「あ、あの人たち…」

「知ってるの?」

「クラスは違ったんだけど、同じく中等部からの持ち上がりのコたち。噂でしか知らないんだけど、同じクラスのコをいじめて不登校にさせかけたとか何とか…」

 さすがに声をひそめて奈美が言うのを聞きながら、珠美は「ふうん…」とだけ答える。まったく、ああいう輩はどこにでもいるのだなと思いながら、奈美と共に教科書やノートを持って席に戻る。

「ねえ、いいテクあったらあたしらにも教えてくんない? あ、さすがにあんな真似は恥ずかしくてできないから、別の方法をお願いね」

 またしても起こる、嘲笑の笑い声。

「……」

「た、珠美ちゃん?」

 奈美が声をかけるのにも応えず、珠美は席から立ち上がって歩きだす。彼女たちに向かって。

「あらなあに? さっそく教えてくれるの?」

 自分たちの前に来た珠美が何も言わないからか、女生徒たちはますます調子に乗り出す。珠美の背後では、男子女子問わず何が始まるのかと緊張感や好奇心をはらんだ視線や表情がこちらに向けられているが、珠美はそれらをまったく気にとめず、ゆっくりと口を開いた。

「……ねえ?」

 珠美が満面の笑顔を浮かべたからか、一瞬女生徒たちが怯む。

「な、何よ」

「あなたたちってさあ、もしかして潮のこと好きなの?」

「なっ!?

 予想外のことを言われたらしく、それまで余裕綽々だった彼女たちの顔に動揺が走った。

「だーってさあ、すっっっごくわかりやすいんだもの、あなたたちの態度って。あんなんじゃ、誰が見たって自分たちが潮に話しかけられない嫉妬からとしか思えないわよ? 相手をへこませたいなら、もっと趣向を凝らさないとダメよ」

 笑顔のままそれだけ言って、ひらひらと手を振りながら珠美は席へと戻っていく。それまでの余裕はどこへやら、彼女たちの顔はすっかり悔しそうなものになっていて、対する珠美は一貫して涼しげな表情と態度だったため、教室のあちこちで吹き出す気配。女生徒たちが睨みつけると同時に一瞬止まるが、それでも堪えきれないらしい小さな笑い声があちこちから洩れる。

 ふん。これくらいであたしがへこたれると思ったら、大間違いよ。多勢に無勢なら誰でもビビると思うなよ。

 小学生の頃は男子相手のほうが多かったが、さすがに中学に入った頃から女子を相手にケンカをする機会が段違いに増えてきたのだ。それも、男子と違って女子は陰に隠れてあれこれ仕掛けてくるので、陰険な手合いを相手にするのはすっかり慣れてしまった。自分も女ではあるが、あの陰湿さはどうにも理解できないけれど。

「珠美ちゃんてすごいのねー…あの人たちを黙らせた人なんて、初めて見たわ。あの人たち、先生に怒られても全然平気っぽいのに」

「んー、こんな性格だからか、昔からあの手の同性に絡まれることが多くてねー。自然に身についた自衛の術ってとこかしら」

 そう。ああいう手合いを相手にするには、怒ったり、こちらが余裕をなくしてはいけない。あくまでも平然とした態度で、冷静に相手を分析することが大事だと、教えてくれた人がいたから。その人がいなかったら、珠美はいまでも昔のまま猪突猛進タイプだったかも知れない。

 とりあえず、この件はひとまず落ち着いたかと思った珠美だったが、中高一貫の学校の暗部とでもいうべき部分を、その数時間後の昼休みに改めて知ることとなった。

「ちょっと聞こえてきたんだけどさ、あんたさっそくやらかしたんだって?」

 奈美たちと昼食を摂った後、トイレに行って戻ってきたところで、別のクラスになった中学時代からの友人の由梨香と早苗に声をかけられた。

「『やらかした』って人聞きが悪いわね。あたしはただ、向こうからの言いがかりを軽く受け流しただけよ」

「まあ、例の『潮』くん? 中等部の頃から人気あったみたいだから、遅かれ早かれこうなるだろうと思ってたけどね」

 由梨香はすっかり面白がっている様子だ。まあ、こういう性格だとわかってはいるけれど。

「珠美ちゃん、くれぐれも独りで頑張り過ぎないでね? クラスは分かれちゃったけど、あたしたちもいるからっっ」

 やはり早苗は優しいなあと思いながら、珠美は思わず彼女を抱き締めてしまう。

「もう、早苗ってばホント可愛いんだからっ あたしが男だったら、速攻告ってるとこよっ」

「た、珠美ちゃんっっ」

「ちょっとちょっと、入ったばっかの高校で誤解を招くようなことをするんじゃないわよ。あたしまでソッチのお仲間だと思われるじゃない」

「由梨香ちゃん、そっちの意味なの!?

 ああ、やはりつきあいの長い友人たちと話すのは気楽だなあなどと、のんきなことを珠美が思っていたその時。

「越野珠美ってあんた?」

 とてもではないが友好的とは思えない声が、背後から聞こえてきた。そもそも、初対面の相手────少なくとも聞いたことのない声なので、初対面だろうと判断を下したのだが、振り返って確認するとそれが間違いでなかったことがわかった────を呼び捨てにするあたり、とても好意的な相手とは思えない。

「そうですけど…何か?」

 上履きの爪先のゴム部分の色が違うことから、相手は二年生だとわかる。姉の光枝は三年生で、また違う色の上履きを履いていたから。

「話があるのよ。ちょっと来てくんない? あんた一人で」

 珠美一人で? 自分たちは複数のくせによく言うと思うが、とりあえず了承の意をしめして後に続く。連れてこられたのは、屋上へと続く階段を上がりきった、ちょっとした踊り場のようになっているところ。この人数では少々手狭だが、仕方がない。

 ちらりと階段の下のほうを見ると、視界に入ったのは同じクラスの例の女生徒たち。ああ、なるほどと思う。自分たちでは珠美をやり込められなかったから、先輩に助力を頼んだということか。わかりやすいというか、底が浅いというか…。ああいうタイプの先輩は、やはり似たようなタイプだったということか。

「それで、話って何ですか? 昼休みが終わるまでもう時間がないから、手短かに済ませていただきたいんですけど」

 やはり平然としたまま問いかけると、明らかに気分を害したような顔でリーダー格らしい相手が振り返る。

「あんたさあ、広崎くんは嫌がってんのに、昔馴染みだからってなれなれしくつきまとってんだって? 彼が迷惑してんのわかんないの?」

 ああ、結局この人たちも潮のファンなのか。わかりやすさもここまで来ると面白味もへったくれもない。

「迷惑してるって、だから何とかしてくれって、潮本人が先輩たちに言ったんですか?」

「言われなくたってわかるわよ! あんたハッキリ言われたんでしょ!? 『昔みたいにつきあう気はない』って」

「言われましたけど。あたしはまだ理由を聞いていないから、了承していません。納得できる理由なら、彼の言う通りにするつもりですけど」

 そこでいったん言葉を切って、相手の顔をまっすぐに見据えて、珠美は続ける。

「でも、それはあたしと潮との問題であって、他の人には関係のないことです。潮本人に頼まれた訳でもない先輩方に、言われる筋合いはないことだと思いませんか?」

「な…っ 何こいつ、生意気ーっ!」

 不穏としか表現しようのない空気が、珠美をとり囲むように立っている女生徒たちの間からわき起こる。そうなると、次にとりそうな行動はわかりきっている。

「一年のくせに、先輩にたてつこうっての!?

「なめんじゃないわよっ!」

 左右から、腕を振り上げて迫ってくる女生徒が二人。

ああやっぱり。口で勝てなければ手が出るのね、ホントわかりやすいことこの上ないわあ。

 そんなことを冷静に考えながら、できるだけ小さな動きで身体を後方にずらす。何しろ狭い場所だから、気をつけねば。そんなことはすっかり頭から抜け落ちているらしい二人は、珠美がそんなにスマートに避けるとは思っていなかったらしく────ついでにいうと完全に頭に血が上っているせいで、その後のことなどまるで考えていない勢いで突進してきて、思いきりぶつかり合った。痛そうと半ば無意識に思える音と悲鳴がその場に響き渡る。そして、バランスを崩した二人の身体が、もつれ合うように階段を転げ落ちていく。以前親がテレビで見ていた古い映画の階段落ちを見ているようだった。

「あ…あんた、よくもやったわねっ!?

 珠美自身は何もしていないというのに、残った女生徒が憤怒の表情でこちらを見た。校則違反の化粧までしているというのに、その顔はまさに般若だ。もし彼女たちに惚れている男が見たら百年の恋も冷めるだろうなあと、それどころではないことを珠美は思ってしまった。珠美が言葉を発する前に、その場に響き渡るのは野太い怒鳴り声。

「こらーっ!! お前ら、何やっとるっ!」

 一年の授業を担当していないので顔しか知らない壮年の男性教師が、話に聞いたことしかないカミナリ親父のような形相で下から駆け上がってくる。

「一年を呼び出して、恫喝するとは何事だ!」

「や、やだ、先生、あたしたち話してただけですよー」

 さすがにマズいと思ったらしく、先輩たちの態度はさっきまでとはまるで別人だ。

「そ、そうですよ、むしろあたしたちのほうが酷いことされたんですよ、このコに」

「そ、そう、見たでしょ、あの二人。このコが階段から突き落として…」

 よくもまあ、そんなにぽんぽんと口からでまかせが出るものだと、珠美は感心せずにはおれなかった。怪訝そうな顔でこちらを見る教師に、珠美は少々俯いて、ついでに声量も落として言葉を紡ぐ。間違いなく事実だけを、だ。

「あたし何もしてません…先輩たちに呼び出されて、質問に答えたら突然二人がかりで殴られそうになって……怖くて避けたら、先輩たちがぶつかってバランスを崩して、そのまま階段から落ちてしまっただけです……」

「う、うそ…」

 つくんじゃないわよとでも続けたかったのだろうが、むしろ嘘をついているのは自分たちで、珠美は事実を語っただけだとわかっているからか、その声はそのまま立ち消えになる。

「せんせー、俺見てましたー。そのコの言ってることはほんとうですよー」

「俺も見てましたー。嘘ついてんのそいつらのほうですよー」

 見知らぬ先輩らしい男子生徒たちが証言してくれたおかげで、教師も確信を深めたらしく、「やっぱり」とでも言いたげな顔で先輩女子たちを見やる。

「入学したばかりの下級生をたった独りきりで集団で呼び出して、多勢に無勢で暴力を振るおうとしたばかりか、失敗したら嘘までついて陥れようとは……恥を知れ、お前らっ!!

 珠美でさえも思わず気迫負けしてしまいそうな怒号が、その場に響き渡った。後で聞いたところによると、その教師は柔道と剣道の段持ちだそうで、本気で怒らせたら学校の中で一番恐ろしい相手だったそうだ。何もやましいことがない珠美でさえもこうなのだ、後ろ暗いことばかりの連中にとってはさぞ恐ろしかったことだろう。

 その教師を筆頭に、後から駆けつけてきた教師たちも手伝って、先輩女子たちは連行されていく。逆恨みでもされるかなと思ったが、いじめ問題に厳しい昨今の学校事情のせいかすっかり意気消沈しているようで、珠美のほうをちらりとも見ずに行ってしまった。それと入れ代わりに聞こえてくるのは、いまにも泣き出しそうな女子二人の声。

「珠美ちゃんっ!」

「大丈夫っ!?

 二人がかりで抱きついてこられて、さすがに珠美も勢いにおされてよろめいてしまう。よく見ると、一人は予想通り早苗だったが、もう一人は意外にも奈美だった。

「大丈夫よー、ひっぱたかれそうになったけど、ちゃんと避けたし。むしろ階段から落ちた先輩たちのほうが重症なんじゃない?」

「よかったあ〜っ!」

「珠美ちゃんがなかなか戻ってこないからおかしいなと思って廊下に出たら、まさに先輩たちに連れて行かれるところだったんだもの…どうしようかと思っちゃった〜っっ」

「もしかして…奈美ちゃんが先生を呼んできてくれたの?」

「あんたなら、大丈夫って言ったんだけどねー。早苗もパニクっちゃってどうしようもなかったから、呼んできたのよ」

 冷静そのものの声と表情で言うのは由梨香。そうよね、あんたはそういう奴よねと、珠美は思う。お互い、伊達に長く付き合ってはいないということか。

「二人とも、心配してくれてありがとう。大好きよ」

 心の底から早苗と奈美────ついでに由梨香に心の底からの感謝の言葉を述べながら、珠美は満面の笑みを浮かべる。周囲の皆の微笑ましいものを見る目に見守られ、これでまた実情以上にとんでもない存在だと学校内で噂になるのだろうなと内心で憂鬱な気分になりながら…………。


 そして、信じられない速さで学校中を駆けめぐった珠美の噂を聞いて、他の誰もいないところで潮がひとり肩を震わせていたことを、珠美本人は知る由もなかった…………。



    



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2013.3.19up

いきなり現れて彼に親しげに話しかける珠美に、
潮ファンは黙っていないだろうということで。
けれどこの一件で間違いなく、
「手を出してはいけない」存在に認定されたことでしょう
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背景素材「空に咲く花」さま