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 四月の、朝から暖かい陽射しが差し込む部屋の中で。越野珠美
(こしのたまみ)は、仕上げの胸元のリボンを両手できゅ…と引き結んだ。そのまま、部屋に置いてある姿見に全身を映して、最終チェック。

 届いたその時に確認した通り、近隣の学校からも「可愛い」と評判の、これから入学するC学園高等部の制服が自分に似合っていることを確認して、珠美は満足の息をつく。黒目がちの意思の強さを思わせる大きな瞳に、すっと通った鼻筋、整った形の薄く小さめな唇に、セミロングに切り揃えた自慢のさらさらの髪、この間中学を卒業したばかりにしては発育の良い身体つき。それも過剰に色気を醸しだすものではなく、まるで野生動物を思わせる、すらりとして健康的なそれは、珠美の他の部分とも見事な融合を果たしていて、ただ可愛いだけではない何かを思わせる少女を鏡に映し出していた。

 チェックを終えた珠美が思わず笑みを浮かべたその時、それを合図とするかのようにノックされる部屋のドア。

「はーい、どーぞー?」

 かちゃりとドアを開けるのは、珠美とよく似た顔立ちの────といっても、こちらの少女のほうが深い慈愛を思わせる、穏やかなものであったが、珠美とはまた違う魅力が彼女を彩っていた────姉の光枝(みつえ)。珠美の着ている制服とそっくりなものを着て、いつも通り長い髪を女らしく編み込んでいる。

「珠美ちゃん、準備できた? あら、やっぱりその制服珠美ちゃんに似合ってる。可愛いわ」

「ありがとー。え、おねえもう行くの?」

「新入生はもう少しゆっくりでもいいけど、在校生はいつも通りに行かなきゃいけないの。私、受付の係になってるから、また向こうで会えるわよ。道、わかるわよね? 大丈夫?」

「受験の時にも行ってるし、春休み中に同じ学校に行く友達と一度下見に行ってるから大丈夫だと思う」

「同じ中学のお友達も一緒の学校でほんとによかったわね、うちの学校は中等部からの持ち上がりも多いから、外部からの入学は大変だって聞いてたから。安心したわ。じゃ、また後でね」

 笑顔で言ってから、光枝は軽やかに階段を下りていく。ほんとうに、いつも優しくて気が利く姉だと思う。

 「外部からの入学は大変」って…おねえは「外部」どころか県さえ違うところからの入学だったっていうのに。ほんとに他人のことばかり気にかけて……そういう人だから大好きなんだけどさ。

 普段本人の前ではなかなか言えないことを、珠美はこっそりと思う。

 前述の通り、珠美たち一家はそもそもこのK県の出身ではない。珠美や光枝が生まれるずっと以前から住んでいた地方さえも違うS県から、二年前に父親の転勤のために引っ越してきたのだ。その頃ちょうど高校受験を控えていた光枝は、そのためにあちらではなくこちらの高校に入学することを余儀なくされ、前日から母親と共にホテルに宿泊したりして大変だったらしい。それでも優秀な成績で余裕で合格を果たし、誰一人知る者がいない学校で一から友人や教師の信用を得たのだから、ほんとうに我が姉ながらすごいと珠美は思う。珠美はまだ中学二年になる寸前だったので、光枝の苦労にはまるで及ばないほど楽だったろうから。

「さて…と」

 完全に身支度を整えてから、珠美はそっと荷物の入ったバッグを持ち上げた。


 K県N市私立C学園高等部─────そこが、本日珠美が入学する、姉が在籍している学校の名だった。入試を決めた頃から思っていたけれど……。

「まあまあ。いつ見ても、ほんとうに大きな学校よねえ」

 共にやってきた母親が、隣で目をむいている。まあ、そう思うのが当然だろう。高等部と同じ敷地内に中等部も存在するのだから、学校全体が大きくて当たり前だ。

「あんたも光枝も方向感覚とかはお父さんに似てよかったわねえ。お母さんじゃ毎日迷子になっちゃいそうだわ」

 方向音痴の母親が、いまの家に引っ越してきて以来、何度道に迷って大騒ぎを起こしたことか克明に思い出して、珠美はつい吹きだしてしまった。更にいうと、姉の入学以来この学校に来るたびに毎回迷いに迷って通りすがりの人に目的地に連れて行ってもらう、というのもいつものことだと知っていたので。

 そんな二人の背後からかけられる声。

「珠美ー、おはよーっ」

「あ、おばさんも一緒だったのね、おはようございまーすっ」

 同じ中学校から進学する、友人の由梨香と早苗だった。

「あら、由梨香ちゃん、早苗ちゃん。高校でも珠美と仲良くしてやってねー」

「はーい、こっちこそよろしくですー」

「あ、お母さん、二人のお母さんも一緒よ、一緒にいてもらいなさいよ。お母さん一人じゃ心配だし」

「あ、うちの親には言ってありますから、式が始まるまでのんびり話でもしててくださいな。あたしたちはクラス分けとかも見に行かなきゃならないし」

「そうね、新入生は忙しいものね。頑張ってね」

 笑顔で母親たちと別れ、珠美は早苗と由梨香と共に校内へと進んでいく。

「珠美ちゃんのお母さん、相変わらず可愛いわね」

 自分のほうこそ可愛い笑顔で笑いながら、言うのは早苗。

「さーて、同じクラスになれるか否か。こればっかりは運次第だもんねえ」

 ワンレンにした長い髪をかき上げながら、言うのは由梨香。少し内気だけれど優しく女の子らしい早苗と、美人で大人っぽい由梨香。珠美とはタイプがまるで違うけれども、転入した中学のクラスで出会って以来、何故か気が合っている親友たちだった。

 そして、まず向かったのはクラス発表の掲示。

「えーっ うそお、珠美ちゃんだけ三組であたしと由梨香ちゃんは一組ーっ!? 何でー、これってどういう基準で決められてるのーっ!?

「あれま。池やんと橋もっちゃんも違うクラスか。見事にばらけたわねえ」

 由梨香のいう「池やんと橋もっちゃん」とは、やはり同じクラスだった池田と橋本という名の男子生徒で、中学時代はよく五人で遊んだものだった。

「でもまあ、早苗が独りにならなくてよかったわよ」

「そうね。そんなことになったら、みんな心配でハラハラしちゃいそう」

「そ、そりゃ珠美ちゃんや由梨香ちゃんと違って、あたしは頼りないけどさ…」

 珠美も由梨香も別に早苗を軽んじている訳ではないのだが、早苗は優し過ぎる面があるので、面倒が起こった時に一人で対処しきれないかも知れないと思った故の言葉だった。

「まあまあ、そこが早苗のいいところでもあるんだから」

「何それーっ」

 半ば冗談交じりで腕を振り上げる早苗に、笑いながら半歩退いた拍子に、背後を通っていたらしい誰かにぶつかってしまったらしい。「あ、ごめんなさい」と謝りながら振り返ると、相手の男子生徒と一瞬目が合った。相手は「いや」としか言わず、そのまま通り過ぎて行ってしまったけれど。

「…………」

「珠美? どうかした?」

「ん…いまの人、どこかで会ったことがある気がして……」

「うちの中学の人じゃないわよね、見覚えないもの」

「受験の時にでもみかけたとか?」

「ううん、そんなんじゃなくて……」

 そんな最近の記憶ではない気がする。もっと、ずっと以前の……。声ではない、と思う。あんな声、聞いたことはないはずだ。

 どこで会ったんだっけ……こっちに越してきてからだったら、覚えてないはずないと思うんだけど。そうなると、S県にいた頃…?

 S県にいた頃の記憶をたどるけれど、うまくいかない。確かに見覚えはある気がするのに、見覚えがない気もして、混乱してきているせいもある。どうしてそんな風になるのか、珠美自身にもわからないのに。

そんな時、唐突に強めの風が吹いた。あちこちからわき起こる、悲鳴や物が倒れた音や舞い飛ぶ紙類。耳に届いた風の音が、ふと記憶にあった別の音を次いで思い出させ、それに付随する光景まで鮮明によみがえらせて、混乱していた脳裏に一瞬光が差し込んだ気がした。それと同時によみがえるのは、懐かしい誰かの声。

『……み……まみ…たまみ……珠美!』

 脳裏に浮かぶのは、気持ちのいい潮風の中、輝く海を背に明るく笑う、無邪気な少年の姿─────!!

 考えるより先に、彼の名前が心に浮かんで……振り返って、既に二、三メートル先に行きかけていた彼の背に向かって、声を上げていた。

「─────潮(うしお)っ!」

 五年前に別れた時から、面と向かって呼びかけることのなかった、懐かしいその名前を。

 周囲の人たちが驚いたようにこちらを見る中、当の相手は一瞬大きく身を震わせて、それからゆっくりと珠美を振り返る。記憶の中にあるその顔立ちによく似た、けれどあの頃より段違いに冷たいガラス玉を思わせる瞳で、同じくらいの身長だったあの頃とは違って自分を何の感情も見い出せない表情で見下ろしながらこちらに向かって歩み寄ってくる相手を、珠美はただ茫然と見つめていた。

 人違い…じゃないよね? だって反応したし、こっちに向かってくるし。もしかして、あたしだとわかんなかったとか?

「潮…だよね? 五年前にS県から転校して行った……あたし、珠美だよ。ずいぶんあの頃とは雰囲気変わっちゃったけど…覚えてる?」

 なるべく動揺を顔に出さないようにして、珠美はつとめて明るく話しかける。自分だとわからなくても無理はない。何せあの頃の珠美ときたら、髪も短くて女の子らしい服装も言動も全然していなくて、いまの珠美とはまるで別人だったから。

「越野…珠美、か?」

 あの頃とは別人のような低い声が、珠美の名前を紡ぐ。まるで知らない人のそれに思えて、一瞬胸が高鳴る。覚えていてくれた。外見は変わっても、やはり潮は潮だったと、珠美は心底嬉しくなってしまった。

「そうだよ、懐かしいね。潮ってば、どこに行くのか全然教えてくれないまま転校しちゃって、あたし淋しかったんだよ。なのに、こんなとこで逢えるなんてすごい偶然。あ、うちもね、二年前にこっちに引っ越してきて……」

「悪いけど。昔のことは思い出したくないんだ」

「え─────?」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

「う、潮、何言って…」

「そう呼ぶのもやめてくれ。いまの俺は、あの頃の俺とは違うんだ。お前と昔のようにつきあう気もないし、あの頃の話もされたくない。これからは気軽に話しかけたりしないでくれ。あの頃とはもう────何もかも違うんだ」

 冷たい声と態度で言うだけ言って、潮はそっけなく再び背中を向けて去っていく。友人らしい男子生徒に珠美のことを何か訊かれているようだったけれど、既に珠美から興味を失っているかのように一言二言答えただけで────それも、「昔少しだけ関わりのあった相手だ」というような、あの頃の思い出も友情も何も見い出せないような、彼の中では自分にとって何の価値もないと言われているような気がして、珠美の胸がずきりと痛んだ────そのまま彼のクラスなのだろう四組の教室へと入って行ってしまった。後には、茫然としたままの珠美、興味津々でふたりのやりとりを見守っていた同じ新入生の面々、それから早苗と由梨香がとり残される。

「……珠美ちゃん? 大丈夫…?」

 早苗の、気遣うような声。

「あれが前からよく話してた、『小学生時代の親友の潮』くん? 聞いてたタイプとずいぶん違うようだけど」

 それは、たったいま珠美が誰よりも痛感したこと。あの頃の潮は、あんな目を、あんな言葉を、あんな態度で他人に投げかけられるような人間ではなかった。

「そんなの……あたしが一番聞きたいわよ…………」

 いまだ茫然自失の状態の珠美を嘲笑うかのように、教室に入れと促す声。早苗に背を優しく撫でられながら、緩慢な動作で教室へと向かう。とりあえず、早苗と由梨香にこれ以上心配をかけてはいけないと思い、何とか笑顔を浮かべて「また後でね」と言いながら教室に入り、指定された席につく。頭を占めるのは、先ほどの潮のことばかりだったけれど。

「ねえ、あなた」

 後ろから声をかけられてハッとする。振り返ると、斜め後ろの席で人のよさそうな少女が笑顔を浮かべていた。その隣に座る少年も同様だ。

「私、ここの中等部から持ち上がりの、斎藤奈美っていうの。隣は同じ持ち上がりの近藤くんね。これからよろしく」

 にこにこと、人好きのする笑顔で言う少女の言葉に合わせて、いまどき風の少年が「よっしく」と言いながら笑う。

「あ…越野珠美よ。市内のF中から来たの。よろしくね」

「さっき、偶然見てたんだけど…越野さんって、広崎くんと知り合いなの?」

「広崎…?」

 聞き覚えのない名前に思わず首を傾げる。

「広崎潮だよ。さっき話してたじゃん。すげーな、あいつ中等部の時からめちゃくちゃクールで、野郎だってなかなか気軽に話しかけられねーってのに」

「えっ!?

 潮の名字は「島本」だったはずだ。いったい何がどうして「広崎」などという名字になったのだ!?

「ね、ねえ、『広崎』って…」

 どういうこと、と訊こうとした珠美だったが、やってきた教師の声に遮られて、そのまま話は立ち消えになってしまった。

 どういうこと? 確かに潮は「島本」って名字で、小さい頃にお父さんが亡くなって、向こうのお祖父さんたちにお母さんともども冷たくされるようになったから、お母さんの実家のあるうちの近くに来たんだって聞いてたけど。

 だから「島本」は母親の旧姓で、その母親が病気で亡くなったから親戚に引き取られることになったと聞かされたのは、潮が去ってずいぶんと経った頃。父親の姓までは知らないが、父方の祖父母がそんな様子なら父方の親戚に引き取られたとは考えにくいけれど……一瞬母親のきょうだいに引き取られたのかと思ったが、母親には兄と弟しかいないとも聞いていたことも思い出した。ならば、いまも「島本」のはずで…。考えれば考えるほどわからなくなってくる。

 入学式に出席するため講堂に向かう途中で、隣のクラスから出てきた潮の姿を再び見かけて、思わずどきりとしてしまう。けれど向こうはこちらにまるで気付いていない様子なので────友達らしき男子との話に夢中になっているとかそういうことではなく、何だかぼんやりしているように見える────改めて、いまの彼を観察することにした。

 背や身体つきは、当然のことながらあの頃とは全然違う。珠美も昔は髪を短くしていてまるで男の子のような格好をしていたから、ふたりが性別と逆の服装をしてもまるで違和感がないとよく言われたほど、ふたりに体格の上での違いはなかった。そして性格もよく似ていて、ふたりとも元気があり余っていて好奇心もいっぱいだったから、いろんなことに首を突っ込んではそろってよく叱られていたことも覚えていられないほどだ。

 まっすぐな黒髪と顔立ち自体は昔の面影を残しているのに…表情や目が、あの頃とはずいぶん違う。あの頃の潮は、どんな相手にだってあんな冷たい目を向けることは決してなかった。少し身体の弱い母親と二人暮らしだったからか、弱い者にも優しくて……弱い者いじめをする相手に、よくふたりで向かっていったものだった────まあ珠美の場合、正義感の強さと向こう見ずな性格が理由の大半だったが。

 さっきは気付かなかったが、その身長と容姿はいわゆるイケメンに入る部類らしく、あちこちの女生徒がちらちらと潮を見ては頬を染めている。あの頃はただの悪ガキだったのに、と過去のいろいろな失態をバラしてやりたい気もするが、とりあえずその気持ちは抑えておくことにして。

 見てなさいよ、潮っ 「いまの俺は昔とは違う」? 「これからは気軽に話しかけるな」? 上等じゃない。この珠美さまが、そんなこと言われておとなしく引っ込んでいると思ってんの!? 絶対絶対、昔のあんたを引きずり出してやるんだからっ 覚悟しなさいよーっ!!

 固い決意を胸に、前を歩く潮を珠美は力の限り睨みつけた…………。





  


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2013.3.14up

懐かしい幼友達と再会と思いきや……
予想もつかない展開に、珠美大パニックです。
けれどここで引き下がるようなヒロインではありません(笑)
はてさて、どうなりますことやら…。

背景素材「空に咲く花」さま