〔3〕





「珠美ちゃん。さっそくやっちゃったでしょ」



 それは、例の上級生たちとの揉め事の当日の夜。夕食の後、自分の部屋で寛いでいた珠美に向かって、普段と変わらぬ何気ない様子を装ってやってきた姉の光枝が、唐突に切りだした言葉がそれだった。

 やはり、姉にばれずには済まなかったか。学年は二学年違うとはいえ、同じ学校内で、しかも学年を越えた騒ぎを起こしたとあっては、姉の耳に入らないはずもない。思えば、中学の頃からそうだった─────もっともあちらでは、小学校からずっと同じ学校で姉妹だということは周囲もわかっていたからこその結果ではあるが。

「まあ、今回の件は下級生を多勢に無勢で呼び出して、更に手まで出そうとした向こうのほうが悪いに決まってるから、お父さんとお母さんには黙っていてあげるわ。それにしても、きっかけになったっていう広崎潮くん? 中等部の頃から女の子に人気があるって話だから、遅かれ早かれこういうことになるんじゃないかとは思ってたけどね」

 もっと何か言われるかと思っていたが、光枝の反応は淡々としたものだった。まあ、例の「ああいう手合いを相手にするには、怒ったり、こちらが余裕をなくしてはいけない。あくまでも平然とした態度で、冷静に相手を分析することが大事」という教訓を教えてくれた本人なのだから、当然なのだが。

「そのお兄さんの広崎翔(かける)くんて人がうちのクラスにいてねー、『噂の一年生って、もしかして越野さんの妹さん?』って訊かれちゃった」

「へー…」

 一瞬、深く気にすることなく聞き逃してしまいそうになったが、珠美の記憶の端にあった何かが、激しく違和感を訴え始めた。いま、光枝は何と言った? 『潮の兄』!?

「お、おねえっ」

「広崎潮くんって、小学生の時珠美ちゃんが仲良くしてた、あの『潮くん』よね? あの潮くんは確かお母さんと二人暮らしで、きょうだいはいなかったと思ったけど…?」

「…っ!」

 ああ、やはり姉は気付いていたか。さすが、珠美が生まれてからこれまでの人生をずっとつきあってきた相手であるだけのことはある。

「……そうなの。あたしも入学式の日に偶然再会して、懐かしくって声をかけたんだけど…潮ってば、昔と全然変わっちゃってて、すごい冷たく『いまの俺に関わるな』みたいに言ってくれちゃって……」

 事情を語ってくれるまでは絶対諦めないと、本人にも周囲にも明言していたけれど……いくら珠美でも、あんなに親しくしていた潮にあそこまできっぱりすっぱり取り付く島もなく言われたら、傷つかないはずもない。いままでは、怒りや持ち前の気の強さでモチベーションを保っていられたけれども…。

「…きょうだいのことといい、名字のことといい、きっと何か事情があるのよ。とにかくいまは、向こうから話してくれるのを待ったほうがいいわ。多分いまは、向こうも混乱してるところだと思うの、昔のことを知ってる珠美ちゃんが急に現れて。だから、珠美ちゃんは昔のまま…この素直な珠美ちゃんのまま、接してあげればいいと思う。落ち着いたらきっと、珠美ちゃんが全然変わってないことに今度は安心すると思うから……」

 いつも思うけれど、光枝の言葉には不思議な力があると思う。だって、驚きや怒りがとりあえず落ち着いたところで、今度は混乱し始めてしまっていた珠美の心を、こんなにあっさりと落ち着かせてしまったのだから。

 ほんとうに、この姉は昔から変わらない。

「もし友達にも話せないことがあったら、私がいつでも聞くから…だから、珠美ちゃんは彼のためにもいつでも元気でいてあげて?」

「うん…ありがとう、おねえ……」

 落ち着いてくると、今度は別のことが気になってくる。

「そういえば……おねえのクラスにいるお兄さんって、潮に似てるの? 血とかつながってるのかなあ?」

 その質問に、光枝は少々考えてから、再び口を開く。

「似てるか似てないかっていったら、顔立ちはどこか似てると思うわ。ほんとうの兄弟じゃないにしても、どこかで血はつながってるんじゃないかと思えるくらい。潮くんのほうは、いまはちょっと荒れてる気持ちが顔に出ちゃってる感じで目つきとかも鋭くなっちゃってるけど、お兄さんのほうはとっても穏やかな感じよ。人あたりもいいしね。二年生の時には生徒会長も務めていたくらいだし」

 その上眼鏡もかけていると聞いて、珠美の頭は想像力の限界が訪れてしまった。潮は昔はわんぱくで悪ガキそのもので、いまはいまであんなツンツン状態だから、それが温和で眼鏡をかけた優等生タイプになっている姿なんて、想像しきれなかったのだ。

「機会があったら、一度見せてみたいわねえ…。多分、潮くんも穏やかな顔をしたらお兄さんによく似てると思うのよ」

 そんな光枝の優しい声は、その直後の階下でテレビのスポーツニュースを見ていたらしい父親の嬉しげな叫び声と、それをたしなめる母親の声に流されそうになったけれど、珠美の心にはしっかりと刻み込まれた…………。




                    *     *




 それより三時間ほど遡った頃。同じ市内にある立派な家屋────ほとんど屋敷といってもいいぐらいのそれに、同市内にある広崎総合病院の院長宅と聞けば、納得する者は多いだろう。何しろ件の病院は、かなりの規模で同系列の病院をいくつも束ねる大病院であったから────の廊下を、独り歩く潮の姿があった。

 近くの部屋から聞こえてくるのは、穏やかな女性の声。

「奥さま、本日のお帰りのお時間はどのように…」

 それに応えるのは、どこかヒステリックなものを感じさせる高い女性の声。

「そんなこと、わからないわ。たまの気晴らしなんだから好きにさせてちょうだい」

 少しずつ強く香ってくる、彼にとっては下品としか思えない香水の香りに、潮はみずからのタイミングの悪さを呪わずにはおれなかった。できることなら、絶対に顔を合わせたくない人間の一人だったから。

「あら」

 彼女が部屋から出てくる前にきびすを返して別の場所に退散しようと────どこでもよかった、彼らと顔を合わせずに済むのなら。しかし、天は潮の願いを聞き届けてはくれなかったらしい────した潮の前に、香水の匂いを強くまき散らし、年齢の割に露出が高い派手なドレスを着飾った中年の女性が姿を現した。世間一般の男性の目から見れば扇情的に映るだろうそれは、潮の目から見れば嫌悪の対象にしかならない。

「潮さん。こんなところで何をしているの。遊んでいて成績が下がりでもしたら、どうするつもり?」

「わかっていますよ。貴女方の恥になるようなことはしませんよ、オカアサン」

 感情のこもらない声で言いながら、答えを待たずに背を向けて反対方向に歩きだす潮に、忌々しげな口調で聞こえてくる声。とくに誰に聞かせるつもりも隠すつもりもないようで、その声は大きくも小さくもない。

「……まったく。生まれのせいか、可愛げのない子」

 その言葉が、潮の心の中の何よりも大切にしている聖域ともいえる部分に無遠慮に刃を突き立てた気がして、潮の眼前が一瞬赤く染まった気がした─────怒りのために。できることなら、振り返って思いつく限りの罵詈雑言を浴びせかけてやりたかったが、いまの自分の置かれている状況を考えると、それは得策ではないことに気付く。自分は何を言われても構わない。けれど、そのために誰よりも大切なかのひとを貶められるのは、絶対に避けたいことだったから。爪が食い込むほどに手を強く握り締めて、潮は何とか激情を堪えた。

 付近の壁に背をあずけながら、しばしの間をおいて平静を取り戻し、潮は再び廊下を歩き始める。自室以外の場所を不用意に歩くから、あんな会いたくない相手に出くわすことになるのだ。よけいなことはするものじゃないと思いながら、この家の中で数少ない安心できる場所のひとつである自室へと向かう。けれど、何の因果か会いたくない人物の二人目と出くわすこととなってしまった。

「おや。カワイイ弟クン二号じゃないか」

 そんなことなど微塵も思っていないだろうに、しらじらしいことを口にするのは、二十代前半の男。潮に言わせれば下衆な心根と凝り固まった選民意識────無論この場合は自分を優位の側に置いて疑いもしないのが、こういう人間の特徴だ────に彩られた性根が顔に出ていて、初めて会った時から決して仲良くはしたくないと思った相手、崇(たかし)だった。彼の母親とまったく同じ人種だ。

 彼の言葉には応えず、彼の身体を迂回するように避けて廊下を進むと、横からわざとらしいため息が聞こえてくる。

「そんなあからさまにシカトしなくてもいいじゃんかよ。三人だけの兄弟なんだしよ」

 もっとも、俺らの知らないところにまだいるかも知れないけどな。

 ぼそりと続けられた言葉には、聞こえないふりをする。潮本人に対する揶揄も含んでいるに違いないからだ。

「あの親父殿には、金と地位だけで寄ってくる女も多いだろうからなあ。結婚してようがいまいが関係なくよ。ああ、実際にいたっけか、十何年も昔だけどよ」

 ああやはり。それが言いたくて、わざわざ潮に声をかけたのだろう。普段は当人の母親と同じように、いないものとして扱っているくせに────否、自分の不利益になることをしなければ、の話だ。彼らにとって、潮の存在はみずからの利益になればよし、そうでなければ単なる厄介者という認識なのだろうから。

「……そういうそちらは、親父殿とよく似ていて、ずいぶん女性におもてになるようで」

 皮肉気な響きを隠しもせずに言ってやると、崇は下卑た笑みをその顔に浮かべた。顔の造作自体はそんなに悪くないはずなのに────これも彼の母親と同じだ────その中に宿る精神と他者を労わるということを知らない性根がその顔を歪ませていた。

「聞きましたよ、大学の学食でそちらをめぐって女生徒二人が白昼堂々キャットファイトを繰り広げたそうで。周囲に口止めして何とか学校側には知られずに済んだそうですけど、そんな不祥事を教授連や親父殿が聞いたら何と言うでしょうねえ」

 こちらがいつまでも何も知らず、戦う術すら持ち合わせていないと思うな。連中の周りにはいつでもアンテナを張り巡らせているのだ。それも、こちらから仕掛けるためのものではない。あくまでも自衛の手段としてだ。

 そんなことを知らない相手は目に見えて狼狽し始めた。まさか潮がそんな情報を握っているとは思っていなかったのだろう。

「将来の院長夫人となる方は、それ相応の女性を選ぶべきじゃないんですか、ニイサン。でなければ、こちらも恥をかかされかねませんからね」

 これまたわざとらしく告げてやると、崇は先ほどまでの余裕はどこへやら、隠す気もなさそうな舌打ちをして忌々しげな表情を浮かべて去っていく。その表情は、さすが母子というべきか、彼の母親とよく似ていた。

彼の姿が見えなくなってから、潮は今度こそ心の底から安堵の息をついた。よもや一日に二度も、陰険な言い合いをやる羽目になるとは思っていなかったからだ。あんな連中、顔を合わせるだけでも数日に一度程度で十分だというのに。あんな連中に似ていると言われるぐらいなら、「下賤な生まれ」と言われていたほうがまだマシだった。もっとも、かのひとのことを悪く言われなければ、という条件付きでだが。

そんな風に完全に気を抜いていたから、近付いてきていた人物に気付かなかった。

「お疲れさま」

 その声に、思わず身を震わせる。けれど、気をはる必要のない相手だと気付いたとたん、再び身体から力が抜ける。この家の中で唯一、潮が心を許せる相手だったからだ。

「ちょっと、話したいことがあるんだけど、僕の部屋に来てもらってもいいかな?」

 弟相手だというのに、必ず相手の心を慮って振る舞う彼に、反発するつもりなど潮にはなかった……。


 彼の部屋は、生真面目な彼らしく落ち着く色彩と調度品で彩られていて、自室の次に潮が寛げる場所だった。まだこの家に来たばかりで、自分をとりまく何もかもが敵に見えていたあの頃、何度この部屋のベッドで彼と寄り添って眠ったか知れない。それほどまでに、あの頃の潮にとってはこの家は他のどこよりも恐ろしい場所だったのだ。いまは恐ろしいとまでは思わないけれど、決して気を抜ける場所ではないことは変わってはいない。

「話って何? 兄貴」

 先刻までとは態度も口調も一変させて、ほんとうに気を許している相手にしか見せないそれで切りだすと、相手────同じ学校に通う三年生でもある次兄の翔は、彼の特徴である遠慮深げな穏やかな笑みを見せた。

「そんなかしこまったことでもないんだけどさ。ちょっと学校内の噂で聞いて」

「何を」

「お前と同じ一年に外部入学してきた…越野珠美さん? 小学生の時一緒だったって?」

「!」

 翔の口から飛び出した思いもしなかった名に、潮の胸に衝撃が走る。確かにあれだけ学内で噂になれば、この兄の耳に入らないはずもないだろうが…まさかそんな詳しい事情まで知っていようとは。

「悪いとは思ったけど、お前のクラスの顔見知りの一年に聞かせてもらった。親しかったんだって? また仲良くしたらいいじゃないか。もしかして、この家のことを知られるのを心配しているのかい?」

 眼鏡の奥の瞳に慈愛の光を宿して、翔は続ける。

「そんなんじゃ……ないよ」

 珠美のことだ、この魑魅魍魎跋扈するような家に驚きはするだろうが、自分を見る目が変わったり忌避するようなことはないだろうと思う。けれど……この家に来てからの五年間で、自分はずいぶん変わってしまった。あの、名前の通り光り輝くような生気の塊ともいえるまっすぐな心を持つ珠美を、この家の毒に当てたくはなかった。こんな、歪んでしまった自分をこれ以上見せたくはなかった。

「お前には…彼女のような存在が必要だと、僕は思うけれど……」

 崇とは違う、本気で自分を案じてくれているのがわかる表情と声だったけれど。素直に聞けない理由も、潮にはあった。

「…誰が…何が自分に必要かは、自分で決めるよ。だから、兄貴はこれ以上口出ししないでくれ」

「潮……」

 心配そうな声を背で聞きながら、ドアを開けて潮は部屋を後にした…………。




              *     *     *




 それから二日ほど経った頃。

 校内の廊下を歩いていた珠美は、曲がり角の向こう側からちょっとだけ顔を出している相手に呼び止められた。

「? あたし…ですか?」

「そう。越野…珠美さん、だよね?」

 それは見たことのないはずの恐らく先輩の男子生徒。けれど、その外見の特徴や眼鏡から、珠美は初めて会う気がしなくて……もしかして、という思いが心をよぎる。

「あ、の…もしかして」

「うん。もしかしなくてもお姉さんから聞いてるかな? 僕は三年の広崎翔。潮の兄で、君のお姉さんのクラスメイトです」

 「潮に見つかるとまずいから」と言われて、珠美は廊下を先に進む翔の後に続く。警戒心がなかった訳ではない。けれど、姉から聞いた話や他の中等部からの持ち上がりの同級生たちの情報から、この相手は信用するに足る人物に思えたのだ。だから、奈美や他の友人に伝えることもしないで、後に続いたのだ。そうして、彼に招き入れられたのは、生徒会室。

「済まないね、他に明るくて人の来ない場所を知らなかったもので」

 そう申し訳なさそうに言う彼は、外見を裏切ることなく真面目で誠実な人柄の持ち主に見えた。珠美から数脚挟んで離れた椅子に腰かけるところも、彼の紳士的な気性の一環に思えて、ほとんど無条件に珠美は彼に好感を抱いていた。

「どうしても、ひとことだけ伝えておきたくて……潮には、『勝手なことをするな』と怒られそうだけどね」

 兄貴としては情けない話だけど、と続けて、翔は苦笑する。

「君がいまの潮をどう思っているか知らないし、これから潮の内面を知って、どう思うかはわからない。だけど、潮の兄として、あいつの精神衛生を最優先して君に伝えたいことがあるんだ」

 いったい何を言われるのだろう? まさか、弟に近付くなとか?

「潮の心を……どうか、救ってやってくれ──────」



    





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2013.4.15up

突然潮の兄に呼び出された珠美。
悪い人ではないようだけれど、
彼はいったい何を言いたいのか。

背景素材「空に咲く花」さま