「…………」
時は12月の冷気をはらむ、もう夜といっても差し支えないかも知れない時間。場所は学校の昇降口を出たところの、他に誰もいない満天の星の下。そして背後には、硬く大きな幹の樹、眼前に迫るのは同じクラスの少年の顔で……。
文香はもう、何も考えられなくなってしまった。
「き……?」
名前を呼びたいのに、それ以上声が出ない。目は、これ以上ないというほどに見開いているというのに。
彼が何を考えているのかわからなくて、どう反応していいのかわからない。
「…………」
そんな中、彼の身体が動いて、顔がより一層近付いてきたような気がした。驚いて、固く目を瞑って身を硬くしてしまう。息がかかるくらい近くに彼の気配を感じるけれど、もはやパニック状態でどうしていいかわからない。
そのうちに、鼻のあたりに感じていた彼の吐息が上に上がっていく気配がして、前髪をよけられた額に、感じるやわらかく温かな何かの感触。驚いて目を開けた時には彼の顔も身体も既に離れていて、優しい笑顔を浮かべて立っている彼がそこにいた。
「…とりあえず、礼はこれで十分だよ」
礼、とは何のことだったろうと思いかけて、直前までの会話を思い出す。
「キスもしたことないようなコの初めてをいきなり奪うほど、俺も鬼畜じゃねえし」
その言葉に、文香の頬が一気に紅潮する。確かに文香は、異性とほとんど付き合ったこともないし、キスなんてもっての外だったけれど……。
「なっ えっ そっ」
テンパり過ぎて、まともな言葉が出てこない。
「ま、いまは俺を男として意識してもらえればいいかなってことで」
直也はいったい、何を言っているのだ?
「さ、帰ろうぜえ」
その後はほとんど口もきけず、文香はただ、直也の後をついていくことしかできなかった……。
直也はいったい何を考えているのだろう?
家に帰っても、食事をしても、入浴してもベッドに入っても、答えはまったく出ない。「男として意識」って…それではまるで、文香のことを好きみたいではないか。
「ないないないっ そんなことある訳ないっっ」
布団の上に手を出して、顔の上でぶんぶんと振る。まるで自分の頭の中の考えを振り払うように。
だって直也は、ただのクラスメイトで、偶然弱みを知られてしまって手伝ってくれるようになっただけで、自分のことを好きになる要素なんてどこにもないはずだし。「可愛くない」とか「素直じゃない」とか、さんざん言われてきたのに、そんな女の子を好きになるはずなどないではないか。
無理やりにそう結論付けて、文香は半ば意地で眠りの世界へと落ちていった。
* * *
その翌日の放課後。他に誰もいない教室で、またしてもふたりで一緒に作業をする文香と直也の姿があった。昨日の今日で彼を呼び出すのも躊躇われたけれど、呼ばなければ呼ばなかったで、また恨みがましく文句を言われるだけだと思って、観念してメールを送ったのだ。
そして直也は直也で、普段とまったく変わらない様子で手伝ってくれる。昨日のことはいったい何だったのかと言いたい気分だ。言ったら言ったで、寝た子を起こすような気がして、結局何も言えないけれど。
それにしても。文香にあんなことをしておいて、朝昇降口でばったり会った時もけろりと挨拶してきたり、いまもまるっきり平気な顔で作業を進めていたりで、どうしてこんなに平然としていられるのかと不思議になってくる。文香のほうは、朝もいまも、平気でなんかいられないのに。表面上には、意地でも出さないけれど。何だか理不尽なものを感じて半ば無意識に直也をにらみつけていたところで、視線を感じたのかふいに直也がこちらを向いたので驚いてしまった。
「どした? んなに見惚れるほど、俺っていい男?」
楽しそうな顔と声に、カッとなる。
「ば、バッカじゃないのっ!? 自惚れ過ぎもいいとこ!」
「なーんだ、残念」
ふいとそっぽを向いてしまった横顔に視線を感じて、顔が熱くなっていくのを止められない。夕陽で何とかごまかせないかと思うけれど、きっと直也にはお見通しで……。
文香は何とも気まずい時間を過ごしてしまった。
そして、変化があったのはその翌日のことだった。
「武田さん、ちょっといい?」
休み時間、廊下を歩いていた文香を呼び止めたのは、別のクラスの女子だった。ほとんど口をきいたことはないが、一組のクラス委員長である彼女とは、委員会などで何度か顔を合わせたことがあって…確か、浅倉という名だったはずだ。
「はい、何でしょう?」
「まどろっこしいことは嫌いだから単刀直入に聞くけど…」
顔立ちからしてハッキリしている彼女は、しっかりはっきりとした口調で口を開いた。
「武田さんて、同じ五組の木戸くんと付き合ってるの?」
その言葉を聞いた瞬間、文香の頭の中が真っ白になった。周囲から沸き起こった歓声や驚きの声もそれに拍車をかけていたといえよう。何しろ、声をかけられた場所は、よりにもよって文香と直也のホームともいえる五組の教室の前だったのだから。
「えっ なっ ええっ!?」
「だって、遅くまで残って作業してる時、木戸くんも一緒に手伝ってて、よくふたりっきりでいるじゃない。木戸くんはクラス委員でもないのに、そうでも考えなきゃ手伝う理由もないでしょう?」
あなたたちは中学から同じって訳でもないんだし。付け足すように続けられた彼女の言葉に、文香は彼女と直也が同じ中学出身であることを思い出した。
もしかして、彼女は木戸のことを…?
そう思いかけた文香の思考は、前から横から背後からひっきりなしにかけられる声に途切れさせられてしまった。
「なに文香、マジで木戸と付き合ってんの!?」
「何だよ、最近木戸が放課後の付き合い悪くなったと思ってたら、そういうことだったんかよっ」
「うっそー、全然気付かなかったー、きっかけは何!?」
「ちょっと待ってよ、あたしたちは別にそんな関係じゃ…!」
「よっ ご両人っ いつから付き合ってんだよっ!?」
…「ご両人」? ついさっきまで、この場には文香しかいなかったはずだが…? 恐る恐る振り返ると、常より苛立っているよう
な表情を浮かべている直也が教室から飛び出してくるのが目に入った。文香のほうを見てはいるが、彼の視線は文香を通り越して、浅倉だけを見ているように見えた。
「浅倉、お前人のクラスに来てあることないこと言ってんじゃねえよ!」
「きゃ…っ!」
そのまま浅倉の腕を取って、どこかへと引っ張っていく。文香は何も言えないまま、二人を見送ることしかできなかった。
「え、何、どういうこと?」
「さあ…でも木戸、何であんな怒ってるみたいなの?」
「浅倉ってあれだろ? 中学の卒業式で木戸に告ったって奴」
「そー。あいつそん時はっきり断ったって言ってたのに、まだ諦めてなかったんか」
「一途と思うべきか、ストーカーめいてて怖いと思うべきか、意見が分かれるところだな」
これはいったい…どういうことなのだろう? 直也とのことをバラされて焦ったけれど、あれはもしかして浅倉の嫉妬からされた暴露だったのだろうか?
「文香、大丈夫?」
「何か、災難だったねー」
横から声をかけてくるのは、中学時代から親しくしている真奈美と和恵。二人の顔を見たとたん冷静になって、文香は普段と変わらぬ笑顔を見せた。
「うん、ちょっとびっくりしたけど、大丈夫よー」
「で? さっき浅倉さんが言ってたのってホントなの?」
「え?」
「木戸と付き合ってるって話よ」
思わぬ言葉につい先日の、目前に迫った直也の顔が脳裏によみがえって胸が高鳴るが、何とか表には出さずにつとめる。
「そんな訳ないじゃない。木戸は、たまたま放課後遅くまで残ってた時に手伝ってくれただけで、そんな関係じゃないわよ」
真奈美も和恵も文香の弱みをまるで知らないので、適当な言い訳をあっさり信じてくれたようだ。
「そうよねえ、文香と木戸じゃ、大して接点ないもんねえ」
「結局、浅倉の嫉妬からくる独断と偏見かよ」
「恋に狂った女はこええなー」
「…………」
そのまま、授業の開始を報せるチャイムが鳴り響いたので、皆はぞろぞろと教室に入っていくが、直也は結局その授業時間以内に戻ってはこなかった。恐らく、彼に必死で宥められているであろう浅倉も同じだろうと安易に想像がついた。
それにしてもと思う。同じようなクラス委員とはいえ、クラスも全然違う浅倉が、文香と同じ日に同じように残っているとは思えないのに、どうして直也が一緒にいることを知っていたのだろう。あの口ぶりだと、ふたりだけで残っているところを何度も見られていたとしか思えない。もしかして、直也と一緒に帰りたくて、彼がいつ帰るのか見ていた…とか? もしそれがほんとうだとすると、さっき男子の誰かが言っていたように少々怖い気もしないでもないが、そこまで一途に直也を想っていたのだとすると……一概に、ただ怖いと切り捨てることはできない気がする。だって、文香はまだ、そこまで想えるほど誰かを好きになったことがないから。そんな人間に、浅倉の想いを笑う資格はないように思うのだ。
結局、直也が戻ってきたのはその授業が終わって少ししてからのことで、何となく疲れている表情を浮かべているように、文香には思えた。友人であるクラスメイトたちの質問に深いことは何も語らず、当たり障りのない言葉だけを口にしている直也と目が合ったとたん、文香はとっさに目をそらしてしまって……どうしてかは自分でもわからないのに、直也の顔を見続ける勇気が出なかったのだ。
その後、一組にいる同じ中学だった生徒から、浅倉が件の授業時間の後「気分が悪い」と言って早退したことを知った。それを聞いて、文香の胸がずきりと痛んだ。浅倉とはとくに親しくも何もなかったけれど、彼女の負ったであろう心の傷を思うと、何だかいたたまれなくて…。直也と、このままでいていいはずがないと、思えてきてしまうのだ。
だから、その日の夜、自室の床にぺたりと座り込んで、携帯に登録してある一人の人物の番号に電話をかけた。
『……もしもし?』
コール三回ほどで出た相手の声は落ち着いていて、一緒に聞こえてくるテレビ番組のものらしい声からして自宅にいることをうかがわせた。
「もしもし、木戸? 私。武田だけど」
『ああ、ディスプレイでわかってるよ。…どうした?』
そう唐突に訊かれてしまうと、覚悟していたつもりなのに言葉が出てこない。何とか自分を奮い立たせて、懸命に言葉を紡ぐ。
「今日のことなんだけど」
とたんに、言いづらそうになる直也の声。
『あ、ああ…武田にはほとんど関係ないことだったのに、巻き込んじまって悪かった。あの後、クラスの連中に変なこと言われたりしなかったか?』
「あ、それは平気。変に慌てたりしないで普通に答えれば、みんな変な風に勘ぐったりしてこないし」
『だよな、堂々としてれば案外そんなもんだ。……浅倉も、もうお前に変なこと言ってこないと思うから。安心してくれ』
「…うん…」
ふと横たわる、奇妙な沈黙。
「……それでね。私、真奈美と和恵…私の友達、同じクラスだしもちろん知ってるよね?」
『ああ』
「二人にね、ほんとうは暗いとことかダメだってこと、正直に話したの。二人には、『何でいままで黙ってたの!』って叱られたけど。木戸には偶然知られて、それで一緒にいてくれたんだってことも、話したの」
『…いいのか? 言いたくないことだったんじゃないのか?』
「うん…でも、仲のいい友達にまで意地はっててもしょうがないなって思って。そしたら、二人とも『これからはあたしたちが一緒に手伝ってあげるから!』って」
『そ、か…じゃあ俺は、誤解も招く恐れもあるし、もう一緒にいなくても大丈夫だな』
直也の声がどことなく淋しそうに聞こえるのは、気のせいだろうか。
「うん…いままで、ほんとうにありがとうね。木戸のおかげで、あたしずいぶん助かったんだよ、ホントだよ」
『いや、俺大したことしてないし』
「そのうちに、絶対何かお礼するから」
『気にすんなって、そんなこと』
「ううん、それじゃあたしの気が済まないから」
『それはともかくとして、よかったじゃん。友達ともこれまで以上に仲良くなれたんだろ?』
「うん。全部、木戸のおかげだよ」
『買い被り過ぎだって。んじゃ、もうこうして電話やメールすることもなくなるな。俺の番号とかメルアドは、消してくれて構わないから』
言いながら、照れくさそうに笑っている気配。
「……うん。そっちも、あたしの消していいよ。また変に誤解されたら困るでしょ」
『…………』
ふと微妙に長い沈黙がふたりの間に落ちる。
「それじゃ、また学校で。ホントにいままでありがとうね」
『いや…じゃ、また学校で』
それだけ言って、通話は切れた。携帯を閉じた瞬間、えもいわれぬ淋しさが文香の胸に去来する。理由なんて、文香にもわからないのに。
なんでかな……。木戸とは、ただのクラスメイトに戻っただけなのに。
自分でもどうしようもできない感情を振り払うように、文香はベッドの上にぽん…と携帯を放り投げた。
* * *
それから。直也とは、ほんとうにただのクラスメイトに戻って。放課後残って作業をする時は、友人の真奈美と和恵が手伝ってくれて、変に意識することもなく日々が過ぎていった。
「しっかし、文香って結構めんどくさいことやってたのねえ」
「先生も人使い荒いしさ。もっと早く言ってくれてれば、もっと早く手伝ってあげられたのに」
「うん…ごめんね」
もう、それしか言うことができない。
「だけど木戸もいい奴だったのねえ。あ、もちろん元からいい奴なのは知ってたけど、思ってたのよりずっとって意味よ?」
「そうよねえ。いくら偶然文香の弱点を知っちゃったからって、友達でもないのにほとんど無償で手伝ってくれるなんて」
完全に無償、という訳にはいかなかったけれど。文香の脳裏に、以前額にキスをされた時の記憶がよみがえる。
「あーっ 文香、顔赤いっ やっぱり木戸と何かあったんじゃないのー?」
「ねー、男女がふたりっきりで教室に残ってて、ホントに何もないってのも怪しいわよねーっっ」
「な、ホントに何もないったらっ!!」
顔の前で手をぶんぶんと振り回して、文香は懸命に否定する。
「それより、早く終わらせてさっさと帰りましょーっ」
「あー、ごまかしたー」
時々そうやってからかわれたりもするけれども、気心の知れた友人たちとの作業は楽しくて、人数の違いもあってかあっという間に終わってしまった。
「やー、終わった終わったー。さ、帰ろー」
「すごいね、まだそんなに遅くなってないのに、もう真っ暗。これじゃ、文香も怖かったでしょ」
「秋の初めのうちはまだそんなに暗くなかったし、秋が深まってきてからは木戸がいてくれたから、そんなには…」
「ほーんと、木戸さまさまだねー」
「結果、あたしたちも手伝えるようになったし、浅倉さんの誤解もそう迷惑でもなかったかもね」
「そう…かもね」
親しい友人たちに囲まれて、心は暖かいはずなのに。文香の内心では、何故か隙間風にも似たものが吹き続けていた…………。
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