それから、時間は緩やかに過ぎて。
「…………」
クラス全員分のプリントを持った文香が、教室に戻ろうとして廊下を歩いていた時。別のクラスの男子がその横を駆け抜けていき、その拍子に巻き起こった小さな風で、一番上に載っていたプリントが舞い上がって床に落ちた。
「…っ」
文香が何とかして拾おうとしかけたところで、誰かが先に拾って元の場所に戻してくれる。
「あっ すみません、ありがとう……」
礼を言いながら相手の顔を見た瞬間、文香の動きが止まる。その目前に立っていた相手は、誰でもない直也だったからだ。
「まーたセンセに好き勝手に使われてんのか? お疲れさん」
直也が苦笑混じりで言ったその時、直也の後ろから誰かが小走りで近寄ってくる。ふたりと同じクラスで、文香と同じくクラス委員を務めている長沢だった。
「武田、ごめん! 言ってくれれば俺が行ったのに」
「あ、違うの。たまたま職員室に行ったら、先生に頼まれちゃって」
「後は俺が持ってくから。ホント、悪かったな」
やはり長沢はいい人だなと文香が思っている間に、直也はいつの間にかきびすを返して教室へと戻っていってしまっていた。文香にひとことも告げることなく。その事実が、文香の心に一抹の淋しさを感じさせる。
「武田?」
「あ、何でもないわ」
馬鹿みたい、私。もう、木戸とは関係なくなっちゃったってのに。
そう自分自身を嘲笑うかのように思ってはみるが、携帯に登録したままの直也の電話番号とメルアドを未だに消せていないことは、まぎれもない事実で……。「消していい」と直也本人に言われたにも関わらず、どうしても消せなかったのだ。もう、自分からかけることも直也からかかってくることもないというのに…。
「……だな」
ぼうっと直也のことばかり考えていたから、長沢が何か言っていることに気付くのが遅れた。
「えっ 何? ごめんなさい、ちょっとぼーっとしちゃって」
慌てて謝ると、プリントを文香から受け取った長沢が苦笑い。
「いや、大したことはないんだけど、今学期ももう終わりだなって。ついでにクリスマスも近いけど、武田は何か予定でも入ってるのか?」
「別に何も…終業式の帰りに友達とお茶や買い物でもして、家でいつもより豪華な食事やケーキを食べるくらいね。長沢くんは?」
「俺も似たようなもんだけど…クリスマスイブと次の日の午前中は、監督が練習を休みにしてくれたんだよな。けど、彼女がいなきゃ何の意味もねーっつの!」
冗談めかして言う長沢が可笑しくて、ついクスクスと笑ってしまう。
「まあ。クリスマスなんて、子どものうちはともかく、成長しちゃった後は独り身には淋しいものだものねー」
「そ、それでさ、よかったら…」
「文香ーっ」
教室の中から、友人の真奈美と和恵が呼んでいる声が耳に入った。
「なーにー?」
「ごめん、ちょっとここ教えてくれないー?」
「ちょっと待って、いま行くから。…あ、長沢くん、いま何か言いかけなかった?」
「いや、大したことじゃないからいいんだ。それより、友達が呼んでるんだろ、早く行ってやれよ」
「あ、うん。じゃ。それ後お願い、ホントにありがとう」
それだけ言って、文香は教室に戻ってしまったから。後に残された長沢が、にやにや笑いを浮かべた友人たちに囲まれて、非常に居心地の悪い思いをしていたらしいことに気付く由もなかった。
「な、何だよ、お前らっ」
「えー? 俺ら何も言ってねえよ〜?」
そして、その放課後。廊下をひとり歩いていた文香は、サッカー部の練習着姿の長沢とばったり出会った。
「長沢くん、どうしたの?」
「明日までの課題があるのに、ノート教室に忘れちまったんだよ〜。今日終わらせなきゃもう間に合わないってのに」
「あらあら。大変ね、頑張ってね」
そう言って、軽く手を振ってすれ違おうとした文香は、名前を呼ばれて思わずそちらを向く。
「どうしたの?」
「あ、あのさ…昼間言えなかったから、諦めようかとも思ったんだけど……後悔すんの嫌だから、やっぱ言っとく。クリスマスイブさ、都合のいい時間でいいから、俺と過ごしてくんねえっ!?」
「え─────」
文香の頭の中が、一瞬で真っ白になった…………。
そして。
「えーっ 長沢に告られたーっ!?」
いつもと同じように、一緒に教室に残っていた友人の真奈美が素っ頓狂な声を上げた。
「そ、そんなんじゃないわよっ ただ、『クリスマスイブに一緒にいられないか』って…」
「それを世の中じゃ『告られた』っていうのよっ 他の日ならともかく、よりにもよってクリスマスイブよっ!? そういう意味に決まってんじゃんっ そんで? あんたは何て答えたのっ?」
「……少し、考えさせてって…」
「えー、何でよーっ 長沢なんて、スポーツも万能だし、頭もそこそこいいし、背も高いし、何より顔もそこそこイケてんじゃんっ」
「あんたの一番大事なポイントは顔な訳?」
「たりまえじゃん、顔は重要でしょっ!?」
文香と共に、これには和恵も苦笑いだ。
「でもさ」
穏やかな和恵の声に、文香も真奈美もそちらを向く。
「文香も決して長沢のことが嫌いな訳じゃないでしょ?」
「う、うん…でも、今までそんな風に見たことなんてなかったから、何だかびっくりしちゃって……」
そう。いままで、クラスメイトとして、同じクラス委員として、友人関係にも似たいい関係を築いていたからこそ、長沢にそんな風に見られているなんて考えたこともなかった。だから、戸惑っているというのが正解かも知れない。
「もしかして……木戸のことが気になってるとか?」
和恵の言葉に、文香は思わず俯き気味だった顔を上げる。自分でもわかっていなかったモヤモヤの正体を当てられたような気がして。…けれど。
「……わかんない…」
そういえば、クリスマスプレゼントも兼ねてお礼をすると言ったのに、そのことも有耶無耶になったままだ。
「文香ってば、浅倉さんのことがあって以来、木戸とほとんど話もしなくなっちゃったでしょ。だから、何となく気になってたのよね。いまは放課後はほとんどあたしたちと一緒だし、木戸とちゃんと納得のいく離れ方をしなかったんじゃないかって
「そういえば、ふたりとも必要最低限のことを話してるところしか見かけなくなっちゃったわよね。前はまだそれなりに話とかもしてたみたいなのに」
それまで長沢のことでエキサイトしていた真奈美も、冷静になったようで同意を示してくる。
「納得のいく離れ方なんて……もともと、友達でも何でもなかったのに…………」
また訳もわからず沈んでいってしまう心のまま、文香は俯いてしまったから。自分の頭上で、真奈美と和恵が困ったような顔をしながら小さくため息をついたことにも気付かなかった。
そうして、その晩よく考えた末に、やはり長沢をそういう風には見られないと結論を出して、他の誰もいないところで丁重に断りの返事をしたのは、その翌日のこと……。
* * *
そして、クリスマスイブ。終業式も終わって、ホームルームも終わった後は、皆それぞれに予定があるらしく散り散りに教室を出ていく。文香も、真奈美や和恵と一緒にわりと早めに教室を後にする。まだ残っている長沢と顔を合わせるのが、何となく気まずかったからだ。
「……木戸さ。他のクラスの友達とカラオケだか行くってさっき話してるのが聞こえたわ。彼女いない者同士で大騒ぎするんだってさ」
いつの間に情報を仕入れてきたのか、歩いている道すがら、真奈美が呟くように言った。
「そう……」
友達と過ごすのなら、既に文香の入る余地はないのかも知れない。そうでなくても、クリスマスプレゼントも用意していないのだ、それを口実に使えもしない。
「文香。真面目な話、あんたこのままでいいの? このまま何もしなかったら、年が明けて新学期が始まってから木戸に会っても、もう二度と前みたいな関係に戻れないかも知れないのよ? あたしから見た感じ、木戸はあんたに好意を持ってるように見えたけど、あんた自身は全然思い当たる節もなかったっていうの?」
和恵の言葉に、脳裏にいつかの光景がよみがえる。12月の暗い空の下、樹の幹に背中を押し付けられて直也の顔が迫ってきた、あの時のことだ。文香の顔が、一瞬にして真っ赤に染まる。
「えっ 何か、思い当たる節があるのっ!?」
嬉々として問いかけてくる真奈美を手で制して、和恵はなおも続ける。
「このまま何もしなかったら、あんた絶対後悔することになるわよ? それでもいいの? 一度くらい、浅倉さんみたいに他の何も誰も気にしないでぶつかってみたら!?」
「!」
「しつこい女」「ストーカー」と言われるのも承知で、直也への想いだけを胸に正直にぶつかってきた彼女。その後は噂でしか聞いていないが、あの当日に早退した以外は、誰に何を言われようと一日も休まず前を向いて学校に来続けていたという。彼女の行動は、学年中でもちきりになるくらいの噂になったけれど、それでも。文香は素直に、その純粋さが眩しかった……。
そして、胸に去来するのは、かつて直也に抱いていた思い。自分でも、その正体はわからないままだけど、けれど。
「─────ただ…会って、話したいっていうのは……理由にはならないかなあ…………」
街中を賑わすクリスマスソングの中、ぽつりと呟いた文香の言葉は、真奈美と和恵の耳にちゃんと届いたらしい。二人が、満面の笑顔を浮かべてくる。
「理由なんて、理屈なんて、後からついてくるものよっ」
「あんたがそうしたいって思ったんなら、素直に従っちゃって全然オッケーよっ」
親指を立てて声援を送ってくれる親友たちに、文香の胸が熱くなる。
「あたし…なら、行ってくる!」
「行け行けーっ」
「何がどうなっても、あたしたちはあんたの味方だからねーっっ」
二人の励ましを背に、文香はひとり別の方向へと走りだす。どこへ行けばいいかなんて、自分でもわからなかったけれど。
「…っ」
そうして。少し静かなビルの陰に入ったところで、携帯を取り出して、登録してあった電話番号を呼び出す。どれだけ消さなきゃ
と思っても、決して消すことのできなかったただひとりの相手の番号を。ディスプレイに表示された名前のまま、意を決してオンフックボタンを押す。もう、後戻りはできない。コール五回ほどで、相手が出た。
『もしもし?』
「あっ 木戸? ごめん、もうかけないつもりだったのにかけちゃって……これで最後にするから、今度だけ」
見逃して。そう続けようとした文香は、既に相手の携帯から自分の番号その他が消されている可能性に思い至って、慌てて名乗る言葉と弁解を口にしようとした。けれど。
「あっ 名乗らなきゃわからないわよね、わ、私、た…」
『武田だろ?』
文香が名乗るより、直也がその名を口にするほうが早かった。
「え…どして……だって、メモリー消したんじゃ…」
それ以上言葉にならない文香のそれを引き受けるように、直也がどこか照れ臭そうな声で続ける。
『……消そうと思っても…どうしても……消せなかったんだよ』
それって…もしかして……?
『ちょっと待ってくれな。…悪い、俺やっぱ今日は抜ける!』
それだけ言って、直也が歩き出した気配。その背後からは、複数の低い声のブーイングが聞こえてくるが、直也は気にしていないようだった。
『武田、いまどこにいるんだ?』
「え、えっと、Y町の商店街の近くって言ったらわかる? そこの、ファストフード店のそば…」
『最近できたアイスクリーム屋の近くか? 女子の間で評判になってた』
「そ、そう……」
『そのへんじゃ賑やか過ぎるな……俺いま、駅前のほうにいるんだけど、Y町のほうから駅に向かう途中に公園あるの知ってるか? あんまデカくないところだけど』
「うん、知ってる」
『そこで落ち合おうぜ、それとも寒いから嫌か?』
「ううん、平気。何でか知らないけど、いまあたし全然寒さを感じないの」
『ならいいけど…俺のほうが距離あるし、多分待たせちまうだろうけど、できるだけ急いで行くから。あったかい飲み物でも飲んで、風邪ひかないように待っててくれ。んじゃ、また後で!』
言うだけ言って、電話は切れた。通話が切れたことを示す電子音を聞きながら、文香の頭の中はもうクエスチョンマークでいっぱいだ。
…何で……どうして…? 「消していい」って言ったのに、私の番号を消してなかったって、木戸も私と同じようなこと思ってたって思っていいの…? 私、いまだに自分の気持ちもわからないのに。
そんなことを思っていた文香の脳裏に、よみがえるのは友人たちの声。
『理由なんて、理屈なんて、後からついてくるものよっ』
『あんたがそうしたいって思ったんなら、素直に従っちゃって全然オッケーよっ』
理由なんて…なくてもよいのだろうか。会いたいと…ただ思っただけで、会いに行っても……いいのだろうか…?
ならばと思う。
「なら…あたしは……」
いますごく…木戸に会いたい───────。
それだけ心の中で呟いてから、文香はひとり、目的地に向かって歩き始めた。
* * *
直也が公園に現れたのは、文香が到着してから10分も経たない頃だった。冬だというのに、額に汗まで滲ませていたので、驚いてしまう。
「あ…っ ごめんね、友達と一緒だったんでしょうに、急に呼び出しちゃってっ」
「いや…単に暇だったから誘いに乗っただけで、大して乗り気でもなかったからいいんだ」
「喉渇いちゃったでしょ、あたし飲み物これから買うところだったから、奢らせてっ 木戸ってば、何だかんだ言って前の時のお礼も要求してこないから、私もそれに甘えて何も用意してなくて…重ね重ね、ごめんなさいっ」
そんな風に、文香はテンパってしまったので、直也がその直後呟いた言葉には気付かなかった。
「いや…今日のこの日に電話してきてくれただけで、俺にはすげー嬉しかったから」
ふたりで並んでベンチに腰掛けながら、しばし飲み物で喉を潤す。
「あ、あの…そのね。急に電話しといて何なんだけど、実は理由なんてないの」
「へ?」
「何を話そうとか思ってた訳でもなくて、ただ、木戸の顔が見たかったっていうか…話がしたかったっていうか……ああ、何言ってるかわかんないわよねっ でも私自身でも自分の気持ちがわかんないんだもの、何て伝えていいかなんて、もっとわからないのよっっ」
もう、直也は呆れ果てていることだろうと思う。こんな訳のわからない理由でせっかく友達と遊びに行っていたのだろうに急に呼び出されて、いい迷惑だろうと文香も思う。けれど、それに返った言葉は、文香の想像の範疇を越えていて……。
「いや……俺も、武田ともう一度話したいと…会いたいと思っていたよ」
「え?」
「『友達とより仲良くなれてよかったじゃん』なんて、確かに思ってたけど、半分は嘘っていうか…一緒にいてくれるなら俺じゃなくてもいいのかよって、俺だけが武田の弱いとこ知ってたのに他の奴にも教えたのかと思ったら、何か面白くなくて。半ばわざと、武田のそばに寄らないように…話しかけないようにしてたっていうか。サイテーだよな、俺。女の子が怖い思いしないで済むんなら、それはそれでいいことなのに」
そんな風に…思ってくれていたのか……?
「私…木戸は、私のことなんてもうどうでもいいかと思ってた。だから、長沢くんに誘われた時も、誘いに乗っちゃおうかなってちょっと思っちゃったけど、やっぱりできなくて……。長沢くんのことをそういう風に見られないっていうのもあるけど、頭のどこかで…」
文香がそこまで言ったところで、隣に座っていた直也が勢いよく立ち上がった。
「長沢に誘われた!? いつだよ、今日か明日かっ」
「き、今日だけど…ちゃんとその翌日には断ったわよ。変に気をもたせちゃ失礼だと思って……」
それを聞いた直也が、深いため息をつきながら再びベンチに腰を下ろす。
「…悪い。武田が誰と付き合おうが、俺には関係ないことだってのに」
「は、話は最後まで聞いてよっ …『長沢くんのことをそういう風に見られないっていうのもあるけど、頭のどこかで木戸の顔がちらついて、どうしてもできなかった』って……言おうと思ったのに」
最後のほうはもう恥ずかしくて、直也の反応なんてとても見られなかったけれど。これだけはちゃんと言わなければならないと思い、文香は最後まで言い切った。
「それって……」
「だけどねっ」
ガバッと顔を上げて、まっすぐに直也の顔を見る。
「でも自分でも、その理由がわからないのっ 何でそう思ったのか、何でいま木戸に会いたいと思ったのか、私が木戸をどう思ってるのか。全っ然っ わからないのっ!」
いまの自分は、きっと情けない顔をしていると思う。だって、さっきまでは真剣味を帯びていた直也の表情から、少しずつ気が抜けていっているように見えたから。きっと、直也も呆れているのだろう。文香自身でさえ自分が何を言っているのか、理解しきれていないのだから、他人ならな
おさらだろう。
「──────理由がなきゃ、一緒にいちゃいけないのか?」
「え?」
「理由がわからないなら…それを知るために一緒にいるってのもありなんじゃないのか?」
「なに…それ……」
一緒にいたい理由がわからないから一緒にいられないと思ったのに、それを知るために一緒にいる…? そんなこと、許されるのだろうか。
「理由がわからないんなら、わかるまで一緒にいてみりゃいいんじゃねえの? そうすりゃ、いつか自分の気持ちだってわかるだろ」
「え…だって……」
「嫌か?」
文香は反射的に首を横に振る。嫌だなんて、そんなことある訳がない。
「あたしはいいけど…木戸は困るんじゃないの? 浅倉さんの時だって、誤解されたくない人がいるから急いで対処したんじゃないの…?」
単純にそう思って、文香は訊いたのだけど。直也はわずかに頬を赤らめて、どことなく苛ついているような様子で、頭をみずからの頭をガリガリとかいた。
「あー…あれはそのー……何つーか、ほれっ あれだよ、あれっ」
「わかんないわよっ」
文香がそう答えた瞬間、直也はため息をついて文香のほうをちらりと見た。文香の胸が、一瞬高鳴る。
「俺が誤解されたくなかったのは─────お前だよ」
「……なんで?」
真剣にわからなかったので文香は訊いたのだけれど、それを聞いた直也の脱力具合は半端ではなかった。
「えっ なに、どういう意味なのっ!?」
「いや、いいや、俺もうまく説明できないから……」
「えーっ」
不満に感じる心のままに、文香は頬をふくらませるが、直也は脱力しながらも楽しそうな笑みを浮かべて、こちらを見た。
「…ま。お互い、その理由を知るために一緒にいてみるってのもいいんじゃね?」
「…………うん……」
そうして。
「木戸ー、こっちの資料一枚ずつ取って、ホチキスでまとめといてくれない?」
「了ー解っ」
年が明けて、三学期も始まっていくらか経った頃。以前のように、ふたりで居残りをする文香と直也の姿があった。ちなみにクラスの皆も薄々気付いているようだが、何も言わないでくれているので、直也はまだしも文香はまだ何も気付いていない。
「なー、武田ー」
「なーに?」
「今度の週末さあ、映画観にいかねー?」
「…ジャンルはなに?」
「ホラー」
「行かないっっ」
「うそうそ、冗談だってのっ ちゃんと、コメディーだって」
「……なら、行ってもいいけど…」
─────文香が『理由』の正体を知るのには、あとほんの少しだけ時間がかかりそうな頃の、夕刻のこと…………。
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