──────相手がどうしてあんなことを言い出したのか……わからない。
「…………」
教えられたばかりの電話番号を眺めながら、文香は茫然と思う。
直也には、文香に親切にして得なことなど何もないのに。どうして、あんなことを言い出したのだろう? いままでだって、特に個人的に親しくしたことなどないのに。
「なりゆきで言っちゃった…ただの気まぐれよね、きっと」
呟きながら、携帯のディスプレイに表示された電話番号を消して、そっと携帯をポケットにしまいこんだ…。
それから二日後。昼休み、友人と廊下を歩いていた文香は、直也が隣のクラスの女子と話しているところを見かけた。直也と同じ中学出身で、以前から仲良くしているらしい女子だ。同じく中学の頃から付き合っている同級生の彼氏がいるとかで、直也とそういう噂になったことはないが。
「いいじゃん、今日の帰り寄ってこうよー。亜矢や健司も来るって言ってるしさあ」
「そうだなー、行ってみるか」
ほら。直也は直也で忙しいのだから、文香の都合で無理を言ってはいけない。ほんとうは今日も担任教師に頼まれた用事があるのだけれど、友人たちとどこか行こうとしているらしい直也を呼びつけることなどできない。
そんなことを考えながら無言になっていた文香に気付いたらしく、友人が声をかけてくる。
「文香? どうしたの?」
「う、ううん、何でもないわ」
笑顔でそれだけ答えてから、教室へと入っていった……。
放課後の教室。教師に頼まれたアンケートの集計を進めながら、文香はため息をつく。窓の外は、既に暗くなりかけていて、真っ暗になるのも時間の問題だろう。以前、暗闇の中で直也と偶然会った時からそんなに経っていないというのに、だ。
直也はいまごろ、友人たちと遊んでいることだろう。けれど、それでいいのだ。もともと親しくもないのに、自分のために彼の貴重な友人たちとの時間を割かせる訳にはいかないのだから。直也にしてみても、あの時はとっさに親切心から提案してしまっただけで、実際に呼び出されたりしたら面倒に思うに決まっている。だから、これでいいのだ。
「さ、て…もう少しだから、一気に終わらせちゃおうっと…」
そう呟きながら再び前に向き直ったところで、教室の外、少し離れたところにある階段のほうから、ガタっ!と響く大きな音。
「え…?」
驚きに思わず身をすくませる文香の耳に届くのは、こちらに向かって走ってくるらしい勢いのよい物音。心当たりなど、もちろんない。そしてそれは、気のせいかこの教室を目指しているように思えて……。
な…なにっ!?
恐怖が、心を満たし始める。仮に忘れ物や急ぎの用の人間だとしても、こんなすさまじい音を立てて走ってくるはずはない。根拠はないが、何となく自分の元に向かってきているような気がして、慌てて椅子から立ち上がって歩き出そうとするが────どこへ行こうとしているかなんて、文香自身にもわからなかったが、とにかく隠れようと思ったのだ────椅子の足につまずいて、バランスを崩して倒れかける。その間にも、近付いてくる足
音。予想通りというか何というか、足音はやはりこの教室の手前で減速しているように聞こえる。
「…っ!」
とっさに頭を両手で抱え、うずくまってしまう。涙が勝手に目尻に浮かぶ。
や…やだ、誰かっ!!
内心で思わず叫んだ瞬間、誰かが教室に入ってくる気配。怖くて目が開けられない文香の耳に、歩み寄ってくる足音が聞こえてきて…文香の机の前でぴたりと止まる。誰かが、大きく息を吸う気配。けれど、聞こえてきた声は予想もしていなかった人物の声で……。
「…言えって言ったのに、何で独りで残ってんだよ!?」
「!?」
それは、聞き慣れた────といってもあくまでクラスメートとしての範囲内でだが────直也の声。かなり、苛立っているように聞こえる。
「外で偶然会ったダチに聞くまで、残ってるなんて知りもしなかったぞ、何で黙ってたんだよ!?」
「だ…だって、木戸は友達と遊びに行く約束してるみたいだったし……大して親しくもないあたしが邪魔したら悪いと思って…っ」
そう答えると、直也はますます不機嫌そうに眉をしかめた。
「…その結果、独りで怖いの我慢して半泣きってか? バッカじゃねえの」
これにはさすがに文香もムッときた。
「こ、これは、あんたがすごい勢いで走ってくるからびっくりしたからで…っ べ、別に泣きながら作業してた訳じゃないものっ」
うずくまったままで反論すると、直也の指先が文香の額をつんっとつついた。
「んなちょっとしたことですぐ泣き出すほどだってことには変わんねーだろうが」
それを言われてしまうと、もう返す言葉もない。
「あのな。前にも言った通り、女の子独りで怖いのを我慢させるほうが、俺は嫌だっての。遊んでたその時にまさにそんな状態だったって後から聞いて、俺がその時どれだけ悔やむか考えなかったってのか?」
「…っ」
そんなこと、考えたこともなかった。
「だって…だって……」
もう何を言っていいのかわからなくなって黙り込んでしまった文香に、直也が手を差し伸べて立ち上がらせてくれる。けれど、多少腰がどうかしてしまったのか、まっすぐ立つことができない。
「見ろ、強がってても腰がくだけてんじゃねえか」
「ち、違うもの、これはっ」
「説得力ねーぞー」
けらけらと直也が笑うのが、悔しくて仕方ない。
「とにかく。手伝うから、さっさか終わらせて帰ろうぜー」
そう言われてしまうと文香ももう反論できなくて、再び自分の椅子に腰を下ろす。
「…それでわざわざ…戻ってきたの? 友達と遊んでたんでしょうに」
シャープペンシルを持ち直し、文香は顔を上げないままで訊ねる。
「いいんだよ、メインの用は済んでたし、後はばらけても問題ない状態だったし」
「で、この票数をまとめればいいのか?」と訊きながら、直也が一枚の紙を取り上げる。それに短く答えてから、文香は再び口を開く。
「……あんたって…馬鹿みたい」
「何をうっ!?」
「でも……ありがとう───────」
とても顔を見て言う勇気はなくて、下を向いたままぽつりと呟いた言葉は、直也の耳にちゃんと届いたらしい。頭上で小さく笑う気配がしたと思ったとたん、突然頭を勢いよく撫でられて驚いてしまった。
「なっ 何…っ」
「ほら。やっぱ、女の子は素直になったほうが可愛いって。俺言っただろー?」
何の邪気も下心も感じさせない爽やかな笑顔に、文香の胸が一瞬高鳴って。そのまま、顔を上げられなくなってしまった。いまの自分の顔は、きっと真っ赤になっているに違いないから。そんな顔を、直也に見せるのは恥ずかし過ぎた。
「そっ そんなことどうでもいいから、早くそれ終わらせちゃってよ…」
もはや、照れ隠しの言葉さえまともに出てこない。
「へいへーい、わっかりやしたー」
直也の楽しそうな声だけが、静かな教室内に響き渡った。
「なあ、武田ってさ、彼氏とか好きな奴とかいねーの?」
帰り際、昇降口を出たところで、直也が突然言い出した。
「な…何をいきなり……」
「あ、変な意味じゃなくてさ。うちのガッコに彼氏とかいるんなら、そいつに頼んで一緒にいてもらうもんじゃねーのかな、と思って。まあ、もし違うガッコの奴だったら無理だろうけどさ」
「いないわよ、そんなの」
好きな相手だったら、中学の時にはいた。同じクラスの、気が合う友人の一人だった。けれど、彼とは違う高校に行くことが決まっていたから、卒業式の後に告白しようと思っていたのだけれど。文香が姿の見えない彼の姿を捜していたその時、「最後だから、玉砕覚悟で行ったら向こうもそう思っててくれたらしくて」と彼が連れてきたのは、別のクラスの、学年の中でも人気の高い女生徒だった……。
またあんな想いをするくらいなら……もう、誰も好きにならなくていい。文香がそう思うには、十分な出来事だった。それ以来、誰のことも異性として見ることもなく、独りで突っ走ってきたのだ。そしてその気持ちは、いまでも変わっていない。
「何でー。せっかくの高校生活、もったいなくね?」
「放っといてよ。私はそんなのいなくても、十分人生を楽しんでるんだから」
「武田って男子の中で割と人気あるんだぜ? ちっと頭固いところもあるけど、基本的には面倒見もいいし、顔だって可愛いほうに入るしって」
「余計なお世話よ。そんなことにうつつを抜かしてる間に、もっと有意義なやるべきこともあるんだから。私はこのままでいいの」
直也がそれ以上何も言わなくなったので、文香はすっかり安心して前だけを見つめていた。背後から、自分を見つめている直也が何を考えていたのかなんて、まるで気付かないままで…………。
* * *
それから二ヶ月近く経った、もう少しで二学期も終わるという頃の放課後。いつものように教室に残って作業をしていた文香は、まだ時間もそんなに遅くないというのに、もうすっかり真っ暗になった外をちらりと見てから、再び机に視線を落とした。その隣の席には、横を向いて椅子に座りながら、まとめた書類をホチキスで留めている直也。もうすっかり、見慣れたものになった光景だった。
「……もうすぐクリスマスだな」
「…そうね。街の中も賑やかになってきて、みんな浮かれてるみたいね」
クリスマスが過ぎたら、いま街中を彩っているイルミネーションや飾り付けもあっという間に取り払われて、今度はすぐにお正月ムードに一新されてしまうだろうに、毎年毎年ご苦労なことだ。
「武田は何か予定でもあるのか? もう学校は休みになっている頃だろ?」
「予定? 家で母の手伝いをして、ちょっと豪華な夕食とケーキを食べて、寝るくらいかしら」
「そういうんじゃなくてさっ」
「何よ。どうせ木戸は、友達の皆さんとパーティーとかして大騒ぎするんでしょ? はしゃぐのは勝手だけど、くれぐれも羽目を外し過ぎないでね。お酒飲んだり度を過ぎた騒ぎなんか起こしたら、あっという間に学校に知れて、下手すると退学にだってなりかねないわよ。気をつけてね」
そんなことで、うちの学校を有名にしたくなんかないんだから。
そう続けた文香の前で、直也は苛ついたような顔でみずからの頭をガリガリとかいた。文香には、まったく意味がわからない。
「何なのよ、いったい」
「ほんっと罪な女だな、お前って奴は」
「はあ? 訳わかんないこと言ってないで、早いとこそれ終わらせちゃってよ。私のほうはもうじき終わるわよ。もうこんなに真っ暗なんだから、早く帰りたいのよ、私は」
「…わかったよ」
それだけ呟いてから、直也は続きを再開する。ほんとうに、訳がわからないことを言う。
それから少ししてから、作業を完全に終わらせて、直也と共に教室を出て昇降口を後にする。ふと顔を上げた文香の目に映るのは、昔から見慣れたわかりやすい形の星座。
「あ、オリオン座! 毎年あれを見ると、もうすっかり冬なんだなって気がするわね」
星にはあまり詳しくない自分でもわかる星座を見つけて、文香は何となく嬉しくなってしまう。
「何かもうすっかり、俺と一緒にいるのも慣れたみたいだな」
直也の言葉に、きょとんとしてそちらを向くと、何となく苦笑いめいたものを含んだ表情を浮かべている彼と目が合った。
「…まあ、最初は遠慮しちゃってたけどね。最近はホント、感謝してるのよ? 結局他の誰にも話さずに、律義に手伝ってくれてるんだもの。あ、お礼も兼ねてクリスマスプレゼントを渡したいんだけど、何か欲しいものある? と言っても、大したものはあげられないけどね、バイトもしてない学生の身だし。木戸ってば、言ってた報酬のジュースとかも結局あんまり欲しがらなかったでしょ」
そうなのだ。最初は「たまにジュースを奢ってくれるくらいでいい」と言っていたのに、彼は結局ほとんど何も欲しがらないで、もはや無償といっていいぐらいの労いの言葉だけで手伝ってくれているのだ。
「…何でもいいのか?」
「いま言った通り、あんまりお金のかかることは無理だけどね。私にできることなら、可能な限りやったげるわよ」
直也が甘いものが好きだったなら、何か好きなお菓子などを作ってあげてもいいし、マフラーやセーターなどを編んであげてもいい────もっともこれは、クリスマスに間に合わなくなる可能性が高いが。
「何でもいいってんなら──────」
ぐいと腕を引っ張られて、驚きの声を上げる間もなく、文香の身体は近くにあった木の幹に押し付けられる。
「ちょっと、何……」
それ以上の抗議の言葉は、口に出すことができなかった。それ以上言葉を発する前に、文香の眼前に、彼女より頭一つ分高い直也の顔が迫っていたから。
「………………」
時が、止まったような気がした……。
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