──────どうしてこんなに気になるのか。知りたい気がする。どうして知りたいのか。それすらもわからないのに…………。
「…………」
かなり薄暗くなりかけた夕刻、K高校の二年五組の教室の一席で、数種類のプリントを一枚ずつ取っては数枚まとめてホチキスで留めていた女生徒が、ふいに手を止める。
「…これで…終わり、と」
それをひとまとめにして、自分の机の中に入れていたところで、近付いてきた足音と同時にかけられる声。生活指導の教師だった。武田文香(たけだふみか)は、ゆっくりとそちらを向いて返事をする。
「武田、まだ残ってたのか。もう校舎閉めるぞー」
「あ、今度授業で使う資料のまとめを担任の先生に頼まれていたので…ちょうど終わったので、もう帰ります」
自分の鞄と小さいバッグを手に取って、教室の蛍光灯のスイッチを切ったとたん、一気に暗くなる室内。気がつかないうちに、こんなに暗くなっていたのかと驚いてしまう。秋の日はつるべ落としとはよく言ったものだ。廊下に出てもその暗さはあまり変わらず、むしろ外の暗さと相乗して、闇がより濃くなったような印象すら受ける。
何となく得体の知れない何かが迫ってくる気がして、他の教室を見て回っている教師の背後を早足で通り過ぎる。
「先生、お先に失礼しますー」
「おう、気をつけて帰れよー」
階段を駆け下りて、下駄箱へと向かう。グラウンドや体育館からはまだ部活動に励んでいるらしい生徒たちの声が聞こえてくるが、そちらは専用のライトが煌々と灯されているおかげで、暗くはない。けれど校舎内は、ほとんど人がいないらしくどこにも人の気配がない。そのことが文香をより不安にさせる。
階段を下りきって、あとは下駄箱まで数メートルというところで、その目前にある脇から伸びている廊下から人影が飛び出してくるのに気付いた時には、もう遅かった。
「!」
相手も寸前に気付いて身をよじったようだが、お互いに気付くのが遅かった。ドンッと大きな音を立てて双方の身体がぶつかり、互いの身体が一メートルほどはじかれてから、廊下の床に尻餅をつく。
「いたた……」
「てて…あっ 大丈夫か!? 悪い、俺慌ててたから、よく前を見てなくて…」
いち早く現状に気付いたらしい相手が素早く立ち上がり、文香に向かって手を伸ばしてきた。その手につかまりながら立ち上がり、もう片手でスカートについた埃を軽く払う。
「いえ、こっちこそごめんなさい。ずいぶん暗くなってたから、私も慌てちゃって……」
「どっか痛いところとかないか?」
「いえ、大丈夫…あっ 荷物っっ」
さっきの衝撃のせいでとっさに手を放してしまった鞄とバッグを、半ば手探りで探しあてる。が、バッグが少々軽くなっているような気がして、念のため中身を確認する。
「やだ、携帯がないっ」
「えっ」
「ポケットに入れてたから、落ちちゃったんだわ。えっと…どこに落ちたのかな」
床を懸命に見るが、暗くてよくわからない。
「ここの電気のスイッチって、どこだったっけ…つけたことないからよくわかんないけど」
あたりの壁を見回し始めた文香を制したのは、先ほどの相手だった。
「いや、それには及ばねえよ。落としたのって携帯だけ?」
「多分」
「じゃあ番号教えて。鳴らせば一発っしょ」
「あ、そっか。えっと、090の…」
番号を全部伝え終えた数秒後、文香の背後、二メートルほど離れたところから聞き覚えのある着メロ。慌てて駆け寄って、手に馴染んだ携帯を拾い上げる。
「あったー、どうもありがとうっ」
「んじゃ早く出ようぜ、校舎閉められちったらマズいし」
「あ、そうね」
その言葉に、文香はよく見えなくても感覚で覚えている自分の下駄箱に向かったのだが、驚いたことに相手も同じ方向に向かってくる。その上、相手が自分のものらしい靴を出したそこは、文香と同じクラスの生徒が使っている場所で……。
「え…あなた、うちのクラスの人なの…?」
相手が敬語も使わず話してきたのにつられたのに加え、上級生の三年生であったならとっくに帰って家や塾で勉強なりしているだろうと思って、自分も敬語を使わずに話していたのだが。学年はともかく、まさか同じクラスの人間だとは思わなかったのだ。
「え、あんたも五組の生徒? そういやその声聞き覚えがあるな。……もしかして、武田か?」
相手の言う通り、文香も相手の声に聞き覚えがある。
「もしかして…木戸?」
木戸直也(きどなおや)─────同じクラスの、男子のリーダー格兼ムードメーカーといってもいい相手だった。ノリがよくてお調子者で、昔から悪ガキであったに違いないと誰もが思うようなタイプの少年だが、意外にもむやみに他人を傷つけるような真似はしないので、男女問わず人気がある。
生真面目で成績優秀で、昔から委員長に推薦されることが多い文香とは違う意味で、クラスの中心人物といえた。
「あんたこんな時間まで何してたの? 確か部活には入ってなかったわよね」
「いや、軽音同好会に中学ん時の後輩がいてさ。見学がてらちょっと一緒に遊んでたんだよな。そういう武田こそ、こんな時間までどうしたんだ?」
まるで自分も遊んでいたのかと問うような口ぶりに、文香は軽くカチンときた。
「私は、先生に頼まれた資料を作ってたのよっ 遊びじゃなくて、ちゃんと授業で使うヤツ」
「何いきなりツンケンしだしてるんだあ? 変な奴」
それぞれ靴を履いて昇降口から外に出たところで、明らかにわかっていないような口調に更に神経を逆撫でされて、文香がなおも言い募ろうとした時、すぐ近くの茂みが派手な音を立てて、何かが飛び出してきた!
「きゃあっ!!」
文香の頭の中が真っ白になって、とっさに近くにあったものにしがみついてしまう。
「にゃ〜」
「な…んだ、猫かよ、おどかしやがって」
ヤケに近いところから直也の声が聞こえてくるが、いまの文香にはそんなことに気付く余裕はない。友達やクラスメートにも話したことはないが、実は文香はホラーなどの怖いもの全般が大の苦手なのだ。けれど、普段強気な態度ばかりをとっている自分がそんなことを言ったら、他の人間
────とくに悪ノリしがちな男子たちのことだ────にどうからかわれるかわかったものではないから、ずっと懸命に隠してきた……のだが。
「お、おい、武田? ほら、猫だって。どうしたんだよ?」
「……っ …っ」
ついさっきまで気を張っていた反動で、緊張の糸が切れてしまって、文香はもう普段通りに振る舞えそうにない。その正体も知らぬままに、しっかりと握ったままだったそれをつかんだ手にことさら力を入れて、何も言えないままで首を振るしかできない。
直也の声が、みるみる弱り果てていくのにも、まるで気付けないままで。
「……あー…あのさ、俺も一応年頃の青少年だしさ、そんないままで見せられたことないような女の子らしいとこ見せられたら、ヤバいっつーか……」
その言葉にハッとしてみずからのおかれた状況をよく見ると、ワイシャツの袖を肘のあたりまでまくっていた直也の腕にしがみつき、その袖が皺になるくらい握り締めていたことに気付き、パッと手を放す。更に、目元には涙もたまっていて……最悪だと思う。
「あっ ごめ…!」
マズい。直也には、文香がその手のものが苦手なことを気付かれたかも知れない。そうしたら、他の男子にもあっという間に知れ渡って…文香がいままで培ってきたものも、何もかも台無しになってしまうかもしれない。
文香の頭の中はそんなことばかりでいっぱいになってしまっていたので、直也が発した言葉の意味など、理解する余裕もなく。どうこの場を乗り切るか、そればかり考えていた。
「………………」
俯いてしまった文香と、空を見上げながらぽりぽりとみずからの頬をかく直也との間で、何となく気まずい沈黙が流れる。
「…もしかして、さ。武田って暗いところとかダメだったりするのか?」
問われても、すぐに答えられなくて、しばしの沈黙の後こくりと頷く。もうダメだ。明日には、クラス中に知れ渡ってしまうだろう。
「でもって、それを誰にも知られたくない、と?」
だったらどうだというのだろう。まさかと思うけれど、それをネタに何かする気なのだろうか!? 直也がそんな卑怯なことをするようなタイプではないことも知っているはずなのに、そんなことにも気付けないほど、この時の文香はテンパってしまっていた。
「だ…だから何なのよっ どうせみんなに言いふらすんでしょ!?」
「お前、俺をどういう目で見てるんだよ…。でもって、もう一人の委員長の長沢はサッカー部の結構重要なポジションだし、放課後残って何かする時はお前一人、てことが多いってことだよな」
「そ…それが?」
「いままでも、こんな暗くなるまで一人で頑張ってたのか?」
「だって…長沢くんはホントに忙しそうだし、それ以外のことは私の分まで引き受けてくれてるし。無理は言えないわよ……」
先刻までと違って、意気消沈して言う文香に、直也は少し考えるそぶりを見せて。
「ふーん…誰が悪い訳でもないってのはキツいなあ。ならさ、これからは俺が手伝ってやろうか?」
「……はっ!?」
「だって偶然とはいえ、武田の弱点を知っちまった訳だし。他の奴に秘密バラすつもりもないんだろ? 俺も、放課後は結構ヒマだし」
「え?」
直也の言っている内容を理解するのに、不覚にも時間がかかってしまった。あまりにも、予想外の提案過ぎて。
「そ、それって……何か見返りを期待してるの!?」
「あのなあ。怖がりの女の子がそれを隠して独りで頑張ってるのを平気な顔で見過ごすほど、俺も薄情じゃねーんだよ。知っちまったからには、放っとくこともできねえし。俺だって、『今日も怖がりながらやってんのかなー』って心配するの何かやだし。なら、そばで見守ってるほうが安心ってもんだろ?」
「…………」
あまりにも、信じられないことを提案されて、文香の思考は停止してしまう。他の人に黙っているのみならず、これから放課後独りで残らざるを得ない時は、直也が一緒に残ってくれると…そう言うのか? あまりにも文香に都合がよ過ぎる提案に、何か裏があるのではと疑ってしまう。
「何か…裏があるんじゃないの……? 交換条件とか」
「交換条件ねえ…ま、その都度ジュースでも奢ってくれりゃあ構わねえかな」
「え?」
そんなことでいいというのか?
「さっきも言ったろ、女の子独りに重荷背負わすのは嫌だって。偶然知っちまった俺以外にバラすつもりないんだろ? なら俺が手伝えば、問題ねーじゃん」
思わずぽかんとしてしまう。
ついさっきまでは、明日にはみんなにバラされてしまうと思っていたのに、直也は誰にもバラさずに、それどころかこれからはほとんど無償に近い報酬で手伝ってくれるという。あまりにも自分に都合のいい展開に、文香は茫然とせざるを得ない。
「…何だよ、そのボケッとした顔は」
「え、だって、信じられなくて…」
「とことん信用がねえのな、俺は。嫌なら、やめてもいいんだぜ?」
「あっ ごめん、待ってっ」
とっさに、直也の袖を掴んでしまった自分に気付き、慌てて手を引っ込める。
「……ホントに…いいの……?」
「さっきからそう言ってるだろ? じゃ、商談成立ってことで」
言いながら、直也はポケットから携帯を出す。
「番号はさっき偶然聞いちまったけど、連絡し合う時はメールのほうが都合いいだろ? だから、メルアドも教えてくれよ」
言われるままに、メルアドを教える。
「よし。じゃあこれからは、放課後残る時はメールしろよ? 誰かといても、適当に理由つけて別れて、暗くなる前にはそこに行ってやるから」
「でも…」
「あ?」
「木戸って、彼女とかいないの? 万が一彼女に知られでもしたら、変な誤解招くんじゃ…」
「俺、別にそんなのいねえけど?」
「うそ」
「何で嘘つかなきゃいけねーんだよ。もしか彼女がいたら、そいつも一緒に連れてくるっての」
「あ…それもそうね」
言われてみれば、その通りだ。
「じゃ、じゃあ…これから、よろしくお願いします……」
「おう。まかせとけって」
変な、ほんとうに変な縁だけれど。これからは、独りで我慢しなくていいのだと思ったら、自分でもわからないけれど、文香の心は大きな安堵感に包まれて……いままで抱えていた恐怖感が、あっという間に霧散していくのを感じていた。どうしてなのかは、自分でもほんとうにわからない
けれど。
ただ、これからは直也がそばにいてくれると思っただけで。それだけで安心してしまう自分に、文香自身が一番戸惑っていた…………。
───────それが、始まり。理由もわからない、ふたりの始まり………………。
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