〔6〕





 その日は、唐突にやってきた。

「唯ちゃん。明日の仕事の後、空いてる?」

 仕事の休憩時間中に、藤子が訊いてきた。

「え? 空いてますけど…何でしょう?」

「例のコをね。呼び出そうかと思ってるのよ。唯ちゃんは当事者なんだし、いたほうがいいから」

 藤子の言う『例のコ』とは、唯に嫌がらせを繰り返していた、例の犯人のことであろう。いよいよ、直接対決か。藤子が一緒にいてくれるなら、たとえ相手が先輩風を吹かせて有耶無耶にしようとしても、それだけは阻止できるだろうと思うが……。それとは別に、唯には心配なことがあった。

「でも。私じゃなくて藤子先輩が呼び出したとしても、私との関係性からスルーされちゃうんじゃないですか?」

 それでなくても、藤子は以前、今回と似たような悶着を相手と起こしているらしいから、藤子では相手も警戒するのではないだろうか。

 唯の思っているようなことは藤子はとっくに気付いていたようで、すぐに「心配ないわよ」と答えてきた。

「相手を呼び出すのは、あたしじゃない人に頼んだから。その人が呼び出せば、あのコなら絶対に無視できないような相手よ」

 もしかして、上司や先輩だったりするのだろうか。できるなら自分たち当事者の間だけで解決したかったのに、そんな人の介入を許したら、ことが大げさになりはしないだろうか。そんな唯の心配を見抜いたらしい藤子は、

「心配ないから、とにかく相手と対峙する覚悟を固めることに専念しときなさい。薄々感づいてるとは思うけど、以前のこともあるってのにここまでやるような相手だからね、よっぽど強気でかからないと、被害者のはずのこっちが負けちゃうわよ」

 とだけ言って、飲んでいた紙コップの紅茶を飲みほしてから、少し離れたところにあったゴミ箱に向かって、投げつけた。綺麗な放物線を描いて、丸められた空の紙コップがゴミ箱の中に吸い込まれて行く。

 そんな訳で、次の日の唯は、仕事をミスらないように細心の注意を払いながら個人的に覚悟を決めるという、大変忙しない一日を送ることとなった。

 そうして、ついに対決の時がやってくる…………。


 藤子が相手を呼び出したという場所は、社屋のビルの屋上であった。普段は終業後には鍵が閉められてしまうところだが、今日は「他人に聞かれたくない話をしたいので」と藤子がうまく守衛室の人を言いくるめて、最後にちゃんと鍵を閉めてから戻すからという約束で、鍵を借りてきたそうである。藤子と二人、終業後に着替えを済ませていつでも帰れるよう支度をしてから、屋上で相手を待つ。

 それにしても。藤子はいったい、誰に助力を求めたのだろう? 訊いてみても、「その時になればわかるから」と言うばかりで、それ以上のことはまったく教えてくれない。そのうちに、屋上に続く階段のほうから人の話し声が聞こえてきて。あちらも帰る支度を済ませてきたのであろう私服姿の女性が、男性と二人連れ立って姿を現した。

 藤子とそれほど歳も身長も変わらなさそうな、どちらかというと可愛い感じのする女性であった。それまではどことなく楽しそうだった彼女の表情が、自分たちの姿をみとめると同時に一瞬ぎくりと強張って、すぐに後ろに続く男性を振り返るが、男性────それは、唯は予想もしていなかった一哉であった────は女性の視線を受けても平然としたままで、とりあえず彼女がすぐに引き返せないように、ドアの前に立ちはだかった。

「どういう…ことですか? 大槻さん」

 明らかに狼狽しているような声で、『彼女』が一哉に問いかける。何も答えない一哉の代わりに答えたのは、一歩足を前に踏み出した藤子であった。

「どういうことも何も。その理由は貴女が一番よく知っているんじゃないの? 加藤さん」

 その言葉を聞いて、唯はふいに思い出した。そうだ。この女性は、情報処理課に所属している、加藤という先輩社員だった。

「何のこと? 言っている意味がよくわからないわ、鳴海さん」

 互いの話し方からして、先輩後輩という間柄ではなく、彼女も同期の社員なのかも知れない。

「とぼけないで。ここにいる小林さんに、ずっと中傷メモを送りつけたり、資料室に閉じ込めたりしたでしょ。私の時と同じよね、まったく進歩がないったら。更に今回は、階段から突き落とすなんて危険なことまで……万が一、そこにいる大槻がいなかったら、彼女は大怪我してたかも知れないのよ」

「…確かに以前、一時の気の迷いで貴女に迷惑をかけたけど、そっちのコのことなんて、私は知らないわ」

 あくまでしらをきり通すつもりらしい彼女に、ため息をついた藤子が切り札ともいえる言葉を発した。

「貴女が彼女を突き飛ばしているところを、見ていた人もちゃんといるの。もう言い逃れはできないわよ」

 藤子がそこまで言ったところで、彼女は俯いて黙りこくってしまった。さすがに証人までいるとなっては────そんな人がいたなんて、唯はまったく聞いていなかったが────確かにもう彼女も言い逃れはできないだろう。さすがにこのまま全部藤子にまかせっきりでいい訳がないと思い、ずいっと藤子より前に歩みを進める。前回はともかく、今回のこれは他の誰でもない自分の問題なのだから、決着は自分でつけなければならない。

「えっと…加藤さん、でしたよね。いったいどういう理由で、あんなことをしたんですか? 私にはまるで心当たりがないのですが、私が貴女に何か失礼なことをしたのでしょうか? でしたら、謝ります」

 「唯ちゃんてば甘ーい」という藤子の小さな声が背後から聞こえてきたが、ここはとりあえず聞こえないふりをする。それまで黙っていた加藤と呼ばれた女性が、急に顔を上げて唯を睨みつけてきたのは、きっかり二秒後のことだった。気をしっかり持っているつもりだった唯も、思わず怯んでしまうほど、険しく憎悪に満ちた表情だった。ここまで憎まれるような覚えなど、唯にはもちろんある訳がないのに!

「……何よ、いい子ぶって。どうせ内心じゃ、『ざまーみろ』とか思ってるんでしょ。じゃなきゃ、新人のくせして、男に媚売って仲良くなろうなんてできないものね」

「お、男とか『彼』って…いったい誰のことですか!? 私、媚なんて売ってません!」

「そうやって、いい子ちゃんぶってポイント稼ぐしかないものね、そんな身長じゃ。ちょっと訊きたいんだけど、男に告白されたこととかあるの?」

「い、いまはそんなこと関係ないじゃないですか!」

「外見の時点でそれじゃ、躍起になって背の高い男をつかまえようとするのもわかるわー。自分より背が低い男じゃ、あっちが嫌がって逃げちゃうでしょうからねー」

 嘲笑めいた言葉の刃を胸にぐさぐさと受けながら、唯はだんだん相手の考えていることがわかってきたような気がしてきた。彼のひとに呼び出されてあっさり応じたことといい、やけに身長について絡んでくることといい、もしかしてこの人は……。

「もしかして…大槻先輩のことが好きなんですか?」

 ほとんど無意識に口をついて出た言葉は、どうやら正解であったらしい。純粋さは、時として意図せぬ凶器となり得ることに、唯が気付くはずもなく……それまで圧倒的に優位を誇っていたはずの加藤の顔が、みるみるうちに真っ赤になってしまって、唯は自分の直感が正しかったことを悟った。

「な…何言って…っ」

「やっぱ天然が最強か」

 藤子の口ぶりからして、もしかしなくても以前もそうだったのだろう。藤子と一哉は、恋愛感情はないが────いや、むしろ恋愛感情が介入しないからこそ、か────いまも同期というより友人としてとても仲がよいから。互いにそういう感情がないとわかっていなかったら、否、わかっていたとしても、彼を好きな女性としては気が気ではなかっただろうなと思う。

「誤解されていたら困るので言っておきますけど、大槻先輩とは単に以前からの知り合いだったというだけで、貴女が思っているようなことはありませんよ? だから、それを理由に嫌がらせをされていたのなら、お門違いというものです。おわかりいただけました?」

「……もしやめなかったらどうするっていうの? 警察にでも行く? それとも上層部に報告かしら? 構わないわよ、どうせあたしもうすぐ会社を辞めるんだから。クビにしたいでしょうけど、会社としては波風立てずにこのまま静かに去っていってほしいだろうから、そうなる可能性は低いでしょうけどね」

 何だか自暴自棄になっているように聞こえたのは、唯だけではなかったらしい。

「加藤さん」

 それまで黙ってなりゆきを見守っていた一哉が、初めて口を開いた。ちなみに彼はもうドアの前から離れていて、最初のあれは単に加藤をすぐに立ち去れないようにするためだったらしい。

「……大槻さん。ねえ、あたしの何がいけなかったっていうの? そりゃ確かに、やったことは悪いことだと思うわよ、でもそれは、貴方が全然あたしのことを見てくれなかったからじゃない。他に恋人がいる鳴海さんはともかく、あのコに向けるみたいな笑顔、あたしにはほとんど向けてくれたことなかったわよね。あたしのどこがあのコに劣るっていうの? 顔だってスタイルだって、あたしのほうが断然上じゃない。他の男性社員だって噂してたわよ、『ただでさえ背が高くて男としては近寄りがたいのに、あんなにお固いんじゃ彼氏もできないんじゃないのか』って。見た目以外だって、あたしのほうが…!」

 加藤の言葉に、過去のトラウマが刺激されて、胸が押し潰されそうに痛んだ。けれど、いまはそんなことを気にしている場合ではない。唯が何か言おうとした────何を言おうとしたのかは、自分でもわからないのだけど────その時、唯より早く一哉が言葉を発した。

「……加藤さん。さっきから聞いていて思ったけど、君の考える女性の価値というのは、見た目とかつきあいやすいかどうかとか、表面上のことだけなのかい? それなら、君から見た男の価値というものもそういうものなのかとしか思えないよ。だとしたら、僕は君に上っ面しか見ていなかったと言われている気がしてならない。自分の中身なんてどうでもいいと言っているも同然の相手に好意を持てと言われて、そんな気持ちを抱ける人間がいたらお目にかかりたいものだよ。それと、君はさっきから自己保身の言葉しか口にしていなくて、過去に迷惑をかけた鳴海さんや、今回危ない目にまで遭わせた小林さんに対しても、欠片も悪いと思っていなさそうだね。平気で他人を傷つけられる君を、どうして僕が好きになれると思うんだい?」

 感情も、同期としての情すらも感じられない、淡々とした声だった。一哉がそんな風に誰かに接するのを、唯は初めて見た気がする。唯の前では、一哉はいつも優しくて…細かいところまで気遣ってくれていたから。

「…っ!」

 人間を相手にしているとは思えない、まるでそこらへんにある物をただ見ているような瞳で、一哉はまっすぐに加藤を見つめていた。その瞳からは、何の感情も見えない。怒りも、不快に感じているような色さえも。もはや、彼女のことなどどうでもいいとでも思っているような、無機質なガラス玉のような瞳だった。それを見つめ返していた加藤の顔が、ふいに歪み…大粒の涙をこぼしながら、その場から走りだしたのは次の瞬間のこと。

 遠ざかっていく、彼女の走り去る足音を聞き届けてから、一哉がふうと疲れたようにため息をついて、ついさっきまでとはまるで違う、いつもと変わらぬ優しい笑顔を浮かべてこちらを向いた。

「…ごめん。結局、謝らせることができないままで、行かせてしまった」

「あっ いえ、お気になさらないでください。自分がやってたって認めさせることはできたんだし、あの様子ならもう嫌がらせもしてこないでしょうし。……何より、好きなひとにあそこまで言われるのは、ことが表沙汰になるよりよっぽど辛いことだと思うので…………」

 唯はまだあんなにも必死になれるほど誰かを好きになったことはないけれど、彼女がどれほど傷ついたかは想像に難くない。もうじき会社を辞めると言っていたが、そうでなかったらきっと二度と会社に来たくないとまで思うのではないだろうか。

「唯ちゃん、ホント人がよ過ぎー」

 藤子の声にハッとして、あることを思い出して振り返りながら問いかける。

「そういえば藤子先輩、よく目撃者なんて見つけ出せましたね? あの時はあんなに忙しなく人が行きかっていたのに」

 言わずと知れた、階段からの転落事件の時のことだ。

「ああ、あれ? ハッタリよー。あっちだって、やった後はさっさと逃げたろうから、周囲を気にしてる余裕なんてなかっただろうと思ってね」

「…!」

 何とまあ…大胆なことを。もしも証人を連れて来いと言われたら、どうするつもりだったのか。

「でもまあ、自白させられたんだし結果オーライということで。大槻にあれだけハッキリ言われたら、もう他の女に何かしようという気にはならないでしょ。謝らせることができなかったのはすごく悔しいけど」

「でも、もう少しで会社を辞めるって言ってたし。そうなれば、もう会うこともないってことですよね?」

「自分は辞めるのに、大槻は相変わらず振り向いてくれないし、唯ちゃんとは親しそうに見えるしで、ヤケを起こしたってことかしら。なら会社を辞めなきゃいいのに、何か辞めざるを得ない事情でもあったのかしら」

「……たとえどんな事情があったとしても、彼女のようなタイプは苦手なんだから仕方がないよ。二人には、ほんとうに悪いことをしてしまったね、済まなかった。言い訳にしかならないだろうけど、まさか彼女がいまでもあんな風に思ってるとは思わなかったんだ。仕事上の接点だってそんなにないし、もうとっくに他の恋人を作ったと思ってた」

 一哉が自分たちに対してほんとうに申し訳なく思っているのがわかっていたから、唯はあえて明るい表情と口調で応えてみせた。

「大槻先輩のせいじゃありませんよー。一度ちゃんとフッた相手が、まさかその後四年もの間ずっと自分を好きでいたなんて、普通考えられないことですもの」

「そうよねえ、よくストーカーにならなかったものだわ。あのコ、前世は蛇とかだったんじゃないの?」

 呆れ返ったような表情と声で言うのは、藤子。彼女には悪いけれど、さすがに精神的に疲れてしまって、もう庇う気力もわいてこない。

「ところで藤子先輩」

「なあに?」

「この屋上の鍵、先輩が借りてきたって言ってましたよね? 返すのは、私が責任もってやりますから、その鍵お借りしてもいいですか? さすがにちょっと疲れちゃって、少し休憩してからじゃないと帰れそうにないんです」

「あら、なら私もつきあうわよ」

「いえ実は、さっきからそこのベンチでごろんと寝転がりたくて……できれば、一人にしていただけるほうがありがたいんです」

 さすがにそれは行儀が悪いかなと思うので。

 そう続けると、藤子は

「わかったわ。じゃ、後お願いね。守衛室のほうには、私から話しておくから」

 と言って、鍵を渡してくれた。

「あ、はい、お願いします。大槻先輩も、今日はおつきあいいただいてありがとうございます。おかげで今晩から、安心して眠れそうです」

「いや、元はといえば、僕が原因なんだし……」

「もう解決したし、それはもう言いっこなしってことで。お二人とも、どうもお疲れさまでした!」

 そう言って、二人が軽い挨拶をして社屋の中に戻っていくのを見届けてから、そっとそばのベンチに腰を下ろして。こてん、とそのまま真横に寝転がって、顔を伏せる。

「……っ!」

 もう、耐えられなかった。先刻の加藤に負けないほどの大粒の涙が、唯の瞳から溢れ始めた。

 身長のことも、性格のことも、言われたのは今日が初めてじゃなかったのに。胸が、引き裂かれるように痛い。

『あんなにデカい女じゃ、どんな服着てもあんま可愛く見えねえよなあ』

『その上あんなに融通もきかないんじゃ、息が詰まっちまうぜ』

 過去に偶然聞いてしまった自分に対する言葉が、頭の中で何度も繰り返しよみがえってくる。唯だって、変わろうと自分なりに努力をしたのだ────身長は仕方ないけれど、できるだけ可愛らしく見える服やメイクを試してみたり、あまり真面目になり過ぎないよう気をつけながら皆の輪の中に気さくに入ろうとしてみたり、思いつく限りの努力をしたのだ。けれど、持って生まれた性質は、そう簡単に変わってくれるほど容易いものじゃなかったのだ。やればやるほど他人の目から見れば滑稽にしか映らなかったようで、陰で笑い者にされていたことも知っている。

 それでも卑屈にだけはならないようにしようと頑張ってきたのに……先刻加藤に言われた言葉は、唯の心の最後の砦を打ち崩すには十分の破壊力を持っていて。藤子や一哉の前でだけは絶対涙を見せたくなかった────二人のことだからきっと気に病むだろうと思ったから、最後の気力を振り絞って、一人になるまで一生懸命堪えたのだ。

「……っ …っ」

 ふわりと、優しい風が吹いた気がした。

「─────ほんとうに。甘えるのが下手なコだなあ」

!?

 唐突に聞こえてきた声と、優しく頭を撫でてくる大きな温かい手に驚いて、唯は涙を隠すのも忘れて起き上がってしまっていた。そこにいたのは、ついさっきここから去っていったはずの一哉。確かに、藤子と共に去っていくのを見届けたというのに!

「こういう時にこそ、他人に甘えていいんだよ。前にも言っただろ? 大事に思う女の子を守るために、男は強くあろうとしてるんだって」

 言いながら、たったいままで唯が顔を伏せていたベンチに、一哉は腰を下ろして。隣で茫然としたまま座っていた唯の後頭部に手を回して、ぐっとその腕の中に引き込んできた。ネクタイを肩越しに背中に回したらしく、一哉の白いワイシャツに包まれた広い胸しか、もう目に入らない。

「……ごめんな。俺のせいで、あんな嫌な思いさせて」

 一哉は全然悪くないのに、優しい声で謝ってくれるのを聞いていたら、もう堪えきれなくて。一哉のワイシャツにしがみついて、溢れる涙を止めることもできず、ただ、その優しい腕の中に包まれていた…………。



    





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2017.2.9up


ようやく嫌がらせの相手を撃退できたと思ったのに…。
唯の負った心の傷のほうが、大きかったようです……。


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