〔7〕





 それは、唐突な申し出だった。

「ねえ唯ちゃん。来週の週末、温泉行かない?」

 仕事帰り、駅まで歩く道すがら言い出したのは藤子だった。

「温泉…ですか?」

「そう。最近ちょっとバタバタしてたじゃない、だから、気分転換と休養を兼ねてさ」

「そう…ですね」

 例の嫌がらせの犯人である加藤と対峙したのは、もう一週間も前のこと。やはり彼女がすべての元凶だったようで、あれ以来嫌がらせはぴたりとやんだので、そういう意味では安心したが、その後藤子から聞いた彼女の事情が、唯の心に重くのしかかっていた。

『…社内の事情通に聞いてきたんだけどさ。あのコの実家って、家族経営のそんなに大きくない会社らしいのね。後継ぎはお兄さんがいたから問題なかったんだけど、昨今の不況の影響で経営が厳しくなってきたとかで……そこで持ち上がったのが、同じ業界の大手企業のボンボンとのお見合い話。というのは建前で、実は偶然見かけたあのコをボンボンが見初めたことを知った向こうの親が手筈を整えたらしいのね。自分もいまはフリーだった上に大槻が振り向いてくれる望み薄ってのも拍車をかけたみたいで、健気にも彼女は嫁ぐことを決意しましたとさ』

 それは…もしかしなくても、彼女の意思などまるで無視した政略結婚というものではないのだろうか。脳裏に、あの時の一哉の言葉がよみがえる。

『僕は君に上っ面しか見ていなかったと言われている気がしてならない。自分の中身なんてどうでもいいと言っているも同然の相手に好意を持てと言われて、そんな気持ちを抱ける人間がいたらお目にかかりたいものだよ』

 藤子の言葉がすべてほんとうだとしたら、あれは彼女自身にもあてはまることになる。それではあまりにも彼女が可哀想だと、唯が返そうとした瞬間。

『─────と、そこまでだったらいまどき珍しいくらいの孝行娘の美談で終わったんでしょうけどね。ヤケになって、好きなひとと親しい他のコに下手すると大怪我したかも知れないほどの嫌がらせに走って、尻尾をつかまれたら逆ギレして他人を傷つけまくりじゃあ……同情する気も失せるってもんよね』

 そんな事情がなくても、かつて嫌がらせをされた藤子の言葉には、まるで容赦というものがない。

 もしかしたら彼女は……ほんとうにことが表沙汰になっても構わなかったのかも知れない。そうすれば、少なくとも好きでもない人と結婚をしないでも済んだだろうから。いまとなっては、もう彼女の真意を聞くこともできないけれど─────。

 恐らくは彼女のほうから唯たちを避けているのだろうが、あれ以来まるっきり姿を見せなくなったことにホッとする反面、彼女の心中を考えると素直に喜べなくて。そんなこと、本人が聞いたらまず間違いなく「同情なんかいらないわよ!!」と怒られそうだが、彼女のことを憎みきれない自分に、時折気付くのだ。あんなにも酷いことをされて、酷い言葉を投げかけられたというのに…………。

 そして、変わったのはそれだけではなかった。それまでは、表向きは会社の先輩として、プライベートでは昔馴染みの「お兄さん」としてつきあっていた一哉の顔が、まともに見られなくなってしまったのだ。原因は、わかっている。「こういう時にこそ、甘えていいんだよ」と言われ、独りで堪えきれなくてその胸で泣いてしまったあの事実が。冷静にものを考えられるようになった唯の羞恥心を存分に刺激して、表面上────朝夕の挨拶、更に会社での業務上の会話のことだ────でしか接することができなくなってしまっていた。

 だってだって……いくら、「甘えていいんだよ」なんて言われたからって、胸に縋りついて泣いちゃうなんて。子どもや恋人でもあるまいに、図々し過ぎるじゃない。あたしはあくまでも「妹のようなもの」であって、真央のように「妹」そのものじゃないんだから。

 いままでまともに男性と恋愛などした経験のなかった唯には、仕方のない反応といえよう。

 そんな思いを振り切るように、軽く頭を振って意識を現在に戻す。

「…ところで先輩、温泉って日帰り温泉ですか?」

「ううん、お泊まり」

「えー、ゴールデンウイークは終わったとはいえ、こんないい季節に急にとれる宿なんてないんじゃないですかっ?」

「あ、それは大丈夫、ツテがあるから。一応、仮押さえはしてあるのよ。あとは、唯ちゃんの返事を聞くだけだったの。まあ、そんなにメジャーなとこじゃないけど、車出すしさ」

 藤子も軽だが自動車を所有していて、通勤にこそ使わないものの時折乗っていると聞いたことがあったので、唯は何も疑わなかった。自分の知らないところで、どんな計画が進行していたか、などということを。

 そして、その日はやってくる…………。

「…………」

 当日、土曜日の朝の約束の時間。藤子との約束通り、自宅の前で迎えを待っていた唯は、「先輩にご挨拶をしたい」と言って同じように待っていた両親と共に、固まってしまっていた。驚きのために。

「おはようございます。お初にお目にかかります、同じ会社の鳴海藤子と申します」

 家の前に停まった車から降りてきた藤子が、名刺を出しながらにこやかに両親に頭を下げる。そこまでは、予想通りだったので別にいいのだが。驚きのポイントは、そこではない。藤子に続いて降りてきた見慣れた顔と、予想よりはるかに大きい迎えの車と……。

「おじさん、おばさん、お久しぶりですー。今日は、唯をお預かりしていきますねー♪」

 そう言って笑いかけてきたのは、何週間ぶりかで顔を合わせた真央。高校時代や大学時代はお互いの家をよく行き来していたから、両親ともすっかり顔馴染みなのだけど…。

「あら、真央ちゃん、お久しぶり……」

「で、そちらの方々は…?」

 茫然としたままの父親の質問に答えたのは、助手席、運転席、更に後部座席から降りてきた男性三人組だった。

「驚かせて、申し訳ありません。この真央の兄で、鳴海さん同様に唯さんと同じ課で働いております、大槻一哉と申します。妹が、昔からお世話になっているようで…。私自身も、唯さんの細やかな気遣いには色々と助けられておりまして。今回は、仕事ではなく個人的なことでご迷惑をおかけしてしまったので、お詫びも兼ねてこうして鳴海さんの案に便乗させていただきました。宿のほうも、やはり同じ課のこの木内の親類のお宅ですし、部屋も男女別々に用意していただきましたので、どうぞご安心ください」

「小林さんと同期の木内佳孝(きうちよしたか)と申します。小林さんには、いつも仕事の上でも同期としてでもお世話になっていまして…あ、これいま大槻先輩が言われました親戚の旅館のパンフレットです。小林さんのご家族の方なら、いつでもサービス致しますんで、よろしかったら皆さんでご利用ください」

「同じ会社の、営業を担当しております大崎弘也と申します。今回は人数が人数なので、車の提供ついでに便乗してしまいました」

 と、順番に名刺を出して────木内は『旅館きうち』と名の入ったパンフレット付きだが────名乗っていったので、両親はもう何も言えないようだった。

「ま…真央っ 藤子先輩も…これってどういう……?」

「だって唯ちゃんてば、ここのところずっとふさいでたでしょ、だから何か元気が出るようなことしてあげられないかなと思って」

「あたしは、『先輩ばっかりじゃ唯がリラックスしきれないだろうから』って、いち兄に頼まれたから来たの。それに、初対面のこちらの藤子さん?といち兄だけがいきなり来たんじゃ、ご両親も心配するだろうからって」

 確かに、藤子の話は家でよくしていたとはいえ、両親とはほとんど初対面だし、真央がいなければもしかしたら今回でかけることすら反対されていたかも知れない。けれど、さりげなく様子をうかがっていると、三人の男性は非常に礼儀正しく両親と和気あいあいと話をしていて、とくに反対されそうな気配は感じない。木内の親類のことなど唯は知らなかったが、木内の持ってきたパンフレットがどう見ても本物の旅館のそれで、更に両親が抱くであろう懸念を一哉と大崎がちゃんと常識の範囲内で解消してくれたからだろう。初めは懐疑的な態度であった両親のそれが次第に軟化していくさまを見て、これなら大丈夫だろうと、唯も安心し始めていた。親友として長くつきあっている真央の兄であると同時に、共に働く先輩後輩という欲目を引いても、率先して両親と話す一哉は、誠実で信頼に値する好青年に見えたから────まあ実際に好青年なのだけれど。話が終わる頃には、両親もすっかり一哉を信頼してきたようで、最初の頃には見え隠れしていた警戒心もすっかりなりを潜めていた。

「じゃ唯、気をつけて行ってくるんだぞ。皆さんにご迷惑をおかけしないようにな」

「あ、うん、向こうに着いたら電話するから」

「宿の近くにはどんな観光地があるかとかも、しっかりチェックしてきてね〜」

 しまいにはちゃっかりとそんなことを告げる母と、すっかり皆を信用してくれたらしい父に見送られ、唯は大きいワゴン車に乗せられて、我が家をあとにする。ちなみに運転は車の提供者だという大崎で、一哉は交代要員として助手席、中列には唯と真央、後列には木内と藤子が乗り込んでいる。

「あ、そだ。小林さん、大槻先輩とは昔からの知り合いだってちゃんと聞いてるから、会社のようじゃなく気楽にやってくれて構わないからね? 会社の他の人にはちゃんと内緒にしとくから」

「…!」

 まさか、木内にまでバレているとは思わなかった。まあ、そうでなければ何故真央と親しいのかという疑問が生まれるかも知れないが。

「そ、それはともかく、どうして大崎さんと木内くんも一緒なの…?」

 それを問うと、木内ではなくその隣────唯の斜め後ろに座っていた藤子が申し訳なさそうに説明を始めた。それによると、こういうことだったらしい。

 藤子と一哉は初め、泊まりなどではなく普通に日帰りで────近くの河原でバーベキューをするなどして────遊びに行くつもりだったらしい。前述の通り、唯が気を遣い過ぎないように真央も誘って。そこに、ちゃっかり乱入してきたのが大崎だったそうだ。

『今回の件には、お前は関係ないだろう』

 とすげなくあしらったのはいいが、

『あ、そういうこと言っちゃう?』

 と大崎が言ったとたん、一哉と藤子からは見えない位置から、大崎の後に続いて

『ずるいっスよ!! 三人だけで遊びに行く計画立てて、俺だけ仲間外れなんてっ』

 と更に大きな声を上げながら木内が乱入してきて、もうどうしようもなくなったのだという……。

「いや〜、俺だって小林さんと同じように同期で大槻先輩に指導されてんのに、俺だけハブにされてんのかと思ったら、すっげー悲しくなっちって。ごめんね、小林さんがえらい目に遭ってたってのに何にも手助けできなくて」

 まさか、何も知らない木内にまで加藤の一件について話したのかと思って藤子を振り返ると、藤子はふるふるとかぶりを振って、「詳しいことは話してないわよ」と小声で告げてきた。ということは、ほんとうに大雑把なことしか知らないのに、唯を励ますためにわざわざ親戚の宿にまで声をかけてくれたのだろうか?

「もしかして…私のためにわざわざ親戚の旅館の予約までしてくれたの?」

「え、別にそれだけじゃないよー。俺も久しぶりに温泉行きたかったし、みんなで遊びにも行きたかったし、大槻先輩の妹さんにも会ってみたかったし。あ、『真央ちゃん』って呼んでいい? 歳も同じだっていうし、名字じゃ先輩と紛らわしいし」

「いいわよ。あたしも『木内くん』って呼ぶし。唯と仲のいい同期さんなら、大歓迎よ」

 昔と変わらずあまり髪を長くしていないけれど、やっぱり真央は女の子らしく小柄な体格で可愛いなと唯は思う。顔立ちや雰囲気はさすがに化粧などをするようになったせいか、以前より大人っぽくなってきたが、もともとの可愛らしさはまったく損なわれていない。中身をよく知らない木内が惹かれても、仕方のないことといえるだろう。もっともそれを言うと、「あたしは唯みたいにカッコよくなりたいの!」と拗ねてしまうだろうから決して口にしないけれど。ほんとうに、人間はないものねだりばかりをするものだ。

 あとは、木内がよけいなことを言って真央を怒らせなければいいのだけどと祈らずにはおれない唯であった。

「で、この人数で各々の荷物やバーベキューの道具を載せるには、これくらいデカい車じゃなきゃダメだろってことで、俺がうちの身内の車を借りてきたって訳」

 こちらを見ないままで、締めるのは大崎。なるほど、それでこんな大人数及び大きい車になったという訳か。

「二台で分乗して行けばよかっただろうが」

 どことなく不機嫌そうに呟くのは助手席の一哉。

「そんなことしたら、女の子はみんな一緒のほうがいいだろうとか何とか言って、お前が全員かっさらっていくだろ!? そしたら俺は木内と二人か? ヤローとずっと二人っきりでドライブなんて、冗談じゃねえぞっ」

「木内はともかく、お前は別に来なくてもよかったのにって言ってるんだよ、空気くらい読めよっ 車ならレンタカーって手もあるし」

「やーだねっ お前が絶対に見せたがらない可愛い妹の真央ちゃんに、俺だって会ってみたかったんだ。よかったねー、真央ちゃん。こんなむさ苦しい兄貴に似ないで済んで。しかもこいつと同じ顔がもう一人いるんだって? そろってるところなんか絶対見たくないねっ」

 大崎が言うのは、一哉の双子の弟だという一斗(かずと)のことであろう。唯も、数えるほどしか会ったことはないが。真央はツボに入ったのか、けらけらと笑っている。

「小林さんにプリクラ写真を見せてもらって以来、もう会ってみたくてしょうがなくてさー」

「えっ!?

 もしかしなくても、唯が原因だったのか!? そういえば、財布の内側に貼っていたプリクラ写真に一緒に写っていた真央のことを、以前大崎に訊かれたことがあった。あの時は、まさか一哉がそんな風にしていると知らなかったから、深く気にしないで────一哉との関係は既に知られた後だったから、隠すこともないかと思って一哉の妹だと正直に話してしまったのだが……まさか、こんなことになるとは思っていなかった。

「ご、ごめんなさい、大槻先輩っ 私、先輩が真央のことを隠してるなんて知らなくて、訊かれて何も考えずに答えちゃって…っ」

 一哉に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

「あっ 唯ちゃんが悪いんじゃないよ、こいつがその素直さを利用するような腹黒だったってだけ。だから気にしないでいいよ。それより」

「え?」

 そう続けられて、下げまくっていた頭を思わず上げると、まっすぐにこちらを見ている一哉とばっちり目が合ってしまって、何だか恥ずかしくなって視線をその手元に落としてしまう。

「プライベートでは、名前で呼んでって言ったよね、俺。どうせこの車の中の面子には全部バレてんだし、そっちで呼んでほしいんだけど」

「そうよ、唯。唯に『大槻先輩』なんて呼ばれてんの見たら、何か背中がぞわぞわしちゃう。そんなにご立派な兄貴でもないってのにさ」

 そう付け足すのは真央。昔から言いたいことをさんざん言い合う仲のいい兄妹だったからか、一哉に対する真央の言葉にはほんとうに遠慮がない。

「真央お前、後で関節技の刑な」

「そう簡単に捕まらないわよーっだ」

 確かに。その小柄な体格と素晴らしい運動神経を誇る真央を捕まえるのは、至難の業といえるだろう。

「それはともかく、唯ちゃん、そういう訳で。この週末は、『先輩』と五回呼ぶたびに…そうだなあ、女の子には手荒な真似はできないし」

 「あたしは女の子じゃないのかーっ」という真央の抗議の声を無視して、一哉はどこか意地の悪そうな顔で笑いながら、こちらを振り返ってきた。

「一時間、場所をわきまえず執事のように振舞って、お嬢さま扱いするってのはどうかな?」

「え…」

 唯がその意味を完全に理解し終える前に歓喜の叫びを上げたのは、真央と藤子だった。

「いいっ それいいっ 唯といち兄だったら、絶対さまになるわよっっ」

「そうよね、女の子の永遠の憧れよねっっ」

 いつの間に、こんなに意気投合していたのだろう? 二人は顔を見合わせて、「ねーっ」とうなずき合っている。

「と、いう訳で。唯ちゃん、そのつもりでよろしく」

「あっ あたしは了承してませんーっ!」

 唯の必死の叫びの後、車内は爆笑に包まれた…………。




    





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2017.2.26up

唐突に始まりました珍道中。
はてさて、どうなりますことやら。


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