〔5〕





 不審な出来事は、それからも続いた。



「おはようございまーす」

「おはよう、小林さん」

「おはよー」

 いつものように挨拶しながら更衣室に入った唯は、いつものように自分のロッカーに向かい、会社から支給された鍵を使ってロッカーを開ける。そのとたん、はらはら…と落ちてくる二つ折りにされたメモ用紙のようなもの。扉の隙間から中に入れられていたものらしい。

「?」

 何の気なしに拾って中を見た唯は、一瞬ドキリとする。そこには、まるで書きなぐったような乱暴な字で────筆跡を隠すためなのか、それとも感情が昂った故の結果なのか、唯にはわからなかった────『デカ女! 彼に近付くな!!』と書かれていたから…………。

 『デカ女』『大女』などと言われることは、不本意ながら慣れているから、ダメージは少ないけれど……『彼』、とは、誰のことであろう? 唯の近くにいる男性────とりあえず、父親と呼んでも差し支えないような年代の方々は外すとして────というと、木内たち同期の新入社員、一哉のような先輩社員、他の課の人も入れるとなると大崎をはじめとする幾人かもいるから、そこそこ多い人数で正直絞れそうにない。このメモを入れた人物は、ここが女子更衣室であるということも考えて、恐らくその誰かを好きな女子社員なのだろうが……そもそも『彼』とは誰を指すのかもわからないいまの状況では、特定のしようがない。

「おはよう、唯ちゃん。着替えもしないでどうしたの?」

 唐突に藤子に背後から声をかけられて、びくりと肩を震わせてしまう。

「あ、おはようございます、藤子先輩っ」

「何でそんなに驚いて…何? そのメモ」

 さすがに藤子は目ざとい。

「あ、いえ、何でもありませんっ 早く着替えないと時間なくなっちゃいますねっっ」

 などと適当にごまかして、唯は着替えを始める。メモは手の中でぎゅっと握り潰して、バッグの中にぽいと放り込んでおく。取っておきたくはなかったが、こんなものを誰に見られるかわからない会社のゴミ箱に捨てる訳にはいかない。藤子は怪訝そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わずに自分のロッカーへと向かってくれたので、ホッとする。

 着替えながら考えるのは、メモにあった文面のこと。自分が社内で接する男性は、たいてい藤子と共に接しているから、藤子の元にも似たようなことが書かれたメモが入っていそうだが…同じようにロッカーを開ける藤子の様子はいつもとまったく変わりがないように見えるから、藤子の元には入っていなかったのかも知れない。となると、『彼』とは同期の新入社員のことなのだろうか? 仮に一哉や大崎だった場合、藤子も『犯人』────ほんとうはそんな風に呼びたくないが、便宜上仕方がない────からすると先輩にあたるから、こんな中傷はできなかったのかも知れない。たとえ内心でどう思っていても、藤子が上司に報告でもして事態が表沙汰になった時、立場が悪くなるのは『犯人』なのは間違いないから。その点唯なら、社内に目上にあたる存在のほうが多いし、泣き寝入りするかも知れないと思われた可能性大だ。

 実際の唯は、そんなに弱い精神の持ち主ではないけれど、いまのところ『彼』が誰のことかわからないし、『犯人』の正体がわからないうちはどうにも動きようがない。どうしたらいいものかと思いながら、支度を済ませて声をかけてきた藤子に促されて、唯は更衣室を後にした…………。


 その一度で済むかと思っていた唯は、甘かったようだ。それからほとんど毎日ロッカーに入れられるメモに、さすがに唯も辟易し始めていた。相変わらず『彼』が誰なのかわからないし、犯人の素性すら見当がつかない。メモも朝にばかり入っているなら、毎朝唯より早く来る人に絞られるが、仕事が終わって帰ろうとする時や、昼休みに荷物を出し入れする時に入っていたりするので、時間から相手を推測することもできない。そして、同じ女性だからか、身長のことばかりでなく、女性なら誰でも傷つくであろう言葉がかなりバリエーション豊かに書かれていて、もしこの人がブログなどをやったら方向性さえ間違えなければかなり人気を得るのではないだろうかと、半ば現実逃避に近いことを考え始めていた。

 そして、そんな状態では、仕事での集中力にも問題が出始めて、提出前に自分で気付くこともあるが、チェックしてくれる藤子に指摘されて気付くなど、ミスも少々多くなってきてしまって……さすがに藤子にも不審に思われているのがわかるようになってしまった。

「ねえ、唯ちゃん。何か、悩みでもあるの? 最近おかしいわよ、集中力も落ちてるみたいだし」

「ご…五月病でしょうかねっ」

 給湯室で共に湯呑みを片付けていた藤子にずばり問われて、唯はとっさにごまかすように笑って答えた…のだけど。それでごまかされてくれるほど、藤子は甘くなかったようだ。

「唯ちゃん。あたしの目は節穴じゃないのよ? もう五月も終わりだってのに、五月病になるなんて誰が信じると思うの。他の人ならともかく、あの唯ちゃんがっ」

 いったいどんな目で自分は見られているのだと思ったが、藤子の言う通りといえば言う通りなので、ぐうの音も出ない。言葉に詰まって、ごまかすように手を拭こうとポケットからハンカチを出したその時、ポケットに一緒に入れてあった例のメモがぽろりと落ちた。今日は、昼休みになってロッカーに弁当を取りに行った時に入っていて、見つけた直後に他の人に突然声をかけられてしまったので、慌ててポケットに入れていたのだった。マズい、と思った時はもう遅い。唯が拾うより先に、藤子が「何これ」とそれを拾い上げ、偶然中を見てしまったらしい。人が怒りのために感情を一気に爆発させるさまを、唯は初めて見た。真央でも見たことがある気がするが、真央の場合は怒りをためるようなまどろっこしいことなどほとんどしないので、やはり初めてといっていいかも知れない。

「唯ちゃんっ 何これ!? 前にロッカーのとこで見てたメモと同じものよね、まさかあれから毎日こんなもの受け取ってたの!?

「あ、の、その……」

 もはや、言い逃れはできない。次の瞬間には、「詳しいことは帰りにどこかで」としっかり約束させられてしまっていた…………。




                       *      *




「…で? あれからずっと、ほとんど毎日入ってたってことなのね? それも、毎度ご丁寧に文面も変えて」

 終業後、会社の最寄り駅の中の喫茶店で、テーブルの上に置かれた例のメモを、藤子は忌々しげに指でピンっと弾く。綺麗な爪だなー、と唯はそれどころではないことを考えてしまっていたので、返事をするのが遅れてしまった。

「ゆーいちゃんっ? 『何かあったらすぐ相談して』って、あたし前に言ったわよね?」

 咎めるような口調であったが、藤子のそれは、唯を心配しているが故のものだとわかっているので、より申し訳ない気分になってしまった。

「だ、だって、私ひとりの問題かも知れないし、藤子先輩にご迷惑はかけられないと思って、自分一人で何とかできるならと……」

「で、その結果、その『彼』も『犯人』も見当がつかないままと」

 そう言われてしまうと身も蓋もないが…その通りなので、仕方がない。

「もっと早く相談してくれればよかったのに…ああ、心配だってのもあるけど、あたしなら心当たりがあったのにってことよ」

「えっ!?

「実はあたしも、同じように新入社員だった頃に、同じようなことをされたのよ。そのやり口と、よく似てるのよね。唯ちゃん、ちょっと前に資料室に閉じ込められたことがあったでしょ、あたしもあれやられたのよね。同じようにわりとすぐ他の人に助けてもらえたけど。あの時から、そうじゃないかとは思ってたけど……確証がないから黙ってたのよ。でもこのメモではっきり確信したわ。こんなことやるような女は、あいつしかいないわっ!!

 藤子が新入社員の頃に同じようなことをされたということは、やはり唯が可能性のひとつとして挙げていた通り、『犯人』はやはり先輩の誰かであったということか。と、なると、『彼』なる人物も、藤子より後輩ということはあり得なくなるということで…。そうなると、やはり最低でも一哉や大崎も含めて、それ以前に入った社員ということになる。

「あたしの時は、メモを入れてる現場をおさえて、はっきりきっぱり言ってやったんだけど……あたしには彼氏もいるし、相手もその女に仕事の仲間っていう以上の感情を持ってないってすっぱりフッてたから、それでおさまったのよ。それ以来何もなかったから、いい加減諦めたと思ってたのに……どうしていまさら…? 唯ちゃんの前にだって、別の女子社員が近くにいたってのに。何で唯ちゃんに限って……」

 そう言ってから、藤子は自分の分のコーヒーを一口飲んでから、黙り込んでしまった。

 それにしても、と思う。藤子の言う通り、藤子がやり込めてからは、いままで沈黙を守っていたらしいのに、いまになって再び行動を起こし始めた理由は何なのだろう? 相手にもフラレたらしいのに、まだ諦められなかったのだろうか。それとも、別に理由があるのだろうか? 考えれば考えるほどわからなくなってくる。

「ところで、唯ちゃん」

「はい?」

「いままで入ってたメモ、取ってある?」

「あ、はい。ホントは家で捨てようと思ってたんですけど、筆跡鑑定とか、相手が言い逃れできないような証拠にするのにもってこいかなと思って、一応……」

「わかった。じゃあ、明日そのメモ全部持ってきてくれる? あたしの時に、相手の男にもそれを見せてたから、今度のも同じ人物のものか、そいつと相談してみる」

「えっ その相手の男の人にも見せるんですかっ!? それはちょっと、例の人が可哀想じゃないかと…だって、いまでも多分そのひとのことを好きなんでしょうっ?」

「…唯ちゃん。これだけ迷惑被っておいて、まだ相手に同情する訳!? どれだけ人が好いコなのっ」

「だ、だって…っ」

 例の人────『彼』同様、唯には『犯人』の見当もついていないが、こんなことをしてしまったのもその『彼』が好きだからなのだろうし、以前にも藤子経由でやっていたことを知られてしまって相手の心証も悪くなっているだろうところにこれでは……『彼女』の恋はもう絶望的ではないか。それはあまりにも可哀想な気がして。

「唯ちゃん、あのねえ。これは、再犯なのよ? でなくても、たとえ以前のことがなかったとしても、『彼女のことは何とも思っていない』って相手の男が言ってたの。だからかしら、相手の奴も社外でしか恋人を作らなくなったのは。それって、いまもその彼女にそういう感情は持てないからってことでしょう? それを別にしても、何も言えないかも知れない新入社員に嫌がらせするって時点で、既に最低よ。相手のコは然るべき報いを受けるべきだわ」

 という訳で、例のメモは忘れずに持ってきてねと釘をさしてから、藤子は帰っていった。

 帰りの電車に揺られながら、唯は考える。唯はまだそこまで誰かを好きになったことがないから────相手の恋人ならまだしも、ただ親しい女性に嫌がらせせずにいられないほどに────例の彼女の心理はわからないが、本人も多分自分でも頭のどこかでわかっているだろうに、自分を止められない心情とはいかほどのものだろう。誰かを好きになったら、そこまで思いつめてしまうこともあるのだろうか。そんな風に誰かを傷つけずにいられないなら、自分は誰も好きにならないでいいと思うけれど、好きになってしまったらどうしようもないのかも知れないと結論を出して、それ以上考えることをやめた。


 翌日。朝のうちに藤子に言われるままメモの束を渡して────藤子はその枚数と書かれている言葉に不機嫌そうに形のいい眉をひそめていたが────その後は普通に仕事に没頭した。藤子に聞いてもらって、また、解決への糸口も見えたこともあってか、いくらか気が楽になったのだろう、この日は作業もスムーズに進んだ。

 予想もしていなかった事件が起こったのは、昼休み、ロッカーに弁当箱その他をしまいに行こうとした、その時。階段は上る人、下る人でそれなりに賑わっており、後ろにも前にもわりとそばに誰かしらがいるような状態で。だから、藤子と共に下りている最中に後後に誰かが近付いてきても、気にすることはなかったのだけど。ドン!と誰かに強めに背中を押された気がした。

「きゃっ!?

「唯ちゃんっ!?

 もう、何も考えられなかった。階段の中ほどから下の踊り場へと、まるでスローモーションのように迫ってくる床。不思議と恐怖も何も感じなかったが、このまま床にたたきつけられたら痛いだろうなあとのん気に考えてしまった唯は、ガシッと感じる衝撃────もう床に着いたのかと思ったが、それにしては痛みはほとんど感じないそれに、半ば無意識に瞑っていた目をそっと開けた。

「…?」

 まず目についたのは、きちんと締められたネクタイの結び目。ゆっくりと視線を上げると、見慣れた顔が驚きの表情を浮かべているのが視界に飛び込んできたが、そのあまりの近さにパニックを起こしてしまって、そこで完全に何も考えられなくなってしまった。

「唯ちゃん、大槻っ! ふたりとも大丈夫!?

 慌てふためいたような藤子の声が頭上から降ってくる。その声にハッとして、ゆっくり辺りを見回すと、自分は床にたたきつけられる前にたまたま下から上ってきた一哉に抱きとめてもらえたらしく……足も、床にしっかりついていることに、ここにきてやっと気付いた。

「あ……」

「小林さん、大丈夫? ここでちょうど向きを変えたとたんに小林さんが降って来たんで、驚いたよ」

 唯の肩を両手で支えてくれていた一哉が、優しく問いかけてくる。

「だ…大丈夫です、多分」

 まだぼんやりとしている頭に、半ば無意識に片手を当てる。

「とか言って、役得とか思ってんじゃねえの?」

「お前と一緒にするな」

 楽しそうに言う大崎にさして気分を害した様子もなく答える一哉に、唯はようやくハッとして、慌てて一哉の胸から離れようとした。

「あ、助けてくださってありがとうございますっ おかげで、怪我もなく済んだようで……」

 そう言いながら、一哉から離れようとしたのだが。自分でもいまさら遅いと思うが、脚ががくがくと震え、その場にへたり込んでしまった。

「え? ど、どうしたんだろ、脚に力が入らない……」

「そりゃああんな高さから真正面から落ちたんだ、身体がビビっちゃっても仕方ないよなあ」

 大崎が同情的に言ってくる。そういうことが、あるのだろうか。

「それにしても、いったいどうして…足でも滑らせちゃったのかい?」

 一哉の言葉に、落ちる直前のことを思い出す。そうだ。自分は足を滑らせたのではなく、後ろから誰かに…! それを思い出したとたん、唯の全身がガタガタと震え始めた。それを怪訝に思ったらしい、一哉の声。

「…どうしたんだい?」

「あ…私、誰かに背中を押されて……!」

 震える声でそれだけ言うのがやっとで、その言葉を聞いた藤子たち三人が険しい表情で顔を見合わせていることに気付くことができなかった。大崎が何かを言おうとしているのを、一哉と藤子が目で制していることにも。

「とりあえず、唯ちゃん、休憩室に行きましょ。あそこなら、座っていられる椅子もあるから」

「あ、はい……」

 一哉と藤子に支えられながら、休憩室へと向かう。そんな自分を見つめる、誰かの視線にまるで気付くことなく……。


 少しの間座っていたら、何とか脚も普通に戻ってくれたようで、午後の業務には何とか遅れずに戻ることができた。藤子と一哉が心配そうな顔でちらちらとこちらを見てくるので、「大丈夫ですよ」という気持ちもこめて、にっこりと微笑んで見せる。

 それにしても、と思う。いままでは、昔の少女漫画のような嫌がらせしかされていなかったのに、ここに来て突然直接的な攻撃に晒されるとは思ってもみなかった。同じ相手という確証はなかったが、同時期に二人の人物に嫌がらせをされる可能性よりは、そっちのほうが可能性は高いと思う。もしかして、唯が目に見えて凹んだりしなかったから、あちらもしびれを切らしたのだろうか? だとしたら、これからは身の回りにも注意しながら生活しなければならないのだろうか。考えただけで神経がすり減りそうだ。何だかサスペンスドラマの主人公にでもなったような気分になって、唯は深いため息をついてしまった…………。

 けれど。終業後に行ったロッカーの中に、『カワイくもないくせに、男に抱きついて気をひいてるんじゃないわよ!!』と書かれたメモがあって…一瞬で、昼休みの時のことを指しているのだと悟った唯の、怒りのボルテージが一気に上がりきった。




 誰が突き飛ばしたせいで抱きつく羽目になったと思ってるのよっ!!




 ぶつかったのならともかく、明らかに突き飛ばしてきたあの手は、このメモの送り主のものだと唯はハッキリと確信していた。一哉が通りかからなかったら────もし通りかかったのが一哉ほど恵まれた体格の持ち主でなかったら、唯もその相手も大怪我をしていた可能性だってあるというのに、勝手なことを言ってくる相手に、唯は初めて憎悪の感情を抱いて。もし藤子がその手から取り上げなかったら、例のメモをビリビリに破いてしまったかも知れないほど、激しい怒りに支配されていた…………。




    





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2017.2.9up


ついに存在を主張し始めた相手。いったい誰なのか。
唯もいい加減キレたようで、次回は激突必至?


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