それから二日ほど経った日の午前中。よく晴れた陽射しの中、亜衣子は駅で待ち合わせた未唯菜と共に、祐真と高坂が住む町の駅にやってきていた。

「先輩、祐真くんの住んでるところって、ここから遠いんですかー?」

「そんなでもないわよ。歩いて十五分くらいかしら。それより、ほんとうにいいの? 未唯菜ちゃん」

「何がですかあ?」

「多分、未唯菜ちゃんが思っているより、すさまじいことになってるわよ、あの部屋は。私は慣れてるからいいけど、あんまり純真な女の子に見せたくないというか……」


 男きょうだいがいない女の子に見せるには、少々すさまじ過ぎるのではないかと思うのだが……しかし未唯菜は、亜衣子の危惧など吹き飛ばすような明るい笑顔でけたけたと笑ってみせたのだ。

「大丈夫ですよー、そんな、温室育ちのお嬢さまでもあるまいに。先輩だって知ってるでしょう? ワイ談なんかは、実は男の子より女の子のそれのほうがえげつないって」

「そ、それはそうかも知れないけど……」

 そういう話になりそうな時点で亜衣子はさりげなく逃げていたから、あんまり際どい話は聞いたことがないのも事実だったので、未唯菜の言葉に曖昧な言葉を返す。中学からつきあっている人がいる結花やクラスメートたちと違い、いままで誰とも付き合ったことのない亜衣子には刺激が強過ぎたのだ。他の後輩たちはどうだったかよく覚えていないけれど。

「それに、今回は私の先輩に対するお詫びでもあるんですから。どんなのが出てきたって逃げませんから、心配しないでください」

 そうだった。今日未唯菜が同行したのは、先日の鷹急ハイランドでの発言が原因だったのだ。亜衣子にしてみれば、そんなに気を遣わなくていいのにと思うけれど、未唯菜がもし祐真を好きな場合、手伝わせてあげるほうがよいのだろうかとも考えるようになっていた。

 話している間に、祐真のアパートの部屋の前に着いて。バッグから合鍵を取り出しながら、亜衣子は軽く息をつく。

「じゃ、開けるわよ? 覚悟はいいわね?」

 以前のように約二ヶ月ぶりとまではいかないが、三週間弱という期間やってきていなかったのだ、綺麗なままの訳がない。しかもいまは真夏でもある。想像するのも恐ろしい気がするのは、決して気のせいではないだろう。

「はーい。どうぞ開けてくださいー」

 何も知らない未唯菜の呑気な声を聞きながら、亜衣子は意を決して鍵穴に鍵を差し込んで、くるりと回す。そうして鍵を抜いてから、ゆっくりとドアを開けると、中からむわっとした耐えがたい熱気が襲い掛かってくる。一瞬間を置いて、何ともいえない匂い。以前よりパワーアップしているようなその匂いに、一瞬眉をしかめてから、率先して中に入る。

「……っ!!

 中は、亜衣子が予想していた通り、やはり惨状だった。姉として、弟の醜態は見せたくなかったが、仕方ない。未唯菜と二人、ミュールを脱いで中に上がる─────もちろん玄関の鍵はきちんと閉めてからだ。

「わあ─────」

 未唯菜の口から、驚愕の声がもれる。ああ、やはりひかせてしまったかと思った亜衣子の耳に届いたのは、意外な言葉。

「すっごーい、男の人の部屋ってこんななんですねえ、初めて見ましたっ」

 いやこれを一般的な男性の部屋の平常と言いきるには少々失礼なのではないかと思うが─────男性と一口に言っても、綺麗好きな男性や家事が得意な男性だっているだろうし。

「いえ、未唯菜ちゃん、男性のみんながみんな、こういう生活をしている訳じゃないと思うわよ? うちの祐真は、実家に居た頃から結構ズボラなほうだったし」

「そうなんですか? 普段は結構清潔にしてるように見えましたけど」

「それは、母や私の教育の賜物よ。さすがに表に出る時は小奇麗にさせるようにしてたから。さて」

 言いながらカーテンを開けると、眩しい夏の陽射しが容赦なく差し込んでくる。窓を開けながら振り返り、未唯菜に声をかける。

「未唯菜ちゃん、私まず洗濯から始めちゃうから、お布団を干しちゃってくれるかしら? ベランダって呼べるほど上等なものなんてないけど」

「はーい、わっかりましたあ」

 未唯菜の返事に笑みを浮かべてから、二人はバッグを部屋の端に置いて、行動を開始する。そういう分担にしたのは、未唯菜がいきなり祐真の下着などを目のあたりにしたりするのを防ぐためだ。いくら物怖じしないコといっても、いきなり使用済みの男性用下着など見せる訳にもいかない。

「あ、シーツはこっちの洗濯済みのに取り替えてね。祐真のことだから、きっとあんまり取り替えてないわよ」

 苦笑しながら新しいものを差し出すと、未唯菜は何の迷いもない様子で目前の布団にいきなり突っ伏してから、再び顔を上げて苦笑いを浮かべながらひとこと。

ホントだ、汗臭ーいっ」

「何も顔ごと突っ込まなくても……」

 思わず亜衣子も苦笑い。

「でも、男の子だなあって感じで、こういう匂い嫌いじゃないです、私」

「そうお? 未唯菜ちゃんも変わってるわねえ」

「亜衣子先輩だって、高坂先輩の匂いだったら平気でしょ?」

 ひとの悪い笑みを浮かべた未唯菜に、予想もしていなかった言葉を言われて、拾いかけていた祐真の服やタオルをボトボトと落としてしまう。

「な、何を言うのよ、未唯菜ちゃんてばっ」

「でも、図星なんでしょ〜? 先輩、顔真っ赤ですよ〜」

「知りませんっ」

 もう何と答えていいのかわからなくて、ぷいと顔をそむけてしまう亜衣子の背後から、未唯菜のくすくす笑いが聞こえてきて、余計に居心地が悪い。

「はいっ さっさとやっちゃわないと、いつまでも帰れないわよっっ」

 照れ隠しで言った言葉に、未唯菜がよい子のお返事を寄越してくる。

「はあ〜い」

 久しぶりだったし、また時間がかかるかと思っていたが、さすがに二人がかりなだけあって、思っていたよりずいぶん早く掃除や洗濯は終わってしまった。さすがに下着に直接触れる洗濯やトイレ掃除は亜衣子が担当したが、未唯菜も意外と言っては失礼かも知れないが、家でよく手伝いをしているのかかなり手際がよかったので、それもあったのだろう。

「お疲れさま、未唯菜ちゃん。思ってたより全然早く終わったわ、ありがとう」

 言いながら、冷蔵庫から出してきた缶ジュースを一本手渡す。これくらいの報酬はもらっても構わないだろう。自分の分の缶のプルトップを引きながら未唯菜の隣に腰を下ろすと、未唯菜の何だか不満そうな表情が目に入って、不思議に思う。

「あ、このジュース嫌いだった?」

「あ、違います、ごめんなさい。きっとあると思ってたものがなかったから、ちょっとつまんなくて」

「え? なあに、それ」

「よく漫画なんかで、一人暮らしで不潔にしてる男の人の部屋には生えてるってあったのに……サルマタケ」

 その言葉を聞いた瞬間、もう堪えきれなくなって亜衣子は思いきり笑い出してしまったので、危うくジュースをこぼしそうになってしまった。思い返せば亜衣子も、最初に掃除に来た時には名前こそ思い浮かばなかったものの、似たようなことを考えていたことを思い出したのだ。

「もー、先輩、そんなに笑わなくたっていいじゃないですかー」

 ぷう、と拗ねたように頬を膨らませる未唯菜の顔は、とても可愛らしい。

「あ、違うの、ごめんなさい。私も最初に来た時は似たようなことを思ったものだから、つい…ね」

「先輩もそう思いました!? やっぱり考えちゃいますよねえっ」

「そうね、前に来た時は、今日よりもっとすごかったもの。布団を上げたら生えてるんじゃないかと冷や冷やしたわー」

「あとはあれですねっ」

「なに?」

「思春期から先の男の子の必需品、えっちな本やビデオっ」

 未唯菜の言葉に、先日高坂と電話で交わした会話を思い出してしまって、すさまじい勢いで紅潮していくみずからの顔を止められなかった。

「えー、何ですか〜、何かあったんですかー?」

「な、何でもないわよっ」

 なかなか追及の手をゆるめない未唯菜と、断固として答えようとしない亜衣子。万が一ここに高坂と祐真がいたなら、やはり真っ赤になってしまったであろう高坂と共に、未唯菜と祐真にさんざんからかわれまくったことだろうと亜衣子は思う。

「さ、さあ、そろそろ洗濯物も乾いたろうし、お布団と一緒に取り込んでいい加減帰りましょうかっ 私たちも汗だくになっちゃったし、早く帰ってシャワーでも浴びましょうっっ」

 缶ジュースの残りを飲み終えて、亜衣子がすっくと立ち上がると、下から未唯菜の「あー、ごまかしたー」という不満そうな声が聞こえてくるが、亜衣子は聞こえないふりをする。

 窓を開けて、干してあった洗濯物を手に取ると、見覚えのある真っ赤なトランクスが目に入って、またしても赤くなりかける顔を懸命に堪える。ここでまたそんな反応を見せたら、今度こそ未唯菜は追及の手を止めないだろうから。布団は未唯菜にまかせて、亜衣子は洗濯物を手早くたたんでタンスの中にしまい入れる。

 空いた缶二つを綺麗に洗って、ビン・カン類用のゴミ袋に放り込んで、最後のチェックをしてから未唯菜と二人、戸締りをきちんとして部屋を後にする。

「先輩、祐真くんと高坂先輩っていまはバイト中でしょうかね?」

「そうなんじゃない? 昨日『こっちに掃除しに行く』ってメールしたら、そんなこと言ってたし。こっちも思ったより早く終わったし」

「じゃあ、あそこのコンビニ寄ってっちゃいましょうよー」

「そうね、未唯菜ちゃんからも言ってやって? サルマタケが生えない程度には綺麗にしとけって」

 くすくすと笑いながら、二人で件のコンビニへと向かう。そこで、どんな出来事が自分を待っているのか、亜衣子は何も知らないままで…………。




          *      *     *




 夕方になって、ようやく少し陽が傾いてきたかと思ったが、暑さはやはりあまり変わらないままで、ただ歩いているだけで汗ばんでくるほどだった。こんなに汗をかいた状態で高坂に逢うのは少々嫌だったけれど、デオドラントシートや制汗スプレーも使ったし、何とか汗臭いと思われることは回避できるのではないかと思いながら、亜衣子は未唯菜と共に駅前へと向かう。


「あれ? 亜衣子先輩、あの建物の裏手にいるの、高坂先輩じゃないですか?」

 未唯菜の言葉に思わずそちらを向くと、なるほど確かに高坂が立っていた。亜衣子の心が、春の陽射しに包まれたように暖かくなってくる。が、そんな暖かさも、次の瞬間には真冬の極寒地方に放り出された如く、急激に冷えきってしまったけれど。

「真面目に働いているようね、感心感心♪」

 高坂に向かって言うのは、茶色の髪を肩の辺りで切り揃えた、女性にしては背の高い…亜衣子の身長が高坂の顎の辺りだとすれば、その女性は鼻の辺りだろうか。年齢も亜衣子や高坂よりいくらか上のようで、亜衣子にはとても出せないような大人の女の色香を醸し出していて、けれど決して下品ではなく自立した雰囲気さえ感じさせる、キャリアウーマンという言葉がしっくりきそうな女性だった。

「みゆきさん、わざわざ俺の働きぶりをチェックしに来たのか? 暇人だなあ」

 高坂とは知己の間柄なのか、高坂の言動も気のおけない様子で……それが、二人の親しさを表しているような気がした。

「失礼ね、こっちの取引先に用があって、直帰でいいって言われたし、ついでに思い出したから寄ってみたのよ」

「なら、早く帰りなよ。旦那さんや子どもたちの世話もあるんだろ?」

「そんなに邪険にしなくてもいいじゃないのー。まあでも、学生のバイトだからって甘えずしっかりやってるようで安心したわ」

「まあ、これで給料もらってる訳だからな、手は抜けないよ」

「よしよし、いい子いい子♪」

「みゆきさん、俺もうハタチだぜ? ガキ扱いはいい加減にやめてくれよ」

 頭を撫でられて複雑そうな顔をしながらも、高坂から放たれる雰囲気からは決して嫌な感情を抱いているようには感じられない。 二人の会話からして、高坂が幼い頃からのつきあいであることが見てとれて、亜衣子は何だかモヤモヤとした感情が心の奥底からわき出てくるのを止められなかった。

「─────未唯菜ちゃん」

 かたわらの未唯菜を振り返ることなく話しかける。

「はい?」

「私……悪いんだけど、コンビニに寄らないでこのまま帰るわ。未唯菜ちゃんは気にしないで寄っていって。ホントごめんなさい、今日はお疲れさま」

 言うだけ言って、未唯菜の返事を待たずにきびすを返そうとする。

「先輩っ!?

「ごめんね、また電話するから…………」

 そのまま、未唯菜が止めるのもきかず、駅に向かって早足で歩きだす。これ以上、二人の姿を見ていたくなかったのだ。とにかく駅に行って、さっさと電車に乗って帰ってしまいたかったから。亜衣子は気付かなかった。高坂と話していた例の女性が、自分と未唯菜のやりとりを途中からだが、見ていたことに。そして未唯菜が、慌てふためいた様子でコンビニの中に駆け込んでいったことも。

「…………」

 駅に着いた亜衣子は、次の電車がまだしばらく来ないことに気付いて、愕然とする。早く家に帰って、自分の部屋のベッドに飛び込んでしまいたかったのに。ほんとうはいますぐにでも泣き出したかったけれど、こんな衆人環視の中ではそれもできるはずもない。

 早く早く。早く電車、来て。じゃないと私、家に帰るまでもたないかも知れない。

 心の大部分を占めるのは、自分でも戸惑ってしまうほどのどす黒い感情。自分は高坂のただの友達で、それだってつい最近からのものだから、高校三年間はただのクラスメートでしかなくて。勝手に亜衣子が好きになっただけなのだから、嫉妬するのはお門違いということもちゃんとわかっている。高坂のつきあう相手について、決める権利があるのも高坂ただ一人で、自分には何を言う権利もないということも。けれど、見たくなかった。高坂が、亜衣子の知っているか知らないかは関係なく、他の女の子や女性と仲良くしている姿なんて!

 思い返せば、高校の頃から高坂は何度か自校他校に関わらず、女生徒によく告白されていた。それを他の女生徒達の噂で知るたびに、心臓を鷲掴みにされたような気分になったことも覚えている。そうして、断ったらしいと結果を聞くたびに安堵の息をもらして。自分は告白すらできない臆病者だというのに、勇気を出して玉砕した相手に感銘を覚えるより先に、ホッとしている自分に気付いて、自己嫌悪に陥ったものだった。

 高坂は、「旦那さんや子ども」と言っていた。ということは、例の女性は既婚者ということで。亜衣子の脳裏に、以前高坂に夜道を送ってもらった時の会話がよみがえる。あの時、「彼女はいないのか」と問うた亜衣子に、高坂は何と答えた? 一瞬複雑そうな表情を浮かべてから、

「勉強とバイトで忙しくて、そんな暇なんかないよ。いままでも、多分これからも」

 と答えたのではなかったか。もしも、あの女性が高坂の想い人だったとすると、あの時の高坂の言動の辻褄が合う。

 相手が既婚者だったから、想いを打ち明けることもできず、伝えることもできないからこそ想いを昇華させることもできず、ずっと諦めることもできずに苦しんできたのではないだろうか。誰にも相談すらできず、ずっと独りで──────。

 かなわない、と思ったとたん、亜衣子の瞳から涙が一粒こぼれそうになった、まさにその瞬間。息を切らした未唯菜がそっと腕に手を寄せてきたので、驚いてしまって涙が引っ込んでしまった。

「先輩、独りで苦しむのなんてなしですよ。あたしは何があってもずっと先輩の味方ですから。いつでもどんな時でも、どんどん頼ってきてください」

 自分より、二つも年下の相手だというのに。まっすぐな瞳で放たれた心強い言葉が、亜衣子の心に深く深く染み込んで。涙が再びこぼれそうになってしまう。

「……ありがとう──────」

 未唯菜の細い肩にそっと顔を埋めて、ぽつりと呟く。

 未唯菜がいてくれて、ほんとうによかったと思う。たとえ未唯菜が祐真と結ばれなかったとしても、一生ずっとそばにいてほしいと。亜衣子は心から思った。

 そんな自分たちの知らないところで、意外な人物たちが平静を失って大慌てで善後策を講じていたことに、まるで気付かないまま…………。





    



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2012.12.21改訂版up

亜衣子に新たなライバル登場? 待て次回!
男性一人暮らしの部屋にほんとうにキノコが生えるのかは…謎です(笑)


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