「笹野がよかったらの話だけど、俺、これからにでも笹野と普通に友達になりたい」


 高坂の言葉が、胸に染み入っていく。


 返事がしたいのに。自分も同じことを思っていたと、高坂に応えたいのに。あふれる涙はとどまることを知らず、声が喉から出てきてはくれない。けれど、何度も何度も頷く亜衣子の様子に、高坂には言いたいことはすべて伝わったようで、高坂はとても優しい瞳で亜衣子を見つめ返している。これまで見たこともないような、優しい微笑みつきで。


 バッグから手探りで何とかハンカチを取り出して、涙を拭う。夢を見ているのかと思ったけれど、「よかったら使ってくれ」と自分のハンカチを差し出してくれた高坂の指の温もりは、決して夢ではなくて…………。

「ご、めんなさ…止まら、なくて……」

「気にするな。こう言っちゃ怒られるかも知れないけど、笹野の涙はすごい綺麗だと思うから、だから」

 『綺麗』? こんなにぐじゅぐじゅになって、きっと顔も鼻も真っ赤でみっともないだろうと思うのに。高坂には、そんな風に見えているのだろうか。

「しっかし、こんなところもし祐真に見られてたら、『何うちの姉貴泣かせてんだオラぁ』ぐらい言われちまうかもな」

 どことなく自嘲気味に高坂が言うのが可笑しくて、亜衣子はついクスリと笑ってしまう。実際は、祐真と未唯菜の乗っているであろうゴンドラに亜衣子は背を向ける形で座っているから、亜衣子が泣いているのはふたりからは見えないだろうけど。

「─────やっと笑ってくれた」

 その言葉に、亜衣子の顔が再び噴火せんばかりに紅潮する。

「あっと、もうすぐ地上に着くな。その前に、携帯の番号とメルアド交換してもいいか? 祐真たちの前でやったら、何言われるかわからないから」

 それには亜衣子も同感だったので、再びバッグから携帯を出して、赤外線受信で番号とメルアドを交換する。ずっと夢見ていたことが、いま現実にかなっている。その事実が信じられなくて、亜衣子は何度もその番号とメルアドを見返していた。

 やがて、ガクンっと軽い衝撃が来て、ゴンドラのドアが係員によって開けられる。顔に二枚のハンカチを当てたまま、高坂の手を借りて地上に降り立った亜衣子は、ぐしゃぐしゃになってしまった顔を見られるのが恥ずかしくて軽く俯いたまま、小さな声で囁いた。

「わ…私、ちょっとお手洗いに行ってくるわね。このままじゃ、とてもじゃないけど誰にも顔を見せられないもの」

「…ああ。ゆっくり行ってきな」

 高坂の優しい声を背に受けながら、近くにあった化粧室へと小走りで駆け込んでいく。先刻の高坂の冗談でもないけれど、万が一にも祐真にこんな顔を見られたら、高坂があらぬ疑いをかけられてしまうだろうから。夏だし、汗拭きに必要になるかも知れないと思って、ハンドタオルを持参しておいてよかったと思う。軽く顔を洗ってから、鏡の前で化粧直しを始めたところで、慌てたように駆け込んでくる未唯菜と鏡越しに目が合った。

「亜衣子先輩、どうしたんですかっ!?

「え、何でもないわよ?」

 できるだけ平静を装って返事をするけれど、未唯菜はごまかされてはくれなかったようだ。

「何でもないってことはないでしょうっ!? 泣いたんですかっ!? 高坂先輩が何かひどいことを言ったかやったかしたんですかっ」

 放っておいたら亜衣子の返事を待たずに高坂に詰め寄っていきそうな未唯菜の手を掴んで、「違うからっ」と慌てて止める。

「これは嬉し涙だから、高坂くんはなんにも悪くないの」

 その言葉を聞いた唯菜の様子がころっと変わって、人の悪そうな笑みを浮かべて亜衣子に詰め寄ってくる。

「嬉し涙って、高坂先輩に何言われたんですか〜? もしかして、告白でもされたんですか〜?」

「ち、違うわよっ ただ……」

「『ただ』?」

 相変わらず楽しそうな顔で未唯菜が復唱してくるので、何となく居心地が悪い。

「『友達に、なろう』って」

「──────は?」

 この時の未唯菜の顔は見ものだったと亜衣子は思う。いままで見たこともないほどに間の抜けた顔をしている未唯菜に、亜衣子は更に続ける。

「何だか、いろいろ誤解があったみたいで…お互い、『祐真の姉だから』、『祐真の先輩だから』好意的に接してると思い込んでたってことがわかって。だから、これから『祐真のことは別にして友達になろう』って」

 そう。いままでの、間に祐真を挟んだつきあい方ではなく、それぞれひとりの人間として友達になろうと。高坂は言ってくれたのだ。

「高坂くんの携帯番号とメルアド、初めて知っちゃった……夢みたい」

 いままで、ずっと夢見ていた。高坂と、電話やメールでやりとりすること。それはきっとかなわない夢だと、ずっとずっと思っていたけれど──────。

「ま、まあ、いままでを考えたら、かなりの進歩だとは思いますけど……」

 未唯菜は気が抜けたような表情と声で呟く。

「だからって、それで満足してちゃダメですよっ!? そりゃあんまりガンガンやっちゃうとうざがられちゃうかも知れないけど、二、三日に一度くらいはメールとかしなきゃ!」

「そ、そんなにマメにやらなきゃダメ?」

「いままでの溝を埋めるにはちょうどいいぐらいだと思いますけど?」

 そういうものなのだろうか? でも未唯菜が言うのなら、間違いではないのかも知れない。

「あとは、祐真くんが向こうにもハッパかけてくれれば……」

 未唯菜がぽつりと呟いた言葉は、亜衣子の耳には届かなかった。

 二人が女子トイレから出ていくと、高坂と祐真がすぐに気がついて軽く手を上げる。

「大丈夫か?」

「ええ。お待たせして、ごめんなさい」

「じゃあ、遅くならないうちにそろそろ帰るか。祐真、お前はこっちの藤原さんだったか?を送ってけ。俺は笹野を送っていくから」

 高坂のその言葉を聞いた瞬間、祐真は軽く口笛を吹き、未唯菜は嬉しそうな顔で亜衣子の腕を肘で軽くつついてくる。

「えっ 私なら、もう大丈夫よ」

「いや、俺が心配だから。いまは明るくても、危ないこともあるし」

 いままでの遠慮は何だったのかと思うほどの高坂の積極的な態度に、亜衣子はかすかに頬を染めて、「じゃ、じゃあお願いします…」とだけ答えた。

 それから、四人で鷹急ハイランドを後にして、途中まで同じ道を共に進んでから、亜衣子と祐真、それから未唯菜の家の方向へと別れてそれぞれ歩き出す。

「んじゃ次は、今日の詫びに姉ちゃんの得意分野のカラオケおごるから。あとで都合のいい日時教えてくれなー」

 別れ際にそう言った祐真に、亜衣子は「別に気にしなくていいのに」と答えたけれど、未唯菜の「私も久しぶりに亜衣子先輩と一緒に歌いたいですーっ」というおねだりに負けて、了承してしまった。

「笹野は、日本の歌手は誰が好きなんだ?」

「そんなにマメにチェックしてるほうじゃないけど、平井堅さんとか好きかな。高坂くんは?」

「俺は…福山雅治とか森山直太郎とかかな」

「あ、私もわりと好き」

「よかったら、CD何枚か持ってるから貸そうか?」

「いいの? ありがとう」

 笑顔で告げると、高坂が驚いたような表情を浮かべたので、亜衣子は不思議に思って問いかけてしまう。

「どうしたの?」

「いや…何かまだ、信じられなくて。今朝までは、笹野は俺のことは祐真の先輩としか思ってないと思ってたから」

 それは、亜衣子も同様だ。

「私だって……祐真の姉としか思われてないと思ってたから、こうして普通に話ができるのが何だか不思議」

「あ…後でさ、メールしても構わないか? もちろん深夜とか早朝は避けるから」

「もちろんよ。私も…実はまだあんまり実感がわいてなかったりして。いままで、男子の友達ってほとんどいなかったから」

「マジで!?

 今度は本気で驚いたような顔で、高坂がこちらを向いてきたので、亜衣子も驚いてしまう。

「え、ええ…」

「そっか……」

 すぐに前を向いた高坂の顔がどことなく嬉しそうに見えたのは、気のせいだろうか?

「あ、ハンカチ、ぐしゃぐしゃにしちゃってごめんなさい。ちゃんと洗濯して返すから、ちょっと待っててね」

「それ」

「え?」

「気にしてないから、謝らなくていい。どうせなら、俺は『ごめん』より『ありがとう』のほうが嬉しい」

「……わかったわ。気をつけるように…する」

 まだどことなくぎこちない会話をかわしながら、少しずつ長くなっていく影と共に、ふたりはゆっくりと歩いて行った…………。




         *       *      *




 高坂から電話があったのは、鷹急ハイランドに行って三日ほど経った日の夜だった。たまたま自分の部屋にいた亜衣子は、ベッドに腰を下ろしながらオンフックボタンを押す。


「はい、亜衣子です」

 下の名前を名乗ったのに他意はない。ただ名字を名乗ったら、高坂からしたら祐真と紛らわしいかと思っただけだった。

『もしもし、高坂だけど。いま、大丈夫か?』

 初めて聴く、電話越しの高坂の声。肉声を直接聞くのと違って、耳元で聞こえてくるそれが嬉しいようなくすぐったいような。

「ええ、大丈夫よ。いまは自分の部屋で、他に誰もいないし」

『そっか。ああ最初に訊こうと思ってたけど…身体のほうは、もう大丈夫か?』

「ええ、もうすっかり。ちゃんと睡眠も食事もとったから、いまはもう全然元気よ」

『ならよかった。それが一番心配だったんだ……』

「心配させてごめんなさい。でも…ありがとう」

 最後に逢った時に言われた、「『ごめん』より『ありがとう』が聞きたい」という言葉を思い起こしながら告げると、電話の向こうで高坂が安心したように笑う気配。

「でも、何だか不思議な感じ」

『何が?』

「高坂くんと、こうして電話で話ができる日が来るなんて……夢にも思ってなかったから」

『俺だってそうだよ。こんな風に、他愛ない話をできる日が来るなんて思ってなかったし』

 ほんとうに……祐真がいてくれてよかったと思う。もちろんもともと可愛い弟ではあったが────本人に面と向かって告げたことはないけれど────もしも祐真がいなかったら、こんなささいな幸せさえいま感じられなかったかも知れないと思うと、やはり改めて感謝したい気持ちになってくる。

『それで、祐真も気にしてたんだけど、カラオケはいつがいいか訊きたかったんだけど』

 その言葉に、亜衣子はハッとする。

「あ、それなんだけど……これから大学も夏休みに入るでしょ、そうしたら私、週に二回くらい夜にバイトすることが決まっちゃって。その曜日以外なら、いつでも大丈夫なんだけど」

『夜!?

 高坂があからさまに驚いた声で聞き返してくる。

「あ、夜といっても、変なところじゃないのよ。近所に今度高校受験の中三の子がいるんだけど、その子の家庭教師をしてくれないかってお母さまのほうから頼まれて」

『あ、家庭教師か……大学生のメジャーなバイトのひとつだよな。でも、その生徒って男だったりしないか? その年頃の男なんて、考えることはひとつだぞ。そんなのの目の前に、笹野みたいに綺麗な年上の女性なんかが夏ならではの薄着でうろついてたりしたら…!』

 高坂の口から「綺麗」なんて、初めて言われた気がする。ああ前回逢った時に「涙が綺麗」とは言われたけれど……堪えきれなくて、顔が紅潮していくのを止められない。電話でよかったと、亜衣子はしみじみと思う。

『笹野?』

「あ、何でもないわ。心配してくれてありがと。でも大丈夫よ、その子は女の子だし。昔から、私のことを姉のように慕ってくれているコなの。未唯菜ちゃんとちょっと似てるかな」

『何だ、女の子か…ならよかった』

 電話の向こうから聞こえてくる、ため息がひとつ。

「でも。『考えることはひとつ』って……高坂くんもそうだったりしたの?」

 恥ずかしかったけれど、思いきって訊いてみたとたん、高坂が言葉に詰まったのが気配でわかった。

『そ、そりゃお前……俺だって健康な一男子だったからな。笹野はえらく高潔な男のように言ってくれてたけど、中高生の頃なんて毎日、女の子にはとても言えないようなことばっか考えてて……』

 気恥ずかしそうに本人に直接言われても、まだ信じられない。頭では、思春期の男子なんてそんなものだとわかってはいるのだけど。実際、かつて祐真の部屋でその手の雑誌を見つけて、とても驚いたことも覚えてはいるのだけど……。

「うそ、みたい……全然そんな風に見えないのに」

『剣道に打ち込んだ理由の半分は、煩悩をはらうため、というのもあったからな。いまだ成功はしてなくて、見た目だけは冷静に見える、周りからある意味むっつりスケベと言われるような状態に…って、何を言わせるんだよっっ』

 言っている間に冷静さを取り戻したらしく、わずかな余裕すら感じられないような高坂の声が電話から聞こえてきて、亜衣子は更に驚いてしまう。嘘みたいだ。高坂が、そんなことを考えていたなんて。いままで見てきたのは高坂の当たり障りのない表面の部分で、友達になれたいまだからこそ、高坂のほんとうの内面に触れているのかと思うと、驚くと同時に嬉しく思ってしまう自分も心のどこかにいたりして、亜衣子の心を更に混乱に陥れる。

『……悪い。男の内情なんか、女の子には気持ち悪いだけだよな、忘れてくれ』

 ほんとうに申し訳なさそうな高坂の声に、亜衣子は考える間もなく答えを返していた。

「う、ううんっ 元はといえば、私が訊いちゃったのが悪いんだし、祐真もいたから男の子の気持ちも少しはわかるし、気持ち悪いなんて思わないわっっ」

 あああ、何言っちゃってるの、私ーっ せっかく高坂くんと電話できてるのにーっっ

 パニクっている亜衣子の内面に気付いたのか、電話の向こうで高坂がふ…っと微笑って。今度は落ち着いた声が聞こえてきた。

『…ありがとうな』

 礼を言われるようなことは言っていないのに……むしろ、自分のバカさ加減を披露してしまったようなものなのに。かえって気を遣わせてしまったようで、申し訳なく思う。けれど、ここで謝るのもまた変な話なので、亜衣子は何を言っていいのかわからなくなってしまった。

「あっ あのっ それより、この間言ってたお弁当の話なんだけどっ 好物って何?」

 テンパったついでに、つい先日の鷹急ハイランドでの出来事を思い返しているうちに、その時した約束のことを思い出したのだ。 急な話題転換ではあったが、それが功を奏したらしく、高坂の声はすっかり普段通りの落ち着きを取り戻して、「そうだなあ…」と色気から食い気のほうに考えがシフトしたようだ。

 よかったと思う。あまりに強引な話題転換にひかれるかと思ったが、そんなこともなく普段通りの高坂に戻ってくれたようで、亜衣子はホッとする。それにしても。中学や高校の頃は共学で同じクラスに男子もいたから、年頃の少年たちが考えるようなことは多少はわかっていたつもりだが、まさか高坂までそう変わらないとは思わなかった。まあ、そんなことで好きな気持ちが目減りしてしまうほど、五年分の想いは軽いものではないけれど。

 そんな他愛のない話をいくつか交わして、電話を切った後も亜衣子は幸せな気持ちを抱き締めたまま、日課をこなしてから眠りに就いた…………。




    



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2012.12.21改訂版up

長かったけれど、ようやく「友達」になれたふたりです…。
小さなことからこつこつと?


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