例の飲み会の後、祐真のアパートに行かなくなって、二週間ほど経った。母親にも「また様子を見に行ってあげてくれない?」と言われてはいるが、今度高坂と逢った時にはどんな顔をすればいいのかわからなくて、「ここのところちょっと忙しくて」とごまかすことしか、亜衣子にはできなかった。
逃げていると、自分でも思う。どうしようもない臆病者だということは、他の誰でもない自分自身が一番よく知っている。けれど、告白する勇気も忘れる決断力も自分には出せなくて。未練がましく想うことしかできない自分が情けなくて、涙がこぼれそうになる。
そんなある日。
「亜衣子せんぱーいっ!」
大学の構内を歩いていたところで、背後から突然抱きつかれて、亜衣子は思わず小さな悲鳴を上げてしまう。
「やっと会えたーっ 嬉しーっっ」
甲高いその声はとても聞き覚えのあるもので、亜衣子はほとんど無意識に記憶の中にあるその名を呟いていた。
「─────みいなちゃん?」
「はあいっ みいなでーっす!」
心の底から嬉しそうな笑顔で、みいな────藤原未唯菜(ふじわらみいな)は、今度は正面から亜衣子に抱きついてきた。
「あ、亜衣子、知り合いなの?」
共に歩いていた玲美と佳苗が、驚愕覚めやらぬ顔をして問うてくるので、亜衣子もハッとする。
「あ、ごめん、紹介するわね。高校の時の部活の後輩で、藤原未唯菜ちゃん。今年大学一年生になったはずだけど…もしかして未唯菜ちゃん、うちの学校に入学したの?」
「そうでーすっ 亜衣子先輩、それからお友達の先輩方、どうぞよろしくお願いしますっ」
明るく可愛らしい笑顔で、未唯菜は三人に向かってぺこりと頭を下げる。玲美と佳苗も慌てて自己紹介をするのを見て、亜衣子はほうと安堵の息をつく。
昔から、この未唯菜というコは他人と仲良くなるのがうまいのだ。この人懐っこさに可愛らしさを感じているうちに、気付くと相手の懐に入ってしまっている。性格も決して悪いものではなく、一度親しくなったらとことん懐いてくれるので、嫌われることも少ない。自分とは正反対だなと
亜衣子は思う。
「それにしても…未唯菜ちゃん? 綺麗な栗色の髪ねえ」
「ウェーブも綺麗にかかってて、顔立ちにも合っててすごく可愛いわあ」
その言葉に一瞬未唯菜が言い淀むのに気付いて、亜衣子は助け船を出す。
「未唯菜ちゃんは、クォーターなのよ。確かおばあさまがイギリスの方なのよね?」
亜衣子の声にホッとしたような顔を見せてから、未唯菜はすぐに元の明るい笑顔に戻る。以前、聞いたことがあるのだ。いまの時代ではそんなこともないが、その日本人離れした容貌から、小学生時代にいわれのないいじめに遭ったことがあるのだと。
「えー、そうなの? じゃあお父さまかお母さまはハーフなのね、素敵」
「純和風の亜衣子と並ぶと、まるで日本人形とアンティークドールが一緒にいるみたいね」
「それ、高校時代もよく言われたわ」
思わず苦笑いしてしまう。
「じゃあ、二人で有名だったの?」
「あ、それはそうでもないのよ」
「何で?」
今度は未唯菜が説明をする。
「私と亜衣子先輩の間の二年生に舞香先輩って人がいて、どっちかっていうと宝塚の男役みたいにカッコよくて女子にモテる人だったんですけど、その人も加わって『合唱部のアイ・マイ・ミートリオ』って三人で有名だったんです」
「へえ〜。またうまいことタイプの違う三人で揃ったもんねえ」
「で、その舞香先輩って人は、うちのガッコには来なかったの? 亜衣子から聞いたことないし」
亜衣子もそれは知りたかったので、自分より数センチ背の低い未唯菜を見やると、未唯菜は少しだけ苦笑いを浮かべて答えた。
「ホントは舞香先輩も『亜衣子先輩と同じとこに行きたい』って言ってたんですけど、他の先輩方に『あんたが女子大に行ったりしたら、間違いなくいま以上に女子にモテまくるからやめときなさい』って必死で止められちゃって」
「ああ……」
それは、わかる気がする。舞香は背が高くてほんとうに格好よかったから。この大学に入学していたら、すごい騒ぎになっていたことだろう。性格は、普通に女の子らしく優しいコだったのだけど。
「確かにそうなってたかもねえ……」
「女の子って、ヅカ好きなコが多いからねえ」
玲美と佳苗も苦笑いしている。
「ま、今度機会があったら高校時代の写真でも見せてよ」
「あ、あたしも見たーいっ」
「後で探してくるわ」
そんな他愛のない話をしていたら、未唯菜が「ところで」と声をかけてきた。
「亜衣子先輩、今日はこれから何か予定とかあります?」
「え? あ、ううん。ちょうど講義も全部終わったところだし、そろそろ帰ろうかと思ってたとこ」
「先輩って、ご自宅から通ってらっしゃるんですよね? あたしももう帰るとこなんです。よかったら、ご一緒していいですか?」
「構わないわよ。でも未唯菜ちゃんも自宅からなの?」
「お父さんが、『一人暮らしは絶対許さん』って…」
その言葉に亜衣子も思わず苦笑い。いずこの父親も同じなのだなと思う。
そのまま四人で駅まで行って、路線が違う玲美、佳苗と別れ、未唯菜と二人、自宅方向への電車に乗る。
「あー、でもやっと亜衣子先輩に会えて嬉しいー。学校行くたびに一所懸命探してたのに、なかなか見つからないんですもん。びっくりさせたかったから、携帯もメールも我慢してたんですよー」
未唯菜がほんとうに嬉しそうに言うので、亜衣子も思わず口元に笑みを浮かべてしまう。
「大学って、学年が違うとホントに会わないものね。私も今日まで、未唯菜ちゃんが入学してたことも知らなかったわ。でも、それなら合唱関係のサークルに入ってくれてたら、もっと早く会えたかも知れないのに」
「だってー、この大学って家から割と遠いし、亜衣子先輩が入っているかわからなかったんですもの。もし入ってなかったら無駄足だったかも知れないじゃないですか」
「うちのサークルは、高校の頃ほど熱心なものじゃないから、そんなにちょくちょく練習がないのよ。だから入れたっていうのもあるんだけど」
「そうなんですかー」
話しているうちに、電車は次々と駅を過ぎて。もうじき祐真と高坂の住む町の駅に着くところだった。
「そういえば未唯菜ちゃん、うちの祐真と仲良くなかった?」
「仲いいですよー。同じクラスだったし。そういえば、祐真くんて次の駅のY大に行ったんですよね」
「いまはこっちで一人暮らししてて、駅前のコンビニでバイトしているらしいわよ」
そう告げた瞬間、未唯菜の瞳がキラリと光って。
「そういうことなら、ちょっと寄っていきましょうよー」
「えっ!? でもいまの時間ちょうどバイトしてるとは限らないわよ!?」
「もしかしたら、いるかも知れないじゃないですかー。いたらラッキーってことで♪」
言うが早いか、駅に着いて電車のドアが開くと同時に、亜衣子は未唯菜に手首を掴まれて、一緒に降りる羽目になってしまった。すっかり忘れていたが、未唯菜にはこういう強引なところもあった。まあ、可愛いわがままで済む程度のものなので、不快に思ったことはなかったが。
「えーと、卒業してから三ヵ月…ぶり? じゃああんまり変わってないかもですね」
「ほとんど変わってないわよ。たまにアパートに掃除とか洗濯に行くけど、男の一人暮らしの見本って感じ」
「えー、ちょっと見てみたーい。私の周り、そういう男の人いないから、ホントに漫画とかみたいなのか見てみたいですー。先輩、今度行く時一緒に連れてってくださいよー」
「……覚悟しておいたほうがいいわよ」
五月に初めて行った時の衝撃を思い出して、思わず忠告してしまう。
駅前に出て件のコンビニのほうに向かうと、店の前でゴミ箱を片付けている男性店員の後ろ姿がまず目に入った。ドアの前にまでやってくると、二人の気配に気付いたのか男性が振り返り、張りのある声で「いらっしゃいませ!」と声をかけてきた。その顔を見た亜衣子は、一瞬固まってしまう。
「……笹野?」
「…高坂くん……あ、久しぶり」
「あ、ああ…」
一瞬ふたりの間に気まずい空気が流れるが、それを破ったのは未唯菜の明るい声だった。
「あれ? この人何だか見覚えがある…あーっ 祐真くんが慕ってた、剣道部の先輩さんですよねっ!?」
さすがの高坂も未唯菜の存在には驚いたようで、亜衣子の顔と見比べて困惑した表情だ。
「あ…高坂くん覚えはない? うちの部の後輩で、祐真のクラスメートだった藤原未唯菜ちゃん」
そう言ってやると、高坂もようやく思い出したようだ。
「あ、ああ…そういえば、見覚えがあるな。祐真なら中でレジをやってるから、行ってみな」
「うん、ありがとう」
それだけ言って、亜衣子は未唯菜の後に続いて店内へと入っていく。店内は割とすいていて、雑誌コーナーで立ち読みをしている客が二、三人いるだけだった。とりあえずレジに向かっていくと、こちらに背中を向けて伝票らしきものを書いていた祐真が振り返る。
「いらっしゃいま…姉ちゃんっ!?」
まさかほんとうに祐真と高坂がいるとは思わなかったので、亜衣子も驚いてしまったが、祐真の驚きはそれ以上だったようだ。そういえば、祐真が外で働いている姿なんて初めて見た気がする。
「あたしもいるよー。祐真くん、久しぶりー」
「あれ、未唯菜ちゃんまで一緒だったのかよ。あ、そういえば未唯菜ちゃんも姉ちゃんと同じS女子大行ったんだっけ」
ようやく得心がいったという顔だ。
「なに? 笹野くんのお姉さん!? ホントだ、よく似てるー」
祐真の隣にいた中年男性が明るい声を上げたので、亜衣子は一瞬気後れしてしまう。
「あ、姉ちゃん、こちらここの店長。つまり、俺の雇い主な」
「祐真の姉です。弟がいつもお世話になっております!」
慌てて頭を下げてしまう。
「いえいえ、笹野くんにはいつもよく働いてもらってて、助かってますよー。元運動部だからか、体力も根性も人一倍あるしねー。あ、これは高坂くんもか」
「いえいえ、弟は頭のほうはいまひとつですけど、身体のほうはとことん丈夫ですので、どんどんこき使ってやってください」
「姉ちゃん、ひでえ……」
祐真がわざとらしく少し傷ついた顔を見せるが、あえて見ないふりをする。
「しっかし、高坂くんの言った通りだなあ」
「え?」
「お姉さんと笹野くんは顔はよく似てるけど、中身は全然違って、お姉さんのほうは将来良妻賢母まっしぐらなタイプだって」
「そんな……」
信じられないことを言われてしまって、亜衣子の頬が知らず紅潮する。
……ほんとうに? 高坂くんがそんなことを言ってくれたの? 私のこと、そんな風に思ってくれていたの…………?
亜衣子がどうしていいかわからずに立ち尽くしていたその時、ゴミの処理を終えてきたらしい高坂の声が聞こえてきて、口から心臓が飛び出そうなほどに驚いてしまう。
「いらっしゃいませーっ」
後から入ってきた客がいるのに気がついて、亜衣子は慌てて未唯菜の手を引いてレジから離れる。
「他のお客さんもいることだし、長居するのも失礼だから、何かお買い物して帰りましょ、未唯菜ちゃん」
赤くなってしまった顔を見られるのが恥ずかしくて、高坂がレジに戻ってくるより早く、亜衣子は素早くその場を離れる。未唯菜は何も言わないが、じっと顔を見つめてくるので、何となく居心地が悪い。
「な、なに? 未唯菜ちゃん」
「いえ、何でもないですー。あ、先輩、これ食べたことあります? この間出た新製品なんですけど」
「ううん、ないけど…美味しいの?」
「もうすっごく美味しいんですっ 未唯菜のおススメっ」
「へえ…じゃあ、買ってみようかしら」
他愛のない話をしながら、二人で菓子や飲み物を選んでレジへと向かう。するといつの間にお客が増えたのか、二つあるレジの両方に二人ずつ別のお客が並んでいた。それを見た未唯菜は、一瞬並びかけていた亜衣子と同じレジの列から外れ、もうひとつのレジへと足を向ける。
「先輩、一緒に並ぶより効率的だと思うんで、私あっちの祐真くんのレジに並びますー」
「そうね、そのほうが早いわね、きっと」
それだけ答えて亜衣子は前を向くが、前に並んでいる男性の背がかなり高いので、レジの店員が見えない。恐らくは先刻の店長だろうと思い、適当にそのへんを見ながら順番を待つ。しばし待って、ようやく亜衣子の番がやってきた。
「お待たせしました、いらっしゃいませ」
ちょうどレジ前に並んでいたお買い得品を見ていたので、気付くのが遅れた。目の前から聞こえてきた声が、ついさっき話した店長のそれとはまるで違うものだということに!
こここここ、高坂くん!?
まああれからいくばくかの時間が経っているから、レジを店長から交代していてもおかしくはないのだが……亜衣子は内心でパニックを起こしながらも、それでも表面上は平静を装って商品をレジに置く。
「三百二十七円のお買い上げになります」
「あ、はい」
極めて事務的に、客と店員の会話をして小銭を渡す。一瞬触れた高坂の手に、指先を中心に一気に全身に熱を帯びていくような錯覚を亜衣子は覚えた。「落ち着いて、落ち着いて」と呪文のように心の中で繰り返しながら、何とかこらえる。
「三円のお返しになります」
レシートと共に渡されたお釣りに、再び高坂の指先が亜衣子の手のひらに触れる。それだけで、亜衣子はもうめまいがしそうな思いだった。いままで、高坂の手すらろくに触ったことがことがなかったのだから、当然のことだが。
「お仕事お疲れさま。無理しないでね」
それだけ言って、レジから離れる。未唯菜のほうを見ると、未唯菜はちょうど会計の最中だったようで、祐真は手を動かしながらひとことふたこと未唯菜に何か告げている。
「六十八円のお返しになります、ありがとうございましたー」
「じゃ祐真くん、後で電話するね」
未唯菜がそう言うと、祐真は笑顔で頷いた。ふたりは高校時代同じクラスで、仲もよかったから携帯の番号やメルアドをお互い知っていてもおかしくはないのだが……それでも、自分と高坂とのあまりの違いに、つい羨ましくなってしまう。
いいな…私も高坂くんと番号とか交換できてたら……って、きっとダメね。メールも電話も、用件がないからきっとできないわ。
ほんとうに、自分の不器用さが恨めしい。祐真や未唯菜のようにとまでは言わないが、もう少し社交的になれていたら、いまごろ違う未来が拓けていたかも知れないのに……。
「先輩? どうしたんですか?」
未唯菜が、下から顔をのぞき込んでくるのにハッとする。
「あ、何でもないわ。じゃ、帰りましょうか」
祐真に小さく手を振って、高坂には軽く会釈して、亜衣子と未唯菜は店を後にする。
それにしてもと思う。ずいぶんと驚きの連続だった。高坂と祐真がタイミングよくバイトに入っていたこともそうだが、思わぬ高坂の自分への評価も聞けたし────まあこれは、真偽のほどはハッキリしないけれど────高坂の手にほとんど初めて触れてしまったしで、自分でもささやかだとは思うが、幸せを感じてしまう自分は止められなくて。高坂の手に触れてしまった右手をさりげなく左手で包んで、そっと幸せを噛みしめる。そんな自分を、無言のままで見つめている未唯菜に、まるで気付かないままで…………。
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