未唯菜から電話が来たのは、それから二日後のことだった。
『せんぱーい、明後日の土曜日って暇ですか〜?』
「え? ええ、あいてるけど」
『なら、一緒に鷹急ハイランドに行きませんかー?』
「鷹急ハイランド? ああ最近新アトラクションができたって聞いたわね」
『久しぶりに亜衣子先輩と遊びたいですー』
未唯菜にそう言われてしまうと弱い。
「いいわよ。じゃあ、現地集合でいい? 何時頃にする?」
『えっとー、じゃあ十時頃なんてどうです? 先輩の私服姿ってあんまり見たことないから、めいっぱいお洒落してきてくれると嬉しいですー』
言われてみれば、たかだか一年、それも制服のある学校でのつきあいでは、そうそう私服で会うこともなかった。
「じゃあ、未唯菜ちゃんも可愛くして来てね?」
くすくすと笑いながら詳細を決めて、電話を切る。ほんとうに、昔から可愛い後輩だ。高校と大学は通う年数が違うから、高校より一年多く一緒の学校に通えると思うと、ほんとうに嬉しい。
「さて、と」
呟きながらクローゼットに向かって、中の服を見渡す。未唯菜と二人だけなら、だいぶ暑くなってきたしこの間買ったばかりのキャミソールでもいいかなと思う。さすがにそれ一枚で着たりはしないが、たとえ上着を着るとしても連れに男性がいる時は露出が多過ぎる気がして、着られないものだ。それと、やはり今年買ったばかりの膝丈のスカートとミュールを合わせて…と、でかける支度を考えている時が一番楽しい気がするのは、気のせいではないだろう。久しぶりに女同士で楽しく遊ぼうと、亜衣子は当日を楽しみに待って。
そして、当日。アクセサリーは以前から持っていたネックレスをつける程度にして、化粧も大学に行くのとそれほど変わらない薄化粧程度にして、ただ髪形だけは、邪魔になってはいけないと思い────普段は上のほうだけバレッタで留めているのだが────全体を脇に持ってきて三つ編みにしてゴムとシュシュでまとめておく。
「それじゃ、行ってきまーす」
玄関先で母親に告げると、
「お夕飯は食べてくるの?」
と訊いてきたので、笑顔で応える。
「うん。未唯菜ちゃんと遊ぶの久しぶりだから、きっと夜までガッツリつきあわされるわよ」
「遅くなるようなら、電話しなさいよ? お父さんに迎えに行ってもらうから」
「はーい」
などと、ほんとうに軽い気持ちででかけたので。亜衣子は、この日いったいどんな出来事が自分を待ちうけているのか、まるで知らないでいた…………。
待ち合わせの場所の鷹急ハイランド前は、さすがに土曜日だけあって人が多く、未唯菜の姿を探すのにも一苦労であった。そんな亜衣子に、背後からかけられる声。
「亜衣子せんぱーいっ」
「あ、未唯菜ちゃん、そっちにいたの。おはよう……」
振り返った亜衣子は、驚きのあまり、一瞬呼吸が止まってしまう。未唯菜と共に、予想外の人物がそこに立っていたからだ。
「先輩、おはようございまーすっ」
「よっ 姉ちゃん」
未唯菜の隣に立っていたのは、祐真。驚きのあまり、声も出ない。
「な…何で祐真がここにいるの……?」
「未唯菜ちゃんと約束してたからに決まってるじゃん」
「聞いてないわよっ!?」
「私、『二人っきりで遊ぼう』とは言いませんでしたよー?」
未唯菜も素知らぬ顔で答える。これは…もしかして、何やら嵌められたとでもいうのだろうか。何となく嫌な予感を覚えたところで、またもや背後から聞こえてくる声。
「おい、祐真。デートのおまけなら、ちゃんとそう言えよ。だったら初めから来ないから。俺一人あぶれさせて、てめーはいちゃいちゃを見せつけようってか?」
顔を見なくてもわかる。この、低くいつまでも聴いていたいと思えるほどの、張りのある声─────忘れようとしても絶対に忘れられない、誰よりも愛しいひとの声…………。
ほとんど無意識に、亜衣子は振り返っていた。次の瞬間、驚きに目をみはる相手の顔が、視界に飛び込んできた。普段は凛とした表情と雰囲気をまとった高坂の、なかなかお目にかかることのできないある意味間の抜けた表情────それでもいいから……たとえどんな表情でも目に焼き付けたいと願う相手が、背後に立っていた。
「……笹野……?」
「高坂くん……?」
数秒か、それとも数瞬か……互いの瞳を見つめあった後、亜衣子はようやく現実にたち戻り、未唯菜と祐真に向き直る。
「ちょっと!? これどういうことなのっ!?」
いつもの亜衣子らしからぬ、姉として弟を叱る口調で亜衣子は祐真に詰め寄った。
「えー、だってテーマパークなんて、男同士で来ても面白くないじゃん」
当の祐真は、けろっとして答える。
「だったら、あんたが未唯菜ちゃんとふたりで来たらよかったでしょう!? 何で私や高坂くんまで巻き込まれなきゃならないの!?」
「だって、未唯菜ちゃんが……」
「え?」
話をふられた未唯菜を見ると、未唯菜はその大きな瞳をうるうるとさせながら、亜衣子を見上げていた。
「だって…やっと亜衣子先輩に会えたから、亜衣子先輩と遊びたかったんです……高校時代はいつも部活のみんなと一緒で、全然プライベートでは遊べなかったから……私…私……っ」
「あっ ごめんね、未唯菜ちゃんを責めてるんじゃないのよっ ただ、事前に言ってくれたほうがよかったってだけで…っ」
ああ、こんな可愛い後輩を責めるなんて、自分にはできないと亜衣子は思いつつ、未唯菜をみずからの胸に抱き締める。未唯菜も、「せんぱあい〜」と半泣きの声で亜衣子に抱きついてくる。祐真相手の時と違って甘いとは思うけれど、やはり血のつながった弟と同性の後輩とでは、扱いが違ってしまっても仕方がない。しかし立場の違う高坂としてはそうもいかなかったようで、祐真の耳を指で引っ張りながら、厳しい声で説教をかましている。
「あっちの気持ちはまあわかるけどな。それで何で俺まで巻き込まれなきゃならないんだ?」
「いてっ 先輩、痛いっスよっ」
「痛くしてるんだから、当たり前だ。高校時代なら、打ち込み百本にランニング倍をプラスさせるところだぞ?」
それだけ言って高坂は手を放したので、亜衣子もホッとする。いくら男の弟とはいえ、目の前であまりひどいことをされる姿は姉として見ていられなかったからだ。
「だって、先輩呼ばなかったら、姉ちゃんがあぶれちゃうじゃないっスか。それとも先輩は、姉ちゃんが全然知らない別の先輩とか呼んだほうがよかったとか? 少しでも姉ちゃんも楽しめるようにと配慮した結果なんスけど」
その言葉に、高坂は言葉に詰まったように見えた。高坂にしてみれば、ただの元クラスメートの亜衣子が誰とどうしようが関係ないと思うだろうと思っていたのに、意外に亜衣子に不快な思いをさせるのは嫌だと思ってくれているのだろうか? もしほんとうにそうなら、たとえ知り合いの誰にでも抱く感情だったとしても、亜衣子には嬉しかった。
「と、とにかく、笹野も言ってた通り、そういうことなら事前に言えって言ってんだ。それなら、俺だって嫌とは言わないから。こういう騙しうちみたいなことはすんなっての」
言いながら、既に未唯菜と身体を離していた亜衣子のほうをちらと見て、それからほとんど無表情で顔をそらした。ああと思う。
やっぱり、自分とじゃそんなに楽しめないと思ったのだろうな。自分がもっと明るい性格だったなら、普通の友達として、もっと高坂を楽しませてあげられただろうに……。持って生まれた気質はいまさら変えようがないけれど。
それにしてもと思う。ちらりと横目でうかがい見た高坂は、今日はTシャツの上に見たことのないブルーのシャツを着ていて、 ジーンズからすらりと伸びた脚と無駄な肉のない上半身にそれがまた映えて、いつもより一段と格好よく見えるように亜衣子には思えた。その証拠に、周囲の見知らぬ女の子たちがちらちらと高坂を見ては、色めき立った表情で小声で何ごとか話し合っているようだった。そんな少女たちに、何となく面白くないものを感じている自分に気付いて、亜衣子は自己嫌悪に陥ってしまう。高坂とは元クラスメートという関係でしかなく、恋人どころかいまだ告白すらできずにいる自分に
嫉妬する資格などないのにと、先刻の件とあいまって、自分で自分が嫌になってくる。
「先輩?」
未唯菜に顔をのぞき込まれて、亜衣子はようやく不毛な思考から抜け出してこられた。
「ど、どうしたの?」
「そろそろ、中に入りましょうって……」
「あっ そうね、とにかく入らないと何も始まらないものねっ」
そう言って、亜衣子は一歩足を踏み出した。
祐真と高坂の声に促されて二人を追った亜衣子と未唯菜は、チケット売り場の目前でそれぞれチケットを差し出されて驚いてしまう。
「…え?」
「全員分買っといたから」
「えっ あ、じゃあ私自分の分出すわねっ」
慌てて財布を出そうとするが、高坂に手で制止されて思わず高坂の顔を見上げると、「気にするな」とだけ告げられて、ますます驚いてしまう。
「えっ でも…!」
「まあ気にすんなって、姉ちゃん。俺たち、バイトしてるから小金持ち〜♪」
「深夜とか早朝とか、結構時給がいいからよくシフト入れてるんだ、俺たち」
珍しく高坂まで細やかなフォローを入れる。
「でも…二人の貴重な労働の上での報酬なのに、やっぱり悪いわ」
なおも言い募る亜衣子に、未唯菜と祐真が顔を見合わせたことに、亜衣子は気付かない。
「そうよ、祐真くん」
「あっ じゃあさ、今度どっか行く時に未唯菜ちゃん、弁当作ってくんない?」
「え、それでいいの?」
「うん、俺ならそっちのが嬉しい♪」
もしかして祐真は、未唯菜のことが好きなのだろうか? 普通、友達としか思っていない女の子を相手に、そんなことを言わない気もするが……ああそんなことより、いまは自分のことだ。
「高坂くんは…何がいい?」
「え?」
「私にできることだったら何でもするけど……」
ほんとうは未唯菜のようにお弁当と言いたいところだけど、好きでもない女の子からの手作りのものなんて、男性は重く感じるに決まっている。
「なら……俺も弁当がいいな」
「え」
「後で好物教えるから、おかずはそれにしてくれ」
こないだの肉じゃがとか茶碗蒸し、すごい美味かったから。笑顔で続ける高坂に、信じられなかったけれど。それでも、心の奥から少しずつ嬉しさが浸透してきて、気付いたら亜衣子も笑顔で微笑んでいた。
「わかったわ。腕によりをかけちゃうから、期待してて」
自分の作ったものを、高坂が気に入ってくれていたなんて。亜衣子はもう、天にも昇りそうな気分だった。
ああもう、信じられないっ 嬉し過ぎて、あたしもう、このまま死んじゃってもいいかも。あ、でもいま死んじゃったら、今日一緒に遊べなくなっちゃう……。
危うく全部顔に出してしまいそうな自分を一生懸命叱咤して、亜衣子は何とか平静を装って、礼を言いながら高坂からチケットを受け取る。そうして、二人の後に続いて、未唯菜と共に中へと進んでいく。
「さて。まず、何から乗る?」
高坂が唐突に振り返って訊いてきたので、一瞬どきりとしてしまう。
「やっぱ新アトラクションでしょ、先輩。面白いって評判っスよ」
祐真が先頭を切って嬉々として答えたので、亜衣子は思わずぎくりと身を強張らせてしまった。亜衣子は絶叫系があまり得意でないのに対し、祐真は昔からそういうものが大好きなのだ。幼少の頃から、何度祐真の「大丈夫、そんなに怖くない」という言葉に騙されたか、亜衣子には思い出せないほどだ。同じ血をひいているはずなのに、姉と弟でどうしてこんなに違うのだろうか。
「ばっか、いきなりそんなハード系に行けるか。女の子もいるんだぞ」
亜衣子が何か言うより早く、高坂が止めてくれたのでホッとする。
「ちぇー。じゃあ、姉ちゃん、未唯菜ちゃん、どれがいい?」
「えっとねー…」
園内の案内図を見る未唯菜の隣に、亜衣子も並んで共に考える。
もしかして、私が絶叫系ダメなのわかったから、祐真を止めてくれたのかな。考え過ぎかな。
全然違うことを考えてしまっている間に、未唯菜に声をかけられてハッとする。
「亜衣子先輩、これなんかどうでしょ?」
「あ、そうね、これくらいなら大丈夫そう」
未唯菜が指定したのはそれほどハードなものではなかったので、安堵の息をつきながら笑顔で答える。
「今日は『先輩』だけだとまぎらわしいから、ちゃんと名前も呼ばないとですね〜」
言われてみれば、未唯菜からしてみれば亜衣子も高坂もどちらも「先輩」だ。
「慎吾せんぱーい、うちの姉貴を『笹野』って呼ぶのいい加減やめないっスかー? 俺も名字は『笹野』だから、時々自分のことかとドキッとすんですよね」
「…じゃあ何て呼べってんだよ。『姉』『弟』って呼べってか?」
「何でそうなるんスか。俺のこと『祐真』って呼んでんだから、『亜衣子』でいいじゃないっスか」
「なっ 何言ってんだよっ!!」
不覚にも、高坂と同時に自分の顔も赤くなってしまったのを、亜衣子は自覚した。
「そうよ祐真、何言ってるのよっ」
そんな風に呼ばれたら、もうドキドキし過ぎて亜衣子は死んでしまうかも知れないではないか。
「ちぇー、ダメかー」
少々残念そうな顔をして、祐真は未唯菜の元に行ってしまったから。祐真の真意は、亜衣子にもわからない。
「な…何を言い出すんだろうな、あいつっっ」
高坂が慌てたように突然亜衣子のほうを向いて言ってきたので、亜衣子は紅潮してしまった顔を隠すこともできず、反射的にそちらを向いて同意を示してしまう。
「ね、ねえっ 高校に入った頃から、何を考えてるのかわからなくなっちゃって、あたしも困ってるのよ、ホントっ」
小さい頃から中学の頃までは、ほんとうにわかりやすい性格の弟だったのに。いったいいつから、あんなにわかりにくい部分を持ち始めてしまったのだろう? やはり異性のきょうだいでは、血のつながりだけでは理解しきれない部分があるのだろうか。
「いや、俺も兄貴いるけど、同性だって理解しきれないもんだよ」
「高坂くん、お兄さんいるの?」
「ああ、俺次男。言ったことなかったっけ?」
「全然知らなかったわ」
高校三年間同じクラスだったというのに、高坂のことをほとんど知らない自分に愕然とする。好きなひとのことなのに、何だか自分が情けなくなってくる。
「だって高坂くんて、『お兄さん』って感じするんだもの、祐真に対する態度を見てても」
「そうか? これでも内心では実は『これでいいのかな』っていつも自問自答してるんだぜ。笹野だって、あの後輩のコに対してはそうだったりしないか?」
それは、あるかも知れない。そう答えてから、ぽつりと呟く。
「でもちょっと意外」
「何が?」
高坂の、不思議そうな声。
「高坂くんて、いつもまっすぐで凛としてて……悩みなんて振り切って、前だけを見つめてる印象があったから」
「買い被り過ぎだよ。俺だって……悩んで迷って、自分が嫌で嫌でしょうがなくなる時もあるさ」
今度は、亜衣子が驚く番だった。高坂にも…そんなことがあるなんて。
「だから……」
自分の唇が紡ごうとした続きに気付いたらしい高坂が、ハッとしたように「…何でもない」と続けたのを見て、亜衣子は思わず首をかしげてしまう。けれど、唐突にかけられた声に、現状を思い出してしまった。
「おーいっ 姉ちゃん、慎吾せんぱーいっ」
「どうしたんですかー、早く行きましょうよーっ」
ずいぶん先に行ってしまっていた祐真と未唯菜の声に、ふたりで顔を見合わせる。
「や、やだ、ずいぶんふたりから離れちゃったっ」
「行こう」
「う、うん」
高坂に促されて早足で歩き始めたから、この時のやりとりの結末は、亜衣子の中ではすっかり忘却の彼方へと行ってしまっていた。
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