久しぶりに祐真のために食事の心配などしたからか、亜衣子はその晩、懐かしい夢を見た。

 それは、高校三年生の頃のことだった。同じ高校に入学し、高坂と同じ剣道部に入部した祐真は、朝練のために亜衣子よりもずいぶん早く家を出ていっていたため、お昼の弁当を忘れていくことがよくあった。そしてそれは、どうせ同じ学校なんだからと母から亜衣子に託され、自分の弁当の倍近くある弁当を持って登校したものだった。最悪、昼休みが始まるまでに渡せればよかったのだが、思春期の少女であった亜衣子には、いくら弟のものとはいえそんな大きな弁当を持って廊下を歩くのには勇気が要って、何とか教室に行く前に渡せないものかと、剣道場のそばをよくうろついたものだった。放課後ならば、まだ友人の結花が一緒であったから中に入る勇気も出せたが、朝の稽古中に独りで入っていくことはさすがにできなくて、困ったことをよく覚えている。

 そしてそんな亜衣子の窮地を救ったのが、偶然稽古途中に外の水飲み場に水を飲みに来た高坂だった。

『笹野?』

『あっ おはよう、高坂くんっ』

『おはよう…どうかしたのか?』

『あ…高坂くん知ってるかな、笹野祐真っていう一年生』

『ああ、今年の新入部員にいたな、そんな名前の奴』

『うちの弟なんだけど、お弁当忘れて行っちゃって…どうせ同じ学校でしょって母に持たされちゃったの』

 包みに入った大きな弁当箱を、背後からそっと前に持ってきて見せる。誰でもない高坂には見られたくなかったけれど、仕方がない。

『なら、俺から渡しといてやるよ』

 言いながら、亜衣子が「重いな」と思いながら持ってきた弁当を、高坂がひょいと軽々持ち上げてみせる。

『えっ!?

『こんなデカい弁当、女子に持って歩けってほうが酷だからな。高校生っていっても、小学生並の思考回路しかない奴もいるし』

『そうしてもらえると確かに助かるけど…何だか悪いわ』

『気にすんなって。困った時はお互い様だ』

 そう言って高坂は、弁当を持っていないほうの手を振りながら、道場へと戻っていった。亜衣子の胸の内に、暖かいものを残しながら……。

 思えば、あれから何度も高坂には助けられた気がする。いくら朝練中に水が飲みたくなるとはいっても、いつもいつも、亜衣子が剣道場のそばをうろついている時間帯にタイミングよく出てくるものだろうか。今更だけれど、高坂が出てこなくて結局剣道部の朝練が終わるまで待ったことなんて、そう何度もなかった気がする。もしかしてと思う。もしかしてあれは、高坂が亜衣子のために、時間を見計らって出てきてくれていたのだろうか? まさかと思う反面、そうとしか説明できないと冷静に分析する自分自身もいて、亜衣子は混乱してしまう。


 思い返せば、高坂はいつでも優しかった。一緒に日直をやった時も、気付かないうちに重い荷物を先に持っていてくれたり、ゴミ捨てにも率先して行ってくれていたり。中でも一番戸惑ったのはあの時だったかなと亜衣子は思い出す。

 放課後の他に誰もいない教室で、亜衣子は黒板の板書を消していたのだが、亜衣子の身長では微妙に届かない高さのものがあって、椅子でも持ってこようかと思ったところで突然背後から高坂が消しに来てくれたのだ。あまりにも自然で無言だったから、亜衣子も何も言えず身じろぎすらできず……互いの身体が触れるか触れないかのギリギリのところで、ふたりの身体は止まっていて。互いの息遣いすら聞こえるほどの至近距離で接近していた。その時の亜衣子の心臓の音ときたら、もうメトロノームかと思えるほどの速度でときめきを訴えていて、高坂に聞こえたらどうしようとそればかり考えていて。高坂が何か言っているのに全然耳に入っていなくて、とっさに聞き返してしまったことを覚えている。単に、「高いところは無理をせずに自分にまかせろ」というような言葉だったのだけど。

 自意識過剰と自分でも思うけれど、もしも高坂に抱き締められでもしたらこんな感じなのだろうかと考えてしまって、紅潮していく自分の顔にとても困ったものだった。幸い、教室の中を染め上げていく夕陽に助けられて、自分も、そして高坂も、すべてが真っ赤に染まっていったから、何も気付かれなくて済んだだうけど。あんなに接近しても、高坂は何とも思わないのだなとも思って、淋しく感じたのもまた事実だけれど……。

 自意識過剰といえば、こんなこともあった。「歌うには、体力も必要だ」という顧問の持論の元、合唱部の面々も時々体操服に着替えさせられてランニングをさせられた。

 もともと体育が得意でない亜衣子にとっては憂鬱なトレーニングだったが、それでもたまには剣道部のランニングとかち合ったりしたので、そのとたんに湯水のようにやる気がわき出てくるのは我ながら単純だったと思う。それでも、もともとの運動神経は気合いだけでどうにかなるほど発達しているものではなかったようで、何度も何度も剣道部の面々に追い抜かされては離されていって。高坂の前で恥ずかしいと思っていた亜衣子の耳を、高坂の声によく似た「頑張れ」というささやきがそのたびにかすめていったことが、何度もあった。彼を好き過ぎるあまりの幻聴かとも思ったけれど、それにしても回数が多過ぎるので不思議に思っていたけれど……あれは、もしかして。いまとなっては、もう確認するすべも勇気もないけれど──────。


 それから一週間ほどは、何もない平凡な日常が続いて。亜衣子は淋しく思う自分の心を、止めることができなかった。そんな亜衣子を心配したのか、級友の玲美と佳苗が飲み会の誘いに来たので、たまには気晴らしもいいかと思い了承の答えを返す。まだハタチになったばかりで、お酒など大して飲めないけれど。

 帰りが遅くなる旨を家に電話して、亜衣子は二人とまた別に二人の級友たちと共に、予約をしてあるという居酒屋へと向かう。後で考えれば、自分たちの通う大学の近くではなく祐真たちの大学の最寄り駅のそばと聞いて、どうして気付かなかったのかと自分のうかつさを呪ったりもしたのだけど。彼女たちが指定したのは、どこにでもあるチェーン店の居酒屋だったのに。そして亜衣子は、現地に着いてから真相を知ることになるのである……。

「どうもーっ Y大の三年でーすっ!」

 居酒屋に着くと、既に席に陣取っていた同年代の男性たちがずらりと向かい側に並んでいて。さすがの亜衣子も、これはただの飲み会でないことに気が付いた。

「ちょっ 玲美ちゃん、佳苗ちゃん…っ」

 二人に慌てて声をかけるが、「ちょっとごめんなさいねーっ」と男性たちに言い置いて、二人は店の端のほうに亜衣子を引っ張っていく。そこでやっと解放されて、亜衣子は矢継ぎ早に質問を投げかける。

「ちょっとこれ、どういうこと!? 女の子だけの飲み会じゃなかったの!? 何で男の人たちがいるのっ!?

「まあまあ、落ち着いて、亜衣子」

「黙って連れてきたのは悪いと思うけどさ、実は一人急に来れなくなっちゃって、どうしてもピンチヒッターが見つからなかったのよ」

「あんたには例の好きな人がいるのは知ってたけどさ、とりあえず今回だけでいいから、お願い、つきあって!」

「えっ えええええっ!?

「言いづらいけどさ、互いに両想いならともかく、まだ片想いでしかも実るとは限らないんでしょ? もしかしたら、この機会にもっといいひとがいるかも知れないじゃん」

 それを言われると、もう何も言えない。思わず泣きそうになりながら、玲美と佳苗の声を聞いていた。

「あっ 亜衣子、泣かないでよ〜っっ」

「そうそ、人生どこに出逢いが転がってるかわからないんだしさ、普通の飲み会だと思って気楽に行こうよ、ね?」

 二人の労わるような声に、亜衣子もようやく笑顔を見せて。こくりと頷いた。

「じゃ、席に戻ろうか」

「うん…」

 自分自身の平静を取り戻すのに精いっぱいで。亜衣子は、物陰で自分たちのやりとりをすべて見ていた存在がいたことにまるで気付かないまま、元の席へと戻っていった……。


 二人の言い分に一応納得したとはいえ、亜衣子の内心は晴れなかった。高坂以上に好きになれる相手になんて、ほんとうに出逢えるのだろうか。まだ、こんなに好きなのに。

「えっと、亜衣子ちゃんだっけ? ずっと合唱部に入ってるの? 今度、カラオケでその綺麗な歌声聞かせてよ〜」

「いまどき珍しく綺麗な黒髪だよね。大和撫子そのものっ」

 親しげに話しかけてくる男性たちに曖昧に微笑みながら、亜衣子は黙々とアルコール度数が弱めのカクテルを口に運ぶ。玲美と佳苗には悪いが、とてもそんな風には思えない。


 高坂くんより口数も多くて、色々褒めてくれるけど……どうしてかな。全然楽しくない。高坂くんとだったら、ほんとうに何気ない会話でもあんなにも幸せになれるのに。

 店の奥から騒がしい男性たちの声が聞こえてきて、亜衣子たちのほうにまで楽しそうな様子が伝わってくる。

「なんだあ?」

「うちの大学の別のグループが来てんだよ。こっちと違って男ばっかりで可哀想なんだから、ほっとけよ」

 そういえば、Y大学は祐真と高坂が通っている大学だった。女子もいることはいるが、学部の関係から男子学生のほうが圧倒的に多いと聞いている。

 半ば拷問とも思える数時間がやっと過ぎて、ようやくお開きになる気配が見えてきた。ホッとしながら立ち上がった亜衣子は、突然手を掴まれたのでギョッとしてしまう。

「亜衣子ちゃーん、二次会のカラオケもちろん行くっしょー? 綺麗な歌声、是非聞かせてよ〜」

 明らかに酔っぱらった、先刻目前に座っていた男性だった。

「い、いえ、私はもう帰りますのでっ」

「そんなこと言わないでさあ、いいじゃん、もうちょっと〜」

「ごめんなさい、家が厳しいのでっっ」

 懸命に手をはらおうとするが、強い力で掴まれていて、なかなか振りほどけない。

「ちょっと、やめなさいよっ」

「そうよ、亜衣子嫌がってんじゃんっ」

「え〜?」

 玲美と佳苗も助け船を出してくれるが、男はまるで意に介していない様子だ。

 いやだ。いやだ。やっぱりだめ。高坂くんじゃないひとに触られるなんて、やっぱり気持ち悪い。誰か、助けて!!

 亜衣子が心の底から叫んだ瞬間、背後から予想もしなかった声が飛んできた。

「姉ちゃんっ!?

 振り向いて確認しなくてもわかる。たったひとりの弟の声を間違えるなんてこと、亜衣子は絶対にしない。

「祐真っ!?

 駆けつけるが早いか、祐真は亜衣子の手を掴んだままだった男の手を素早く引き剥がして、亜衣子を自分の背後へとさっと引き寄せる。

「すんませんね、先輩。うちの姉貴すげー内気なんで、勘弁してやってください」

 先輩相手だというのにまるで臆することなく、亜衣子の盾になるように相手の前に立ちふさがる祐真の背中に、意外な頼もしさを感じて、亜衣子は驚いてしまう。いつの間に、こんなにたくましくなっていたのだろう? 昔から、「姉ちゃん、姉ちゃん」と亜衣子に甘えてばかりだったのに……。

「な、んだよ、お前の姉ちゃんだったんかよ」

 祐真を見知っていたのか、興ざめといった体で、相手の男がぼりぼりとみずからの頭をかく。

「ご、ごめんなさい、私弟と一緒に帰りますので、今日はこれで失礼します」

 ぺこりと頭を下げながら言うと、男は不承不承といった顔で他の面子と一緒に店を出ていった。玲美と佳苗が最後に出ていく直前に、そっと亜衣子の元に駆け寄ってきて告げる。

「ごめんね、亜衣子〜っ」

「どうなることかと思っちゃった、ホントごめんっ」

「ううん、大丈夫よ。祐真がいてくれた偶然に感謝だわ」

「ならよかったけど……じゃ弟くん、亜衣子を頼むわね」

「了解っス!」

 祐真にそれだけ告げた後、亜衣子にもう一度謝ってから玲美と佳苗も店を出ていく。あとに残された亜衣子は、心の底から安堵の息をついて。

「ホント、ありがと祐真。もうどうしていいかわからなかったの」

「いいってことよ、姉ちゃんにはさんざん世話になってるしなっ たまには恩返しもしないと。それよか姉ちゃん、気分直しに俺たちのテーブルに来なよ。こっちはみんな気のいい連中ばっかだからさ」

「えっ ちょ、ちょっと待って!」

 言ってみても祐真はお構いなしで、亜衣子の手を引いてずんずんと店の奥に進んでいく。奥の広い座敷には、先刻誰かが言っていた通り同年代の男性が何人も座っていて、すっかり盛り上がっている様子だった。

「おっ!? 笹野が女連れてきたぞーっ!」

「誰だよ、まさかお前の彼女か!?

「違いますよ、俺の姉ちゃんっスよ。偶然ここに来てて、あっちの席で酔っぱらいにからまれてたんで連れてきたんス」

「言われてみれば、よく似てんなあ」

「お前、女になったら結構可愛くなるんだなあ」

 好き勝手なことを言う連中を軽くかわしながら、祐真は皆の端のほうへ亜衣子を連れていく。

「少しでも知ってる人のそばのがいいだろ」

 そう言って祐真が亜衣子を座らせたのは、何と高坂の隣だった!

「こ、高坂くんっ!?

 まさか、高坂も来ているとは思わなかったのだ。高坂も驚いたのか、無言のままで目を見開いている。

「何だよ、高坂、笹野の姉さんと知り合いなのか?」

「高校三年間、同じクラスだったんだよ」

「なんて言って、実は彼女とかだったりしてなっ」

「ちっげーよ、ばーか」

 『彼女』のひとことに、亜衣子は何も考えられなくなるくらいパニックを起こしていたのだけれど。高坂は、まるで気にする様子もなく、軽くかわしている。その様子に、ホッとすると同時に一抹の寂しさを感じてしまって…。だから、高坂が差し出してきたメニューに気付くのが遅れた。

「まだハタチ過ぎたばっかだし、あんまアルコール度数が強くないほうがいいだろ。好きなの選べよ」

 見ると、それはあまりアルコール度数が強くなさそうなカクテルやソフトドリンクのメニューで。男連中には物足りなくて放っておかれていたものだろう。

「あ、じゃあ、このシンデレラっていうのを…」

「了解。すいませーんっ」

 亜衣子が選んだのは、ノンアルコールのカクテル。高坂の前で酔って醜態をさらすのも嫌だったからだ。

「じゃ先輩、姉ちゃんのお守りは頼んます。おーい、川崎ーっ 今日教授に言われたレポートなんだけどさーっ」

 言うが早いか、祐真はさっさと他の人の元へ行ってしまった。

 えっ ちょっと祐真行っちゃうのっ!? 高坂くんとふたりで何を話せばいいのよ〜っ!!

 亜衣子の焦りなど知らない高坂は、涼しい顔だ。

「きょ…今日のこれは、何の集まりなの?」

 できるだけ平静を装って話しかけてみる。

「一応サークルの…なんだけど、大して活動してないんだよな。まあ、バイトするのに都合がいいから、付き合いで入ったようなものだけど」

「そうなんだ……」

「笹野のおっ姉さーんっ S女子大行ってるってマジっスかーっ!?

「いいなあ、女の園…いっぺん入ってみてーっっ」

「彼氏とかいるんスかーっ!?

「こん中ではどいつが好みですかーっ!?

 いっぺんに話しかけられて、パニック状態再びだ。先刻一応ひととおり紹介されたが、もう誰が誰だかさっぱりだ。

「てめーら、いっぺんに話しかけんなっての。笹野が混乱してるだろうがっ」

「何だよ高坂、てめーマネージャーかよっ」

「身内に頼まれてんだから、当然だろ」

 ああそうか。そういうことか。祐真に頼まれたから、こんなに親身になって面倒を見てくれているのか。そうだろうな、と亜衣子は思う。そうでもなかったら自分みたいに面倒くさい相手の世話なんて、誰が自発的にしてくれるというのか。何だか自嘲的な気分になって、亜衣子は口元にそっと笑みを浮かべてしまう。横座りのポーズで座っていた膝の上に乗せていた手の甲に、ぽとりと透明なしずくが落ちた。

「─────笹野…?」

 高坂の、驚いたような声にハッとする。

「え?」

 手の甲に残ったしずくにようやく気付いて、そっと頬に手をやると、涙が知らない間に瞳からあふれていて。そのまま頬を伝っていたことに、亜衣子はここにきて初めて気付いた。

「や…やだっ さっき飲んだお酒がいまごろ回ってきたみたいっ!」

 ほんとうは、弱いお酒しか飲んでいなかったけれど。それしか、言い訳が思いつかない。バッグからハンカチを出して、慌てて拭う。

「お酒ってあんまり飲まないから、悪酔いしちゃったのかも」

「そ、そうか、気をつけろよ」

 慌てたような高坂の声を聞きながら、そっと微笑んでみせる。ほんとうは、思う存分泣いてしまいたかったけれど。そんなことをしたら、高坂をますます困らせるだけだから。亜衣子は懸命に、涙をこらえてノンアルコールのカクテルやソフトドリンクだけを飲み続けて。こちらの飲み会が お開きになるのを待って、祐真と共に祐真のアパートへと帰っていった…………。




    



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2012.12.21改訂版up

せっかく一歩ずつ近付けていたのに…
道のりはまだまだ長いようです。


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