まったくもう。ひとごとだと思って好き勝手言ってくれるものだと、亜衣子は思った。友人たちと別れて家に帰るための電車に乗り、空いている席に座る。ぼーっとしながら乗っていると、電車が祐真のアパートの最寄りの駅に着いたので、ほとんど無意識に窓の外を眺めてしまう。高坂もこの町に住んでいるのかと思うと、何だか感慨深い。
この町のどこかのアパートに、高坂くんも住んでいるのかな。毎日、この町を歩いて、大学に通ったり買い物に行ったりしているのかな。
そんな高坂の姿を想像するだけで、何だか心が暖かくなってくる。もう逢えないと思っていたのに、あんな偶然があるだなんて。予想もしていなかっただけに、亜衣子の胸はどきどきと高鳴ってしまう。…とんでもないオプションまでついていたけれど。それを思い出すとまた落ち込んでしまうので、なるべく思い出さないようにする。
思えば、高坂は高校時代から女子に人気があって、時々交際を申し込まれていたことも知っている。だけど彼はそのたびに、「いまは剣道に打ち込みたいから」と言って断っていて、誰ともつきあっていなかったことも。だから、亜衣子も気持ちを伝える勇気が出せなかった。ずっと同じクラスだったから、フラレた後も同じ教室で毎日顔を合わせるなんて……とても耐えられそうになかったから。「こうさか」と「ささの」で男女それぞれの出席番号が同じだったおかげで、一、二ヶ月に一度、一緒に日直をできるだけでも幸せだったから。そんなささいな幸せさえも、気まずい時間に変えてしまう勇気は…
なかったから。だから、何も言えなかった。自分の部活────ちなみに合唱部であったりした────が終わってから、高坂と同じ剣道部に所属する彼氏を持つ友人につきあって、剣道部が終わるまで一緒に見学をすることぐらいしか、できなかった。不思議なもので、多勢いる剣道部員が掛け声を上げる中で、亜衣子の耳は高坂の声だけは絶対に聞き逃すことはなく、いつも高坂の姿だけを目で追って…高坂の声だけを聴いていた、三年間ずっと。高坂は、そんなこと知りもしなかっただろうけれど。大して親しくもない女子にそんなことをされていると知ったら、きっと迷惑に思うだろうから。そんなこと、誰にも言えなかった。友人の誰にも、想いを打ち明けることはできなかった。
そんな三年間を過ごして、卒業して二年。もう逢えないと思っていたのに。弟の祐真に感謝したい気持ちになってくる。今度、夕飯でも作ってあげようかな。そんな現金なことを思いながら、亜衣子は遠ざかる町をいつまでも眺めていた。
そんなことを思った三日後、「馬鹿」と言われたことなど忘れたかのような、相変わらず能天気な声を出す祐真から電話があったのは、電車を降りて大学まで歩いて行く途中の道すがらだった。
『姉ちゃん、おふくろが作ってた肉じゃがとか茶碗蒸しと同じのって作れるか?』
「作れるけど?」
昔から家事の手伝いは好きでやっていたので、母のレパートリーはいくつか作れるようになっていた。
『何か無性に食いたくなって、そのへんで売ってるやつ買って来てみたんだけど、やっぱ何か違うんだよ。今日か明日にでも、うち来て作ってってくんねえ?』
「今日なら時間があるからいいけど……午後からしか行けないから、夕飯になるわよ?」
『ああ、それで構わないっつーかむしろ好都合? 俺今日バイトだからさ、夜にならないと帰れないんだよ。あっ そんで、同類の奴もいるんで、二人分作っといてくんないかな。材料費は後で出すから』
「はいはい、わかったわよ」
それだけ答えて、電話を切る。まったく。「忙しいから」と言ってゴールデンウイークにも帰ってこなかったくせに、やっぱり家庭の味が恋しくなったのか。実家を出てまだ二ヶ月も経っていないというのに、先が思いやられる。身体ばっかり大きくなって、相変わらずどこか頼りない弟が何だか可愛くなって、亜衣子は口元に笑みを浮かべてしまった。
午後、駅前のスーパーで買い物を済ませてから、亜衣子は再び祐真のアパートを訪れた。高坂に忠告された通り、ちゃんと玄関の鍵を閉めてから部屋の中を改めて見渡すと、つい三日前に片付けたばかりとは思えないほどまた散らかってはいたが、まあ最初の時よりはマシかと思い、軽く片付けてから料理に取りかかる。引越しの時も、祐真本人と両親につきあっていたから、調理道具も何が揃っているかはわかっている。足りない物は代用できるものを使って、リクエストの肉じゃがと茶碗蒸し、それからそれらに合う和食のおかずを何品か作る。まだまだ食べざかりの年齢だし、食べきれなかったら冷蔵庫に入れておけば日もちのするものばかりを作ったので、大丈夫だろうと思ったのだ。
祐真が帰ると言っていた七時が近づいてきたので、二人分の茶碗やお箸、味噌汁のお椀をテーブルに用意する。ここまで用意しておけば、あとは自分でできるだろうと思ったところで鳴り響く携帯の着信音。祐真からかと思ったが、父親からだった。
「お父さん? どうしたの?」
『亜衣子か、いまどこにいるんだ?』
「どこって、祐真のとこよ。お母さんの肉じゃがとか茶碗蒸し作ってって頼まれちゃったから。もう少ししたら、出るけどね」
『そうか。父さんももう会社を出るんだが、さっき家に電話したらお前が祐真のところに寄っていると母さんが言うから、うまくいけば同じ電車に乗って一緒に帰れるかと思ってな。夜道は何かと物騒だからな』
「あ、そう? えーと、いまからだと七時半くらいの電車に乗れるかな。お父さんは大丈夫?」
『ああ、それなら乗れそうだ。じゃあ、先頭車両に乗るから、お前も乗ってきなさい』
「はーい。あ、祐真が帰ってきたみたい。お父さんも話す?」
『いやいい。身体にだけは気をつけて、規則正しい生活をしろとだけ言っておいてくれ』
「はーい、じゃまた後でね」
まったく父親というものは、息子には素っ気ないものだなと亜衣子は思う。先ほど声が聞こえたのでそう思った通り、祐真が帰ってきたようで、背後でガチャガチャと鍵を開ける音がしてドアが開く気配。携帯を片手に振り返り、「お帰りなさい」と告げる。
「あれ、電話中?」
「ううん、いま終わったとこだから大丈夫」
言いながら携帯をバッグにしまってから立ち上がる。
「あたしもう帰るから、後は自分でやってよね。…あれ? お友達は一緒じゃなかったの?」
「ああ、いま来るよ。せんぱーいっ」
…『先輩』? その言葉に、亜衣子の心の中に「まさか」という思いが浮かび上がる。そうして。何も知らない祐真の背後から現れたのは、先の再会以前には夢にまで見ていたほど逢いたかった相手────高坂その人だったのだ!
「こ、高坂くん!?」
「あれ、俺先輩連れてくって言ってなかったっけ? 姉ちゃん、高校ん時同じクラスだったんだろ?」
「あ、うん」
頬が勝手に紅潮しそうになるのを懸命にこらえて、何とか平静を取り戻す。
「こないだもばったり会ったから、そんなに久しぶりって訳でもないけどね」
「あ、そうなん?」
「前を通りかかったら布団が干してあったから、お前がいるのかと思って寄ってみたら、姉貴のほうだったんだよ。よく考えたら、お前が布団なんて自発的に干すタマでもないけどな」
「慎吾先輩、ひっでー」
『慎吾』先輩なんて呼んでいるのか。ちょっと、羨ましい。
「と、とにかく、あたしはもう帰るから。他にも日もちのするおかずを作っておいたから、食べきれなかったらちゃんと冷蔵庫に入れてね。じゃないと、この陽気じゃすぐ傷んじゃうから。あとお父さんからの伝言。『身体に気をつけて、規則正しい生活をしなさい』って」
「うん、わかった」
バッグを手に持って、二人と入れ替わりに靴を履いて、笑顔で振り返る。
「じゃ、高坂くん、邪魔者は帰りますので、後は男同士でどうぞごゆっくり」
そう言って玄関を出ようとした亜衣子だったが、高坂が後から靴を履き直してきたので、驚いてしまう。
「先輩?」
「悪い、俺ちょっと買い物忘れてた。ついでだから、途中まで送るよ」
「えっ 大丈夫よ、駅で父と待ち合わせしてるし、駅まで近いし」
「いや、俺の用事も駅前なんだ。ついでだし送るよ」
「え、でも…」
「いいじゃん、姉ちゃん送ってもらえよ。立ってるものは親でも使えって昔から言うじゃん」
祐真が気楽なことを言ってくるのを、高坂がべしっと頭を軽くたたくが、まるでこたえている様子もない。
「行こう」
まるで譲る気配もなく、高坂が先を立って歩いていく。これ以上は言っても聞かなさそうだと思い、亜衣子もその後に続く。
「あ…ありがとう─────」
囁くように礼を告げると、高坂が何でもないことのように「いや」とだけ返してきた。二人で連れ立って祐真の部屋を出ると、背後から祐真の「行ってらっしゃーい」という能天気な声が響き渡った。
アパートの階段を下りて外に出ると、外はだいぶ暗くなってきていて、亜衣子は堪えきれなくて赤くなってしまった顔を気付かれずに済みそうなことに、心の底から感謝した。
駅まで歩いて十五分くらいといっても、高坂とふたりきりで歩いて、平気な顔を続けられる自信がなかったから。幸いなことに、高坂との身長差は十五センチはあるから、あまり上を向かなければ、赤くなっている顔に気付かれずに済みそうだ。
「笹野は…」
「な、なに?」
「S女子大に行ったんだっけか? ここより二駅くらい向こうの」
「あ、うん。私も祐真みたいに一人暮らししたいって言ったんだけど、どうしても父が許してくれなくて。なのに、祐真だとあっさり許可が下りるんだから、不公平だわ」
「親父さんは笹野のことが心配なんだよ。男ならよっぽどのことがなければ自分で何とかできるけど、女の子はそうもいかないから」
それはわかるけれど……。
「それはともかく。もう、歌はやってないのか?」
「え?」
「高校の時、合唱部に入ってただろ」
「あ、ああ、いまも大学のサークルに入ってやってるわ。高校の時ほど熱心な練習をするところじゃないけど、やっぱり歌うことは好きだから」
「そっか」
「高坂くんは? 剣道はまだ続けてるの?」
「いや、剣道は高校まででやめた。いまは少しでも自分で学費や生活費稼ぎたくて、バイトしてる」
「そうなの? すごいわ、私なんて何もしてないのに」
「してんじゃん」
「え?」
「何だかんだ言って弟の世話マメにしてて、立派に『お姉ちゃん』してんじゃん。まあさすがの俺も、いきなり真っ赤なパンツ見せつけられるとは思わなかったけどな」
実に楽しそうな高坂の声に、亜衣子の記憶が刺激されて、顔が一瞬にして真っ赤に染まる。
「いやーっ アレはもう忘れて────っ!!」
恥ずかしかったけれど。死ぬほど恥ずかしかったけれど。駅までの道が、どこまでも続くといいと、亜衣子は思っていた……。
夢のような時間だった。
高校時代からずっと好きだった高坂と、駅までわずか15分程度の道のりとはいえ、一緒に歩くことができるなんて。
「笹野って、高校時代男どもに結構人気あったんだぜ? それが…くくっ あんな姿見たの、俺くらいのもんじゃないかな」
その前に、あんな恥ずかしい姿────弟の祐真の真っ赤なド派手な下着を掲げていた、いま思い出しても顔から火が出そうなほどのあの出来事のことだ────を見られていなければ、の話だが。
「あ、あたしなんてモテないわよー。高坂くんのほうこそモテてたんじゃない? 高校時代、『また告られたらしい』って女子の間でちょくちょく噂になってたわよ?」
そう答えると、その言葉に高坂がギョッとした顔をしてこちらを向いた。やはり、知らなかったのかと思う。高校時代から、高坂は恋愛に関してはストイックに見えたから……。
「げっ マジかよ、すげーな、女子」
「女子の情報網をナメたら怖いわよー? うっかりもらした一言からだって、すーぐ全部バレちゃうんだから」
「女は怖いってよく聞くけど、ほんとうだな…………」
「あたしだって、当時どんなに苦労したか……」
「しまった」と思った時にはもう遅い。高坂の瞳が、意外なものを見る目になって、それからすぐに興味津々とでも言いたげな色に変わっていくのを、亜衣子は目の当たりにしてしまった。
「……なに? 笹野にも好きな相手とかいたのか?」
まさか本人を目の前にして、「貴方だ」なんて言える訳がない。けれど身体のほうは正直で、みるみるうちに顔が赤くなっていくのを自覚しながら、亜衣子は何も言えずにいた。目前に立つ高坂は、そんな亜衣子の内心を知る由もなく、
「告白したりつきあったりしてたら、いくら何でも男子の間でも噂になったはずだよな。それくらいは、お前人気あったんだぞ?」
などと気楽な口調で言ってくる。どんなに人気があったとしても、好きなひとに想ってもらえないのならば何の意味もないことを、亜衣子は痛いほどによく知っていた。
「そ、そんなことしてないもの……いまも」
ともすれば涙がこぼれてしまいそうなのを懸命に堪えながら、亜衣子はようやくそれだけを口にする。自分が誰と付き合おうが付き合わなかろうが、高坂はまるで気にしないだろうと思っていたから。高坂がどんな表情を浮かべているのか見る勇気がなくて、靴の不具合を直すふりをしてしゃがみ込んでしまう。
「大丈夫か?」
「あ、うん、ちょっとずれただけだから」
再び立ち上がった時には、お互い普通の顔に戻っていたから、亜衣子は内心で「ほらね」と思う。高坂にとって自分は、単なる元クラスメートで。いまも仲良くしている後輩の姉でしかないのだということを、亜衣子はまざまざと痛感する。
「そういう高坂くんのほうはどうなの?」
「え?」
「大学のほうで彼女とか、できたの?」
できるだけ平静を装って問いかけると、高坂は一瞬複雑そうな表情を浮かべてから、それから元の平常の顔に戻って答える。
「勉強とバイトで忙しくて、そんな暇なんかないよ。いままでも、多分これからも」
「そう…なんだ」
だめ。喜んじゃだめ。だからって、あたしに振り向いてくれる可能性なんかゼロに等しいんだから。期待なんか、しちゃだめ──────。
そんな風に他愛のない会話を交わしていたら、あっという間に駅前の明るい場所に出てしまって、亜衣子は心の底から残念に思った。無理なことだとわかっていても、このままずっと高坂とふたりで歩いていたかったから……。
「あ、そこが俺と祐真のバイト先だよ。ついさっきまで働いてたけどな」
高坂が指差したのは、あちこちにチェーン店ができている二十四時間営業のコンビニエンスストア。高坂も祐真も男だから、深夜でもできるところが選べたのだろう。
「あっ せっかく帰ってきたのに、また逆戻りさせちゃったのね、ごめんなさいっ」
心底申し訳なくなって、亜衣子は慌てて謝罪の言葉を口にする。
「あ、いやいいんだ。言ったろ、買い忘れがあったって。それより、親父さんが待ってるんだろ、早く行ったほうがいいんじゃないのか」
「あ、うん……お腹すいてるでしょ、ご飯、祐真の分と二人分作ってあるから、いっぱい食べてねっ ほんとうに今日はありがとう!」
そう言って笑顔を見せると、高坂もホッとしたように笑顔を見せた。
「いや、それを言うならこっちこそメシ作ってもらって、助かったよ。ありがたくいただかせてもらうから」
「じゃあ、またね」
「ああ、また」
ほんとうに何の気負いもなしに、「また」という言葉が出てしまって、亜衣子自身が驚いてしまった。けれど高坂も、それが当然と言わんばかりの顔で、その言葉を口にした。亜衣子の心の奥から、暖かい何かが満ちていく。
笑顔で手を振りながら、改札へと向かっていく。背中に高坂の優しい視線を感じながら。
ほんとうに……また逢えるって思っていていいの? あたし…高坂くんにとって迷惑じゃないって思っていいの? 数多いだろう友達の中の一人にでもなれると思っていて…いいの……?
そう思っただけで、嬉しく感じる心は止められない。たとえ友達の一人でも構わない。高坂と逢おうと思えば逢えて、会話もできて、もしかしたら一緒に遊びにも行けるかも知れない友達に。なれるのかも知れないと思うだけで、幸せな気持ちになれる。
こんな気持ちにさせてくれるのは、この世の中で高坂ただひとりだけ─────。
ホームから先ほど高坂と別れた辺りを見やるけれど、看板やフェンスが邪魔をして、高坂の姿は見えない。残念に思いながら、滑り込んできた電車に乗り込むと、ドアのそばにいたらしい父親の姿がすぐに目に入って。軽く手を上げる父親のそばに、寄り添うように乗り込む。
「亜衣子、どうした?」
「え?」
「顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
「あっ 電車に間に合わないかもと思って、少し早足で来たから、そのせいよきっとっ 最近、ずいぶん暑くなってきたし」
「そうか。ならいいが。ところで、祐真は元気そうだったか?」
「うん。元気過ぎるくらい元気よ。ただ、ちゃんとご飯を食べてるのかが心配だけど」
「悪いが、また時々様子を見に行ってやってくれ」
「うん」
言いながら、亜衣子は内心で祐真にそっと謝罪する。「可愛い弟なのに、ダシにしちゃってごめんね」と。
そうして電車は、自宅の最寄りの駅へと向かってスピードを増していく…………。
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