〔1〕
古いアパートの一室の玄関先で、女子大に通う笹野亜衣子(ささのあいこ)は、みずからの顔が間抜けそのものの表情で茫然としてしまうのを、止めることができなかった。 「な…何よ、これえっ!?」 ソプラノの声も高らかに、思わず叫んでしまう。部屋の中のあまりの惨状のために、だ。 ことの起こりは、二日前の母の言葉だった。 「ねえお姉ちゃん。祐真、一人暮らしを始めてからゴールデンウイークにも全然家に帰ってこなかったでしょう、お母さん心配になったんで電話してみたのね。そしたら、『学校やバイトが忙しくって』なんて言うの。祐真はちゃんとやってるって言ってたけど、あの子家じゃ家事なんてろくにしない子だったでしょう? あの子のアパート、お姉ちゃんの学校に行く途中の駅にあるでしょう、だからそのうち様子見に行ってあげてくれない?」 あの時は、心配性の母親の杞憂がまた始まったと思っただけだったけれど。実際に来てみると、母の危惧はまぎれもない真実であったことをまざまざと実感させられる。まさに、母の勘は侮れない、といったところだ。 まず玄関を開けたとたんに目につくのは、ちゃんと分別もされているのか怪しい、半透明のごみ袋の山。靴はいくつものスニーカーが散乱し、まさに足の踏み場もない。何とか靴を置くところを確保して奥に進むと、小さいキッチンがあって、ここにも食べ残しや使用済みの食器が流しに散乱していて。まだ未成年であることを考慮してか酒類の缶や瓶がないことだけは褒めてやりたいが、ジュースの缶やペットボトルも散乱しまくっているのを見ると、その気も失せるというものだ。 更に奥に進むと、ワンルームの部屋の中にいかにも万年床といった感じの布団、慌てて脱ぎ捨てていったらしいパジャマ、それにいったいいつから放置しているのかわからない洋服や下着があちこちに点在していて、そこら中に雑誌類や単行本、菓子や飲み物の残骸が転がっている。この場合とは少々意味は違うが、「男やもめにウジがわく」とはよく言ったものだと、亜衣子は思わずにおれなかった。 この部屋の主である笹野祐真(ささのゆうま)────亜衣子のふたつ違いの実の弟だ────は確かにマメなほうではなかったが、それにしてもこの惨状はあんまりだ。実家にいた頃はここまでズボラではなかったはずだが、やはり大学に入学して一人暮らしを始めた男というのは、タガが外れてしまうものなのだろうか。主が不在の部屋の隅に自分の荷物を置いて、亜衣子は腰に届きそうなほどの自慢の黒髪をゴムできゅ…っと束ねる。もしかしたらと思いながら、今日着る洋服を決める際にジーンズを選んだ自分の勘を、亜衣子は褒めてやりたくなった。今日は、通い始めて三年目になる大学での講義が
午後からだから来てみたのだが、それまでに間に合うように終わらせられるのか心配になってくる。とにかく、行動しなければ何も始まらないと思い、亜衣子は腕まくりをしてからまずは洗濯物の選別を始める。とりあえず洗濯機を回してから他のことを始めるほうが建設的だと考えたのだ。一度目の洗濯物を洗濯機に放り込んでから、閉じたままのカーテンを左右に開き、窓を全開にして、流れ込んでくる初夏の空気を思いきり吸い込んだ……。 雑誌などを片付けながら、亜衣子は理不尽なものを感じずにはいられなかった。亜衣子の通う女子大は、祐真の通う大学より二駅ほど家から遠いというのに、父親が一人暮らしを頑として許してくれなかったのだ。それなのに、祐真が大学に合格して「一人暮らしをしてみたい」と言ったとたんあっさりと許可を出すなんて、世の親は息子には甘いものなのだなと思わずにはいられない。自慢ではないが、祐真より亜衣子のほうがよっぽど品行方正に生活する自信があるというのにだ。 「ホント、親って勝手だわ」 とりあえず部屋のほうを綺麗に掃除したところで、玄関のドアがノックされていることに気付いて、そちらへと向かう。 「笹野さん、いるのかい。大家の塚本だけどね」 年配の女性の声だったので、とくに警戒することなくドアを開けると、腰の曲がった老婦人が驚いたような顔で亜衣子の顔を見返してきた。アパートを決める際にも見かけた、大家の婦人だった。 「あんた、誰だい?」 「こちらをお借りしている笹野祐真の姉です。弟がいつもお世話になっております」 丁寧に挨拶をして頭を下げると、老婦人もようやく思い出したのか、とたんに警戒を解いた笑顔になって話しかけてきた。 「ああそういえば、ここに下見に来た時にお母さんと一緒に来てたっけねえ。よく似たお姉さんだったから、覚えてるよ」 よく言われるが、そんなに似ているのだろうか。 「ほい、これ。回覧板なんだけどね、お隣さんに『時間帯が合わなくていつ渡していいかわからない』って言われちまってね、あたしが直接持ってきてるんだよ」 「すみません、お手数をおかけして……」 ほんとうに、恐縮するしかない。 「しっかし、お姉さんが来ると変わるもんだねえ、すっかり元の部屋に戻ったみたいだよ。弟さんにもたまには掃除しろって言ってるんだけどねえ」 「すみませんすみません……これから、私がちょくちょく片付けにまいりますので」 もう、頭が床にめりこまんばかりに下げまくる。我が弟ながら、情けなくて涙が出てきそうだ。 「まあ、悪いのはお姉さんじゃないんだし、あんまり気に病むんじゃないよ。それじゃ後は頼んだよ」 「あ、はいっ これからも弟をよろしくお願いしますっっ」 最後に思いっきり頭を下げて、老婦人を見送る。まったく、祐真のおかげでえらい目に遭ったと思いながら、回覧板の中を開けてみる。 「なになに…日曜日に近くの小学校で運動会? 祐真は絶対行かなさそうだわ」 などとそちらに気をとられてしまったので、ドアの鍵をかけ直すことをすっかり忘れてしまっていた。のちに、その件をとんでもなく悔いる羽目に陥るのだけど、この時の亜衣子はそんなことに気付くよしもなく。ようやく一度目の洗濯が終わったことを知らせる洗濯機の電子音に、意識は完全にそちらに向けられてしまった。 初夏の陽気のおかげか、よく乾いた洗濯物をハンガーから外してたたみ始める。それにしても。この量はいったいどういうことなのだろうか。祐真は特に着るものにこだわるタイプでもないし、実家にいた頃にだってこんなに服も下着も枚数は持っていなかったはずだ。彼女でもできたのだろうかと思いかけて、いや違うなとすぐに思い直す。何故なら、彼女がいるのなら彼女が洗濯だってしてくれる可能性も高いし、こんなに部屋やキッチンが汚れているはずもない。恐らくは、洗濯するのが面倒で、バイトを始めて小金を持ち始めたこともあって、洗濯をしていなくて足りなくなった時には買い足す、という生活をしているのに違いない。そして亜衣子の読みが正確であったことは、後に証明されることになるのだが、それはまた別の話で。 「それにしても……派手な下着ねえ」 苦笑いを浮かべながら、真っ赤なトランクスを目の高さに持ち上げる。実家にいた頃は、下着類は母親が買ってきていたから、ここまで派手なものは穿いていなかったはずだ。 玄関のドアが再びノックされたのは、その時だった。鍵を閉めてあると思い込んでいた亜衣子は安心しきって、ゆっくりそちらを向いて返事をしようとしたのだが、実際には鍵がかかっていなかったのと同時に相手がすぐにドアを開けたため、先ほどと同じポーズをとったままの亜衣子の前で、ドアが静かに開いて。どこか見覚えのある顔がその姿をのぞかせた。 「祐真、今日は夕方までいないはずじゃなかったのか? 休講にでもなったのか……」 低い声が、部屋の中に、亜衣子の耳に響き渡る。驚いて瞬きすらできなくなった亜衣子の前で、相手の青年も一瞬明らかに動揺した顔を見せて。それからゆっくりと、その唇から声を紡ぎだした。 「─────笹野…?」 ほとんど無意識に、亜衣子の唇からも掠れた声がもれる。 「……高坂くん……?」 その名を呼ぶと、相手はとたんに申し訳なさそうな顔になって呟いた。 「あ、祐真じゃなかったのか…悪かったな、急に開けちまって」 「あ、ううん、気にしないで、私もたまたま来ただけだし。ほら、この部屋すごい状態だったでしょ、母に頼まれて」 「通りかかったら布団が干してあったんで、祐真がいるのかと思って来てみたんだけど……また出直してくるよ」 「ごめんね、紛らわしいことしちゃって。祐真とまた仲良くしてあげてね」 「ああ、うん。あ、よけいなことかも知れないけど、玄関の鍵はちゃんと閉めておいたほうがいいぞ、この辺うちの大学の男どもが結構うろついたりしてるから」 「あ、さっき回覧板受け取った時にそのままにしちゃった……ありがとう、気をつけるわ」 「じゃ、俺はこれで。祐真によろしく」 「あ、うん」 あまりにもあっけなく高坂が去っていってしまったので、亜衣子は何となく拍子抜けしてしまう。まさか、こんなところで逢えるとは思ってもみなかったのだ。 「…っ! きゃああああっ!! ぱ、ぱ、ぱぱぱぱんっっ」 その悲鳴を、立ち去りながら聞いていた高坂が、声を出さないように笑いをこらえていたことも、亜衣子は知らない──────。 「あーいっこちゃーん。どうしたのよー」 その背に、近くに座っていた級友たちが声をかけてくる。 「今日は、来た時から元気なかったじゃん、何かあったの?」 級友たちの声に、亜衣子の目尻に涙がにじむ。 「玲美(れいみ)ちゃん、佳苗(かなえ)ちゃん…実は……」 五分後。だいぶ人の少なくなった教室は、笑いの渦に巻き込まれた。 「ちょっ 何もそこまで笑わなくてもいいじゃないっ!」 「あ、ごめんごめん……」 と、いったんは笑いをおさめた友人たちだったが。亜衣子の顔をじっと見つめた次の瞬間、またしても腹部を抱えて笑い出した。 「こ、高坂くんってアレでしょ? 前に話してくれた、高校三年間同じクラスだったにも関わらず、ろくに話もできなかったっていう、亜衣子の憧れの人」 「三年になって、弟が彼と同じ部活に入って彼を慕いまくって可愛がられてたってのに、会話の糸口すらつかめないままで卒業しちゃったっていう、いまどき信じられないぐらいの純愛物語の相手よね?」 「だ、だってだって……」 三年間剣道部だった高坂は、瞳も姿勢も心も何もかもまっすぐで……自他共に認める奥手の亜衣子には、気軽に声をかけることすらできず、ただ見つめることしかできなかったのだ。ほんとうはずっと、あの低くて聞き心地のよい声をそばで聴いていたかったのに。何度、弟となり代わりたいと思ったか知れない。 「高校卒業しちゃってから、なけなしの接点もなくなっちゃって……もう二度と逢えないかも知れないと思ってたのに、あんな偶然が訪れるなんて…………」 「なのに、持っていたのが弟の……ぷぷっ」 「それも、真っ赤なド派手なパンツーっ あはははははーっ!!」 玲美も佳苗も容赦がない。 「もうっ そんなに笑わないでよっっ あたしが一番悲しいんだからっ!」 「ご、ごめん、あんまりにもあんたらしくてさ」 「大丈夫よ、彼のほうは弟のこともよく知ってるんだし、そんな気にしてないって絶対」 「ホントに?」 亜衣子は至極真面目に問いかけたのだけど。玲美と佳苗が優しい微笑みを浮かべていたのは束の間で、その後はまたしても爆笑の嵐。 「もうっ あたし帰るっっ」 「あっ 待ってよ、亜衣子ー」 「あんたの好きな、サーティーワンのベリーベリーストロベリー奢ったげるからーっ」 二人の声を背に聞きながら教室を出たところで、マナーモードにしてあった亜衣子の携帯が、ぶるぶると震えた。発信者を確認すると、噂をすれば影の祐真であった。即座にオンフックボタンを押すと、聞き慣れた人懐っこい声が聞こえてくる。 『あっ 姉ちゃん? 今日俺の部屋掃除してくれたんだな、助かったよ、サンキュー。バイト代も入ったし、今度飯でも奢るよっ』 その能天気な声に、先刻からの件で完全に短くなっていた亜衣子の心の導火線が一気に燃え尽きた。 「祐真の…馬鹿っ!!」 思いきり叫んで、通話を打ち切る。八つ当たりだとわかっている。わかってはいるのだが……あたらずにはいられなかったのだ。きっといまごろ祐真の頭の中ではクエスチョンマークが飛び交っていることだろう。 「まあまあ。弟の部屋の掃除っていう大義名分もできたことだし、これからちょくちょく行けばいいじゃん」 「そうそう、そしたら彼と逢えるチャンスも必然的に増えるってもんよ? もれなく弟もついてくるけど」 「んで、『二人で食べてー』なんてご飯でも作ってあげたりしてさ。弟と同じ大学ってことは、彼も近くで一人暮らしの可能性も高い訳でしょ、しかも弟より二年も長く。となれば、家庭の味に飢えてるのは必至!」 「そんな時に、こんな可愛いコが美味しいご飯を作ってくれたりしたら……落ちる可能性も格段に増えるって寸法よ」 「そ…そうかな」 そう言われると、亜衣子自身もそんな気がしてくるから不思議だ。 「そうそう。たとえ再会一発目が真っ赤な男物パンツ付きだったとしてもーっ!!」 またしても、爆笑の嵐。 「だから、そこに話を戻さないでよーっ!!」 亜衣子の、半泣きの叫びが廊下に響き渡った。 |
2012.12.21改訂版up
ずっと好きだったひととの二年ぶりの再会…
普通なら感動ものなのに真っ赤なアレがすべてをぶち壊しです(笑)
亜衣子の想いは伝わるのか?
背景素材「tricot」さま