〔14〕





 亜衣子と朝から幸せなやりとりをしてからバイトに励んだ慎吾は、店長他パートの主婦たちから「今日は妙にいつもより元気だねえ」などと言われて、自分でも気付いていなかったために戸惑ってしまった。とくに表面に出したつもりはないが、やはり見る人が見ればわかるのかと実感する。

 まあそれも、仕方のないことといえよう。何せ五年分の想いが、最高の形で報われたのだ、これで浮かれない人間がいるはずがない。脳裏をよぎるのは、昨夜目の当たりにした亜衣子の愛らしい表情や仕草の数々。元々可愛いとは思っていたが、あんな風に感情によってまた別の愛らしさを見せるなんて、思ってもみなかった。それも、他の誰でもない自分のために、なんて。幸せ過ぎて、めまいがしそうだ。

 そしてバイトを終えて帰ったその晩、アパートに戻って亜衣子に教わったレシピで作ったおかずで夕飯を済ませてから、渡部に電話をかける。「直接話したいことがある」と前置きしてから、直接会う約束をとりつけて電話を切って、風呂に入るためにそちらに向かってしまったから。慎吾は、裏で皆がどんなことを画策しているかなんて、何も気付かないままだった…………。


 それから三日ほど経った日の夕刻。渡部に指定された居酒屋の前で、慎吾は信じられない相手と再会を果たすこととなった。

「…亜衣子? 藤原さんも…?」

 未唯菜が彼女のすぐそばにいることも忘れ、ついその名を呟いてしまう。

「こ…し、慎吾…さん」

 名字から名前に、懸命に切り替えて呼ぼうとする亜衣子が可愛くて、口元に笑みを浮かべかけた次の瞬間、付け足された敬称にがくりと肩が落ちそうになる。

「こら。何だ? 『さん』ってのは」

 半ばからかうようにツッコんでみると、亜衣子は目に見えて顔を紅潮させて、恥ずかしそうに答えてみせた。

「だ、だって、いままで名字でしか呼んでなかったのに、いきなり名前でなんて……それもハタチ過ぎた男の人に『くん』付けなんて…っ」

 ああもう、可愛過ぎて、もうこの場で抱き締めてしまいたくなる。天下の往来だし、未唯菜もいることだしそんなことはできないが。

「ま、亜衣子からしてみれば大進歩か」

 名前で呼んでくれるようになっただけ、いままでに比べたらすさまじい進歩だ。

「そ、それより、こ…慎吾、さんはこんなところでどうしたの?」

「え、いや、渡部に指定されたんで来てみたんだけど……」

「え? 私も未唯菜ちゃんに引っ張ってこられて…」

 ふたり同時に訝しげな表情を浮かべたところで、後ろから未唯菜がふたりの背を勢いよく押してきたので、思いきり驚いてしまう。

「さあさ、話はあとあと! とにかく中に入って入って!!

 未唯菜の迫力に圧される形で、慎吾が隣に亜衣子を伴って引き戸を開けた瞬間。パーンッ!!とすさまじい音が連続して鳴り響いたので、亜衣子が小さな悲鳴を上げながら高坂の腕にしがみついてきたが、高坂は男のプライドも手伝って何とか声は出さずに堪えた。

「五年越しの片想い成就、おめでとさーんっ!!

 中から拍手や口笛、タンバリンやカスタネットなどの手軽な楽器の音と共に響いてくるのは、とても二人や三人とは思えないほどの声量の声。何が何だかわからずにいる慎吾の顔を、亜衣子が眼下から説明を求めるように見上げてくるけれど、高坂とて何が何だかわからずにいるのだ、説明などできるはずもない。かぶりを振りながら、驚きに目をみはっている亜衣子に応えてみせる。

「な…何なんだよ? 俺はただ『話がある』って言って渡部を呼び出しただけだぞ? なのに、何で祐真をはじめとする剣道部の先輩後輩五年分の部員が揃ってるんだ!?

 慎吾が言ったとたん、亜衣子もようやくハッとしたように前を見据えて面子を確認するが、この場に揃っているのは元剣道部の面子だけではなかった。

「合唱部のみんなまで……何でいるの…!?

 ふたりで目をむいている眼前に、結花の隣に寄り添うように渡部が奥から歩を進めてきた。

「だってよー、高坂から『直接話したいことがある』って連絡があって、結花には笹野のほうから同じような連絡があったってことは、これしかねーじゃんかよ。しかも高坂、おめー祐真に『姉ちゃんもらう』宣言したって?」

 よりによって亜衣子の前で、そんな誇張された言葉を告げられて、大慌てしてしまう。驚いたようにこちらを見る亜衣子の前で首を横に振りながら、「そんなことは言ってない」と焦りまくった声で答えてしまった。

「『姉貴を幸せにする』とは言ったけど、『もらう』なんてえらそうなことは言ってないっ!」

 「もらう」なんて、まるでプロポーズの後の言葉のようではないか。もちろん、将来はできればそうなれたらいいなと思ってはいたが、まだ付き合い始めたばかりのいまの状態で、いきなりそんな一足飛びに行くつもりはさすがにない。いまはまだ、もう少しただのこの甘い時間を満喫していたいのだ。

「まあそれはともかく、主役は特等席に座った座った!!

 奥のほうから駆け寄ってきた祐真に片手ずつ引っ張られ、慎吾は亜衣子と共に上座にあたる席に並んで座らされる。互いの隣には、祐真と未唯菜。その向こう側には、それぞれの先輩や後輩がずらりと並ぶ。祐真のことだから、先日のこともあるから亜衣子のそばには自分たちや女子だけを配置したのだろう。渡部と結花は、先輩後輩の全員と面識があるからか、すっかり司会者の位置に陣取ってしたり顔だ。

「さーて、お集まりの皆さん、急な召集にも関わらず、よくぞこれだけ集まってくださいました。今回司会を務めさせていただきます、元剣道部代表、渡部弘樹と」

「元合唱部代表、児島結花でーすっ くれぐれも『アンジャッシュ』と呼ばないでくださいねーっ」

 相変わらずユーモアセンスにあふれている結花に、場がどっとわいた。相変わらず、明るい性格だ。

「でもって、皆さんがやきもきしながら行く末を見守っていたお騒がせのふたりが、今回ようやくまとまってくれたということで」

「いざという時のために決めておいた緊急招集をかけさせていただきましたーっ さすがに全員は集まれませんでしたが、約三分の二の出席率で嬉しい限りです」

 そ、そんなに集まっていたのか。というより、そんなに多くの人数に互いの想いを知られていたのかと思うと、慎吾は恥ずかしくて仕方がない。

「そしてこれだけの人数にも関わらず場所の提供をしてくださった、後輩の野瀬くんの親父さんに、皆さん感謝の拍手をお願いしますっ」

「ありがとうございましたーっ!!

 大きめの居酒屋とはいえ、これだけの人数が入る店がよく見つかったなとは思っていたが、そういう訳だったのか。そういえば野瀬が家は居酒屋を営んでいると当時言っていたことを、高坂はいまさらながらに思い出す。

「あー、でも飲み食い始める前に、あたしからひとこと」

 渡部の持っていたマイクを奪うようにして、ショートヘアの女性が一歩前に踏み出してきた。久しぶりに顔を見たが、綺麗にはなったが根本的にはあまり変わっていないから、すぐわかった。自分たちの一学年上の本橋茜だ。

「今日車や二輪で来た奴は、酒を一滴でも飲むんじゃねえぞっ あとまだ未成年も同様だっ この禁を破った奴ぁ、このあたし本橋茜と蓮川あおいが容赦しねえからなっ!!

 彼女の後ろでは、肩のあたりで切り揃えた髪のたおやかな美人が苦笑いしている。当時剣道部のマネージャーも兼ねていた女性で、茜の親友でもあった蓮川あおいだ。合唱部のアイ・マイ・ミートリオとは年代が微妙に違うが、剣道部の紫コンビと言われていた二人だ。どんな強敵を前にしても一歩も退かない強靭な精神力の持ち主である茜と、どんなに不利な形勢でも決して冷静さを失わず活路を見い出すあおいは、性格的にはまるで真逆ではあるが妙にウマが合っているらしく、いまでも仲良くしていると聞いたことがあった。

「ところで本橋先輩と蓮川先輩って、どちらにお勤めでしたっけ?」

「あたしが地元警察署の少年課で、あおいが交通課だよ。よーく覚えておきなっ」

 結花の問いに、皆に向けて答えた茜の言葉に慎吾を含む剣道部の面子は思いきり納得して、何度も頷いてしまった。不思議そうな顔をしてこちらを見ている亜衣子に気付いて、慎吾は簡単に説明する。

「あ、亜衣子は知らないか。すっげー適材適所といえる進路なんだよ」

 そんな慎吾の背後から、祐真が楽しそうに質問してきたのでぎょっとする。

「ところで慎吾せんぱーいっ いつから『亜衣子』って名前で呼ぶようになったんスか〜?」

 にやにやにや。祐真が人の悪い笑みを浮かべてふたりの顔を見比べてきたので、慎吾はもちろん亜衣子も非常に居心地の悪そうな表情で俯いてしまった。それを見た瞬間、高坂はほとんど無意識に、祐真の顔を手のひらでべしっとたたいていた。

「まあ、からかうのはまた後にして。とりあえず乾杯といきましょうや」

 からかうことはからかうのかと、内心で思わずツッコミを入れている慎吾の目の前に、何種類かの飲み物のグラスが載った盆が回ってきて。亜衣子を送っていきたい都合もあるし、変に酔っぱらった相手にベタベタされるのは彼女も嫌だろうなと思い、慎吾はノンアルコールビールを受け取って、亜衣子には綺麗な色のノンアルコールカクテルを渡したところで、宴はどんどん盛り上がり、もはや収集がつかなくなってしまった……。

「ところで高坂よぉ」

「何スか?」

 すっかりいい感じに酔っぱらった男の先輩が問いかけてきたので、深く気にしないで答える。

「お前ら、どこまで行ったんだ?」

 どこまで…とは、デート等のことだろうか? それとも互いの実家とか────まあ亜衣子は家族と同居しているが────のことだろうか?

「ガキでもあるまいに、ベタなボケしてんじゃねぇよ。ぶっちゃけヤッちまったのかどうかって話だよ!」

 あまりにも直截的な表現に、思わず隣の亜衣子を振り返るが────さすがに亜衣子の耳には入れたくない話だったからだ────亜衣子は先ほど未唯菜たちと共に御手洗いに行ったことを思い出し、思わず胸を撫で下ろす。

「せ、先輩、いきなり何言い出すんスかっ!」

「おいおい、そりゃつい最近やっと告白できたばっかの高坂には、無理な相談だろうがよ」

「ああ、それもそうか。でも少しくらいは何かやったんだろ? ただ告っただけってんじゃ納得しねえぞ、俺らはっ」

 先輩たちの目もすわってきていて、これはごまかせそうにないと思い、慎吾は声をひそめてぽつりと呟く。

「ちょ…ちょっと抱き締めて、手えつないで歩いて、額にキスしたぐらいっスよ」

「かーっ 小学生かよ、てめーらはっ」

「あらいいじゃない、微笑ましくて♪」

 いつの間にやら、合唱部の先輩たちまで加わっていたので、驚いてしまう。

「亜衣ちゃん相手だしね〜、ゆっくりいってほしいわ、お姉さんたちは」

「男がそれで我慢できっかよっ」

「何でそう即物的なのよ、あんたたちはっ」

 すっかり収集がつかなくなってきている。亜衣子が戻るまでにこの話が終わってくれているといいなあと思いつつ、慎吾は先輩の後ろで渡部がちょいちょいと手招きしていることに気付く。

「何だ? 渡部」

「笹野の前じゃ渡せないから、いまのうちにな。これもプレゼントのひとつなんだけどよ」

 渡部が渡してきたのは、色の濃い包装紙に包まれた手の平大の箱らしき包み。真剣に中身がわからなくて、渡部の顔を見やると、渡部がにやりと下品な笑みを見せた。先輩の背に隠れて女性陣からは見えないだろうからこそ、できる芸当だろう。

「若く健全な男女交際の必需品に決まってるだろうが」

 経験はないとはいえ、知識は一般的に持ち合わせている慎吾には、その言葉だけで中身が何であるのかすぐにわかった。

「な…っ!?

「お前らのことだから、実際使うのはかなり後になってからのことだろうけどよ。備えあれば憂いなしって昔から言うじゃねえか。財布にひとつは必ず入れとけよ〜♪ 男のエチケットだぞ。あ、それと。こういうヤツにも使用期限はあるからなー、それもちゃんとチェックしておけよ〜」

 言うだけ言って、表情を元の普通の笑顔に戻して、渡部はススス…と先輩の背の陰から去っていく。渡されたものを手にしたまま茫然としていた慎吾は、先輩の背が動き出したことにハッとして、他の人間に見られないうちに慌ててそれを自分がもらった紙袋の奥にしまい込む。こんなもの、亜衣子に万が一中身を訊かれたらどう答えたらいいのかわからなかったからだ。

 確かに、いつかはとは思っていた。けれどそれは、亜衣子と一歩ずつゆっくり段階を進んでからの末だと思っているから、慌てるつもりもなかったし、いつ頃なんて具体的に考えていた訳でもない。あくまでも、大切なのは自分の気持ちではなく亜衣子の気持ちなのだ、それを蔑ろにして自分の都合だけで突っ走るつもりはなかった。しかし、こうして実際に現物を見せられて直截的な話を聞かされると、嫌でも現実を直視せざるを得なくなってしまうではないか。

 何つーことしてくれんだよ、みんなして……。次にどんな顔して亜衣子に逢ったらいいのか、わかんなくなっちまうじゃねーか…………。

 漠然としか考えていなかったことについて、こうハッキリと見せつけられると、嫌でも意識してしまう。いつだったか祐真たちも一緒に鷹急ハイランドに行った時のことを思い出してしまって、慎吾はそれを表面に出さないようにするので精いっぱいだった。

「…ただいま…って、どうかしたの?」

 更にタイミングの悪いことに、そんな時に亜衣子が戻ってきてしまったので、内心で思いきり焦ってしまった。

「いや、何でもないよ」

 けれど表面上は何とか平静を装って、亜衣子を迎え入れる。

 それから、しばしの時間が経ってから、皆の恥ずかしい見送りを受けながら、ふたりで店を辞することにした。

「…ったく。先輩たちまで一緒になって悪ノリしやがって、ホントに社会で働いてんのか、あの人たちは」

 半ば本気で思いながら呟く慎吾に、亜衣子が微苦笑を浮かべて応える。

「きっと、ストレスがたまってるのよ」

 亜衣子のフォローの言葉も、どことなくしらじらしく聞こえるのは気のせいか。

「あ…別に家まで送ってくれなくても大丈夫なのに」

「いや、俺も今日は実家に帰るつもりで親に言ってきてるから。それに……今日は全然ふたりきりになれなかっただろ。最後くらい…誰にも邪魔されないでふたりきりで過ごしたいんだけど……ダメか─────?」

 片手で亜衣子の分の荷物も持ち、もう片方の手で亜衣子の肩を抱き寄せていた慎吾は、もしかして迷惑だったのかと思いながら、亜衣子の顔を覗き込んでしまった。少し淋しく思う気持ちが表面に出てしまっていたのか、亜衣子が慌ててかぶりを振って、慎吾の服を指先できゅ…っとつまんできた。

「そんなこと…ない……」

 恥ずかしそうに上目遣いをしながらそう答える亜衣子に、どきりとしてしまう。以前から思っていたことだが、やはり亜衣子の上目遣いの表情は可愛いなあと思う。これで無意識だというのだから、信じられない話だ。まあ祐真いわく「うちの姉貴に恋愛の駆け引きなんて高等な腹芸なんか、できる訳ねえっスよ」だそうだから、ほんとうに内心には他意などあり得ないのだろう。

 酒はまったく飲んでいないはずなのに、渡部から聞いた内情は完全に初耳の昔話を聞いたせいもあって、よけいに胸が高鳴ってしまう。

 そして、例の公園の前まで来たところで、亜衣子はそっと慎吾から身を離して。

「あ、あのね、まだ両親にちゃんと話してないし、ここまでで大丈夫よ」

「…そうか?」

 慎吾自身は、素面でもあるしこのまま挨拶でも何でもどんと来いなのだが、亜衣子にしてみれば、まだ心の準備ができていないのだろう。何しろ、ふたりはまだ付き合い始めて一週間も経っていないのだ。亜衣子の分の荷物を渡しながら────渡部からもらった例のものもあるし、絶対に間違えることのないように慎重に中身を確認したことは言うまでもない────そっと微笑み合う。ああやはり、自分たちは自分たちのペースでやっていけばいいのだと、再認識する。慌てる必要など、どこにもないのだ。自分たちはまだハタチなのだから────まあ慎吾はもう一ヶ月もしないうちに21になってしまうが。そんなことを思っていたところで、亜衣子から告げられる声。

「髪の毛にゴミがついてるから、ちょっと屈んでくれる?」

「あ、うん」

 答えながら軽く身を屈めたとたん、近付いてくる亜衣子の顔。どうしたのかと問いかける暇もなく、頬に感じるのはやわらかな温もり。小さなちゅ…という音と共に、押し当てられたそれが何なのか確認する前に、亜衣子の身体はすい…と離れてしまったから、いったい何が起こったのか、慎吾にはわからなかった。

「…………誰よりも、大好き、だから───────」

 これ以上ないというほどに顔を真っ赤にして、慎吾の目をまっすぐに見て告げた亜衣子が、さすがに限界だったのか「送ってくれてありがとう、おやすみなさいっっ」とだけ告げて、家に向かって走り始めてしまって…………。一瞬の間を置いてハッとした慎吾がその後を追って曲がり角を曲がったところで、見覚えのある家の門扉の中に亜衣子の姿が消えていくのが見えたので、ホッと安堵の息をもらす。そして、思い出すのは、たったいま起こった出来事のこと。まだ感触の残る頬にそっと手を当てて、記憶を反芻する。

 いまのってもしかして……亜衣子のほうからキスしてくれたってことか…………?

 まさか、そんな夢のような出来事が自分の身に訪れるなんて思っていなかったから、それ故に驚きも甚大で……けれどそれ以上に、喜びが大きくて、自分でもどれほどのものか計り知れない程だった。ブルブルと、片方に紙袋を持った手が震える。両の拳を握り締め、喜びを噛みしめる。自分はいま、世界中の誰よりも幸せなんじゃないかと思える程で、叫び出したいのを懸命に堪える─────理由は前回の時とまったく同じだ。

 しかしそのままそこで立ち尽くしていても、不審者と思われかねないので、なるべく平静を装って亜衣子の家の前を通り過ぎつつ亜衣子の部屋の灯りを確認してから、我が家に向かっての家路についた。

「あれ、慎吾。今日帰ってくる日だったのか?」

 家に着くと同時に、偶然玄関のそばを通りかかったらしい兄の健吾が声をかけてきた。

「あ、ああ。おふくろから聞いてなかったか?」

「俺も少し前に帰ってきたばかりだからなあ…って、お前どうかしたのか?」

「何が?」

「何かいつもより顔が緩んでるっつーか…何かいいことでもあったのか?」

 いいこと? いいことなら、存分にあったさと叫びたいのを堪えていたら、その分顔に出てしまったらしい。「別に」と答えながらすれ違った拍子に顔を見られたらしく、健吾が背後で素っ頓狂な声を上げた。

「げえっ! 慎吾が力いっぱいニヤけてるーっ 気色わりいーっ!!

 失礼な、と返したかったが、いまの自分の顔では説得力の欠片もないことは自身が一番わかっていたので、慎吾は黙って二階の自室へ向かって階段を上がるしかなかった…………。





    


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2012.12.21改訂版up

例のシーン、慎吾側から見るとこんなことになっていました。
むっつりすけべの本領発揮です(笑)

背景素材「toricot」さま