〔13〕





「俺は、笹野が好きだ。五年前の……春からずっと──────」

 亜衣子はわかっているのかいないのか、無言のままで目前の慎吾をまっすぐに見上げている。亜衣子の表情からは何の感情も読み取れない。まるで無反応のままの彼女に、ちゃんと想いが伝わったのか心配になってくる。

「あ……」

 やがて、彼女が小さな声を上げたので、どきりとしてしまう。賽は投げられた。もう後戻りはできない。後は、彼女の心ひとつ──────。

 気分は、判決を待つ被告人のそれのようだ。しかし彼女の唇から飛び出したのは、気の抜け切った声で……緊張でガチガチになっていた慎吾のほうが拍子抜けしてしまいそうだった。そうしてその後に続く言葉も、慎吾の意表を突くには十分なもので……。

「高坂くんがあたしを…なんて、恋愛映画や少女漫画の見過ぎだわ、やだどうしよう、こういうのって何科のお医者さんに行けばいいのかしら」

 まさかとは思うが……現実だと認識しきれていない…?

「亜衣子!」

 まだぼんやりとした表情と口調で続ける亜衣子に、さすがに慎吾もこのままではマズいと判断を下し、強い想いを胸に、初めてその名を呼んだ。ずっと、呼びたくて仕方のなかったその名前を!

「!」

 その瞬間びくりと身をすくませた彼女の片手の手首を掴み、腕に力をこめて引っ張り上げる。自分に向かって、ほとんど飛び込んでくるような形で立ち上がった亜衣子の身体を、みずからの胸で優しく抱きとめて、そのまま両腕で強く抱き締める……その華奢な身体を壊してしまわないように細心の注意をはらいながら。

「夢じゃ、ないから。俺は現実にここにいて……ほんとうに、お前のことが好きだから、だから」

 耳元で囁くように告げてから、細い両肩を優しく掴んでそっとみずからの胸から離しながら、もう一度彼女の瞳をまっすぐに見やる。その瞬間、どこか虚ろな色を宿していた亜衣子の瞳が、少しずつ現実味を帯びてきたような気がして、その唇が震えながらか細い声を紡ぎ出す。

「うそ……」

「嘘じゃない」

 呟くような言葉に即座に否定の言葉を返したとたん、亜衣子の瞳に涙があふれ始める。

「俺は、お前が好きだ。お前は? 俺のこと、どう思ってる……?」

 愛しく想う心そのままに優しい微笑みを浮かべ、その頬を手のひらで包み込む。ずっと、こうして触れたかった。

「──────好き」

 今度は、ハッキリと聞こえた。

「五年前からずっとずっと……高坂くんだけが好き───────」

 止まらない涙と共に、思わず溢れ出してしまったかのような言葉に、満面の笑みをたたえて、慎吾は亜衣子の身体を優しく抱き締める。亜衣子の背も身体も震えていたけれど、この間の時と違い、同じように震える両腕は躊躇いがちに慎吾の背に回されて……きゅ…っと服の背中部分を掴んでくる感触は決して夢でなくて…………。

「やっと…つかまえた」

 心の底から湧き出る安堵の感情そのままに、声が口をついて出ていた。ずっとずっと、抱き締めたかった。愛しくて愛しくて、夢の中では何度も抱き締めたものだけれど、今度は夢じゃない。

「よかった……何度も諦めかけたけど、諦め切れなくて。そのたびに『女々しい奴』って自分で自分を嘲笑ってたけど。諦めないでいて、ほんとうによかった…………」

「…あたしも……こんな自分が好かれる訳なんてないって思ってて……なのに諦めきれなくて。祐真と中身だけでも入れ代わりたいって何度も何度も思ったりして…………」

「いや、祐真と代わられたら、俺が困るなあ」

 見た目は祐真で中身が亜衣子だなんて。そうなると、反対に見た目は亜衣子なのに中身は祐真という相手も同時にこの世に存在することになる訳で、どちらにしても何もできないし何も話せないという、慎吾にとってはこの上ない責め苦になること間違いなしだ。本気で嫌そうに答えた慎吾に、胸の中で亜衣子が小さく笑う気配。それから、うってかわったように自嘲的な声。

「ずっと…諦めなきゃって思ってて……でもできなくて。自分じゃろくに声もかけられないくせに、いつも結花ちゃんや祐真を隠れ蓑にして未練がましいって自分でも思ってたのに…………」

 その言葉を聞いた瞬間、慎吾はほとんど無意識に囁いていた。

「諦めないでいてくれて……ありがとう───────」

 それは慎吾の偽らざる本音。もしも亜衣子が諦めてしまっていたら、いまこの場でのこんな幸せはあり得なかったのだから。

「…待っていてくれて……ありがとう───────」

 亜衣子の涙混じりの囁きが、慎吾の胸に深く深く響き渡った…………。


 どのくらいそうしていたのか。慎吾にはわからなかったけれど。長い沈黙の後、つい先刻見た亜衣子の涙と、以前見たそれとが記憶の中でオーバーラップして、つい自嘲的な呟きが口をついていた。

「…ごめん。何か俺、いつもお前のこと泣かせてばっかりだ」

「そ…そんなことないわっ だってほとんど嬉し涙だもの。それを言ったらあたしだって、また高坂くんのシャツをぐしゃぐしゃにしちゃって……ごめんなさい…………」

 何だか申し訳なくて呟いた言葉に、亜衣子が即座に否定の言葉を返してくれたので、嬉しくなって同じく否定の言葉を口にする。嬉しいことを言ってくれたお返しというよりも、慎吾の偽らざる本音だった。

「構わない。誰でもない亜衣子の涙なら、いくらだって」

 亜衣子のすることなら、たとえどんなことでも迷惑に思えないだろうとずっと思えるほどだったから。自分の洋服なんて、どうなっても気にならない。

「それより。もう、名字呼びはやめてほしいな。名前で…『慎吾』って呼んでくれないか。俺も、『亜衣子』って呼びたい。ずっとずっと……そう呼びたかった」

 名字で呼ばれると、まだまだ互いの心の間に距離があるような気がして、何だか嫌だった。

「ちょ…ちょっと、待ってて……」

 唐突な申し出に戸惑ったような声で答えながら、亜衣子は慎吾の胸にそっと両手をついて身を離す。決して嫌がってのことではないことは、俯いたままの姿を見ればわかる。女性としては、いまの状態はきっと見られたくないのだろう。素早くこちらに背を向けて、ミニトートバッグを手にまだ涙声のままで告げてくる。

「お、お願いだから、私がいいって言うまでこっちを見ないで。こんな顔見られたら、私もう死んじゃう……」

「わかった。俺はここであっちを向いて待ってるから」

 慎吾とて、相手が嫌がっているのを無理強いする趣味など一切ないから、言われるままに彼女の顔を見ないようにして背後から優しく頭を撫でてから、自分もくるりと背を向ける。そのとたん、亜衣子が小走りで離れていく気配。初めて来た慎吾にはわからないけれど、多分あちらのほうに水道でもあるのだろう。かすかな物音と水音が耳に届いてきた。

 少しの時間をおいて、再び亜衣子が近付いてくる気配。どちらも無言のままだったけれど、ゆっくりと背後から腹部にかけて回されてくるか細い両腕に気付いたとたん、心臓がどきりと高鳴って、数多くある憧れのシチュエーションのひとつがいま実際にかなっているという現実に、少しずつ幸福感で心が満たされていく。

「もう、そっち向いていいのか?」

 嬉しく思う気持ちを隠すことなく、振り返らないままで問いかけると、即座に「ダメ」という答えが返ってきたので、反射的に「何で?」と問いを重ねた。

「目がきっと、充血とかしてすごいことになってるから」

 気恥ずかしそうに答える声に、もう抑えることができなくて。

「…亜衣子なら、どんな顔してても俺は平気だけどな」

 半ば強引にくるりと振り返って、片手でその細い腰をとらえ、もう片手で片方の手首をそっと掴むと、亜衣子の顔が一気に紅潮していくのが夜目にもわかった。

「や…ダメって言ったのに……」

 わずかに恨みがましさを含んだ声すら可愛らしく思えるから、重症だ。

「大丈夫。そんな顔も可愛いから」

 目を閉じてこつん…と自分の額を彼女の額にくっつけると、亜衣子の身がとたんに緊張に包まれたのが見なくてもわかった。

「あんまり可愛いから……離したくなくなる…………」

 前回抱き締めた時には気付く余裕もなかったが、ほのかに香るのはシャンプーの香りか石鹸の香りか……抱き締めたい。髪に触れたい。その手を握りたい。口づけたい。心に浮かぶ欲望は留まることを知らず、どこまでも増長しそうになったところで、唐突に鳴り響く携帯の着メロ。自分の使っているものでもないし、亜衣子の背後から聞こえるところを見ると、亜衣子のものだろう。

「ご、ごめんなさい、家から電話…多分母だわ」

 亜衣子が慌てふためいて、慎吾から離れて電話に出る。思えばもうずいぶん夜も更けてきたし、いい加減帰ってこいと言われてもおかしくない時間だ。あまりにも幸せな気持ちに浸っていたので、すっかり忘れていたけれど。

「はい……あ、はい、すぐ帰るわ」

 案の定、その旨を告げる電話だったらしい。

「あ、あのね、父が『そろそろ帰る』って言ってタクシーに乗ったらしいから、もう帰って来なさいって母が……」

 そういえば、父親はやはり厳しいけれど母親はいくらか融通がきくと言っていたなと慎吾が思い出していた目の前で、亜衣子が申し訳なさそうに謝るのを見て、慌ててフォローに走る。

「亜衣子が謝ることじゃないよ。俺が、我慢しきれなくて突然来ちまったのが悪いんだから。さ、家まで送るから。帰ろう」

 空き缶をゴミ箱に捨ててきて、気付かれないように背中の服地で手のひらの汗を拭き取ってから、そっと亜衣子に手を差し伸べると遠慮がちに応じてきたので、その白魚のような手をぐっと引き寄せて力強く握る。遠慮など、する必要はないのだと言外に告げながら。ずっと、夢見ていた。亜衣子と、手をつないで歩くこと。だけどこれは、夢じゃない。

 明日の朝起きて、今夜のことが全部夢だったりしたら……自分は立ち直れないかも知れない。亜衣子もほとんど同じことを思っていたことを、慎吾は知らない。やがて、もともと近いせいもあって、あっという間に家の前に着いてしまったようだ。初めて訪れたそこは一般的な一戸建てで、見上げるといくつかある窓の中のふたつのそれぞれにブルーとピンクのカーテンがかかっているのがわかり、雰囲気から察するにそこが祐真と亜衣子それぞれの部屋だろうと安易に推測できた。

「…………」

 手を放すべきだということはわかっている。亜衣子の父親が帰ってこないうちに、別れの挨拶を交わして、彼女を早々に家に帰さなければいけないことも。けれど、ようやくつかまえられた幸せの象徴を手放すのが名残惜しくて、どうしても手が放せない。また、逢おうと思えばいつだって逢えるのに。また触れようと思えば、自由に触れることができるのに。自分はこんなに往生際の悪い人間だっただろうかと思っているうちに、自分の着ているシャツがぐしゃぐしゃになっていることに気付いた亜衣子に先を越され、そっと手を放されてしまった。「ちょっと待ってて」と言い置いて家の中に入って行く亜衣子の後ろ姿を見送ってから、ついさっきまで亜衣子の手とつながっていたみずからの手のひらを見つめ、ほんの数秒前まで確かにあった温もりを確かめるようにぎゅっと握り締める。

 やがて戻ってきた亜衣子の手の中には、男物の─────恐らくは祐真のものであろうシャツ。ありがたく厚意に甘えることにして、亜衣子から見えない所で着替えようと思ったところで、ふと悪戯心がわき上がってきて軽い口調で冗談を口にしたとたん、亜衣子の顔がこれまで以上の紅潮を見せた。ああもう、何て可愛いのだ、自分の初めての恋人は。

 そこまで考えてから、慎吾はあることに気が付いた。自分たちは確かに想いを確かめ合ったけれど、これからについては何一つ話してはいなかったのではないか? それを済ませない限り、自分たちはほんとうの意味で恋人同士になれたとは言えない気がして、改めて交際を申し込んだ。彼女は心底驚いたような顔をしていたけれど、すぐに気恥ずかしそうな…けれど目尻に涙をにじませ、嬉しそうに微笑みを浮かべて了承の言葉を返してくれた。そして、彼女に少しでも早く名前で呼んでほしくて、そう伝えたのだけれど。

「だ、だめっ やっぱり恥ずかしくて言えないっっ」

 努力の跡は認められたものの、やはりすぐには呼べないらしい。残念に思わないといえば嘘になるが、彼女の弟とは違い、もともと内向的な性格の亜衣子に無理を強いた自分が悪いことは痛いほどわかっていたので、焦るのはやめることにした。とはいえ、彼女は何一つ悪くないのに慎吾の心を慮って努力すると自分から言ってくれた彼女があまりにも可愛くて、ついその額にキスしてしまったのは自分でも辛抱が足りなかったと思うけれど、どうしても我慢できなかったのだ。

 それから、門扉のところから動かずに自分を見送ってくれる彼女を何度も振り返っては、嬉しく思う心を隠しもせずに、そのたびに手を振った。曲がり角を曲がって、彼女の姿が見えなくなったとたん、即座にガッツポーズをして────ほんとうは、試合で勝った時同様、歓喜の叫びを上げたいところだったけれど、さすがに時間的に近所迷惑だと思って懸命に堪えたのだ────無言のままで幸福感に打ち震える。そうではないかと思ったこともあったが、ほんとうに亜衣子が自分を友達として以上に好いてくれているとは思ってもみなかった。それも、五年─────自分とほぼ同じ期間だなんて……誰がそこまで予想できようか! ああもう、誰彼構わず抱きついて、この喜びを伝えたいぐらいだ。

 そうして、来た時とは雲泥の差の気分で電車に乗り、アパートへと帰る。実家のほうが近いのはわかっていたが、突然帰って、しかも自分でも隠しきれないこの喜びに満ちた顔を見られたら、両親や兄に何を言われるかわからなかったから。それに、亜衣子を抱き締めた感触を、まだひとりで満喫していたかったから。だから、アパートの部屋にひとり帰り、途中で買ってきた弁当を食べてからシャワーを浴びて、布団へと潜り込む。

 まだ腕の中に亜衣子がいるような錯覚を覚えながら、慎吾はゆっくりと眠りへと落ちていった…………。


 翌朝。目覚めた慎吾が真っ先に行ったことは、顔を洗うことでも朝食を摂ることでもなく、テーブルの上に置いてあった携帯で亜衣子に電話をかけて、いつものように挨拶を交わしてから、確認をとることだった。

「あの…さ。夢だとは思えないんだけど、一応確認したいんだけどさ。昨夜のことって……夢じゃ、ないよな──────?」

 恥ずかしそうに肯定の言葉を返してくる亜衣子に、今度こそ歓喜の声を上げてしまった。電話の向こうで、亜衣子が戸惑う様子が伝わってくる。

「あ、ごめん、ちょっと嬉し過ぎて……うん。うん。……亜衣子。大好きだからな」

 素直に胸の内を吐露すると、とたんに慌てふためいたような亜衣子のテンパった言葉の羅列が返ってくる。ああもう、そんなところも可愛くて仕方がない。もしも目の前にいたら、押し倒していたかも知れないほどだ。それから少し話して電話を切って、身支度を整える。今日は午前中からバイトが入っているのだ。

 アパートを出て、バイト先に向かおうとしたところで、ふと悪戯心を起こして────というよりは、いまのほうがよけいなことを追及されなくていいかと思ったのだ────祐真のアパートへと方向転換する。祐真の部屋のドアをノックすると、わずかな間をおいて、中から眠そうな声の返事が聞こえてくる。昨夜は深夜勤だったから、ちょうど寝ていたところだったのだろう。名を告げるとすぐにドアが開いて、パンツ一丁の祐真が姿を現した。そのパンツが例の真っ赤なものだったために、慎吾は笑いを堪えるのに苦労してしまう。それから、祐真の肩に腕を置いて耳元に顔を寄せてそっと囁いた。

「─────お前の姉さん、絶対幸せにするからな」

 それだけハッキリ言ってから、「じゃあ俺これからバイトだから」と言い置いて祐真の部屋を後にする。祐真はまだ寝ぼけているのか、返事はない。慎吾が階段を下り切って道を歩きだしたところで、祐真の慌てふためいたような、テンパった言葉の羅列の叫びが響き渡ったので、やはり姉弟だなとくっくっと笑いながら歩き続けた…………。




    



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2012.12.21改訂版up

ようやく、慎吾にも亜衣子の気持ちが届きました。
亜衣子からはわからないところで、慎吾もいろいろ葛藤していた模様です。

背景素材「toricot」さま