〔12〕





 アパートに着いてから、亜衣子が主導となって三人で夕食を作り始めながら、慎吾は午前中駅近くで亜衣子を確認してからの出来事を一から話してみせた。彼女自身も知らなかった部分があるそれを、一緒になって驚きながら聞いていた祐真の表情が、話を進めるにつれて比例して険しくなっていく。多分そうなるだろうとは思っていたが、隠す訳にもいかないのでできるだけ客観的に一部始終を話して、それから近くにあった濡れた手拭いで軽く手を拭く。祐真が次に出るに違いない行動が手に取るようにわかったから、それに対処するための準備だ。

「…っ!」

 案の定、憤怒の形相を浮かべて、お前はどこのオリンピック選手だと言いたくなるようなスピードでドアに向かって突進し始めたのを、身体を張って止める。確かに剣道の経験は慎吾のほうが上だが、祐真とて小中学時代は他のスポーツでならしていた根っからの体育会系だ、その身体能力は決して慎吾に劣るものではない。完璧に止めるには、慎吾だって本気でかからなければ不可能なほどなのがわかっていたから、事前に心身共に覚悟を決めていたのだ。亜衣子はここまで怒った祐真を見たことがなかったのか、その顔色は蒼白だ。

「待て祐真、落ち着けっ!」

「これが落ち着いていられますかっ あんにゃろ、ブッ殺してやるっ!!

「その必要はないっ 俺がお前の分もぶちのめしておいたからっ」

 慎吾がそう答えたとたん、祐真の脚がぴたりと止まり、真剣な顔で自分の身を引き止めていた慎吾を振り返った。

「……マジっスか? マジで思いっきりぶん殴ってくれたんスか?」

「ああ、あんまり頭にきたんで、つい我を忘れて……途中で正気に戻らなかったら、病院送りにしてたかも知れない」

 普段の慎吾は、よほどのことがなければ怒りの感情をそうあらわにしない。怒らない訳でもなく、まずは言葉で相手に不快を感じた旨を伝え、それでも相手が言動を改めなかった場合のみ、態度や行動で実力行使に出るのだ。幸い、いままで会った相手は大抵その途中で慎吾の本質を見抜いて、退くか謝罪してくるかのどちらかを選んでくれたので、最終手段にまで訴えたことはそれほどなかったが。しかし、慎吾とそれなりに多く行動を共にしていた旧友の渡部や、その他の祐真を含む剣道部の仲間たちは、慎吾の隠された気性をちゃんと知っている。その上で慎吾がそう言ったものだから、驚愕が自分自身の怒りをも凌駕してしまったのだろう。

「慎吾先輩がそこまで言うんなら……これ以上やったらヤバいかな」

 若気の至りというか何というか────まあ現在も若いという事実はこの際置いておいて────本気で怒った慎吾を見知っている祐真が、気が殺がれたのか急に冷静になってほうと息をついた。

「だからお前は、これからそのへんででも大学ででも奴を見かけたら、思いっきり睨みつけてやれ。それこそ奴が夢に見そうになるぐらいに」

 冷静に対処しきれなかった自分自身を恥じているのをごまかすように、慎吾はいくらか冗談めかして祐真にそう告げる。

「了解っス! 全身全霊かけて呪う勢いで睨んでやるっス!!

 慎吾の内心に気付いたのかはわからないが、おまえは警官か兵隊かと言いたくなるようなポーズで祐真が敬礼したとたん、自分たちの脇から小さく吹き出す音が聞こえた。思わずそちらを見ると、先刻までは顔面蒼白だった亜衣子が、堪えきれなかったのか控えめな様子でクスクスと笑っている。そのうちに二人の視線に気付いたらしく、ばつの悪いような表情を浮かべたのは、それからすぐのこと。

「……姉ちゃんは、大丈夫なのか? その…ショックっつーかトラウマっつーか」

 祐真が言いづらそうに告げるのを聞いて、ハッとする。亜衣子のためならば、何らかの罪に問われることなどまったく気にならない。そう思いながら然るべき機関に訴える提案をすると、亜衣子はそんなことはまるで考えていなかったようで、慌てて首を横に振った。本心からの言葉なのか気になって、重ねて問いかけるが亜衣子の返答は変わらなかったので、祐真と共に退くことにした。

 それから、まるで違う話題に変えて談笑しながら夕飯を一気に仕上げ、そのまま食事と後片付けに突入する。三人でそんなことをしていると、何だか学生時代の合宿を思い出すが、そんな時はいつもむさ苦しい男ばかりでこんなに艶やかな華はなかったなとすぐに考えを改める。

「さて。遅くなる前に、俺は帰るよ。久々の美味いメシ、ご馳走さんな」

 十分に食休みをとったところでそう言いながら立ち上がると、祐真が不満そうな声を上げるが、二人ともいろんな意味で疲れているだろうにいつまでも長居する訳にもいかない。玄関でスニーカーを履いているところで、背後からかけられる声。反射的に振り返った慎吾の目に映ったのは、恥じらいをたたえた亜衣子の姿。

「今日はほんとうに…ありがとう。もしもあの時高坂くんが来てくれなかったらと思うと、私……っ」

 相当怖かったのだろう、それ以上は口に出せない様子の亜衣子の頭を、愛しい想いを込めながら優しく撫でる。

「そんなこと気にしなくていいから、早く寝てさっさと忘れちまえ。な?」

 上目遣いで見上げてくる亜衣子に思わずどきりとして、慎吾はごまかすように笑いながら玄関の内鍵を開けてドアを開ける。

「じゃ、またな」

「う、うん…またね。お休みなさい」

「祐真もいるからって安心しないで、ちゃんと鍵閉めろよー。んじゃお休み」

 それだけ言うのが精いっぱいで、笑顔を浮かべたままドアを閉めて通路へと出る。脳裏によみがえるのは、たったいま見せられた亜衣子の表情。あまりの愛らしさに、もしもいま祐真がいなかったら、再び抱き締めてしまうくらいはしていたかも知れない自分を、慎吾は自覚した。


 自分のアパートに帰ってからも、思い出すのは亜衣子のことばかり。花がほころぶような笑顔から始まって、真珠のような涙をこぼす泣き顔に、真っ赤な顔で恥じらう姿……。どんな表情も、慎吾にとっては可愛いとしか思えないものばかりで。外面ばかりでなく、亜衣子は以前「自分と付き合ってもつまらない」というようなことを言っていたが、彼女の内面を知れば知るほど、他の誰にも渡したくないと思うほどに想いは募って…………。

 翌日も祐真と交代で亜衣子と過ごすようにしていたが、ふたりきりになった時には想いが暴走しないように自分を御するので精いっぱいで、彼女と過ごせることに幸せを感じつつも苦しい想いとの板挟みでジレンマに陥ってしまい、自分でもどうしていいかわからなくなってしまうほどだった。そしてそれは、彼女が家に帰ってしまってからも続き────むしろ、一緒にいられなくなった分、逢いたい気持ちは更に大きく育って……。

 亜衣子が帰って二、三日経った夜の九時過ぎ、バイトを終えた慎吾はいてもたってもいられなくなって、気が付いたら実家の最寄り駅へ向かう電車に飛び乗っていた。祐真は今日は深夜勤でまだバイト先に来ていなかったから、慎吾の普段と違う行動に疑問を投げかける相手がいなかったせいもあるのかも知れない。

 そうして。心の中で誰かが命じるままに、以前祐真から聞いた笹野家のすぐ近くの公園に、慎吾はたどり着いていた…………。




          *        *     *




 以前祐真から聞いていた公園は、初めて来たところだったけれどすぐにわかった。自分の実家に帰るという選択肢は、この時の慎吾の頭の中からは完全に抜け落ちていて、後で親不孝だったなと多少反省して次の帰省の際には珍しく手土産など持って帰ったのは、また別の話で。

 遊具に体重をあずけながら、ポケットから取り出した携帯で慎重に相手の名前を確認してから────何しろ亜衣子と祐真は実の姉弟で、慎吾の携帯のアドレス帳にはきっちりフルネームで登録されているので、万が一間違えでもしたら祐真のことだ、亜衣子にかけようとした慎吾の意図になどすぐに気付かれるに決まっている。バイトの時間もあるから出歯亀には来られないだろうが、これから起こそうとしている行動を把握されるのは嫌だったのだ────オンフックボタンを押す。いつものように二、三回のコールの後に相手が出た。生真面目で控えめな彼女らしい出方に、思わず口元がほころんだ。

 いつものように名乗って彼女の都合を確認してから、本題に入る。いつもならば普通に会話を始めるところだが、いまだけは直接顔を見て話したかったから、遠慮気味に呼び出しの言葉を口にしたのだが……ふと現在時刻を思い出し、慌てて取り消しの言葉を続けた。ただでさえもう遅い時間で、しかも近所とはいえ女の子を呼び出すなんて、ご両親、とくに父親が許すはずがない。そう思い、今夜は諦めようと考えたのだが、亜衣子が意外な答えを返してきたので驚いてしまう。ただでさえ内向的な性格で、でなくてもつい最近、男がらみで怖い思いをしたというのに……こんな時間に、それも友人とはいえれっきとした男である慎吾の元に、来てくれるというのか?

 そういえば、一緒に外を歩いている時に他の男が近付いてきただけでも怯えや緊張に身を強張らせる様子を見せていたのに、慎吾に対してはたとえ頭や手に触れても多少恥じらっている素振りは見せるものの、怖がったりする様子はまったくなかった。もしかしなくても、慎吾のことは血縁の祐真と同様に信頼してくれていると……思ってもいいのだろうか。

「ごめんなさい、お待たせして」

 やがて、慎吾の姿を探しているかのように辺りを見回しながら、亜衣子が公園に姿を現した。遊具に寄りかかったまま手を上げてみせると、可愛らしい笑顔をたたえながら小走りで近づいてくる。その様子からは、やはり怯えや恐怖の感情の色は見てとれない。

「いや、俺が予告なしに呼び出したのが悪いんだし…ごめん、こんな急に」

 君のことが頭から離れなくて、気が付いたらここに来ていたなんて、とても言える訳がなく。曖昧な笑顔を浮かべてみせる。

「どうしたの? 何だか、いつもと違うみたい」

「そ、そうか?」

 懸命に平静を装っていたつもりだったが、やはりどこか無理があったのだろう。亜衣子に指摘されて、どきりとしながらもとぼけ続けた…のだが。

「それに、汗もいっぱい…よかったわ、一応ハンドタオル持ってきて」

 亜衣子がハンドタオルを出してきて、自分の額やこめかみに当ててきた時には、さすがに平静を保ってはいられなくて、目に見えて後ずさってしまった。一瞬、亜衣子の瞳に傷付いた光が宿ったのを見て、しまったと思う。

「あ…っ ごめんなさい、ちょっとなれなれし過ぎたわよね……」

 目に見えて沈んだ顔を見せる亜衣子に、慌ててかぶりを振る。

「ち、ちが…っ ちょっと驚いただけだから…こっちこそごめん」

 亜衣子が悪い訳ではないと伝えたくて早口でまくしたてたとたん、みずからの声が信じられないほどに掠れていることに気付いて、自分自身が一番驚いてしまう。自分のハンカチで汗を拭きながら、ごまかすようにそばの自販機を示して歩きだす。

「あ…俺、ちょっと飲み物買ってくる」

 いまからこれでは、いざ告白する時になったらどうなってしまうのか。自分で自分の先が思いやられて、缶コーヒーを飲みながら懸命に平常心を取り戻そうと努める。大きな大会前や夏休みや冬休みの、通称デスマーチと呼ばれたほどの特訓を思い出して、何とか落ち着きを取り戻す。「辛い時ほどそれを表に出すな」という、中高時代の恩師たちの言葉が大きかったと思う。ホッと安心したのも束の間、それもその直後の亜衣子の何気ない言葉で脆くも崩れ去ってしまうのだけど。

「あー美味しい。ちょうどお風呂上がりで何か飲もうと思ってたところだから、よけいだわ」

 慎吾の脳裏で、煩悩の塊がすさまじい勢いで駆け巡るが、決死の思いで押しとどめる。

「ところで。今日はどうしたの? 実家に帰ってきてるの?」

 そうだ。普通なら、こんな時間にここにいるということはそう思うことが当然なのだとここでようやく慎吾は気付いた。実家のことなど、いま亜衣子に言われるまでまるっきり頭の中になかったけれど。

「あ、いや、実家に帰ってきた訳じゃなくて…単にバイトが終わってすぐ来ただけの話で」

「え、バイト帰りなの? なら疲れちゃったでしょう、電話やメールじゃダメだったの?」

 何も気付いていないような、無邪気な表情が可愛過ぎて、危うくこの場で抱き締めてしまいそうになる自分自身を律する。いくら何でも唐突にそんなことをしたら、亜衣子を力ずくでどうにかしようとしたあの男のクズと変わらないではないか。

「ちょっと……そういうんじゃ言えない話だったから」

「?」

 ああもう。亜衣子はこんなにも心から自分を信頼してくれているというのに、自分ときたらいったい何を考えているのだ。今日ここに来た目的は何だ? 思い出せ。

「……のどかでいいところだな、ここ」

「あ、うん。小さい頃は、よく祐真と一緒に遊びに来たわ。そのうち大きくなってからは、それぞれの友達と遊ぶようになったり別の場所に行っちゃったりしたけど」

「笹野の子どもの頃か…きっと可愛かったんだろうな。祐真は絶対悪ガキだったろ」

 悪いがこの際祐真はどうでもいい。どうせ自分とあまり変わらない子ども時代だったのだろうから。子どもの頃の亜衣子は、さぞ可愛かったのだろうという思いだけが心を占めていく。けれど亜衣子には、そんな思いは通じなかったらしく、後半部分についてのコメントが返る。

「さすがにわかってるのね。でもあれで、何だかんだ言って昔から優しいところもあったのよ、私が男の子にいじめられたりしたら、どこにいてもすぐ飛んできて助けてくれたりして」

「すごいな、目に見えるようだ」

 そうして、しばし談笑した後に、慎吾は一度黙って、ゆっくりと呼吸を整える。話すなら、うまい具合に昔話が出たいましかないと思ったためだ。

「──────昔…というには、まだそんなに経ってない頃だけどさ。俺さ、実は高校に入った時、自分で決めた結果を出せなかったら高校までで剣道を辞めるつもりで、高校三年間は剣道に専念しようと思ってたんだよな」

「え、そうなの?」

 唐突に始めた話に、亜衣子が目に見えて驚いた。恐らくは、二重の意味で驚いているのだろう。

「それがさ。そんなえらそうな志を胸に入学したのはいいけど、高校に入ったとたんにそんな目標なんかどうでもよくなっちゃいそうな現実に遭遇して、頭の中は大パニックだよ」

 あの頃は、それが恋というものだとまるで気付いてはいなかったけれど。姿どころか一、二度聴いただけの歌声に心を奪われるなんて、初めての経験だった。

「だって、ほとんど話もしたことない相手だってのに、歌声だけが耳に残って、それ以来気になって仕方なくなっちまったんだぜ? 目じゃないよな、一耳惚れ…? 聞いたことないよな、そんな言葉」

「確かにそんな言葉は聞いたことないわねえ……でも。そのひとって、合唱部の人なの?」

 ようやく核心に近付き始めた亜衣子の言葉に、一瞬どきりとする。が。亜衣子が突然、名前以外はよく知らない相手の名を連続して口にし始めたので、訳がわからずに思わずそちらを見てしまう。

「え? 何のことだ?」

「え、当時評判の高かった合唱部のメンバーだけど…? その人たちの誰かを好きになったって話なんじゃないの? それで私から連絡をつけてほしいって話かと…」

「何でそっちに行っちゃうのかなあ……」

 ああと思う。やはり亜衣子には、自分が慎吾に好かれているという自覚はないのかと、決心が鈍りそうになるが、このまま誤解をされたままでいるほうがもっと嫌だと思い直し、再び決心を固める。そもそも、亜衣子がそんな誤解をしてしまうのも、これまでの自分がちゃんと意思表示をしてこなかった結果だと思えば、当然のことだ。

「……とにかく、剣道一筋に打ち込めなくなったのは他の誰でもない自分の責任だから、それについては彼女に対して思うことなんかないし、剣道にはもう未練はないんだけど。だけど、彼女に対する想いだけは……いまでも忘れられなくて。いや、むしろ以前よりもっともっと大きいものに育ってしまっているといっていいぐらいなんだ」

 亜衣子は何も言わない。恐らく、何を言っていいのかわからないのだろう。それには構わず、慎吾は淡々と語り続ける。まどろっこしい話し方だと自分でも思うけれど、すべて事実なのだから仕方がない。亜衣子には、慎吾の内心をすべて知ってもらいたかったということもあるが。

 彼女に背を向けたまま続けて、意を決して振り返り、亜衣子の真正面に来る位置へと歩を進める。そして、剣道の試合の時に渾身の一撃を放つ直前のものと何ら変わりのない覚悟を胸に、亜衣子の瞳をまっすぐに見据えた。

「ずっと、忘れられなかった。俺のことなんて、ただの友達にしか思ってくれてないかも知れないけど…………」

 そこで一度呼吸を整えてから、全身全霊の力を込めた一撃を放つのと同じ気合いと共に、一言ずつ噛みしめるように言葉を発した。


「俺は、笹野が好きだ。五年前の……春からずっと──────」




    



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2012.12.21改訂版up

ついに走り出した慎吾。
想いは無事伝えられるのか…?

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