それから二日ほど経った日の午後。慎吾は祐真と共に、コンビニのアルバイトに精を出していた。大学は既に夏休みに入っていて、時間の制限がなくなったので、今日は朝からシフトを入れていたのだ。駅前で更にさまざまな会社や住宅街も近いこともあって、午前中もそれなりに客は来ていて、昼時は戦場のような忙しさだった。それを越えてから交代で昼食を摂り、ようやくひと段落ついたところで。
「いやー、今年は笹野くんもいてくれるから、助かるよー。子どもたちの夏休みが始まったらもっと忙しくなるから、いまから覚悟しといてねー」
店長の言葉に、祐真が目を丸くする。そういえば祐真は今年の春に入ったばかりだから、夏休みのあのすさまじさを知らなかったのだなと慎吾は声に出さずに呟いた。つきあいが長いせいか、ずいぶん前から一緒に働いている気がしていたが。
「ところで先輩、今日うちの姉ちゃんと未唯菜ちゃんが俺の部屋に来てくれてるんスよ」
客足が途切れたところで、唐突に祐真が切りだしてきた。何で、と問いかけようとして、先日の鷹急ハイランドでの会話を思い出す。
「暗くなる前には帰るって言ってたし、もしかしたら帰りにここに寄ってくんじゃないスかね」
「そうか……」
逢えるとは思っていなかったから、ラッキーとしか言いようのない気分だった。次に逢えるのはカラオケの時だろうと思っていたから。けれど、そこで満足してはいけない。その次の約束もしっかりとりつけて、その時までに告白する勇気と英気を養うつもりだった。でなければ、いつ自分の意思とは関係のないところで想いが口をついて飛び出してしまうか、わからなかったからだ。
「あ、俺そろそろ外のゴミ箱片付けてくる」
祐真に言い置いて外に出ると、夕方も近いというのに真夏の午後の陽射しが暴力的なまでに降りそそいでくる。短時間外にいるだけでも真っ黒に焼けてしまいそうだ。こんな陽射しの中を亜衣子たちは歩いてくるというのだろうか? せっかくの綺麗な白い肌が火傷のようにならなければいいが。
自分の脇を通って店に入っていく客たちに挨拶の言葉を投げかけながら、慎吾はゴミ箱の中でいっぱいになりかけている大きい袋を取り出して、新しいものと交換する。昨今は分別する数も増えているから、何度も同じような作業をしなくてはならないので大変だ。両手にひとつずつ持っても持ちきれず、もう一度ゴミ袋を持って店の裏手に回った慎吾にかけられる、女性の声。一瞬亜衣子かと思ったが、そもそもの呼び方が違ったことに気付いて内心で思わず落胆してしまう。
「何よ。慎ちゃんてば、あたしだとそんなに残念な訳?」
声の主─────生まれた時からの付き合いであるみゆきが、慎吾の表情の変化に目ざとく気付いて、不満そうな声を上げる。
「別にそんなことないよ。気のせいじゃない?」
すっとぼけてそう答えると、みゆきは「まあいいけど」ととくに気を悪くした様子もなく呟く。
「ここの駅前のコンビニで働いてるって聞いた気がしたんで、もしかしてここかなーと当たりをつけて来てみたんだけど大当たりだったみたいね。制服、なかなか似合ってるじゃない」
「この手のヤツは誰にでも似合うようにできてんじゃないの?」
手を休めないままで答える。それを見ていたみゆきが楽しそうに言うのが聞こえてきた。
「真面目に働いているようね、感心感心♪」
「みゆきさん、わざわざ俺の働きぶりをチェックしに来たのか? 暇人だなあ」
そう言ってやると、みゆきは露骨に顔をしかめてみせる。本気で気分を害した訳ではないことは、よくわかっているからこその軽口。
「失礼ね、こっちの取引先に用があって、直帰でいいって言われたし、ついでに思い出したから寄ってみたのよ」
「なら、早く帰りなよ。旦那さんや子どもたちの世話もあるんだろ?」
「そんなに邪険にしなくてもいいじゃないのー。まあでも、学生のバイトだからって甘えずしっかりやってるようで安心したわ」
「まあ、これで給料もらってる訳だからな、手は抜けないよ」
「よしよし、いい子いい子♪」
「みゆきさん、俺もうハタチだぜ? ガキ扱いはいい加減にやめてくれよ」
まるで子どものように頭を撫でられると、複雑な気分だ。いくら生まれた時から自分を可愛がってくれている人とはいえ、さすがに二十一を目前にしてこういう扱いは、いつまでも一人の男として認められていない気がして、何となく悔しい。
そしてその様子を、誰よりも見られたくない相手にしっかり見られていたことに、まったく気付かなかったのは不覚ともいえよう。
「みゆきさん、俺そろそろ中に戻らなきゃなんないんだけど」
「あ、そうなんだ。じゃああたしは何か買い物して帰ろうかな」
「毎度ありー。んじゃ、またなー」
「うん」
みゆきと別れて裏口から中に入り、手を洗ってから店内に戻ると、客がほとんどいない店内で、祐真に詰め寄って何やらまくしたてている女性の姿が目に入った。一瞬クレームかと身構えたが、その後ろ姿が見覚えのある人物のものだということに気付いて、ホッとする。
「とにかくっ あたしは亜衣子先輩をひとりにしておけないから追いかけるけど、ちゃんと高坂先輩に確認しといてね、お願いよっっ」
自分? それと亜衣子がどうしたというのだ? 慎吾が声をかける前に未唯菜は大慌てで飛び出していってしまったので、訳がわからないままの慎吾と茫然としている祐真だけが取り残されて、互いに顔を見合わせてしまう。
「きゃっ」
「あっ ごめんなさいっっ」
見えないところから女性同士の声が聞こえてくるが、確認しようという気すら起きない。
「いったい…何があったんだ?」
まだ驚愕覚めやらぬ口調と表情で祐真に問いかけるが、祐真もイマイチ理解しきれていないような顔で、やはりぼんやりとしたまま答える。
「俺にもさっぱり……突然未唯菜ちゃんが飛び込んできたと思ったら、『高坂先輩には他にいいひとがいたのか』とか『いったいあのひとは誰なんだ』って一気に言われて、もう訳わかめっスよ」
いいひと…? あのひと…?
「ねえねえ慎ちゃん、いまのコお知り合い? さっきも、もうひとりの女の子と一緒にこっち見てたんだけど」
そこにやってきたのは、何もわかっていないような顔をしたみゆき。その言葉を聞いた瞬間、慎吾の頭の中で、バラバラに散っていたパズルのピースがぴたりとハマった気がした。まさかとは思うけれど…!?
「みゆきさんっ」
「はいいっ!?」
「いま言ったもうひとりの女の子って、顔はこいつに似てて、長い黒髪のコじゃなかった!?」
祐真の頭を両手でひっつかんでみゆきの前に突きつけながら、慎吾は問う。
「あ、うん…遠目だったからハッキリは言えないけど、そんなコだった気がするわ」
ということは、やはり亜衣子に間違いない。もしかして、みゆきと親しそうに話しているのを見て、何か誤解されてしまったのだろうか!? 姉とでも思ってくれてればいいがと思いかけて、それならば、慎吾に声もかけずに逃げるように去る理由はないことに気付く。しかも、慎吾は以前きょうだいは兄しかいないと言ってしまったこともある。ならば、姉妹と思われているという希望的観測もかなわないことになる。
「姉ちゃんもしかして、このひとと先輩のこと誤解しちったんじゃ…っ」
祐真が恐る恐る声をかけてくる。ああ、やはり口に出して言われると威力は十分だ。
「マズいなあ…みゆきさんはそんなんじゃないのに……」
「ど、どうしましょう、先輩っ!? このままじゃ、姉ちゃんカラオケの約束までドタキャンかましちまうかも…っ」
「かといって、わざわざ電話して『それは誤解だから』って伝えるのか? それも思いっきり不自然だろう」
まだ想いを伝えてもいないのに、そんなことを突然告げられたとしても、亜衣子にしたら意味がわからなくて混乱するだけに違いない。
「あのさ…微妙に話が見えないんだけど、その女の子…こっちのコのお姉さん? 慎ちゃん、もしかしてそのコのこと……?」
それまで黙っていたみゆきの予想もしていなかった問いかけに、あまりの唐突さに取り繕うことも忘れて、慎吾は何も言えないまま顔を紅潮させてしまう。幼い頃からよく知っている人に言われると、恥ずかしさも倍増だ。それを見たみゆきが、にや〜っと人の悪い笑みを浮かべたことも、慎吾の羞恥心を更に煽りたてる。
「なあんだ、そうなんだあ。慎ちゃんももうそんな年頃なのねえ」
にやにやにや。ああもう、恥ずかしくて、消えてしまいたいぐらいだ。そんな慎吾をしばし眺めていたみゆきは、やがて笑みを引っ込めて、みずからのバッグから手帳を取り出して、何かが書いてあるページを眺めて。
「ねえ、そのカラオケってさ。いつ行くの?」
「え……」
「いいから答えて、大事なことなんだから」
「えっと…次の水曜日の午後、だったっけか?」
言いながら祐真を振り返ると、祐真もこくりと頷いた。
「待ち合わせ場所は? どこなの?」
「俺らの地元の街中にするつもりだけど…?」
それを聞いたみゆきが、今度は優しい微笑みに近い笑顔を見せる。
「ならさあ。時間はお昼の十二時半くらいにして、場所は街中のL銀行のそばあたりにしてくんない?」
「な、なんで?」
「いいから。絶対悪いようにはしないから」
訳がわからず、祐真と二人でこくこくと頷く。みゆきはいったい何を考えているのだろう? 長い付き合いである慎吾にもわからない。
レジに客が商品を持ってやってきたのをきっかけに、慎吾と祐真は即座に仕事に戻る。みゆきはいつもと変わらぬ明るい笑顔を見せながら、「じゃあね」と言わんばかりに手を振って去っていってしまった。みゆきはいったい、何をするつもりなのだろう? 考えてもまったくわからないまま、亜衣子と未唯菜への連絡は祐真にまかせて────慎吾自身はあまりにもテンパってしまって、亜衣子と普通にやりとりができる自信がなかったのだ────みゆきに言われた通り、よけいなことはせずに当日を待つ。それまでの間は、何をしていても亜衣子のことが気がかりで、ほとんどぼんやりと過ごしてしまったのだけど。
そして当日。いったいどうなってしまうのか心配で、ろくに眠れないまま待ち合わせ場所に向かう慎吾の姿があった。亜衣子がみゆきのことを誤解してしまったろうことはわかるけれど、そこで何も言わず帰ってしまった理由がわからない。もしも慎吾に好意を持っていて、みゆきとのことを誤解してショックを受けたというのなら嬉しいに決まっているけれど、人生そううまいいくことばかりでないことも知っているだけに、素直にそう信じることができない。そんな都合のいい理由なんかでなく、予想もつかない理由から生じる現実も知っているから。
祐真から未唯菜に話が伝わったのか、何となく足どりの重そうな亜衣子が未唯菜に手を引かれてやってくる。その表情が、前回別れた時と違ってどことなく強張っているように見えるのは、果たして気のせいだろうか?
「あ…久しぶり」
「ああ、うん…何だか本調子じゃなさそうだけど、体調でも悪いのか?」
言いながら微妙に腰を屈めて顔を覗き込むと、亜衣子は慌てて首を横に振った。
「ううんっ 大丈夫よ、心配しないでっっ」
ああ。やはり、何となく空気が重い。祐真が来てくれれば少しはマシになるかと思ったけれど。
「いやー悪いねっ こっちに俺用事があったからさあ、場所と時間を変更してくれたほうが都合がよかったんだあ」
明るく言いながら、祐真がやってくる。さすがにみゆきの指示だとは言えなかったので、そういうことにしたのだろう。しかし、祐真が合流しても、空気は変わらないのでどうしようかと思う。
「じ、じゃ、そろそろ行こうか……」
と、慎吾が言いかけた時。唐突にかけられる声。
「あら。慎ちゃんじゃない? こんなとこで会うなんて、ぐうぜーんっ」
自分で指定したくせにしらじらしいと思うが、あまりに自然なみゆきの様子に慎吾でさえ一瞬騙されそうになる。亜衣子の表情が、全身が、とたんにこわばったように見えたのは気のせいだろうか。
「あら、慎ちゃんのお友達? こっちの男の子にはこの間会ったけど、女の子の友達もいたのね、慎ちゃんも隅におけないわねー」
にこにこにこ。営業職らしく人好きのする笑顔をたたえて、上下そろいのスーツに身を包んだみゆきが近づいてくる。亜衣子もどことなく硬い笑顔を浮かべて、ぺこりと頭を下げた。未唯菜や祐真も同様だ。
「初めまして、中嶋みゆきと申します。この慎吾の叔母です、どうぞよろしく」
その言葉を聞いた瞬間、亜衣子がはじかれたように顔を上げる。
「て、ことは。慎吾先輩とは、完全に血のつながった叔母さんってことになるんですか?」
祐真の問いに、みゆきはけろりと答える。
「そうよー。慎ちゃんが生まれた頃からさんざん面倒見てて、おむつだって換えたげた仲よー。可愛かったわあ、ちっちゃい頃の慎ちゃん…いまじゃ、こんなに馬鹿デカくなっちゃってさ」
「それは言うなって! 確かに世話にはなったけどさ」
さすがに亜衣子の前で、おむつがどうのという話はしてほしくなかった。そこまで考えて、そういえば真相を知った亜衣子はどう思っただろうと振り返った慎吾は、そこで意外な変化を見ることとなる。彼女の顔が急速に真っ赤になっていってしまって、ついには、意味を成す言葉すら発せなくなっているように見えた。
「や…やだ、あたし……勝手に勘違いしちゃって……」
勘違い? いったい何をどんな風に勘違いをしたというのだろう? 叔母であるみゆきが自分の恋人に見えたとかそんなようなことだろうか? 不思議に思いながら、彼女に問いかける。
「いったい、どう勘違いしたんだ?」
慎吾が問いかけても彼女は何も答えず、真っ赤になってしまった顔をふるふると横に振るだけだ。ここまで恥じるなんて、いったいどんな勘違いをしたというのだ!?
「えっとー…弟さんは『祐真』くんだっけ? お姉さんはお名前何ておっしゃるの?」
みゆきの言葉にはじかれたように顔を上げて、普段の彼女からは想像もつかないような大きな声で、はきはきと自己紹介をして頭を下げた。その様子は、どこか現実逃避のようにも見えて、ほんとうにどんな勘違いをしていたのか、気になって仕方がない。
「これでも営業のエースですんでねー。それじゃみんな、今度は家のほうに遊びに来てねー。思いっきりおもてなししちゃうからっ」
現れた時と同じように、まるで嵐のようにみゆきが去っていった後、皆が予想通りの反応を返してきたので、ついつい笑ってしまう。みゆきを紹介した人間のほとんどがもらす感想と同じものだったからだ。普段から「叔母さん」と呼ばないのも答えた通りで、これまで無意識、意識してを含めて何度怒られたり小突かれたりしたか覚えていない。まあ確かに、十何歳しか離れていない甥に「叔母」と呼ばれるのは若い女性にとっては屈辱かも知れないけれど。
そして、みゆきの口からも真相を聞いた亜衣子が、ようやく落ち着いたように普段の様子に戻ってこっそりと安堵のものらしき息をつくのを、この上なく優しい気持ちで見つめていた…………。
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