〔8〕





「──────迷惑に思ったことなんか、一度もない」

!?

 信じられないものを見るような表情で亜衣子がこちらを見るが、慎吾は構わずに続ける。

 それは、本心からの言葉だった。祐真には色々と面倒をかけられて、その都度叱ったり諭したりといろいろ対処してきたが、亜衣子に対して迷惑だと思ったことなど一度もない。それどころか、反対に迷惑をかけてもらって構わないと思っていたぐらいなのに。迷惑をかけられるということは、それだけ彼女の近くにいて関わりを持っている証明だということに相違なかったから。それをはっきり告げると、初めは半信半疑のようだった亜衣子の表情が次第に安堵のそれに変わって、その瞳から透明な涙がこぼれ始める。

 ずっと、慎吾にマイナスの評価しかつけられていないと思っていた? 何という思い違いだ。むしろ亜衣子には、誰よりもプラスの感情しか抱いていなかったというのに。これも、すべて自分の意思表示がまるっきり足りなかったせいかと思うと、自分で自分が情けなくなってくる。そんなことを思っていたから、その後に続けられた亜衣子の言葉に思わず我を忘れてしまった。

「そんな訳ないだろう!」

 とっさに返した言葉に、今度は亜衣子が目をみはった。

 まっすぐで強くて…迷いなんて無縁? そんな人間がそう滅多にいるはずないだろう。慎吾がこれまで師事していた剣道部の顧問たちだって、「何年剣道に励んでも、望んだ自分に到達するにはまだまだ道は遠い」とよく自嘲気味にもらしていた。そんな人たちだってなかなかたどり着けない境地に、慎吾のような若造がそう簡単にたどり着けるはずなどなく、日々悩んで迷って、いままで自分が歩んできた道はほんとうに正しかったのかと振り返っては自問する日々だというのに。

「そんな風に思ってたら、苦手なのに頑張って走ってるのを見てこっそり声援なんて送ったりしな…!」

 そこまで言ってから、慎吾は自分が言っている内容にようやく気付いた。

「もしかして、高校の頃の…部活の一環で走ってた時のこと? 剣道部の人たちに追い抜かされるたびに『恥ずかしい』と思ってたけど、高坂くんの声によく似た声で『頑張れ』って聞こえてきて……てっきり、あたしが自分に都合よく作り出してた幻聴かと思ってたけど─────」

 亜衣子の言葉に、もう逃げ道はないと察した慎吾は、自分がいつも張り付けている冷静沈着を装う仮面が剥がれ落ちていくのを自覚した。

 ああもう。何でこんなことになっちまったんだ。いくらテンパってたとはいえ、絶対に誰にも明かすつもりのなかった事柄のひとつだってのに。もうダメだ、気味悪く思っただろうな、これで俺の五年分の想いはパアだ。

 一片の疑いもなくそう思った慎吾は、自分の顔から完全に仮面が剥がれていくのを自覚した。もう、何も取り繕うことはできない。もうおしまいだというその思いのみが、心を絶望の色に染め上げていく。

「うわ…俺、すげえカッコ悪い……周りの目を気にして、ほとんど自己満足で応援してて、もしもストーカーみたいに思われてたらどうしようってウダウダ考えてたのに…………」

 けれど、亜衣子の唇から発せられた言葉は、慎吾の予想とはまるで真逆の言葉で。

「『カッコ悪い』なんて…思わないわ」

 あまりにも信じられない言葉を言われ、慎吾の動きが一瞬止まる。

「だってあたし、嬉しかったもの。幻聴だったとしても、高坂くんに励まされてるって思うだけで、苦手なランニングだって頑張れたもの。だから」

 ほんとうに励まされてたってわかって、いますごく嬉しいの───────。

 そう続ける亜衣子の顔は、もうこれ以上ないというほどに真っ赤で、すぐに下を向いてしまったけれど。それが亜衣子の本心であることは、慎吾には確認するまでもなく確かなことで────そもそも亜衣子にそんな演技ができるなんて、慎吾は思ったこともない────それを認識した心の奥底から、喜びがまるで泉のごとく湧き出てくるのを慎吾は自覚した。

 ま…マジで? ホントのホントに嬉しく思っていてくれたってのか? 気味悪がられても仕方ないと思ってたのに……それも、他の誰でもなく…俺だから?

 夢のようだったけれど、夢ではない。確かにこれは、現実なのだ。その証拠に、ゴンドラを降りる前に彼女と交換した携帯番号とメルアドが、慎吾の携帯にはしっかりと登録されていて。文字のフォントも色も他の誰とも変わらないというのに、慎吾の目には、彼女のものだけが他とは違う輝きを放っているように見えた。後から降りてきてニヤニヤ顔で何があったのかと問いかけてくる祐真に、半分ほど正直に話したとたんにすさまじく間の抜けた顔をされたが、それでも慎吾にとっては最上の幸せだったから。自分より数センチ低い祐真の頭をかいぐりかいぐりと撫で回しながら、素直な気持ちで礼を言った。

「ま、まあ、いままでと比べたら大進歩だとは思いますけどさ……」

 気の抜けた声で言いながらも、祐真はそれ以上何も言わなかった。やがて、化粧室から出てきた亜衣子と未唯菜と共に鷹急ハイランドを後にして、途中から二手に別れて歩きだす。どこかぎこちないけれど、普通の友人のような会話が交わせるのが嬉しくて仕方ない。

「あ…後でさ、メールしても構わないか? もちろん深夜とか早朝は避けるから」

「もちろんよ。私も…実はまだあんまり実感がわいてなかったりして。いままで、男子の友達ってほとんどいなかったから」

「マジで!?

 信じられなくて、思わず声がひっくり返りそうになってしまう。

「え、ええ…」

「そっか……」

 亜衣子の性格からすれば、それも考えられないことではなかった。ということは、自分が亜衣子の男友達第一号ということになるのだろうか? それは、光栄以外の何物でもない。

「あ、ハンカチ、ぐしゃぐしゃにしちゃってごめんなさい。ちゃんと洗濯して返すから、ちょっと待っててね」

「それ」

「え?」

「気にしてないから、謝らなくていい。どうせなら、俺は『ごめん』より『ありがとう』のほうが嬉しい」

「……わかったわ。気をつけるように…する」

 少しずつ長くなっていく亜衣子の影を見つめながら、慎吾はしみじみと幸せを噛みしめていた…………。




         *            *      *




 ずっと、ただのクラスメートであり彼女の弟の先輩だとしか思われていないと思っていたのに、明らかに自分に好意を持ってくれていると思える返事を彼女がくれた時には、夢を見ているのかと思った。こんな都合のいいことが、現実に起こるはずはないと。これはきっと、自分が眠りながら見ている夢だとさえ思っていたのに。彼女の言葉の一語一語が、彼女の見せる表情のひとつひとつが、彼女の流す涙の一粒一粒が……すべて現実だと教えてくれて、絶望の淵にあった慎吾の心を救ってくれる。

「よかったら使ってくれ」と自分のハンカチを渡した時に触れた彼女の手の温もりが、まるで春の陽射しのように慎吾の心を温めてくれる。彼女の笑顔が、慎吾の心を希望へと導いてくれる──────。

 あのまま……永遠に観覧車に共に乗っていられたらよかったのにと、半ば本気で思ったことを覚えている。

 などと、心では純粋なことを考えていたのに。それを裏切るように、とても人には言えないような夢をその夜見せる、己の若さが憎いと慎吾は思わずにはおれなかった。おかげで、翌日の午後からのバイトで祐真と顔を合わせた時、何となく後ろめたい思いを感じてしまって、それを表面に出さないようにするのに必死だった。

 そしていま、慎吾の携帯のアドレス帳には、他の誰でもない彼女の携帯番号とメールアドレスが登録されている。それを見ているだけで、彼女の笑顔を見ているような幸福な気分になれて、つい顔がほころんでしまうのだ。

「……なーにニヤケてやがんだよ」

 唐突に声をかけられて、ハッとする。思わず顔を上げると、旧友の渡部が呆れ果てているような顔でこちらを見下ろしていて。慌てて携帯を閉じて脚を組み直すと、テーブルの上に発泡酒の缶を置いて、向こう側に渡部が腰を下ろした。

「ヤケに機嫌がいいから、告ってOKでももらったのかと思えば。単に携帯番号とメルアド交換しただけだと? それだけでそこまで有頂天になれるなんて、手軽な奴だな、お前も」

「う、うるせーなあ。いいだろ、いままでがいままでだったんだから」

「まあ。それを考えれば、大した進歩だけどさ。つーか、そこまでたどり着くのに何年かかってんだよ。そのペースじゃ、結婚にまで行き着ける時には三十路越えしてんじゃねえの?」

「け、結婚って…! お、俺たちはただの友達だぞ!? 何言ってんだよっっ」

 焦りまくってまくしたてる慎吾の前で、テレビのリモコンを取るふりをして身体の向きを変えた渡部が呆れ返った表情を一瞬浮かべたことを、慎吾は知らない。

「それはともかく。発泡酒しかなくて悪いけど、飲もうぜ。祐真と一緒の時は、遠慮してあんま飲めないんだろ?」

 そう。今日は珍しく、自分の大学より実家に近い距離にある大学に通い、同じく一人暮らしをしている渡部のところに遊びに来ていたのだった。

「…まあな。あいつはまだ飲めないのに、俺ばっか飲んでるのも悪いだろ」

「あいつも何だかんだ言ってマジメだよなあ? 慕ってる先輩がダメだと言ったからって忠実に守ってるなんてよ。大学では剣道部入ってないんだろ?」

「ああ、勧誘はされたけどな。高校までで結果を出せなかったら大学ではやめるってのは、ずっと決めてたことだから」

「後輩は先輩に似るもんかと思ったけど、あいつそもそも笹野の実の弟だもんなあ。それもわかる気はするわ。似てるのは顔だけかと思ったけど。そういや、高校最後の文化祭で、俺ら剣道部男子でメイドカフェやったじゃん。お前は絶対嫌だっつって裏方に逃げたヤツ」

 当たり前だ。いくら祭りだと言っても、誰が高三にもなって女装をやりたがるというのだ。小柄ならまだしも、その時既に身長が175cmを越えていて、顔つきもだいぶ大人に近付いていた慎吾がやったところで、気色が悪いだけだ。渡部は彼女の結花の勧めもあって、ノリノリでやっていたが。

「その時、まだ一年だったし祐真がえらい似合ってて、冗談抜きで女子に間違われたりしてたって知ってるか?」

 そういえば祐真もノリノリでやっていた気がする。

「ああ、それは知ってる。笹野の姉貴のほうによく似てたっけな」

「その後写真売っただろ、部費の足しになるかもって。祐真の写真の申し込み、三桁近く行ったって知ってるか?」

 予想もつかないことを言われて、思わず飲みかけていた発泡酒を吹き出しそうになった。

「ああ、心配するなって。申し込んできたのは男子だけじゃねえから。女子も負けないぐらいの数だったって話だから。いくら本人じゃないっていっても、誰かさんによく似た姿の写真を他の男が買いまくるってのは、あんま気分いいもんじゃないもんなあ」

 にやにやにや。実に人の悪い笑みで渡部が言ってくるのを、聞こえないふりで再び発泡酒を口にする。ほんとうに。渡部はときどき非常に意地の悪いことを言う。そしてそのたびに慎吾が焦るのを見て楽しんでいるのだ。

「相変わらず人が悪いな」

「お前が遊び甲斐があり過ぎるんだよ」

 旧知の仲だと、互いに言いたいことを余すことなく言い合えていい。

「で? 告る決心はできたのか?」

「そ、そりゃあここまできたらいつかはハッキリ言いたいと思ってるけど…いまは、まだ覚悟ができねえよ」

「じれってえなあ、もう」

 言われる気持ちもわからんでもないが、こればかりは仕方ない。

「こういうことは男から言うべきだって、ここに結花がいたら言うだろうな」

 確かにそれは正論だとは思うが……実際渡部と結花も、渡部の告白から始まったという話だったし。相手に友達以上の感情を持たれているかもわからないのに、どうすればその決意を固められるのか、逆に訊いてみたい気もする。

 そうして。そのしばし後に起こる騒動に気付くことなく、夜は更けていく…………。




          *     *     *




 その翌日。バイトが休みだった慎吾は、携帯のアドレス帳のある人物の名前を見つめながら、電話をかけるための覚悟を決めようとしていた。ただ電話をかけるだけでもこれだけ時間と気力が要るのに、どうやったら告白にまで持ち込めるのか、どれだけ考えてもわからない。

 やがて、意を決してオンフックボタンを押す。コール三回ほどで、相手が出たのでどきりとするが、できる限り平静を装って声を出す。最初は体調を気遣う言葉を口にすると、いまはもうすっかり大丈夫だという答えが返ってきたのでホッとする。それが、一番気がかりなことだったから。

『でも、何だか不思議な感じ』

「何が?」

『高坂くんと、こうして電話で話ができる日が来るなんて……夢にも思ってなかったから』

 くすくす混じりの声が耳にくすぐったい。肉声の声もとても好きだけれど、こうして耳元で聞こえる電話越しの声も悪くないなと慎吾は思う。できるなら、直接耳元で囁いてほしい気もするけれど。そんなことを考えていたから、亜衣子の次の言葉には驚いてしまった。

『あ、それなんだけど……これから大学も夏休みに入るでしょ、そうしたら私、週に二回くらい夜にバイトすることが決まっちゃって。その曜日以外なら、いつでも大丈夫なんだけど』

「夜!?

『あ、夜といっても、変なところじゃないのよ。近所に今度高校受験の中三の子がいるんだけど、その子の家庭教師をしてくれないかってお母さまのほうから頼まれて』

 脳裏をよぎるのは、その年代の頃の自分の姿。

「あ、家庭教師か……大学生のメジャーなバイトのひとつだよな。でも、その生徒って男だったりしないか? その年頃の男なんて、考えることはひとつだぞ。そんなのの目の前に、笹野みたいに綺麗な年上の女性なんかが夏ならではの薄着でうろついてたりしたら…!」

 剣道には真剣に打ち込んでいたが、男友達たちとはろくなことをしていなかった自分の中学時代を思い起こしながら、頭に浮かぶままに言葉を口にする。亜衣子に言われるまで、相手の生徒が女の子であるという可能性はまったく浮かばなかったあたり、自分も相当テンパっていたのだなと慎吾は後になってしみじみと思い返す。何故その時に思わなかったかといえば、その直後、亜衣子から爆弾発言ともいえる発言が投げかけられてしまったから。

『でも。「考えることはひとつ」って……高坂くんもそうだったりしたの?』

!!

 その後のことは、後で思い返しても後悔のひとことに尽きる。いくらテンパっていたとはいえ、混乱して危うく男の本音をぶちまけてしまうところだったのだから。結花や未唯菜のようなあっけらかんとした女の子ならまだしも、亜衣子のような純情な女の子の前で、何ということを言うところだったのか。思い出すだけで、顔が真っ赤に染まってしまう。

「……悪い。男の内情なんか、女の子には気持ち悪いだけだよな、忘れてくれ」

『う、ううんっ 元はといえば、私が訊いちゃったのが悪いんだし、祐真もいたから男の子の気持ちも少しはわかるし、気持ち悪いなんて思わないわっっ』

 驚いたことに、亜衣子は焦っているような口調であったものの、こちらを労わるような答えを返してきたので、これには慎吾も戸惑いを隠せなかった。きっと、彼女の顔もいまは真っ赤であるだろうことは見なくてもわかって、その思いが嬉しくて、慎吾は知らず知らずのうちに口元に笑みを浮かべて礼の言葉を口にしていた。

「…ありがとうな」

 その言葉に亜衣子も更にテンパってしまったのか、一瞬の沈黙の後、唐突な話題の変換が訪れた。驚くと同時に、そうせざるを得なかった亜衣子の心理状態を思ったとたん、もう可愛くて可愛くて仕方なくて。いま彼女が目の前にいたら、この腕に抱き締めてしまっていたかも知れないと自覚した瞬間、電話でよかったと心から思った。それぐらい、五年分の想いは慎吾の中から自制心を奪いかねないほど強いものに変化していて。これ以上我慢を強いていたら、いつか暴発でもするのではないかと危惧させるほどだった。

 そんな他愛のない話をいくつか交わして、電話を切った後も高坂は幸せな気持ちを抱き締めたまま、眠りに就いた…………。




    


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2012.12.21改訂版up

ようやっと。「友達」になれたふたりです。
未唯菜と祐真、渡部の脱力も、当然のことといえましょう……。

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