〔10〕





 適当に入ったカラオケ屋はまだ大学生以外が休みではないからか意外に空いていて、好きな部屋に入ることができたのはよかったが、部屋に入ると同時に祐真と未唯菜が即座に片側の二人から三人掛けのソファを一気に占領してしまって、亜衣子と同じソファに隣同士で腰掛けなければならなくなったことにはまいってしまった。

 決して嫌な訳でなく、むしろ意識し過ぎてしまって自分が挙動不審にならないかが心配だったのだ。その結果、彼女に不審がられたり気味悪がられでもしたら目もあてられない。だから、剣道をやっていた頃に会得した、強い相手と当たったりした時に自信がなくてもあるふりをするポーカーフェイスをフル活用して、まるっきり普段通りに見えるように振舞う。さすがに彼女と同じメニューをのぞき込んでいた時には、ついつい意識してしまって顔が赤くなりかけるのを止められなかったけれど、カラオケ屋特有の暗めの照明が功を奏して、何とか気付かれずに済んだと思う。逆に彼女のほうこそ顔が赤くなっているように見えたのは、慎吾の目の錯覚か願望か。

 それぞれ歌う歌を選んでいる間に、注文した食べ物や飲み物もやってきて、順番に歌い始める。自分と祐真は、どちらかというと剣道部時代に培った声のデカさとノリでごまかしている節もあったが、さすがに亜衣子と未唯菜は合唱部で本格的に歌っていただけあって、ただの顔だけアイドルと世間でいわれている女性歌手の歌でもしっかり聴かせるだけの声量も実力もあって、非常に自分たちを楽しませてくれた。

 何より、みゆきの誤解が無事解けたらしい亜衣子もとても楽しそうで、その事実がまた慎吾を浮かれさせる。
「亜衣子先輩、次の一緒に歌いましょっ」

 と未唯菜に声をかけられて、やはり笑顔で答えながらテーブルの上のマイクを握って準備を整えていた亜衣子の表情が、モニターに表示された曲名を見た瞬間、固まった気がした。

「…っ! 未唯菜ちゃん、これって…!?

「先輩歌えるって言ってたでしょ、はい、もう始まりますよっ」

 未唯菜の言う通り、賑やかな前奏がすぐに始まって…慎吾が曲名を確認するより早く歌が始まってしまったので、曲名はわからないままだった。けれどどこかで聴いたことのあるメロディだったので、最近流行しているものなのかも知れないと思いながら、グラスを傾けて飲み物を飲んだ。亜衣子にしては珍しく、微妙に声が震えているような気がして思わずそちらを向いた……次の瞬間。慎吾はみずからの耳を疑った。よもや亜衣子の口から、亜衣子の声で、自分の恋人になれるかどうかを問いかけられる日が来るなんて、夢にも思っていなかったからだ。

!!

 これがメロディに乗っている言葉でなかったら、完全に思考停止するところだった。亜衣子からそんな言葉を言われたら、考えるより先に抱き締めてしまいそうだと、常々思っていたから────実際夢の中で似たような言葉を告げられ、答えるより早く行動に出てしまったこともあったためだ────これは現実だと自分に再認識させるので精いっぱいだった。もう一度問いかけてくるその歌声に「君が望むならいつでも」と、危うく答えそうになるのをこらえながら亜衣子のほうを見つめていると、ふいにこちらに視線を向けた亜衣子とばっちり視線が合って、思わず心臓が高鳴った瞬間、思いきり気恥ずかしそうに視線をそらされて、激しい鼓動が止まらなくなってしまった。

 とどめとばかりに投げかけられてくるのは、自分に対して弁当を作ってもよいかと問いかける声。脳裏によみがえるのは、いつか作ってもらった食事のおかずの数々。あれを毎日食べられるなら、もう死んでもいいかも知れないと半ば本気で思ったことも覚えている。他の男に食べさせる姿なんて、絶対に見たくないと……まだ姿すら見えない相手に嫉妬したことも。

 やがて歌い終わった亜衣子が席に座り直し、まったく顔を上げないままで飲み物を飲み続け、あえてこちらを見ないようにしているように思えた瞬間、自分の中に図々しい気持ちが芽生えたことを自覚した。

 もしかして……もしかして、俺、少しは自惚れてもいいのか? 「友達」以上に思われていないと思っていたけど……俺と同じような気持ちを彼女も抱いてくれていると。思っても、いいのか─────?

 信じられないけれど、彼女の態度を見ているとそうとしか思えなくなってくる。ひとに知られたら、自意識過剰と思われるかも知れないけれど。

「慎吾せんぱーい、リクエストいいっスかー? 先輩なら絶対知ってる曲なんスけど」

 そこにかけられる、祐真の声。

「構わないぜ。誰の曲だ?」

「それは見てのお楽しみということで〜♪」

 やがて始まる、テンポのいい曲。ついさっきまで彼女が使っていたマイクを使うのは緊張するが、なるべく平気な顔をして持ち手を握る。確かに聞き覚えのあるイントロで、何度か歌ったこともある曲だった。学生時代好きだった相手と再会して、心に閉じ込めていた想いを再確認する男の気持ちを歌った曲で、何といまの自分にぴったりの曲を選んでくれたものかと少しだけ佑真が恨めしく思えてくる。

 こちらを見ようとしない彼女の横顔を見つめながら、心に浮かぶ気持ちのままに歌ってみせる。そのうち気配を感じたのか、亜衣子がふいに顔を上げてこちらを見た。それにかぶさるように再び口から飛び出る胸の内。もう、止めようと思っても止められなかった。まっすぐ亜衣子の目を見て歌ってみせると、亜衣子はとたんに慌てたように目をそらした。明らかに不自然なその様子と、暗めの照明の中でも彼女の顔が赤くなっているのがわかる気がして、慎吾はますます確信を持てた気がした。

 そしてそのまま、素直に胸の内を歌い上げる。五年もの間、ずっとずっと言えなかった言葉を。改めて言葉に出そうとすると言えないのに、歌に乗せれば素直に言える。不思議なものだと慎吾は思った。高校の卒業式のあの日─────どれだけ言おうとしても言えなかった言葉なのに。もしかして、いまからでもまだ遅くない? もしかしたら……彼女も自分のことを─────? そう思ったら、心の奥底から急速に勇気がわいてくる気がした。

「あっ 私お手洗い行ってきまーす」

「あ、俺もー。ついでにちょっと電話してくるー」

 気を利かせたつもりか祐真と未唯菜が続けて出ていくのを見たら、急に恥ずかしくなってきてしまって、先刻からずっと下を向いたまま何も言わない亜衣子とふたり、奇妙な沈黙の中に取り残される。けれど、これではいけないのだと思い直し、慎吾はそっと口を開いた。

「あ、のさ…」

 亜衣子がそっと顔を上げる。その頬は、やはりまだ紅潮しているように見えて……。

「いつだったか飲み屋で逢った時……その直前に、笹野が友達らしい女の子たちと話しているの、俺偶然見ちまったんだよな」

「え…?」

 きっかり二秒後、亜衣子の顔が今度は明らかに赤く染まっていくのがわかった。その時していた会話の内容を思い出したのだろう。

「べ、別に盗み聞きするつもりなんかなかったんだけどっ 『笹野だ』と思っているうちに聞こえてきちまってっ ずっと好きな男がいるって……あれ、マジなのか…?」

 唐突過ぎると自分でも思うけれど、もう止められない。

「こ、これもそんなつもりはなかったんだけど、笹野、高一の夏頃に昼休みの特別教室棟で上級生らしい男子に告白されてたろ。俺、あの時も偶然近くを通りかかっちまって、聞いちまったんだよな」

「!」

「あの時も…『他に好きな男がいる』って断ってたけど、もしかして、ずっと同じ奴のことを好きだったりするのか─────?」

「えっ!?

 亜衣子の表情がこれ以上ないというほどに驚愕の色に彩られ、慎吾の顔を見るや否や明らかに動揺しきった様子に変わる。

「あ…あ、の……」

 余裕なんて一切感じ取れないほど震える声が、彼女の唇からもれる。声だけでなく、本人の膝の上に置かれた手も目に見えて震え出して、きゅ…とその拳が握られて……慎吾のまっすぐな視線に耐えられなくなったのか、亜衣子は無言でこくりと頷いて、そのまま俯いてしまった。

「そ、か……幸せ者だな、そいつは」

 そんな言葉が口をついて出ていた。もしも自分のことだとしたら、そう言ってくれるかと期待してしまったのだけど、いまの亜衣子の様子からすると違うのかも知れないと思ったのだ。やはり自惚れ過ぎだったかと、自嘲の笑みをこぼしかけた慎吾の耳に、信じられない言葉が飛び込んできたのは、次の瞬間のこと。

「もし…も……高坂くんのこと、だって言ったら……どう、する──────?」

 部屋の中に流れる宣伝放送に紛れて、ともすれば聞き逃しそうになるほどの小さな声だったけれど。亜衣子の一挙手一投足を見逃すまいと全神経を張り詰めていた慎吾の耳は、決して聞きもらすことはなく。あまりにも信じがたい内容に、一瞬頭を含めた全身の動きが止まってしまう。

 いま、彼女は何と言った? 「もしも、その相手が自分だったら?」 そんな幸運なことが、現実にあるというのか? 五年間─────自分が彼女を想い続けた時間と同じだけ、彼女も自分を想っていてくれたなんて、そんな、自分に都合のいい現実が……ほんとうに存在するというのか…………?

「─────そ、そしたら……」

 自分でもどう伝えていいのかわからないまま、想いを口にしようとした瞬間、ドアがノックされる音が響き、慎吾はもちろん亜衣子の身体も大きくびくりと震えた。そんな状況だから、部屋の外の慎吾と亜衣子からは死角になっていて見えない位置で、祐真と未唯菜も普段の余裕をかなぐり捨てて焦りまくっていたことなど知る由もなく────まあこちらは自業自得ともいえる状況であるが────亜衣子とふたり、注文の品を持ってきた店員と応対して、それが済んでから再びソファに今度は力なく腰を下ろす。

 あー…もうダメだ。最後の勝負のつもりで挑んだ攻撃が、相手に当たる前にバナナの皮で滑って転んじまったような気分だ。もう、完全に戦意喪失だー……。

 剣道の試合にたとえて考えながら亜衣子のほうを見ると、彼女も同じように気が抜けてしまったのか、先刻までの可哀想なぐらいに張り詰めていた緊張感から解放されたような顔をしていて。とてもではないが、先刻の話の続きなどできる雰囲気ではない。

 そのうちに、やはり気の抜けたような顔をした祐真と未唯菜も戻ってきて、皆抜け殻のように身体の力が抜けまくったまま、残りの時間を過ごして、その日はお開きになった。そして、祐真に促されるまま、亜衣子の一歩先を歩いて笹野家の方向に向かって歩き始める。慌てたように亜衣子が続くのを確認してから、亜衣子の歩幅と歩調に合わせてスピードを緩めた。

「高坂くん、まだ明るいんだし、送ってくれなくてもよかったのに」

「いや。祐真だって藤原さんを送っていってんだし、夏とはいえもう夕方なんだ、女の子を独りで歩かせる訳にはいかないからな」

 やはり気の抜けたまま亜衣子と会話を交わして、後はゆっくりと無言で歩き続ける。

 最後の最後で邪魔されちまったけど……笹野も、俺と同じ気持ちだと…思っていいんだよな? 俺の独りよがりだなんて言わないでくれ、頼むから。

 共に歩く彼女の影が、慎吾の影にぴたりと寄り添うように─────実際は数十センチ、互いの身体は離れているのだけど─────見える。手の角度によっては、手をつないでいるようにも見えて、早く影だけでなく本物のその手をこの手で握り締めたいと……本物のその身体をこの腕で抱き締めたいと願いながら。彼女の家へと続く道を歩き続けた…………。




         *              *      *




 朝から暑い、カーテンすら突き抜けるほど強い夏の陽射しの中。汗を流しながらも敷き布団の上でまどろんでいた慎吾の耳に、どこからか聞こえてきたのは携帯の着メロの音。一瞬自分の携帯かと思って目を開けないままで枕元を捜すが、自分の携帯では使っていない着メロだったことをすぐに思い出し、ぴたりと手を止める。

「ん、あ〜…? 姉ちゃん?」

 すぐ近くで聞こえてくる祐真の声に、脳裏に長い髪の少女がよぎる。

「え〜? 泊まり〜? 何で〜?」

 まだ寝ぼけているような声の祐真の額をぺちっとたたく。

「てっ あ、いや何でもない…独りって……親父とおふくろは?」

 祐真の耳にしている携帯から、何を言っているかまではわからないが、女性の声らしいものが洩れて聞こえてくる。

「ああ、そういえばそんなこと言ってたっけ。来るのは全然構わないけど、俺今日の昼間はバイト入れてっから相手できないぜ? …うん。うん。わかった、一応用意しとくよ」

 手短に話を終えて祐真が電話を切って、先に起き上がっていたこちらを見てきたので、視線で話を促してみせる。

「あー、姉ちゃんからだったんスけど、昨日から親父とおふくろが旅行に行っていていないんで、今晩と明日の晩泊まりに来ていいかっていうんスよ」

「笹野が?」

「何か、独りだと家がいつもより広く感じて心細いとか何とか。そういえば、いままでは姉ちゃん独りで夜を過ごしたことなんてなかったんじゃないかな」

 自分や祐真のように腕っぷしもそれなりに自信のある男連中と違って、か弱い女の子が普段は家族四人で暮らしている家で独り夜を過ごすなんて、普段から気の強い女の子でも心許なく感じるだろうそんな状況で……亜衣子が昨夜、どんなに心細かっただろうと思うと胸が痛くなってくる。

「んで、これから支度したらこっち来るって言ってるんスけど、俺今日午前中からバイト入ってるの、先輩知ってるっしょ?」

「ああ」

 同じバイト先だし、それに合わせて帰るつもりで泊まりに来ていたのだから、もちろん知っている。

「先輩、悪いんスけど、もし予定なかったら姉ちゃんの相手しててやってくんないっスか? 独りで夜過ごした後にここに来てもまた独りだっつーんじゃ、何の意味もないっしょ」

 何だかんだ言って、姉のことを思っているのだなと思うと、祐真が無性に可愛く思えてくる。普段は多少生意気でも、こういう優しい部分があるのを知っているから、にくめないのだ。

「ああ、それは構わないが…とりあえず、俺一度帰って着替えてくるわ。汗ダラダラだし、ついでにシャワーも浴びてくる」

 さすがに亜衣子に逢うのに、この姿のままでは自分が嫌だ。

「ああそうっスね。俺もよく夏場、おふくろや姉ちゃんにブイブイ言われたっけなあ、『汗臭い』って」

「お前んとこはまだいいよ。俺んちなんざ親父と兄貴とで男三人だから、おふくろが何かあるたびに『女の子が欲しかった』って愚痴るの何の」

 一通り談笑してから、簡単に支度をしたり朝食を摂ったり────今朝は少々遅く起きてしまったので、朝食にしては多少遅い時間ではあったが────いい天気だったので布団を干したり軽くそのへんを片付けてから、祐真が部屋を出るのに合わせて一緒に出る。

 互いの部屋の合鍵は持っていないが、祐真の部屋のそれは亜衣子が持っているし、彼女が来る頃を見計らって再び訪れれば問題ないだろうと、慎吾は思っていた。それが大正解であったことを、後になってから心の底から実感することになるのだが、まだこの時は誰も気付くことはなく。頭に描いた予定通り、行動を進めていた。

 自分のアパートに戻った慎吾は、まず着ていたものを全部脱いで洗濯機に放り込んでから、風呂場に直行して頭から熱いシャワーを浴びる。汗と一緒に、いまだ残っていた眠気も流れていく気がして、気持ちがいい。それから、どちらにしようかと悩んでいたシャツの片方を手に取って、それに合わせたコーディネートで着る服を決める。いつもなら適当にあるものを着るのだが、さすがに亜衣子と逢うのにそれは何となく嫌だったので、比較的新しめの服を着て身支度を始める。髪形もOK、髭そりもOK、体臭もOK。できる限り小奇麗に身支度を整えて、財布と携帯と部屋の鍵をジーンズのポケットに入れて部屋を出る。

 祐真の話では、そろそろ亜衣子が最寄り駅に着いていてもおかしくない時間だったからだ。駅の前で慎吾が出迎えに来ていたら、亜衣子はどんな顔をするだろう? 喜んでくれるといいなと淡い期待を胸に、歩き始める。駅前まで出る寸前で、普段より大きめのバッグを抱えた亜衣子の姿を認め、笑顔で声をかけようとした…が。亜衣子の後ろを、まるで尾行するかのようについていく男の姿に気付いて、思わず眉をひそめる。同じ大学の生徒らしく、一応顔と名前は知っているが、それだけではない見覚えに、思わず首をかしげる。

 記憶をさらい出したとたん、最近亜衣子に語った件の飲み屋での一件を思い出し、あっと声を上げそうになった。慎吾が思った通り、あの時酔っぱらったはずみでか亜衣子にしつこく言い寄っていた男だ。それがどうしていま、亜衣子の後をまるでストーカーのように尾け回しているのだ? 亜衣子は何も気付いていないらしく、重いのか時折バッグをもう片方の肩にかけ替えながら、祐真のアパートへとまっすぐ向かっている。嫌な予感を覚えて、慎吾は黙ってその男に気付かれないように後に続く。はたから見たら、何だか間抜けな図だろうけど。

 やがて、祐真のアパートに着いた亜衣子が、履いていたミュールの足音をできるだけ抑えるようにしてそっと階段を上がっていく。男がやはりその後をついていくのを見て、嫌な予感の的中を確信しながら、少し遅れてその後に続いた……。




    


誤字脱字報告もこちらからどうぞ
返信はブログにて






2012.12.21改訂版up

少しずつ、近付いていくふたりの心?
けれど、危機を告げる暗雲も立ち込め始めて…。

背景素材「toricot」さま