──────名前を呼んでほしい。誰でもない、君の声で。
西暦も二千年を越えていくばくか経った年。高校に入学したばかりの高坂慎吾は、入部した剣道部でのランニングの合間 の休憩時間に、どっかと芝生に座り込んだ。剣道は中学から好きでやっていたが、親の負担を考えると、よほど上を狙える選手にならない限り大学に進学する際には辞めなければならないかも知れないと思うようになっていた。だからこそ、この高校三年間で悔いのないように力いっぱいやらなければならないと、慎吾は
心に誓っていた。
「さ、さすがに中学とはレベルが違うよな…っ」
ぜいぜいと呼吸を乱しながら、同じ中学から進学してきた渡部が声をかけてくる。
「あ、ああ…だけど、これぐらいやらなきゃ強くなれないしな」
「確かにな……あ」
渡部がふいに、気をとられたように上を見上げた。空ではなく、すぐ近くの校舎の中の一室を。窓が開け放たれたそこからは、高めの少女の歌声が聞こえてくる。曲名は知らないが、どこかで聞いたことのある曲だった。
「結花の声だ」
渡部がぽつりと、中学の頃からつきあっている彼女の名を呟く。
「お前の彼女、また合唱部に入ったんだっけ?」
「そう。今日は、力試しに先輩たちの前で新入部員一人ずつ歌わされるんだって。緊張するって言ってたなあ、気持ちはわかるけど」
一年はいずこも同じだなと思っていたその時、ピアノの伴奏が途切れ、違う曲になると同時に別の少女の声に切り替わった。細めだけれど、よく通る綺麗な声だった。どこかで聞いたことがある気がして、慎吾は記憶を懸命にさらう。
あ。もしかして、あのコかな。同じクラスになった……この間出たばかりのアイドルの曲を、「メロディが思い出せない」と騒ぐ他の女子たちの前で、控えめな感じで歌ってみせた、長い髪の……。
どちらかというと目立つタイプではなく、友人たちの話も聞き役になっていることが多い彼女だったけれど、その歌声があまりに綺麗だったので、慎吾の耳にいつまでも残っていて。また、自分の前で歌ってくれないかなとまで思うようになっていた。何故なのかは、自分でもわからなかったけれど。
「はい、笹野さん、大変よろしいわ」
音楽担当の女性教諭の声が聞こえた。そうだ、確か「笹野」…下の名前は「亜衣子」といったか。まだ入学したばかりで出席番号順で席が決まっているから、慎吾の隣の席に座っている少女だった。まだ大して話したことはなかったが……。
「おら、一年、そろそろ休憩終わりだぞーっ 立ちやがれっっ」
先輩の声に、一年の皆が一斉に立ち上がる。慎吾の心に、ひとりの少女の歌声をいつまでも残しながら…………。
それから三ヶ月近く経った頃の昼休み、四時間目の移動教室の際に忘れてきたものを取りに、慎吾は昼食後に慌てて特別教室棟に向かっていた。目的の教室の自分が座っていた席から首尾よく忘れ物を見付けて、教室に戻ろうとしたその時。その隣の教室から聞こえてきた声に、思わず足を止めてしまった。
「……お気持ちは嬉しいんですけど…ごめんなさい」
忘れもしない、彼女の声だった。一、二度一緒に日直をしたけれど、必要以上の会話ができなくて、何となく残念に思ったことを覚えている。何故なのかは、やはり自分でもわからないけれど。
「…え…っ そ、そりゃ、いきなり恋人ってのは確かにハードルが高いと思うけど、せめて友達でも…ダメ、かな?」
答えるのは、知らない男子の声。上級生だろうか。会話の内容から察するに、交際を申し込んで断られたというところか。
「…ごめんなさい。私、好きなひとがいるんです…………」
ほんとうに申し訳なさそうな彼女の声に、さすがにもう脈はないと悟ったのか、「そっか…」と呟く男子の声。これ以上ここにいるのはマズいと思い、慎吾はさっさとその場を音を立てないように立ち去ってしまったから。だから、その後二人がどういう会話を交わしたのかは知らない。
そうか……好きな奴がいるのか。うちのクラスの奴かな。それとも、中学の時の同級生とかかな……。
そこまで思ってから、慎吾は自分は何を考えているんだとふるふるとかぶりを振る。彼女が誰を好きでも、自分には関係ないではないか。そこまで詮索する権利など、自分にはないのに……。
それはきっと、彼女が渡部の彼女と一緒に、合唱部の練習の後に剣道部に見学に来ているから気になるだけなんだと思い直す。初めは道場の外で待っていた二人だったが、同じように終わるのを待っていた上級生女子に引っ張られて、中の端のほうで座って待つようになったのだ。顧問も部員には厳しいが、「異性が見ていればより気合いも入るだろう」と見学者を容認する性格だったので、見学者の定位置にはいつも男子女子問わず何人か座っている状態だったのだ。そしてそれは、的を射た意見だったようで、確かに見学者がいる時といない時とでは、部員の気合いの入り方が違った。慎吾も例にもれず、はりきってしまっていたことは否めない。高校三年間は、色恋沙汰よりも剣道を選ぶと決めたというのに……。
そして、それからすぐのプール開きの頃。女子は体育でプールに入るからと言って、長い黒髪をきっちり編み上げてきた彼女の白いうなじに、どきりと胸が高鳴って。男という奴は仕方ないよなと思いつつ、プールの後の、結び直したらしい彼女の濡れた長い髪を見た瞬間、もう何も考えられなくなった自分に、もしやと思い始めた。
「あ、高坂くん」
彼女に声をかけられて、ほとんど無意識に振り返る。普段の鍛錬のたまものか、平常の顔のままでいられたことに感謝しながら。
「剣道部の皆本先生が、部活の前に体育教官室に来るようにって」
「ああ、わかった。サンキューな」
顔では何気ない風を装いながら、慎吾の心の中はもう暴風雨であった。彼女が自分の名を呼んだ、ただ、それだけのことで。
ああ畜生。もう降参だよ。適当に言い訳を並べてみても、結局他の女子じゃ絶対こうはなんないんだよ。そうだよ、俺は、笹野が好きなんだよ───────。
自覚をしてしまうと、後は早かった。まるで坂道を転がるように彼女のすべてが気になって、少しでも彼女が関係していることには反応してしまって、彼女がひとりで歌っている声には誰よりも早く気付いてしまって……。自分でも止められないくらいに彼女に惹かれていっているのがわかっているのに、高校入学時に自身で立てた誓いと板挟みになって、結局何もできなかった。
三年生になって、彼女とよく似た弟が同じ高校に入学して、剣道部に入部してきて自分を兄のように慕い始めてくれたことも、相反する心の苦しみに一役買ってしまっていた。弟本人に対しては、後輩として可愛いと思っているのに、これが彼女本人だったならと不埒な思いを時々抱いてしまう自分に気付いて、あえて辛い鍛錬にみずからを追い込んだりもした。その甲斐あってか、精神的にはかなり精進できた気もするのだが、それでも高校入学時に自分で決めた目標を達成できなかったこともあり、高校を卒業する時に剣道はすっぱり辞めた。未練がないといえば嘘になるが、いくら彼女のことがあったとはいえ、納得する結果を出せなかったことを慎吾自身が誰よりも悔いていたため、辞めることに後悔はなかった。そして、みずからを戒めていた枷がなくなったのだから、卒業して完全に進路が別れてしまう前に彼女に想いを伝えようかとも思ったが、結局、勇気が出せなくてできなかった。そして、そんな自分にまた嫌気がさして、新たな大学での勉強やアルバイトに精を出すようにして、彼女を忘れようとしたのに……できなかった。
俺は……何に対しても、中途半端なままだな───────。
後悔ばかりを抱えて生きて、二年後に再び彼女の弟────祐真が自分を追いかけてきてくれた時には嬉しかったけれど、同時に彼女への想いも再燃して、祐真自身にはそんな意図はなかったのだろうが────何しろ好きな異性の有無を訊かれた時にも「いない」としか答えたことはなかったのだ────「うちの姉貴、いい年して彼氏の一人もまだいないらしいんスよね。何なら先輩、どうっスか? 安くしときまっせー」などと冗談めかして言われた時には、平静を保つのに内心でえらく苦労したものだった。
自分の気持ちに祐真が気付いているとは思えなかったけれど、大事なたったひとりの姉の相手に、冗談でも自分を認めてくれていること、更に彼女がまだ独り身でいることに、自身への怒りより喜びを大きく感じてしまうあたり、自分でも重症だと思った。これは、もう彼女本人に想いを伝えて玉砕でもしない限り────何しろ三年間ろくに会話もしてこなかった相手なのだ、自分は。そんな自分を、彼女が受け容れてくれるなんて、夢にも思ったことはなかった────自分は一歩も前に進むことはできないのではないかと思っていた。
そんな、矢先だった。「今日は夕方まで帰ってこられない」と言っていた祐真のアパートの部屋のベランダ────と呼ぶにもおこがましいささやかなものだが────に、布団が干されているのを見つけたのは。珍しいこともあるものだと思いながら、アパートの階段を上っていく。自分もあまりまめなほうではないが、それに輪をかけて面倒くさがりなのだ、祐真という人間は。そうして、いつものように軽くノックをしてから、ドアを開けた。それが、後で思えば運命の分かれ道だったということに、その時はまるで気付かぬままで。
「祐真、今日は夕方までいないはずじゃなかったのか? 休講にでもなったのか……」
言いながら、部屋の中を見た慎吾は、我が目を疑った。中にいたのは祐真ではなく、夢にまで見た彼女────記憶に残る二年前の姿よりももっとずっと綺麗になった、彼女本人が佇んでいたのだから!
「─────笹野…?」
忘れたことなどなかった彼女の名が、喉の奥から勝手に飛び出してくる。
「……高坂くん……?」
夢じゃない。いま、現実に目の前にいる彼女の唇から、自分の名が紡がれたのを聞いて、慎吾はようやく正気に戻る。彼女の両手の中にあるものが何であるのかを認識しながらも、頭の回路に直結しないままで。
「あ、祐真じゃなかったのか…悪かったな、急に開けちまって」
「あ、ううん、気にしないで、私もたまたま来ただけだし。ほら、この部屋すごい状態だったでしょ、母に頼まれて」
「通りかかったら布団が干してあったんで、祐真がいるのかと思って来てみたんだけど……また出直してくるよ」
「ごめんね、紛らわしいことしちゃって。祐真とまた仲良くしてあげてね」
「ああ、うん。あ、よけいなことかも知れないけど、玄関の鍵はちゃんと閉めておいたほうがいいぞ、この辺うちの大学の男どもが結構うろついたりしてるから」
「あ、さっき回覧板受け取った時にそのままにしちゃった……ありがとう、気をつけるわ」
「じゃ、俺はこれで。祐真によろしく」
「あ、うん」
二年ぶりの邂逅というには、あまりにもあっさり過ぎるものだったけれど。それでも、慎吾の心をかき乱すには十分だった。夢にまで見た彼女がいま、たったドア一枚を隔てただけの空間に居る。ただそれだけで、心臓の鼓動が、けたたましく鳴り響く。顔が、止めようとしても止められないほどの速度で、真っ赤になっていく。いま、何かのきっかけで彼女がドアを開けでもしたら一巻の終わりだと思い、急いで祐真の部屋を後にする。
「…っ! きゃああああっ!! ぱ、ぱ、ぱぱぱぱんっっ」
ようやく自分の手の中のものに気付いた彼女の、普段からは信じられないぐらいの大きな悲鳴を背で聞きながら──────。
* * *
それから、三日ほど経った日の朝。祐真から、携帯に電話があった。
『先輩、今日か明日の晩メシって何か予定ありますかー?』
「晩メシ? 朝っぱらから急な話だな、おい」
『まあまあ。今日か明日のどっちかに、うちで作ってもらおうかと思ってるんスけど、先輩も予定がなければ、二人分作ってもらおうかな、なんて』
母親でも訪ねてくるのだろうかと慎吾は思う。何しろ一ヶ月であれだけの惨状を作り出すような息子だ、姉から話を聞いた母親が心配してやってきても何らおかしくはない。
「予定はとくにないけど……お前が作るんじゃないなら、悪いだろう」
『いや、一人分作るも二人分作るも同じですって! んじゃ頼んどきますんで、バイトの後うち寄ってってくださいねっ』
言いたいことだけ言って、祐真は電話を切ってしまった。まったく。相変わらず、ひとの話を落ち着いて聞かない奴だ。姉とは大違いだなと思いながら、携帯をそっと閉じる。
まあ、確かにゴールデンウイークにも実家には帰らなかったから、家庭の味に飢えているといえば飢えている。自分でも一応作れるが、やはり母親の作るそれにはかなわないと思っているから、迷惑でないならご相伴にあずかりたいが……何かしら手土産なりは持っていったほうがいいかも知れないなと思いながら、慎吾はごそごそと布団から這いだした。
今日は午前中の二コマしか受ける講義はなかったから、午後は昼から夕方までびっちりバイトを入れている。祐真も今日は似たようなスケジュールのはずだが、学年も違うし慎吾より早い時間の講義を受けるのだろう、先刻の電話のバックにはいかにも表でかけているらしい物音や人の声が聞こえていた。とりあえず、でかける前に掃除ぐらいは済ませておくかと思い、洗面所へと向かった。
午前中の講義を終え、その足で祐真と学食で待ち合わせて昼食を摂ってから、共にバイト先に向かう。講義の時間によって融通がきくようにと始めた、コンビニのバイトだった。それを知るや否や、祐真も同じところに入ってきたので、もちろん冗談でだが、「大学だけでなくバイト先まで追っかけられるなんて、高坂くん愛されてるね〜」などと囃したてられて、慎吾としては苦笑いを浮かべるしかなかった。どうせなら、姉のほうがよかったなんて、口が裂けても言えない本音だけれども。
「今日は久々のおふくろの味っスよ〜。味は保証するんで、先輩期待しててくださいよっ」
「お前は家を出てまだ二ヶ月も経ってないだろうが」
「まあまあ。やっぱアレっスね、離れて初めてわかる親のありがたみっつーか」
「姉のありがたみも忘れるなよ」
「もちろんっスよ。姉ちゃんにも、今度改めて礼をするつもりっス」
「ならいいけど」
二人の会話を聞きつけた通りすがりの店長が、ひょいと質問を投げかけてくる。
「なに、笹野くんお姉さんいるの? 似てる?」
「他人からはよく『似てる』って言われますけど、自分じゃわかんないっスね」
「似てますよ、顔だけは。姉貴のほうはもっと落ち着いていて、将来は良妻賢母まっしぐらなタイプですけどね」
「高坂くん、よく知ってるねー」
「高校の三年間、同じクラスだったんで」
「もしかして…つきあってたとかあるの?」
店長のあまりにも唐突な爆弾発言に動揺して、伝票を書こうとして持っていたボールペンを派手に落としてしまった。
「な、何でそんな唐突にそういう話になるんですかっ!?」
「えー、だって高坂くん、剣道やってたせいか年の割に落ち着いてるしさあ。そんな女の子が相手ならお似合いかなあって思って」
「店長もやっぱそう思います!? 俺もそう思って先輩におススメしてんスけど、先輩本気にしてくんないんですよね」
祐真まで嬉々とした顔になって、店長と楽しそうに話している。
「当たり前だ、姉貴本人の意思はどうなる」
自分がどんなに好きだとしても、彼女自身の意思を無視するようなことは、決してあってはならないのだ。
「姉貴ねえ……俺が前に同じこと言った時は、すげー真っ赤な顔して『高坂くんに迷惑でしょうっ!!』って怒られたんスけど、あれはあっちも満更じゃないと俺はにらんでるんスけどね」
「マジ? マジ?」
「え、なになに、恋バナ?」
「誰の? えっ 高坂くんの!?」
店長まで目が輝き出したところに、交代の連中までやってきて、もうカオスである。
「あーもううるさいっ 店長、今日は本社の人が来るんでしょうっ!? ちゃんとチェックしとかないで、後で叱られても知りませんよっ みんなも、さっさと仕事に戻って!」
慎吾の一喝に、皆ハッとしたような顔をして散っていく。元凶である祐真も、すっとぼけた笑顔をしてレジで客の相手をしている。まったく、ひとの気も知らないでいい気なものだと慎吾は思った。
彼女が自分を好いてくれているなんて……ある訳がないだろうが。自分など、必要以上の会話もしたことのない相手なのに。彼女は優しいから、よほど嫌いな相手でもない限り、
勝手にそんな話を振ったりしたら「相手に失礼だ」と考えそうな気がする。と、そこまで考えて、自分は嫌われていないだけマシなのかも知れないなと思い、何だか力が抜けてくる。単に嫌われてはいないというだけで、自分が彼女のただの元同級生だという事実は変わらないからだ。それ以上でもそれ以下でもない。もしかしたら、一番関心がない部類に入るかも知れない類いの…。
「先輩?」
唐突に祐真に顔をのぞき込まれて、ハッとする。
「どうしたんスか? ボーっとして」
「い、いや、何でもない……どうした?」
「あ、店長が時間だから上がっていいって…」
「あ、もうそんな時間か」
できるだけ平静を装いながら、バイトを終える準備を始める。そんな自分を、祐真が意味深げな表情で見つめていたことにも。慎吾は、まるで気付かずにいた…………。
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