祐真と二人、次のシフトの人間に引き継ぎをして、支度をしてバイト先を後にする。彼女との二年ぶりの再会で浮かれまくっていた少し前までの気分が嘘のように、いまの慎吾の心は沈み込んでいた。嫌われていないだけマシといっても……無関心は、それよりもキツい気がする。かといって、彼女本人に確かめることなどできるはずもなく、慎吾の心はまるで坂道を転がっていくようにどんどん沈み込んでいって……祐真といつものようにバカ話をしていても、どうしても気分は晴れなかった。

「あれ? 先輩、どしたんスか? 俺のアパートはこっちっスよ?」

 祐真のアパートの目と鼻の先で、高坂が反対方向に曲がろうとしているのを見て、祐真が不思議そうに声をかけてくる。

「あー、ちょっとビール飲みたい気分になったから、そこの自販機で買ってくる。先行っててくれ」

「あっ じゃあ、俺の分も…」

「未成年が生意気言ってんじゃねー」

「ちぇっ」

 ふてくされたように言うが、何だかんだ言って慎吾の言葉には逆らわない祐真のことを、可愛いと思う。もちろん、亜衣子のことは関係なく、一人の後輩としてだ。自販機からガコン…と音を立てて吐き出される缶ビールを一本手にとって、祐真のアパートに向かって再び歩み始める。何だか今夜は、飲まずにはいられない気分だった。祐真の部屋の近くまで来ると、祐真が女性と話している声が聞こえてきた。祐真の母親がまだいたのかと思い、きちんとした挨拶をするべく気分を引き締める。

「ああ、いま来るよ。せんぱーいっ」

「こ、高坂くん!?

 驚きに目を見開いて、亜衣子がこちらを見ていた。驚いたのは、こっちのほうだ。祐真がやたら「おふくろの味」と強調するから、てっきり母親が来ているものとばかり思い込んでいた。よもやまさか、彼女本人が来ているなんて、夢にも思わなかった。

「じゃ、高坂くん、邪魔者は帰りますので、後は男同士でどうぞごゆっくり」

 せっかくまた逢えたのに、早々に帰ろうとする彼女に焦って、先刻買ったビールを「冷蔵庫に入れといてくれ」と言いながら祐真に渡して、慎吾は急いで靴に再び足を突っ込む。こんなちょっとの逢瀬だけで別れるなんて、冗談ではなかった。

「悪い、俺ちょっと買い物忘れてた。ついでだから、途中まで送るよ」

 そう告げると、亜衣子は目に見えて慌て出した。

「えっ 大丈夫よ、駅で父と待ち合わせしてるし、駅まで近いし」

「いや、俺の用事も駅前なんだ。ついでだし送るよ」

「え、でも…」

 亜衣子は頑なに固辞しようとするが、慎吾とて退く訳にはいかなかった。この機会を逃したら、次にいつ彼女に逢えるかわからなかったからだ。

「いいじゃん、姉ちゃん送ってもらえよ。立ってるものは親でも使えって昔から言うじゃん」

 見かねたのか祐真が助け船を出してくれて、それでようやく亜衣子も慎吾の申し出を受け入れてくれたので、彼女から見えないところでほうと息をつく。

「行こう」

「あ…ありがとう─────」

 控えめな、彼女の声。

「いや」

 何気ないふりを装ってはいるが、慎吾の胸の鼓動はもうこれ以上ないというほどに早まっていて、少しでも身体に触れられたらバレてしまうのでないかと思えるほどだった。

「笹野は…」

「な、なに?」

 緊張しているのか警戒しているのか、亜衣子の声もどこか上ずっている気がするのは果たして気のせいだろうか。

「してんじゃん」

「え?」

「何だかんだ言って弟の世話まめにしてて、立派に『お姉ちゃん』してんじゃん。まあさすがの俺も、いきなり真っ赤なパンツ見せつけられるとは思わなかったけどな」

 この間のことを思い出して、くっくっと笑いながら告げると、亜衣子の顔が一気に紅潮して、両手でそれを隠すように覆う。

「いやーっ アレはもう忘れて────っ!!

 その様子がとても可愛らしくて、ついつい続けてしまう。

「笹野って、高校時代男どもに結構人気あったんだぜ? それが…くくっ あんな姿見たの、俺くらいのもんじゃないかな」

 そう言ってやると、亜衣子は慌てたように顔の前で手をパタパタと交差させて。

「あ、あたしなんてモテないわよー。高坂くんのほうこそモテてたんじゃない? 高校時代、『また告られたらしい』って女子の間でちょくちょく噂になってたわよ?」

 と告げた。告白されたことなど他人に話したりしたことのない慎吾は、その言葉に思いっきりギョッとする。相手に失礼ということもあったし、何より亜衣子に知られたくなかったからだ。

「げっ マジかよ、すげーな、女子」

「女子の情報網をナメたら怖いわよー? うっかりもらした一言からだって、すーぐ全部バレちゃうんだから」

 それは知らなかった。亜衣子はそういうタイプでないことは知っているが、女子の情報収集能力を正直甘く見ていた慎吾は、背筋を冷たいものが伝っていく感覚をいまさらながらに味わっていた。

「あたしだって、当時どんなに苦労したか……」

 そこまで言ってから、亜衣子は「しまった」と言わんばかりの顔を一瞬見せて。それから、それ以上何も言わないようにかみずからの唇を指で押さえた。

「……なに? 笹野にも好きな相手とかいたのか?」

 知っていたけれど、あえていま知ったかのような顔ですっとぼけて訊いてみる。亜衣子の顔が、見る見るうちに真っ赤に染まっていくのを、複雑な想いで眺めながら。

「告白したりつきあったりしてたら、いくら何でも男子の間でも噂になったはずだよな。それくらいは、お前人気あったんだぞ?」

「そ、そんなことしてないもの……いまも」

 ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの小さな声で、亜衣子はささやいた。その言葉をしっかりと聞きとめた慎吾は、みずからの顔がゆるんでいくのを止めることができなかった…………。

 誰よりも愛しい彼女と歩く夜道。どこまでも続くといいと思っていたのは、亜衣子も同じであったことを、慎吾は知らない

 彼女には、現在も決まった相手はいないということを聞いて、ほとんど無意識ににやけそうになるのを懸命に堪えて、なるべく平常の顔と態度を心がける。


「そういう高坂くんのほうはどうなの?」

「え?」

「大学のほうで彼女とか、できたの?」

 誰でもない彼女にそう訊かれた時には、痛みを感じる心のままに危うく顔に出しそうになってしまったけれど、何とか食い止めて淡々と答える。

「勉強とバイトで忙しくて、そんな暇なんかないよ。いままでも、多分これからも」

 いま隣にいる彼女でなければ、他のどんな女性であっても心を動かされることはないだろう。そんないい加減な気持ちでつきあったりしたら、相手にも失礼だし、何より自分の気持ちに嘘をつくことになってしまう。それだけはしたくなかったから。彼女に逢えなくなってからも、時折される告白を慎吾は断り続けていた。

 そんな他愛のない話をしている間に、あっという間に見覚えのある駅前に着いてしまって。彼女と別れる時間が刻一刻と近づいていることを、慎吾は悟った。だから。

「じゃあ、またね」

 彼女のほうから、何気ない様子で告げてきた言葉に内心でひどく驚いて、それでも決して顔には出さず、ほとんど無意識に答えていた。

「ああ、また」

 笑顔で手を振って改札へと向かっていく彼女を見送りながら、慎吾は喜びに満ち溢れていくみずからの心を止められなかった。

 また逢えると思っていて……ほんとうにいいのか? こんな強引なことして送ってくるような俺なのに、彼女に友達としてでも好かれていると思って…いいのか? ただの元クラスメートなのに、弟の先輩だからって親しくしてくれているんじゃなくて……俺自身に好意を持ってくれていると。思っていいのか?

 浮かれまくる気持ちのまま、亜衣子が去っていった方向を見つめていた慎吾だったが、電車が発車する音でようやくハッとして、我に返る。実家のある方向に向かっていくあの電車の中に、彼女が乗っているのかと思うと何だか感慨深い。電車が見えなくなってから、ようやくきびすを返す。そういえば、祐真に「買い忘れがある」と言って出てきたことを思い出し、バイト先のコンビニに入ろうかとも思ったが、先刻のこともあるしよけいなことを言われそうな気がしたので適当な自販機でペットボトルを買って、祐真の部屋に戻った。

「あれ? 先輩、買い忘れってそれっスか? そんなん、駅前まで行かなくてもその辺で売ってるのに。知ってるっしょ?」

 にやにやにや。亜衣子とよく似た顔でそんな表情を浮かべられると、何となく居心地が悪い。

「その辺のヤツと駅前のヤツは微妙に味が違うんだよ」

 自分でもかなり苦しい言い訳だと思うが、祐真はそれ以上追及してこなかった。

「まあいいや。メシあっため直したから、食っちまいましょうや。久しぶりのおふくろの味〜♪」

「悪いな、腹減ってるって言ってたのに待たせて」

「いやいいっスよ、姉ちゃんを送ってくれた結果だし。おかげで安心して帰せたし、助かったっスよ」

 祐真の中では、自分の姉に対して慎吾が送り狼になるという危惧はなかったのだろうか。それだけ信頼されているのならいいが、単にそんな度胸はないと思われているとしたら、何だか嫌だなとちょっと思う。さすがに本人に確認はできないが。

「ほい先輩、味噌汁」

「あ、ああ、サンキュー」

 小さいテーブルに所狭しとおかずを並べて、二人で黙々と食べ始める。

「うん! これだこれ、母ちゃんの肉じゃがっ さすが姉ちゃん、完璧に母ちゃんの味をマスターしてるうっ」

 祐真が絶賛するだけあって、確かに美味い。思い返せば、高校時代の調理実習でも亜衣子は料理の腕も手際も見事だったことを思い出す。それとも、誰でもない彼女が作ったものだから、より美味く感じるのだろうか。

「どっスか、先輩」

「ああ。すごく美味いよ」

「そうじゃなくて。料理上手な彼女or嫁。先輩なら安くしときまっせー」

 またしても浪速商人のようなことを言う祐真に、慎吾は危うく味噌汁を吹きこぼすところだった。

「だーかーらー、そういうことは姉貴の気持ちを訊いてからにしろって言ってるだろうがっ」

「姉貴の気持ちねえ……バレバレな気もするけどなあ」

 などとブツブツと言いながら、祐真は食事を再開する。

 そりゃあ確かに慎吾だって、恋人や嫁にするなら料理は上手な相手に越したことはない。けれどその相手が亜衣子だったなら、そんなことはきっと気にならないだろうなとそっと思う。そんなことはもう関係ないぐらいに、亜衣子への気持ちは育ってしまっているから。いい加減吐き出さないと、あふれてしまいそうなほどに──────。

 夢にまで見ていた亜衣子の手料理を食べたからか、慎吾はその晩、懐かしい────と感じるにはまだ少々早い気もするが ────高校時代の夢を見ていた。夢の中の慎吾は、高校最後の年を懸命に剣道に打ち込んで過ごしていて。朝練の合間に水を飲みに道場を出たところで、困ったような表情を浮かべながら道場の周りをうろついている亜衣子の姿を見つけて声をかけた。

『笹野? どうしたんだ?』

 慎吾の姿を認め、一瞬ホッとしたような表情を浮かべた亜衣子が、彼女が食べるとはとても思えないような大きな弁当包みを出してきたので、驚いてしまった。聞けば弟の忘れ物だという。その頃はまだ祐真とそれほど親しくなかったけれど、亜衣子が困っているのを放っておけなくて、届けるのを自分から引き受けた。それからも、顔はよく似ているのに亜衣子と違って結構抜けている祐真がまた忘れているのではないかと気になって、最初に亜衣子と偶然会った時間帯に、水を飲むのを口実にできるだけ練習を抜けて、亜衣子がまた困っていないか確認するのが日課のひとつになった。もちろんそう毎日決まった時間帯に抜けられるはずもなく、また、抜けられたとしても祐真が弁当を忘れない日もある訳で、そううまいこと亜衣子と逢えるはずもなく。歯がゆい思いを何度したことか思い出せない。

 そして、一、二ヶ月に一度回ってくる至福の日────亜衣子と組んで行う日直の日のことだ────には、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまって、自分でも苦笑いしたことを覚えている。亜衣子は体力こそ足りないものの、その他の細やかな気配りは完璧で、慎吾がうっかり忘れたことへのフォローも抜かりがなく、どれだけ助けられたか知れない。ただ、黒板の板書を消している時に届かないところを慎吾に頼むこともせず、手近な椅子に目をやっているのを見た時は、さすがに慎吾も声をかけてほしいと思いつつ無言でフォローに回ったが。何の気なしに彼女の背後から消しにかかってから、気がついてしまった。このまま普通に消していたら、彼女の身体に密着してしまうことに。だから、ちょっと辛かったけれど、何とか触れるか触れないかのギリギリの位置でみずからの身体を止めて、板書を消し続けた。下のほうを消していた彼女の動きが止まってしまったことに気付いて、彼女も少しは自分を意識してくれているのかなと嬉しく思ったことを覚えている。互いの息遣いすら聞こえてしまいそうな至近距離で、そのあまりに細い肩を見た慎吾は、気を抜けばいますぐにでも抱き締めてしまいそうになる自分の身体を制止するのに精いっぱいで、そんな邪まな思いを気取られたらどうしようと、もう気が気ではなかった。そして、 全身全霊の力を振り絞って、平静そのものの声をひねり出して、「高いところは無理をせずに自分にまかせろ」とだけ告げた。自分の顔はきっともう真っ赤になっているだろうと思ったけれど、窓から差し込んできた夕陽に助けられて、自分も、そして彼女も、すべてが真っ赤に染まっていったから、何も気づかれなくて済んだだろうけど。あんなに接近しても、ここまで動揺するのは自分だけかとも思って、淋しく感じたのもまた事実だけれど……。

 そういえば、こんなこともあった。彼女の部活は合唱部という文化部そのものの部だったけれど、「歌うには、体力も必要だ」という顧問の持論の元────これは自分の部活仲間の渡部の彼女からのまた聞きだったけれど────体操服に着替えてたまにランニングしていることがあった。どうやら亜衣子は運動全般が苦手らしく────これは祐真から聞いた話だ────お世辞にも速いとは言えない速度で、けれど一生懸命に走っている姿が あまりにも健気で応援したくなった。けれど表だって声援など送る勇気もなかったし、皆の前でそんなことをしたら彼女自身も恥ずかしいだろうと思って、自分のランニングの途中で彼女を抜かしていく瞬間に、他人には聞こえないくらいの小さな声で「頑張れ」とささやくことしかできなくて。もしかしたら聞こえていないかも知れなかったけれど、懸命に頑張る彼女の姿を見たら言わずにはいられなかった。気味悪がられていなければいいと思いながら──────。





    





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2012.12.21改訂版up

人間、ほんとうに自分のことしか見えていない生き物なようです。
せっかくのふたりきりだったのに(昔もいまも)、
お互い何をやっているのでしょう…。


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