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 その後は、街中の適当な店に入って商品を見て回ったり買い物をしたりして、のんびりと過ごした。いつでもどこでも高坂は紳士的で、亜衣子が人混みの中で不快な思いをしないようにエスコートしてくれたり、更に疲労の限界を越える前に休憩を間に挟んでくれたりと何かと気を遣ってくれて、亜衣子は嬉しく思うと同時に少々申し訳なく思ってしまった。根っからの体育会系でがっしりとした体躯の高坂と違い、もともとスポーツはあまり得意でなく文化系で、体型も平均的な女子のそれの亜衣子は、もしかしたら高坂の足手まといになっているのかも知れないと思ってしまったからだ。

 けれど、高坂とつきあい始める前の亜衣子だったら自己嫌悪に陥ってしまったであろうそんな状況でも、いまの亜衣子は少し違っていた。不得意なことがあるなら、その分自分の得意な分野で高坂の力になろうと……少しでも喜んでもらえることをしようと、前向きに考えることができるようになったのは、間違いなく高坂が自信と勇気を与えてくれたからだ。

 そうして、思い出す。あと一週間ほどで、高坂の誕生日だということを。そして、靴屋に入った際に、亜衣子が別の棚の商品を見に行っていた折に、高坂があるメーカーのスニーカーを熱心に見ていたことを。普通の市販品よりは高価格のものではあったけれど、以前ならいざ知らず、いまの亜衣子にもアルバイトで得た収入がある。高坂は誕生日に関しては催促のように思われることを嫌がってか、何も言おうともしなかったが、それを見越した祐真から情報を得てもいた。あとわからないのは高坂の足のサイズだが、これも祐真に訊けばすぐにわかることだ。そしていま、亜衣子の手の中には高坂から受け取った彼の部屋の鍵もある。自宅の鍵や祐真の部屋の鍵とは別のキーホルダーにつけて、普段は他のものとは違う、特別な場所にしまっている。ならば、やることはひとつしかあるまいと思い、亜衣子は愛読書の何冊かを手に取って、真剣に計画を練り始めた。

 そして高坂の誕生日当日、八月二十日の昼下がり。亜衣子は他の予定を何も入れず、一晩分の泊まりの荷物の中に事前に買っておいた包みを入れ、それとは別に用意しておいた物を入れた紙袋を持って、キッチンで昼食の後片付けに勤しんでいた母親に声をかけた。

「じゃあお母さん、私今夜は祐真のところに泊まるから、お夕飯はいらないから。お父さんにもよろしく言っておいてね」

 すると母は、人の悪い笑みを浮かべて振り返る。

「やあね、お姉ちゃんたら。いまさら祐真を口実に使わなくても、わかってるから大丈夫よ。あ、お父さんにもうまく言っておくから、安心してね♪」

 いまだ高坂には会わせてはいないが、まるで高坂のところに泊まると思い込んでいるような母に、亜衣子は慌ててしまう。いまだ普通のキスすらまともにしていないのに、いきなりそんな一足飛びにいけるはずもないだろうと叫びたいのを懸命に堪えて、「違うから」とだけ答える。

「泊まるのは、ホントに祐真のとこだしっ 慎吾さんとは、一緒にお夕飯を食べるだけだから。祐真とだってちゃんと約束してるし、何だったら夜遅く祐真の携帯に電話をかけてくれれば、いつでも私も代わるからっっ」

 それはほんとうなので一気にまくしたてると、母親は目に見えて不満そうな顔を見せて、拗ねたような口調でブーイングを飛ばしてきたので、亜衣子の肩ががくりと落ちる。ほんとうにこの人は、年頃の娘を持つ母親なのだろうか……。

「えー、つまんなーい。せっかくの彼氏のお誕生日なんでしょー? なら、自分にリボンをかけて『プレゼントはわ・た・し♪』っていうのがお約束なんじゃないのー?」

 その年齢で、いったいどこでそんな知識を仕入れてくるのだろう。亜衣子は真剣に頭痛を覚えてしまう。

「あのね、漫画や小説じゃあるまいし、現実にそんなことする人は普通はそうそういないから。お願いだから、もう少し冷静に考えてね?」

 感情を抑えた声で、それだけ言うのが精いっぱいだった。

「やーねー、お姉ちゃんてば、ホントに中身はお父さんそっくりー。お父さんも若い頃からいつもそんな感じでね、ノリがよくなかったのよねー」

「なのに、よくそんな相手と結婚したわね」

「だあーって、そういう時の真面目な顔と声が素敵だったんだものー♪」

「はいはい、それじゃあ行ってきます」

 話を途中で遮られて母親は不満そうだったが、両親のなれそめくらいならともかく、のろけ話をいつまでも聞いていられるほど亜衣子も暇ではなかったので。 改めてでかける挨拶をしてから、荷物を持って家を出る。だいたい今日は、一度祐真の部屋に寄って泊まりの荷物を置いてきてから、高坂の部屋にも多少の荷物を置いて買い物に行って、その後再び高坂の部屋に戻らなければならないのだ。やることはたくさんあるし、時間はいくらあってもいいぐらいだった。

 最寄駅から電車に乗って、予定通り行動を進める。暑いし、祐真の部屋から直接買い物に行きたいところだが、冷蔵庫に入れておきたいものもあるのでそうもいかない。なるべく急いでひとつずつ用事を済ませ、最後に高坂の部屋に戻った時は汗だくだったけれど、少し休憩しただけで次の行動を開始する。

 今日は、高坂は七時までバイトだと言っていた。その後、「ちょっと時間をもらえないか」と事前に約束をとりつけておいたから、食事も寄り道もしないでアパートに帰ってくることはわかっていたので、それまでに準備を全部整えなければいけない。レパートリーの中からピックアップしておいた、自信があってなおかつ夏向きの料理をいくつか作っておく。それが済んだなら、今度は前日のうちに焼いておいたスポンジケーキに、買ってきた生クリームや果物でデコレーションを施す。さすがに男性の一人暮らしではオーブンはないかも知れないし、当日焼くのでは時間も足りなくなりそうだと思ったので、スポンジケーキだけは事前に用意しておいたのだ。高坂は甘いものは苦手ではないが、そんなに食べないと言っていたので、甘さを控えめにすることも忘れない。

 そうこうしているうちに時間はどんどん過ぎて、何とかすべての用意が整ったのは、高坂が帰る数十分前のことだった。

 よかった……何とか間に合って。これで慎吾さんが帰るまでに終わってなかったら、私バカみたいだもの。

 ようやく腰を下ろして涼みながら休憩していたところで、外から玄関の鍵を開ける音が聞こえてきた。慌てて立ち上がり、あらかじめ手元に用意しておいたクラッカーを手に、玄関に向かう。

「ただいま。亜衣子、来てるのか?」

 どことなく浮かれた感じのする声と共にドアが開いたのと同時に、天井に向かって持っていたクラッカーの紐を思いきり引く。突然鳴り響いた音に驚いたらしい高坂が、これ以上ないというぐらいに目を見開いてこちらを見たので、いたずらっぽい笑顔を浮かべて事前に考えていた言葉を発する。

Happy Birthday!! お仕事お疲れさま、お帰りなさい!」

「…………やってくれるじゃないか…このーっ」

 玄関先で靴も脱がないままで亜衣子の首に腕を回してきたので────もちろん冗談めかした口調で、十分手加減をした力でだ────亜衣子も楽しくなってきて「きゃー♪」と浮かれた声を上げてしまう。

「でもサプライズはこれだけじゃないのよー。さ、早く入って入って」

 事前にビニールシートを敷いておいたのをどかせながら────後で掃除が面倒にならないための配慮も忘れない────高坂を中に招き入れて、テーブルの上に所狭しと並んだ料理を披露してみせる。

「これ……?」

「勝手にお台所使っちゃってごめんなさい。お口に合うかわからないけど、いろいろ作ってみたの」

「どこまで…………」

「え?」

 真っ赤な顔をして視線をそらした高坂の顔を見上げたとたん、突然その腕の中に抱きすくめられてしまったので、心底驚いてしまう。

「もう、どこまで俺を喜ばせたら気が済むんだよ、お前って奴はーっ!!

 喜んでもらえたのなら、ほんとうによかった。苦しいくらいに抱き締められながら、高坂の背中に両手を回して、その筋肉がほどよくついた胸に頬ずりをする。幸せなのは自分のほうだと、亜衣子は思った。ひとしきり抱き合って高坂が腕をゆるめたのを機に、亜衣子は微笑みながら促す。

「とにかく、うがいと手洗いをしてきて。そしたらすぐ食べましょ、お腹すいたでしょ。私その間に食べる準備しちゃうから」

「あ、うん。ありがたく、ご馳走になるよ」

 まさかこんなに喜んでもらえるなんて、思ってもみなかった。大変だったけれど、やってよかったとつくづく思う。母親の言うような大胆さなんて、やはり自分たちには必要ない。以前高坂が言ったように、自分たちは自分たちのペースで進めばいいのだ。

 一日働いてきて、空腹だったせいもあるだろうに、高坂はやたら「美味い!」と連発してくれるので、何だか亜衣子のほうが恥ずかしくなってしまう。そんなに、誇れるほどの腕でもないのにと、自分では思っているからだ。食事と後片付けを済ませた後に、冷蔵庫からケーキを出したら、高坂は更に驚いたようだった。まさか、こんなものまで用意しているとは思わなかったのだろう。

「一応甘さは控えめにしたけど、無理に食べなくてもいいのよ? 甘いものがそう得意でないこともわかってるし」

「って、それも手作り!? どこまで器用なんだよ、すげーなあ……」

 そんなにすごいことなのだろうか? もともと料理上手な母に育てられた亜衣子には、よくわからない。

 それはともかく、適当な大きさに切り分けてふたりでケーキを味わうが、高坂は意外にも亜衣子の予想を上回る量を食べてくれたので、驚いてしまった。甘いものはそんなに好きなほうでないと言っていたのに…。

「大丈夫なの? そんなに食べて」

「亜衣子の作った物なら何でも大丈夫だよ」

 そう臆面もなく言われると、照れてしまう。それをごまかすように、部屋の隅に置いておいた包みを手に取って、そっと高坂の隣に腰を下ろしてから手渡した。問うようにこちらを見る彼に、「プレゼント。開けてみて」と告げると、丁寧に包装紙を開けて中を見た高坂の顔が驚きと歓喜に彩られた。よかった。やはりあれで、間違いではなかったようだ。

「なん…で」

「こないだすごく熱心に見てたから」

 そう言って笑うと、高坂が「ありがとう」と言って笑顔を返してくれて……そうして、何ごとか考え込むように黙り込んでしまった。どうしたのかと思って顔をのぞき込むと、高坂は意を決したように口を開いた。

「あ、あのさ……ここまでしてもらってすごい図々しいと思うんだけど…………自分でも贅沢だと思うけど、実はもうひとつだけ、亜衣子からもらいたいものがあるんだ」

 思ってもみなかった言葉に、亜衣子は思わず目を丸くする。高坂がそんなことを言うなんて、意外という他なかったからだ。けれど決して嫌ではなく、それだけ高坂が亜衣子に気を許してくれている証拠だと思えて、嬉しくて仕方なかった。

「構わないわよ。私にできることだったら、何でも」

「亜衣子じゃなきゃ、かなえられないことなんだ」

 そう言うが早いか手首を突然掴まれて、驚いて声すら出せないうちに引き寄せられて、肩を両手で優しくとらえられて……高坂の真意を問いかけるより早く、ゆっくりとその顔が近付いてくる。

「あの……」

「黙って」

 その声に思わず黙り込んでしまった瞬間、すぐそばで「目を瞑って……」とささやかれて、どことなく甘ささえ含んでいるような低いその声に抗い難い力を感じてほとんど無意識に目を瞑って……。そうして、ほどなくして唇に感じるやわらかな温もり。実際には数秒足らずだったのかも知れないけれど、亜衣子にとっ ては永遠にも感じるほど長い時間で─────いつ高坂の唇が離れたのかさえ、わからなかった。目を開けると、すぐ近くに高坂の顔があって、いましがたの出来事が脳裏によみがえって、顔が瞬間湯沸かし器のごとく熱くなる。

「ヘタレな俺の初めてだから、ある意味レアかもよ?」

 気恥ずかしそうに笑いながらそう告げる高坂に、一瞬何が何だかわからなくなって、

「わ、私のほうがレアだものっ 生きた化石ゲットとか言われちゃうぐらいかもよっっ」

 自分でも意味のわからないことを口走ってしまう。次の瞬間、高坂がほんとうに嬉しそうに笑い出したので、ますます訳がわからなくなってパニックに陥ってしまう。そのまま、ぎゅ…っと強く抱き締められて。

「もしかしてと思ってたけど、やっぱ俺が亜衣子の初めてをもらえたんだ……俺いますっげー嬉しい」

「……私、も、慎吾さんの初めてになれて嬉しい…………」

 そうして顔を見合わせて、互いにくすりと笑う。

 未来のことなんて、まだ何もわからないけれど。このひとと一緒にいられるのなら、たとえどんなことがあっても乗り越えられると、亜衣子は思った。他の誰でもないこのひとがそばにいてくれるなら。このひとが、ずっとそばで見守ってくれるなら…………。だから。




──────名前を呼んでほしい。誰でもない、貴方の声で。貴方が誰でもない自分の名を呼んでくれるなら、自分はきっと、どこまでも強くなれるから。貴方のその声が、自分に勇気を与えてくれるから………………。





    




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2012.12.21改訂版up

ついに、亜衣子編最終話です。
まだ残っていらっしゃるであろう疑問等は、次の高坂編をお読みいただけると解けるかと思います。
という訳で、次回からは高坂視点のお話が始まります。


背景素材「tricot」さま