人生で初めてのデートは、映画になった。先日話題に出たかつての想い出のせいもあるが、元はテレビ番組だったドラマが最近映画化していて、偶然ふたりともそのドラマを見ていたという理由からだった。その電話を切った後は、亜衣子は着る服や髪形を決めるのに大変だったけれど。結局最後には、誰とでかけるかは言わないままで、ただ「映画に行くんだけど」と前置いて母親に相談したのだが、その時の母の楽しそうな顔といったらなかった。

 誰と行くとも明言していないのに、「早くうちに連れていらっしゃいな〜♪」とうまくかわす隙も与えてくれないほどに連発され、しまいには「どういうきっかけで知り合ったの〜、どういう流れでつきあうことになったの〜」などと怒涛の質問攻撃に移行したので、亜衣子は逃げ切るのに非常に苦労を強いられてしまった。いまからこれでは、いざ家に高坂を連れてきたらいったいどんな騒ぎになるのやら。祐真の中身は間違いなく母親似だと、 一片の疑いもなく確信してしまった。

 そして不幸中の幸いだったのは、まだ父親が仕事から帰っていなかったことだろうと思う。もしも父の耳に入っていたら、母の比ではない勢いで、亜衣子がちゃんと説明するまで解放してもらえなかっただろうと、安易に予想ができてしまうから。そりゃあいつかはきちんと両親に紹介はしたいが、いまはまだ、ふたりだけでのんびりと過ごしていたいのだ。いままでできなかった分、いっぱい話をして……まだほとんど知らないお互いのことを知っていきたいと思っているから。


 そして当日、高坂の前では着たことのなかった今年買ったばかりのワンピースを着て、いつもと違う感じに髪を上げて待ち合わせ場所で待っていた亜衣子は、約束の時間数分前にやってきた高坂に気付いて笑顔で手を上げた。が、高坂が一瞬驚いたような表情を見せたので戸惑ってしまう。今日の自分は、どこかおかしかっただろうか? 不安を隠しきれない顔で、思わず自分の全身を確認してしまった亜衣子の前で、高坂は「あ、違う違う」と言いながら両手を顔の前で振ってみせた。

「いや…何か今日は、いつもより一段と綺麗に見えたから…………」

 予想外の言葉に、亜衣子の顔がかーっと赤くなる。高坂とつきあい始めて以来、高坂はこういうこちらが恥ずかしくなってしまうことをさらりと口にするようになった。電話ではわからないけれど、直接言われる時はたいてい高坂も顔を赤くしているので、本人も恥ずかしいのを堪えながら口にしているのだろう。

「あ…ありがとう……」

 羞恥のためにどうしても小さな声になってしまうけれど、亜衣子もできる限りそんな高坂の気持ちに応えたいと思い、なるべく言うべきことは言うようにしている。

「じゃ、行こうか」

「うん」

 連れ立って歩き出した街中は、学生が夏休みのせいか人が多く、亜衣子は高坂とはぐれないようにするのが精いっぱいだった。そんな亜衣子に気付いて、高坂が「気が利かなくてごめん」と言いながら差し出してくれる手に、躊躇わずにみずからの手を重ねて素直に「ありがとう」と答える。少し前だったら、きっとできなかったことだ。ほんの少しの勇気を出すだけで、高坂が嬉しそうにしてくれるのが、亜衣子にも嬉しくて。だから、少しずつでもいいから頑張ろうと思った。守られるばかりじゃなく、いつかは自分が高坂を護れるように────もちろん身体面では無理に決まっているから、主に精神面についてだけれど────強くなりたいと、思ったのだ。

 映画館も混んではいたものの、それを見越して事前にインターネットでチケットを予約していたので、スムーズに入ることができた。最近は便利になったものだなと高坂が呟くのを聞きながら、予約してあった席にふたり並んで腰かける。肘かけに付いているホルダーに飲み物を入れて、膝の上にバッグを置くと同時に高坂が自分の膝の上に乗せたポップコーンを亜衣子寄りに置いて、「好きに食べていいから」と言ってくれたので、笑顔で礼を告げる。やはり映画にはこの手のものはつきものだろう。

 やがて館内が暗くなり、予告編と映画が始まる。


 映画は前評判の通り、すさまじいアクションと二転三転するストーリー展開の連続で、目を離す暇もなくて隣の高坂の横顔をそっとのぞき見ようと思っていた亜衣子のささやかな目論見は見事に外れてしまったが、それでも内容は満足のいくもので。エンディングを最後まできっちり観てから映画館を出た時には、亜衣子も珍しく興奮しきってしまっていた。

「結構亜衣子もエキサイトしてたな。顔を見る暇がなくて気配で感じるしかなかったけど、両手を握り締めまくってただろ」

 気付かれていないと思っていたのに。さすがに武道の経験者といったところだろうか。亜衣子の頬が思わず紅潮する。

「だって、すごかったんだものーっ 慎吾さんだって、時々息をのんでたりしてたじゃないーっっ」

 そう反撃したとたん、高坂が「バレたか」と小さくささやきながら、ぺろりと舌を出した。その様子があまりに可愛らしくて、いまさらながらに惚れ直してしまう。それも、つきあい始めてから見せるようになった仕草だった。

 映画の後は、少し遅めの昼食を摂るために近くの適当な店に入り、お互いに好きなものを注文してから先に来ていたお冷やを飲んで、ほうと一息。

「そういえばさー…」

 窓から見える風景を眺めながら、高坂が切り出してきた。

「なあに?」

「ここって前にみゆきさんと会ったとこから近いから思い出しちまったんだけど」

 そう言われてみると、そうだった。会ったのはあの一回きりだったから────その前に高坂のバイト先のコンビニ前で顔を合わせた時は、お互い遠目だったし会ったとはいえないだろう────彼女については甥である高坂に聞いた以上のことはあまり知らないが。

「あの後っていうか最近? みゆきさんがあの時知った俺の気持ちとその後の様子から、俺は何も言ってないのにこうなったことに気付いて、親父やおふくろに俺のいないところで勝手にバラしちまったらしいんだよな」

「え」

「その上、こないだ亜衣子から…してくれた後、俺がついニヤけちまってたの兄貴に見られてたもんだから、そこからも親が確信を持っちまったらしくて。『一度家に連れてこい』ってもうすごいんだよなー……」

 自分から…というと、やはりこの間のアレ、のことだろうか。あの時は、亜衣子も死ぬほど恥ずかしかったけれど、高坂が…ついニヤけていた? あまりにも意外なことを言われて驚いてしまって、どんな表情なのか想像すらできない。ああいや、いま考えるところはそこではなくて……。

「ご、ご両親が…?」

 息子とつきあってる相手に親が会いたがるってことは……大事な息子が変な女にたぶらかされていないか見極めたいとか、そういうこと!? やだうそ、どうしようっっ

 内心の不安が表情に表れてしまったのか、高坂が慌てて手を振りながら否定をする。

「違うからっ 多分、考えてることと違うからっ」

 そこに注文した料理がやってきたので、ふたりはいったん話を打ち切った。

「そういうネガティブなことじゃなくて、昔っから女の子と普通に仲良くしてた兄貴と違って、ろくに女友達もいなかった次男が彼女を作ったってんで、祝いというか大歓迎したいらしいんだ。みゆきさんが『控えめで和風な女の子』ってバラしちまったから、とくにおふくろが…ずっとムサい息子どもに囲まれてたから大喜びしちまって。ぜひとも連れてこいってもううるさくて……嫌なら全然構わないんだけど、よかったらでいいから、一度うちに遊びに……」

「行きたい」

 間髪入れずにそう答えたとたん、高坂が手に取ろうとしていたフォークを取り落としかけた。

「……え?」

「反対されるとかそういうのじゃないなら、慎吾さんのご家族に……慎吾さんを育ててくれた人たちに、一度お会いしてみたい。も、もちろん慎吾さんがそういう重いのは嫌だって思うなら、やめとくけど……」

 「いきなりそういうことを言われると、男は『重い』と感じる」と以前読んだ雑誌に書いてあったことを、いまさらながらに思い出したのだ。他の誰でもない高坂にそう思われるのはとても怖かったので、語尾は消え入りそうなほどに小さくなっていってしまったけれど……。少し俯き気味になりながらフォークを手に取った亜衣子は、次の瞬間、予想もつかなかった言葉を耳にすることとなった。

「そういう風に……思ってくれるんだ。俺、絶対どん引きされると思ってたのに」

「え」

「俺のほうから亜衣子のことを自慢したいって正直に言ったら、謙虚な亜衣子のことだから絶対引かれると思ってたから、親のこと隠れ蓑にしてたようなもんなのに」

 気恥ずかしそうに告げる高坂に、亜衣子は信じられなくて思わずその顔を見返してしまう。それがよけいに恥ずかしかったのか、高坂はますます顔を赤くして、口元を手でおおいながら視線をそらしてしまったけれど。

「そ…そんなこと思わないわ。でもあたしなんて、自慢できるところなんか全然ない、のに……」

 そう言った次の瞬間、かなり手加減したらしいデコピンが亜衣子の額に飛んだ。

「こら。自分のことをそういう風に言うな。そのままの亜衣子だからこそ、俺は好きになったんだからな」

 本気で言っているらしく、真剣な瞳でまっすぐ自分の瞳を見つめながら告げる高坂に、亜衣子の胸の奥が熱くなる。このひとは…ほんとうに、自分のことを好いてくれているのだと悟った瞬間、たったいま自分で言った言葉がとたんに恥ずかしくなってくる。

「─────ごめんなさい」

 素直に謝ると、高坂はすぐに強い光の宿っていた瞳を和らげて、優しい微笑みを見せてくれた。

「わかってくれたらそれでいいんだ。さ、冷めないうちに食べようぜ」

 そう言って普段通りの態度に戻ってくれたので、亜衣子の心もようやく緊張感から解放されて、身体が普通に動くようになってくれた。そしてそのまま、料理に舌鼓を打つ。

「あ、そういえば」

 亜衣子もふと思い出したことがあったので、食事の手を休めて高坂を見やる。口の中で食べ物を咀嚼していた高坂が不思議そうな顔でこちらを見たので、続きを口にする。

「うちの母も、慎吾さんを連れてこいってうるさいの。祐真が高校時代から慕ってる先輩ってことも知ってるものだから、よけいに会ってみたいらしいのね」

 次の瞬間、高坂がむせたのか派手に咳き込んでしまったので、亜衣子は思いきり驚いてしまった。

「慎吾さん、大丈夫!?

 「大丈夫だ」とでも言いたいのか、片手を上げて軽く振るが、とても大丈夫なようには見えない。しばし苦しんだ後、まだ真っ赤な顔をしているもののお冷やを飲んで落ち着いたらしい高坂を見て、亜衣子も胸を撫で下ろす。

「よかった……」

「…驚かせてごめん。まさか、こっちまでそんなこと言われるとは思ってなくて。亜衣子にはえらそうに言っておいて、いざ自分が言われたらこれなんて、みっともないよな。お母さんのほうはともかく、親父さんに会うのにビビってるなんて」

 幻滅したろ、と情けなさそうに笑う高坂に、亜衣子はゆっくりとかぶりを振った。

「ううん。私だって、慎吾さんのお父さまよりお母さまに会うことのほうが怖かったもの。そういうんじゃないって言ってもらえたから安心できたけど。あ、でも。私のほうも、母に直接話した訳じゃないのよ? 例の晩に、『名前で呼んで』云々のやりとりを聞かれちゃってたみたいで。高校時代に祐真が家で『慎吾先輩がどうした』とかさんざん話してたから、母もピンときちゃったみたい」

 だから、父はまだ何も知らないから、安心して?

 そう続けた亜衣子に、高坂はゆっくりと深呼吸をしてから、真剣な瞳で見返してきたので、どきりとしてしまう。

「少しずつ…だけど。近いうちに必ず、きちんと挨拶に行く覚悟を決めるから、それまで待っててくれ。俺、こんな見かけ倒しだけど、亜衣子のことだけはちゃんと責任を全うするつもりだから」

 それの意味することはひとつしかない気がして、亜衣子の顔がますます熱くなって、俯いてしまう。

「う、うん…………」

 と、ふたりは自分たちのことで精いっぱいだったから。周囲の他の客や店員たちが、微笑ましいものを見る目で自分たちを見守っていたことに、気付くよしもなかった。まあふたりの性格からして、気付かぬほうがよかったともいえるが。

「あ、そうだ。これ、渡そうと思ってたんだ」

 食事を終えて食休みも十分とって、そろそろ出ようかという頃になって、高坂がジーンズのポケットから何か小さな物を取り出してきた。テーブルの上に置かれたそれを見ると、どこかの鍵のようだけれど、どこの鍵なのかまではわからない。

「これ…?」

 真剣にわからなくて首を傾げた亜衣子の前で、高坂がぽり…とみずからの頬をかいた。

「それ…俺の部屋の合鍵。亜衣子なら、いつでも入って構わないから」

 それを聞いた瞬間、亜衣子の脳裏に祐真の顔がよぎった。高坂と高校時代から親しかった祐真でさえ、互いの部屋の鍵は持ち合ってはいないと言っていた。なのに、亜衣子にはこんなに簡単に渡してくれるのか。その気持ちが嬉しくもあり、面映ゆくもあり……。

「い…いいの……? 祐真だって持ってないって言ってたのに」

「祐真は祐真、亜衣子は亜衣子だろ。亜衣子だからこそ、持っていてほしいんだ」

 そこまで言ってから、高坂はハッとしたように慌てて言を継いだ。

「あっ 言っとくけど、祐真みたいに洗濯とか掃除とかさせるつもりはないからなっ 俺はあいつよりはよっぽどちゃんと自分でやってるしっ」

 そのあまりの必死さに、可笑しくなってついクスクスと笑ってしまう。そんなこと、疑ってはいないのに……でなくても高坂のものだったら、祐真のそれとは違ってかえってしてあげたいぐらいなのに。

「でも…たまにはさせてほしい、かな」

 素直に内心を吐露すると、高坂の顔がわずかに染まった。

「いやその……服とかならまだしも、他の洗濯物を見せる勇気はまだないというか」

 確かに、血もつながっていてずっと一緒に育ってきた祐真や父のものならまだしも、他人の、それも異性の下着なんてマトモに見られるかどうかもわからない。それでも、高坂のものだったらきっと頑張れると思う。

「慎吾さんのなら…だ、大丈夫だと思う……」

 ふたりの間に、気恥ずかしいような、けれど決してそれだけではない不思議な空気が流れる。そしてやはり周囲の人々が、身体のどこかがむず痒いような、何かに耐えるような素振りで身を震わせていることに、ふたりはまったく気付いていない。

「…………」

 しばしの沈黙を経た後、「そろそろ出ようか」と言いながら高坂が伝票を手に取ったので、亜衣子も頷いた立ち上がる。結局最後まで、周囲の人々の温かく見守るような眼差しに気付かないままで…………。




    



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2012.12.21改訂版up

ついに、ふたりきりの初デート敢行です。
周囲の方々は、さぞかし背中がむず痒かったことでしょう(笑)


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