〔6〕
そこで蘭子は、あふれる涙を拭いもせずに、まっすぐに拓を見つめてきた。拓の胸が大きく高鳴る。 「そのひとは、背が高くて強面で……どう見ても普通の人には見えないのに、中身はとってもシャイで。恋愛映画の悲しいシーンを見ておいおい泣いちゃうような純粋な人で。あたしと完全に真逆で、こんなひと世の中にいるんだ、なんてこっちがびっくりしちゃうようなひとで。そんなひとが、あたしの本性を知った後でも全然動じなくて……それどころか、『惚れ直した』とまで言ってくれたんですよ。あたしがどんなに嬉しかったか、わかります?」 やはり自分のことだったかと納得すると同時に、突然胸に走って突っ込んできた蘭子に、拓は思いきり焦ってしまった。抱きついてきたとか、すがりついてきたとか、そんな可愛いものではない。文字通り、突進してきたのだ。ラグビーのタックルのようなものとでも言えばよいのだろうか。まあそんな唐突な激突でも、拓の頑健な身体はびくともしなかったが。蘭子はその事実に苛ついたのか、何度も拳でたたく、拓の胸を。 「─────なかったことにするつもりなら、いっそ期待なんてさせないでくれたほうがよかった!! 流れと勢いでつい本心でもないこと言っちゃって、引っ込みがつかなくなっちゃったんでしょっ!? ホントはめちゃくちゃ後悔してるんでしょ!?」 普段の蘭子からは想像もつかないような、鋭さの中に深い悲しみを宿した声が、拓の胸を抉る。悩んでいるのは自分だけだと思っていたけれど、蘭子の中にはもっともっと深い傷が存在していて。自分のした行為は、それをさらに抉るような真似でしかなかったことを、拓はいま初めて思い知った。心に傷を抱えているのは、世界で自分ひとりだけでないことなど、とっくの昔に承知していたというのに! 蘭子の拳はとうに動きを止めて、拓の胸の上ですがりつくこともせずに溢れでる涙に濡れ続けている。脈のない相手にすがりつくような惨めな真似だけはしたくないという、蘭子の決意の表れかも知れないと思った瞬間、その誇り高さと潔さに、改めて感服をした。 それと同時に、女性である蘭子がそこまでの心意気を持つ中、男である自分はどうだ?と思う。相手の気持ちも確かめることもなく、自分ひとりの中だけで完結させて……自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先して考えているのだなんて綺麗事を並べて、実際はただ逃げていただけではないのか? その結果、誰よりも愛しく思ったひとを傷つけて泣かせて……自分はいったい、何を気遣っていたというのか! 「……わかってるんです。勝手なことばかり言ってるって、ちゃんと自覚はしてるんです。一度好意を抱いてもらったからって最後までそうあるべきなんて、あたしひとりのわがままで強制できることじゃないってことぐらい…ホントはわかってるんです。だけど、一度期待しちゃったら、どうしても吐きださなきゃ耐えられなくて。自分の心を守るためだけに他人の心を踏みにじってるって、誰でもない自分自身が一番わかってるんです─────だけど、最後に一度だけでいいからあたしの本心を伝えたくて」 聞いているだけで胸が締め付けられそうなほどのせつない声で告げながら、蘭子は俯く。そうして、ゆっくりと涙に濡れた顔を上げて、ひとことだけ…けれどハッキリとした声と口調で言いきった。 「あの時、『可愛い』と思ったと言ったのは嘘じゃありません。こんな大事なことに最後になって気付くなんて自分でも遅過ぎると思いますけど……ほんとうのほんとうに、男性として好きになりかけていたと思います。明日からはまた、ただの一保育士に戻ります。最初で最後の恋をさせてくれて、ほんとうにありがとうございました───────」 言うだけ言って、蘭子の身体がそっと拓から離れようとしたその瞬間、拓の中で何かがはじけた。蘭子の拳が胸から離れるか離れないかのわずかな一瞬の間に、蘭子の細い身体を広い胸の中に力いっぱい────もちろん壊してしまわないように細心の注意を払いつつだ────抱きしめる。万感の想いをこめて。 「!?」 蘭子の身体が、驚きのためか緊張のためか強張るのがわかった。けれど、自分でも自分の行動は止められなくて…………。 「──────ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん」 もう、敬語を使っている余裕などなかった。 「『貴女のため』だなんて思って……俺みたいなのに好かれたら、誰だって迷惑だなんて綺麗事並べて、ずっと逃げてた。ホントは、初めて逢った時からずっと好きだったのに」 拓の腕の中で、蘭子が逃れようとして暴れるが、拓の力にはかなわず、やがて諦めたように肩を落とした。 「同情なんて……一番欲しくないわ!」 「同情なんかじゃないっ!!」 蘭子の大声に負けないほどの叫びが、拓の喉から迸っていた。自分がこんなに声を荒げられるなんて、拓は初めて知った。それとも、蘭子を失いたくないがための激情がそうさせたのか? 驚いたように、ただでさえ大きな目をこれ以上ないほどに見開く蘭子の瞳をまっすぐに見つめて────驚きのためか、涙は既に止まっていた────拓は続ける。 「貴女のことが、好きです。砂糖菓子みたいにふわふわで可愛いところも、見た目と違って中身はめちゃくちゃスパイシーなところも……自分でギャップに悩んでるところも、いまは全部好きです」 「『スパイシー』ってなんですかっ!? そこはせめて、『酸っぱい』ぐらいにしといてくださいよ、仮にもパティシエさんならっ」 「だ、だって、『酸っぱい』ぐらいじゃおさまらないと思いますよ、あの激しさは」 それでも一応スイーツや飲み物などで考えてしまうあたり、律義というか職人というか…。 「なら、折衷案でジンジャーティーというのはどうでしょう?」 「ジンジャーって…生姜ですか。まあそれぐらいならって…そんな話なんてどうでもいいんですっ いま……何て言いました?」 まっすぐに目を見上げられて、改めて訊かれると照れてしまう。 「あー…だから、好き、です…………」 気持ちに揺らぎはないけれど、それでも語尾が小さくなってしまった。しかしそれでも十分だったようで、蘭子の瞳から新たな涙が溢れ出す。 「あっ あっ 泣かないでくださーいっっ」 慌てふためいて腕を緩めてハンカチを差し出すと、蘭子は今度は拒絶しなかった。男物の大きいハンカチに、透明な雫が吸い込まれていくのを見て、拓は思わず綺麗だなあと思ってしまう。 「──────馬鹿みたいですね。あたしたち」 蘭子が微苦笑を浮かべてぽつりと呟く。 「お互いに、相手に受け容れてもらえる訳ないと思い込んで、お互いに一歩退いたままであきらめるつもりだったなんて。ホント、バカみたい」 自嘲を多分に含んだ声だった。 「い、いや俺のほうがより悪いですよ……うっかり口をすべらせちゃったんだから、そこで玉砕覚悟でいっちゃえばよかったのに…勇気がなくて、蘭子さんに誤解を与えて悲しませてしまって」 「それもそうですね」 事実とはいえ、あまりにも歯に衣着せぬものいいに、やっぱりスパイシーな女性だなと声に出さずに呟く。いまとなっては、そんなところももう大好きなのだけど。 「思えば、あの後そのまま押してくれてれば、私ももっと早く自分の気持ちに気付けたかも知れないのに」 「……ごめんなさい」 もう何の申し開きもできなくて、拓はしゅんとなってうなだれてしまう。その直後、ぽすっと胸におさまる存在があって、驚いてそちらを見ると、まだ涙の粒をこぼしている蘭子がその胸にぎゅ…っと抱きついていた。 「ら、蘭子さん?」 「顔は恐いくせに中身は全然ヘタレで、言いたいこともロクに言えなくて、自分に自信なんて全然なくて、外見で誤解されても弁明なんかできなくて……」 確かに事実ではあるのだけど、そうつらつらと並べられるとダメージは半端ない。 「──────だけど、誰よりも優しくて、可愛いんだから」 ぽつりと呟かれた言葉に、思わず耳を疑う。 「悔しいけど、好きだから。だから、許す──────」 恥ずかしいのか拓の胸に顔を埋めて、蘭子がそっとささやいた。拓はもはや何と答えてよいかわからなくて、とっさに頭に浮かんだひとことを口に出した。 「……精進致します…………」 呟きながら、ようやく手に入れることができた愛しい存在を、強く、優しく抱き締める。これまでの人生のうちで、この上ない幸せを噛みしめながら…………。 「……それにしても」 街中を歩きながら、桐野がぽつりと呟く。 「お前ら、強硬手段に出るもんだよな。それはあれか? 女全般がたくましいのか、それともお前らだけが極端にたくましいのか」 「失礼ねー」 瀬川がぶーっと頬をふくらませる。 「だいたい、ああいうことは男の人のほうから言うものじゃない。それを、女のほうから言わせるなんて、恥よ恥!」 「まさかと思うけど、店長の気持ち、あの保育士さん…蘭子先生っつったっけ? にバラしたりしてないよな?」 「冗談。そこまで野暮じゃないわよ。蘭子先生が多少はたらきかければ、いくら店長でも告白するんじゃないかと思ってさ。あのままじゃ、蘭子先生が可哀想だったんだもの。店長ってば、一度はうっかり口をすべらせたのに、自分に自信がないあまりになかったことにする方向に走りかけてたみたいよ。それを、蘭子先生のほうは自分に原因があると思い込んで…悪循環よ」 「それは…店長らしいといえばらしいけど、確かにじれったいよなあ」 さすがに桐野も苦笑を浮かべる。 「そんなの聞いちゃったら……同じ女として、協力してあげたくなるじゃない」 蘭子からすべてを聞いた時に感じたせつない気持ちが、瀬川の胸に再びよみがえる。自分の置かれている状況に多少似ている気がして、他人事とは思えなかったのだ。 「…ひょっとして。お前も辛い恋とかしちゃってるのか?」 ひょいっとのぞき込んできた桐野の顔に驚いて、思わず一歩後ずさる。あまりにも唐突に問いかけられたものだから、普段のポーカーフェイスが作れなくて、とっさに頬が紅潮するのを止められなかった。それを見た桐野は自分の勘が当たったことを確信したのか、嫌みのない笑顔で笑った。 「そうかそうかー…お前もやっぱ年頃の女だったんだな。必要がある時はいつでも言えよー、いくらでも協力するからなー」 年齢がふたつ上だからか、はたまた実際に妹がいるからか、桐野は瀬川を妹扱いしている節がある。それが、瀬川には気に入らないことのひとつだった。 「あんたに協力してもらう必要なんか、ないわよーだっ」 思わず憎まれ口をたたいてしまうと、桐野がぼそっと「うわ可愛くねえ」と呟いた。それをしっかり耳にした瀬川の胸が、ちくりと痛む。 どうせ可愛くないわよ。ホント、男ってヤツは。自分のことには鈍感で、どうしようもないんだから。 誰にも聞こえないほどの声で、瀬川はそっとささやいた…………。 「細かいことはまあ置いといて、付き合うことになりました〜」 日曜日の閉店後。拓と蘭子は、瀬川と桐野、拓の両親と弟一家を集めて、まるで記者会見のごとく発表をした。既に知っていた瀬川と桐野、ついでによくわかっていない樹以外は皆思い思いの驚きようを呈して、当事者であるふたりの居心地を悪くしまくった。 「こ…こんな可愛らしいお嬢さんが拓と…!? お嬢さん、わかってますかな? こいつは見た目と違って、ちょっとデカい虫が出ただけでビビる小心者ですぞ!?」 「お父さん、せっかくお付き合いしてくれるって言ってくださってるのに、よけいなこと言わないのっ 先生、ふつつかな息子ですが、どうぞよろしくお願いしますっっ」 どっちが女だと言いたくなるほどの言われようだ。 「先生、ホントにいいんスか!? うちの兄貴に騙されてませんか!?」 真剣極まりない表情で問いかけるのは、拓の弟の海。次の瞬間、嫁の夏樹のアックスボンバーが海の顔面に決まった。 「失礼なこと言ってんじゃないわよっ お義兄さんはあんたと違って、優しくてシャイなんだからね、普通の女性だったらあんたよりお義兄さんを選ぶに決まってるでしょっ」 「じゃあその論法で行くと、お前は普通の女じゃないということに……」 そこまで言いかけた海は、嫁から立ち昇る激しい殺気に気がついて、とっさに口をつぐんだ。が、時既に遅し。次々と繰り出されるプロレス技の餌食となってしまった。しかも相手は妊婦なので、反撃すらすることができない。 「夏樹ちゃん、お腹の子にさわるかも知れないから、ほどほどにね〜」 毎度のことなので、両親はもう止めることもしない。 「あ?」 何もわかっていない樹が、蘭子が何故いまここにいるのかわからないようで、不思議そうな顔でぴったりと寄り添う。 「樹くん、先生ねー、樹くんの伯父さまと付き合うことになったのー。よろしくねー」 蘭子が抱き上げて笑顔で告げると、樹はわからないままに笑顔を浮かべてきゃっきゃっと笑う。 「保育園でみんなにしゃべっちゃダメだぞー」 拓の冗談に、皆がどっと笑う。 「ついでに言うと、いつかは伯母さまになるかもですものねー。口止めはちゃんとしとかなきゃですよねー」 瀬川が続けると、拓の顔がボンっと真っ赤になった。 「て、何で店長のほうが赤くなるんスか。どこの乙女っスか」 呆れ顔の桐野に、蘭子が答える。 「あ、いいんです。私たちの場合、役割が逆なんで」 そう言って笑う蘭子の表情は何だか頼り甲斐があって、拓はまた惚れ直してしまう。ようやく嫁の連続攻撃から解放された海が、蘭子の手から樹を受け取ると、空いた片手で蘭子が拓の手に指をからめてきた。再び顔を真っ赤にしてしまう拓であったが、蘭子はとても愛おしそうにそれを見つめながら。皆が樹の動向に注目している中、拓にしか聞こえないほどの小さな声で、そっとささやいた。 |
〔終〕
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2013.1.31up
拓&蘭子、ようやくおさまるべきところにおさまりました。
しかし拓くん、もちょっと頑張らないと蘭子さんに実権を握られちゃうぞ…
ってもう遅いか(笑)
この後、瀬川さんと桐野くんのSSがあります。
背景素材「空に咲く花」さま