〔5〕
蘭子に対する気持ちなんて、絶対に口にするつもりなんてなかったのに。蘭子のあまりの取り乱しっぷりが可愛らしくて、励まし半分、安心半分────悩みになんて縁のなさそうな蘭子でさえ、自分と同じく外見と内面のギャップに苦しんでいたのだという安心だ────で告げた言葉につられ、ぽろっと秘めていた本心まで口にしてしまうなんて! 何というおバカなミスだ、自分で自分が情けなくて仕方がない。 あああーっ 俺は何というアホなんだーっっ 焼き具合を見ていたオーブンの前で、頭を抱えてのたうち回る。誰にでもよくある、突然過去の失敗を思い出していたたまれなくて叫びたくなってしまうアレだ。 「店長、また思い出しのたうちしてるぜー」 次の商品の準備をしていた従業員の桐野が、呆れ返った口調を隠しもせずに言うが、拓の耳には入っていない。 「放っておきなさい、仕事の手さえ休めないでくれれば、いまはそれでいいわ」 さらに容赦のない追い打ちを瀬川がかけるが、やっぱり拓の耳には入っていない。 「それに……既に手は打ってあるから」 今度は桐野の耳にも入らないほどの小さな声で、瀬川は呟く。その言葉の通り、事態は既に動き出していたが、それを知る者は瀬川の他にはあとひとりしかいなかった。拓がすべてを知るのは、もっとずっと、後の話。 そして。閉店直前の、後片付けがもうじき終わろうかという頃。瀬川が行動を起こした。 「店長、今夜と明日の定休日って予定はないって言ってましたよね」 「言ったけど…それがどうかしたか?」 「大事な話があるんで、今夜ちょっと食事に付き合ってもらいたいんですけど」 「話? 片付けが終わってからここでするんじゃダメなのか?」 「ぜひお食事も付き合ってほしいんですよ。あたし、今日家に帰っても家族誰もいないんで。あ、誤解されるのやだから、桐野くんも来てくんない?」 「大事な話っつってんのに、俺も行っていいのか? あっ まさかこの店を辞めたいなんて言うんじゃないだろうな!?」 桐野の焦りを含んだ声に拓が顔面蒼白で振り返るのを見て、瀬川が大きく首を横に振った。 「んな訳ないでしょ。あたしが辞めたら、男二人のむっさい職場に逆戻りよ、ここ」 痛いところを突かれ、拓と共に桐野も胸をおさえる。それは、まぎれもない事実だったから。 「……それは構わないけど。そんなに大事な話なのか?」 桐野よりはいろんな意味で心の痛手に慣れている拓が、何とか先に復活して問いかける。 「ええ。すっごく大事な話です」 この時の瀬川の真意に拓が気付くのは、あとほんの一時間半後のこと………。 それから。私服に着替えて、はたから見たらどういうつながりかわからない奇妙な三人組が入ったのは、店から少々離れたファミリーレストラン。ちなみに樹は拓が急いで迎えに行って、自宅に送り届けてからのことだった。その時の蘭子はまるで普段と変わらなかったから、拓は気付かなかった。瀬川がいったい誰と何を画策していたか、など。 「いらっしゃいませー。三名様ですか?」 店員の言葉に「是」と答えるより早く、先頭に立って店に入った瀬川が「否」と答えた。驚く拓と桐野に目もくれず、「連れがひとり先に来ているはずですけど」とさらに告げる。 何が何だかわからないまま瀬川の後に続いた拓は、案内された先の席で座っていた蘭子を目の当たりにして、思わず驚きに目を見開く。ほんの数十分前、保育園で別れたばかりではないか!? 「蘭子先生、お待たせしましたー」 「いいえー、私もさっき来たところです」 瀬川が笑顔で声をかけ、それにやはり笑顔で応える蘭子に、拓は最大級のパニックに突き落とされた……。 何がどうしてどうなっているのか。拓にはまったくわからなかった。 どうして瀬川と蘭子が待ち合わせをしているのだ? どうして二人が親しげに話をしているのだ? そんな場に、どうして自分と桐野が連れてこられたのか!? 「店長? でかい図体でぼーっと立ってないでもらえます? 邪魔なんで、とっとと座ってくださいよ。ほら、桐野くんも」 どうしたものかと悩んでいたら、空いていた席────蘭子の真正面だ────に瀬川にぎゅうっと押し込められた。その直後に桐野も押し込められたので、逃げることもかなわない。当の瀬川は、蘭子の隣、桐野の真正面に悠々と座り込んで涼しい顔だ。 「これはいったい……」 どういうことだ? いったいいつのまに、瀬川と蘭子の間に面識ができていたというのだ? 拓には真剣にわからない。その視線の意味に気付いたのか、瀬川がけろりとして答える。 「あたしと蘭子先生、お友達になったんです」 「ねー」とまるで少女のように二人で声をそろえる。確かに年齢はほとんど同じだし、何かの拍子に出会って意気投合したとしても不思議はないが……。 「それで? 大事な話ってのは?」 桐野の言葉にハッとする。そうだ、今日はそれがメインだったはずだ。 「まあまあ、まずはご飯食べちゃいましょ。私、お腹ペコペコなんですよ」 「私もー。肉体労働ってお腹すきますよねー」 蘭子も同意を示して、二人で一冊のメニューを開いてきゃいきゃいと、時には指差したりしながら話している。拓も桐野と一冊のメニューを開き、メニューの陰で二人で顔を見合わせる。桐野も訳がわからないといったような表情だ。それでも何とかそれぞれに食べたいものを選んで、店員に伝える。料理が来るまでの間、そして料理がそろってからも、蘭子と四人当たり障りのない話題で場を和ませながら、実に和やかな雰囲気で食事は終わった。 「それで……話ってのは? 蘭子先生もいらしてるってことは、先生も関係あることなんだろう?」 食事も終わって空いた食器も片付けられてから、有無を言わさぬ口調で瀬川に迫る。瀬川はどうしたものかという顔をしていたが、ドリンクの最後の一口を喉に流し込んでから、伝票を手に立ち上がる。 「こんなところで話せる内容じゃないんで、とりあえず出ましょ」 割り勘で料金を払って店を出てから、瀬川は実にさりげなく桐野の隣に並び、その腕をひっつかんで突然走り出した。 「えっ!?」 「お、おい、瀬川っ!?」 「誰も『あたしが話がある』なんて言ってませんよーっ 邪魔者は消えますんで、あとはごゆっくりーっ!!」 それだけ言って、いまだ戸惑っている桐野の腕を引っ張りながら、瀬川はあっという間に街灯の向こうの暗闇に消えた。あとには、少々申し訳なさそうな顔をしている蘭子と、もう何が何やらわからずにいる拓だけが取り残される。 えっ えっ えええええっ!? これいったいどういう状況!? 「………すみません。私が瀬川さんにお願いしたんです。拓さん…店長さんと、他の人がいないところでふたりでお話できないものかって」 ほんとうに申し訳なさそうな声と表情で、蘭子が告げる。いつもにこにこ笑っている彼女にそんな表情をさせてしまうのが心苦しくて、拓は即座に手をぶんぶん振って否定してみせる。 「べ、別に気にしてませんからっ だから、そんなにお気に病まないでくださいっっ」 それは、本心。蘭子には、いつでも笑っていてほしいから。皆を照らし暖める太陽のように、いつでも輝いていてほしいから───────。 「…………」 少し驚いたような目で、蘭子が自分を見つめてくるのに、ハッとする。そういえば話とは…いったいどういうことなのだろう? もしかして、この間の失言のことだろうか。やっぱり、自分みたいな強面のくせにヘタレな奴に好かれるなんて迷惑だということなのだろうか!? 拓の心境は、既に死刑台手前の十三階段前に立たされた死刑囚の気分である。 「とりあえず、あっちの遊歩道のほうに行きません? ここじゃ、迷惑になりますし」 蘭子の提案に、こくこくと頷く。もはや、逃げることもかなわない。 すっかり暗くなった遊歩道は、それなりに人が歩いていたが、小さな公園になっている箇所はまだ時間も早いのか、それとも平日だからか、カップルすらもいなくてひとけがない。 「─────それで、話なんですけど」 蘭子が再び話しだした時、拓はみずからの首に輪になったロープがかけられた錯覚を覚えた。 「私、七歳年上の姉がいるんです」 「……は?」 あまりに脈絡がなくて、思わずすっとぼけた声が出てしまう。けれど蘭子は予想済みだったのか、そんな反応を気にする訳でもなく続ける。 「妹の私が言うのも何ですが、結構綺麗系の顔立ちで、頭もよくて運動神経もよくて手先も器用でリーダーシップもあって、でも弱い者にも優しくて……自慢の姉だったんです。だから、私も姉みたいになりたいと思って、何でもかんでも真似して、苦手なことも頑張って克服して、ずっと追いかけていたんです」 「はあ」 どういうことなのだろう。自分はフラレるのではなかったのか? 「だけど、何かが違うと気付いたのは中学の頃でした。その頃には姉は大学に入学すると同時に一人暮らしを始めていて、直接姉を知る先生も同級生もいなかったんですが、姉に対する周囲の評価と、私に対する評価がまるで違うことに気付いたんです」 そこで蘭子は、ギリ…と悔しそうに唇を噛んだ。 「姉に対しては、誰もが『凛子ちゃんはしっかりしていてすごいわね』って────あ、『凛子』というのは姉の名なんですけど……とにかく労働や成果に対する正当な評価っていうんですか? そういうものだったんですけど、私に対しては……『蘭子ちゃんえらいわねー』なんて感じであくまでも目下に対してのそれというか。よく言うじゃないですか、子どもは褒めて育てろみたいな。決して自分と対等に見ていないような褒め方しかされていないことに。気付いちゃったんです」 拓は何となく、外見だけで何もしていないにも関わらず、不良っぽい後輩たちから妙に礼儀正しく慕われていた学生時代を思い出した。もしかして、蘭子が言いたいのはあれと同じような感じなのだろうか? 「あたしは焦りましたね。確かに姉とは名前と髪質以外ロクに似ていないけど、こんな風になりたかった訳じゃないって。それ以来、勉強も運動もそれ以外も、以前以上に頑張りましたよ。だけど、やればやるほど空回りしていくんです。前面に出ようとすればするほど、『見た目と違って可愛くない』なんて言われるようになって……あたしの学生時代のあだ名、想像つきます? 『鈴蘭』っていうんですよ」 それは、名前からなのか容姿からなのか、わからないけれど蘭子に合っているのではないかと言いかけて、蘭子の次の言葉で言わなくてよかったと拓は心の底から思うはめになった。 「鈴蘭の花って見た目は可愛いけど、毒があるじゃないですか。可愛い顔してキッツいところがぴったりだって。一度でも同じクラスになった男子の大半からそう呼ばれましたよ。姉は『牡丹』とか『桔梗』とか綺麗で落ち着いた花にばかりたとえられていたっていうのにね」 そこで蘭子が見せた表情は、自嘲的な笑みのような────泣きだしそうにも見えるような……どこか哀しげなものを思わせるそれだった。 「決して自慢ではないんですけど。学生時代から、何度か告白されたことがあるんです。それもほぼ全員、話したこともないような男の人から。どういう意味かわかります?」 ほんとうにわからないので、拓はふるふると首を横に振る。 「それで、とりあえず『お友達から』って言って、普通に友達付き合いを始めると、たいてい二週間ももたずに『思っていたのと違う』って言われて、相手のほうから去って行くんです。要するに、単にあたしの見た目だけで勝手に『おとなしい女の子だ』と思い込んで、近寄ってくるんです。ホントのあたしは、こないだの戸谷くんとのやりとりでもわかる通りに、相手が男の人であってもケンカを売っちゃうぐらい気が強いのに。外見と違うってだけで、あたし自身を見ようともしないで、さっさと去って行っちゃうんです…………」 そこで、蘭子の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれた。話しているうちに過去を思い出して、感極まってしまったのだろう。 「信じられます? あたし、男友達すらいないんですよ。男の人はたいてい『可愛くない』か『思ってたのと違う』のどっちかを言って離れていっちゃうから。保育園の子どもたちの保護者さんたちの前では、仕事だし猫かぶってますけど。プライベートでは、ちょっとした相談をする相手すら、父や兄みたいな身内以外ではいないんです」 ぽろぽろぽろ。堰を切ったように蘭子の涙は止まらない。拓は慌てふためいてポケットからハンカチを取り出して渡そうとするが、蘭子に手で拒否されて、渡すこともできずかといって再びしまう訳にもいかず、途方に暮れてしまった。 自分は……いったいどうしてあげたらいいのだろう──────? 拓が内心で投げかけた疑問は、言葉にもできないまま星も見えない夜空に吸い込まれて行った…………。 |
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2013.1.30up
ついに瀬川さんと蘭子さんの作戦発動です。
桐野くんはともかく、拓はもう何が何だかわからないでしょうね。
急展開の後、次回最終回です。
背景素材「空に咲く花」さま