〔2〕





 それからというもの。毎日の樹のお迎えは、拓専属の仕事になった。



「……ちょう。てーんちょうっ!!

 耳元で突然聞こえる桐野の声に、ぎょっとする。

「ななななな、何かな? 桐野くんっっ」

 慌てふためいて答えると、桐野が呆れ顔を隠しもせずに拓の手元を指差した。

「生クリーム。こぼれますよ」

 その声にハッとして手元を見ると、生クリームの入ったボウルが傾いていて、危うく中身がこぼれる寸前だった。

 いかんいかん。仕事中に何をぼーっとしてるんだ、俺はっ

 今日は日曜日だから、樹のお迎えもないし客の数も平日とは段違いだから、気合を入れて仕事をしなければと思っていた矢先にこれだ。まだまだ修行が足りないなと拓は思う。蘭子に会えない、ただそれだけのことで、こんなにも呆けてしまうなんて。

「店長、こないだ樹くんを初めて迎えに行って以来、何か変ですよ?」

 何かあったんですか?と桐野が続けるが、真相など言えるはずもない。

「な、何もないよ?」

 何とか平静を装いながらボウルをテーブルの上に置いて、別の器材を取り出そうとした瞬間、瀬川がそっと口を開いた。

「店長、恋してるでしょ」

 予想もしていなかった爆弾を投下されて、出しかけていた器具ごとどんがらがっしゃんとまるでドリフのコントようなコケっぷりを披露してしまう。いったい何故、どこからバレたというのだ!?

「な、なななななな!?

 動揺のあまり、マトモな言葉すら出てこない。

「ウキウキしてるかと思えば、いきなりボーっとしたりしてさ。復活したかと思えば、変に落ち込んだりして。これを恋わずらいと呼ばずして、何というのよ?」

「すげーな、瀬川っ 女の勘ってヤツか!?

「ふふん、ちょろいもんよ」

 女は怖いと、拓は本心から思った。

「しかも、午前中はまだ普通にしているのに、夕方近くになるとそわそわしてて…相手は、樹くんの通う保育園の保育士さんと見た!」

 ズバッ!と指までさされて指摘されて、拓はもはやぐうの音も出ない。

「何か図星みたいだぞ。瀬川、探偵になれんじゃね?」

「てゆーか店長がわかりやす過ぎるのよ」

 ドシュッと見えない槍が胸に突き刺さった気がした。

「く、くだらないこと言ってないで、仕事しろ仕事っ」

「あ、ごまかした」

 ふたりに背を向けて、散らばった器材を片付け始める。恥ずかし過ぎて、真相など話せるはずもないではないか。どれだけからかわれるか、わかったものではない。

「店長〜。店長の好みってどんな女性なんスかあ〜?」

「芸能人で言ったら、誰みたいな感じですかあ〜?」

 にやにやにや。すっかりおもちゃにされているのはわかっているが、何とか耐えながら仕事を続ける。話したら最後、もっともっとおもちゃにされるのが目に見えているからだ。

 そんな時だった。

「拓ー。あんたにお客さんー。表に回ってもらったから」

 店舗に続くドアの向こうから響く、母親の声。客? 自分に? 元からの友人たちなら、今日は休みでないのを知っているから、わざわざやってきたりはしないのに。いったい誰だろう? ふたりにひとこと断ってから、作業着のまま表に出る。

「……?」

 そこに立っていたのは、ふわふわの長い髪の女性。向こうを向いているせいで、顔までは見えない。いったい誰だ?

「あの…?」

 訳がわからないまま声をかけると、女性の肩がぴくりと反応して、振り返る。その顔を見た拓は、これは夢かと思わず頬をつねりたくなった。何故ならそこに立っていたのは、週末は会えないと思っていた、蘭子そのひとだったから!! それも、いつもの動きやすい服装ではなくずいぶんと可愛らしい格好をしていて、やはりきちんと着飾ればかなり美人の部類に入るだろうと予想していた通りだった。

「すすすすす、鈴木先生!?

 驚きのあまり、声が裏返ってしまった。

「あ、『蘭子』で結構ですよ。昔から同じ名字の人が周りにあふれ返っていたんで、名字で呼ばれるより名前で呼ばれるほうが馴染んでるんです」

「ど、どうしてこちらに…?」

「お店の名前、確か『アリス』っておっしゃっていたと思って、今日はお客として買いに来させてもらっちゃいました。私、甘いものに目がないのでつい」

 言いながら、店舗のほうで買ったらしい箱を示して「ふふっ」と蘭子は笑う。そのあまりの可愛らしさに、拓は思わず目まいを起こしそうになるが、何とかこらえながら平静を装って話を続ける。

「先に言ってくだされば、サービスしましたのに……」

 確か、両親たちはまだ樹の迎えに行ったことがないはずで、だから蘭子のことを知っているはずもない。この様子から見ると、蘭子はきちんと買い物を済ませてから名乗ったのであろう。

「いいんです、特別扱いしていただきたかった訳じゃありませんから。ただ、お兄さまの作ったお菓子を食べてみたかったもので。だから、今日の私はいつもと違ってただのお客のひとりです」

 にこにこにっこり。何と、きちんとしたお嬢さんだろうと、拓は思った。見た目は、二十代になって間もないぐらいにしか見えないほどなのに。

「先生……あー、女性に年齢を訊くのは失礼だと、常識ではわかっているんです。けれど、教えていただけませんか? 先生はおいくつなんでしょうか?」

 失礼を承知で訊いた拓に、蘭子は驚いたように目を見開いたものの、それでも気分を害した様子もなく笑顔で答える。

23歳です。まだまだ若輩なんで、もっともっと頑張らなきゃと思うんですけど。そういえば、お兄さまはおいくつなんですか? 弟さん、樹くんのお父さまとお母さまは確か私と同じとうかがっていますけど」

「あ、見えないかも知れないけど、25です」

 年齢を明かすと皆一様に驚くのだが、蘭子だけは驚いたりしなかった。

「思った通り、お若かったんですね。そのくらいだと思っていました」

 そうして、ハッとしたように時計を見て、あわてだす。

「すみません、ちょっとだけのつもりだったのに、こんなにお時間をとらせてしまって…今日は日曜日だから、お忙しいんじゃありません? ほんとうに、申し訳ありませんでしたっ 私もう帰りますっっ」

 そう言って深々と頭を下げて、蘭子はくるりときびすを返して。それから、ふと思い出したように顔だけ振り向いて、微笑んでみせた。

「それでは、また明日の夕刻に。樹くんをお迎えにいらっしゃるの、心からお待ちしております」

 邪気などまったく感じさせない笑顔で告げてから、ゆっくりと歩き去って行った。後に残された拓の心に、とてつもなくあたたかい何かを残しながら──────。

 背後では、母親と従業員の三人がにやにやとなりゆきを見守っていたが、そんなことはいまの拓にはもうどうでもいいことで……。

「よおーっしっ! やるぞーっっ!!

 拓の威勢のいい叫び声が、春の空にこだました……………。




                   *     *




 恋とは不思議なものだと拓は思った。

いくら好きな仕事とはいえ、長く続けていればそれなりにルーティンワークになっていくそれらの作業を、また違う彩りに変えてしまうのだから。

「拓ー、こないだ出した新作、すごい売れ行きよー。物珍しさからかと思ったけど、もう一度買ってってくれるお客さんも多いのよ、びっくりだわ」

「最近のお前、ずいぶん創作意欲がわいてるようだなあ。俺から引き継いだ時にも品数いくつも増やしてたけど、最近の新作の数もすごいんじゃないか?」

「品数が増えるのは結構だけど、もう並べる場所も足りなくなってきてるのよね、もう少しディスプレイを考え直さないとダメねえ」

 のんきな会話を繰り広げる両親を横に、拓は黙々と商品を作り続ける。

 蘭子と出会って以来、次々とインスピレーションがわいてくるのだ。彼女のイメージで作るならこんな感じだろうか、彼女の好みはこんなのだろうか、それともこんなものだろうかと、考えるだけで心が躍る。尽きることなくアイデアがわいてくる。その様子は、従業員の桐野や瀬川に呆れられるほどだ。

 もっとも、彼らのもっぱらの関心事は、まるで違う事柄だったが。

「てーんちょっ 店長の好みって、可愛いタイプだったんですね〜」

「そうよねえ、でなきゃこーんな可愛いケーキなんて考えつかないわよねえ」

 にやにやにや。先日客として現れた蘭子と、とたんに挙動不審に陥った拓を目の当たりにして以来、ふたりともこんな感じだ。予想通りだ。だから、誰にも言いたくなかったのに、連中は独自に推理を働かせ、真相へとたどりついてきてしまったのだ。

「あーもうっ よけーなこと話してないで、仕事しろ仕事っっ」

「は〜い」

 怒鳴ってはみるが、店長の威厳もへったくれもない。さらには。

「──────可愛いお嬢さんだったわね〜。あんなお嬢さんがお嫁に来てくれたらいいなあと思うけど……誰かさんの甲斐性じゃ無理かしらねえ」

 ハッキリ人名こそ出さないものの、ここまで具体的に言われれば嫌でもわかるというものだ。毎日まるで遺言のように言われては、気も滅入る。

 そりゃあ拓だって、できることなら蘭子とお付き合いなどしてみたいし、叶うならそれ以上の仲になりたいなんて思わなくもない。けれどそれは、あくまでも自分個人の感想であって、蘭子自身の気持ちを訊いたことがある訳でもない。そんな状況で勝手に他人の人生についてどうこう言うなんて、失礼極まりない所業ではないか。それでなくても、自分はこんな容姿────ヤンキー顔負けの強面で、身体だって馬鹿でっかいウドの大木で────に中身はヘタレという、最悪なコンボの持ち主で。普通の女の子だったら、嫌がるに決まっているではないか。

 ああいかん。自分で考えていて落ち込んできてしまった。

 オーブンに次の生地を入れて焼き始めてから、拓は海より深いため息をついた。

けれど、恋する気持ちは止められなくて。樹を迎えに行くその時だけは、至福の思いを感じてしまう。樹もすっかり自分に慣れてくれて、自分の顔を見ると喜んでくれるようになったが、拓自身はまだ樹の扱いに戸惑う部分が多いので、勉強と称して蘭子に質問してしまうあたり、自分でもちゃっかりしていると思うのだが。

まあ、秘めた片想いの身としては、それぐらいは許してほしいと思ってしまう。いつかきっと、他の男に連れ去られていくのを、自分は何も言えずに眺めているだけなのだろうから……。


「そういえば、この間出された新作さっそく食べさせていただきましたー。最近だいぶあったかくなってきたから、フルーツいっぱいでさっぱりしていて、すごく美味しかったです」

 あれから、蘭子はちょくちょくお客として店のほうにやってきてくれる。「すごく好みの味で」と言ってくれたのがお世辞かそうでないかは、選んでいる時の真剣な顔を見ていればわかるそうで────拓のことをよく知っている人ならともかく、そうでないお客さんが大半だから、拓はできるだけ店に出ないようにしているので売り子をしている母からの伝聞なのだが────パティシエとしても、光栄極まりない。

「そ、そうですか? 自分、顔がこんななんで、直接感想を聞く機会がなかなかなくて、非常に助かります」

「私でよければ、いくらでもモニターになりますよ…って、太っちゃうから、あんまりちょくちょくできないのが辛いですけど」

「いえいえ、先生は十分細いですよ。何か運動とかされているんですか?」

「運動っていう運動はしてないんですけどねー。子どもの相手をしているとすごく体力を消耗するっていうか」

 そこで三、四歳くらいの女の子が「せんせー、だっこー」と言ってきたので、蘭子は「はいはい」と言いながらひょいっと抱き上げる。あまりにも簡単な動作のように見えるが、つい最近同じようにせがまれて抱き上げて予想以上の重さに驚いた身としては、蘭子が涼しげな表情でそれをこなすのを見て、心底驚いてしまった。

「お…重くないんですか?」

「重いですよ?」

 蘭子の笑顔は崩れない。

「これぐらいでへこたれてたら、保育士なんてやってられませんて」

 思わず拍手を送ってしまう。

「あら、お恥ずかしい。私からしたら、いろんなお菓子を作れる方のほうが尊敬に値するんですけどねー」

「そんなもんですかねー」

 ここまできても、拓は気付いていなかった。拓が樹を迎えに来る時は、必ず他の保育士たちが蘭子をお手すきにして、少しでも拓が蘭子と話せるようにしてくれているということに。それほどまでに自分はわかりやすかったのかと、拓が羞恥のあまりのたうち回ったのは、しばらく後の話。ちなみに蘭子は、その事実に気づいてはいたが、自分が好かれているとは夢にも思っていなかったあたり、ある意味似合いのふたりといえるだろう………。



    





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2013.1.27up

ふたりの道のりは一応順調?
拓さん、「もう少しがんばりましょう」(笑)

背景素材「空に咲く花」さま