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 春の暖かい陽射しの中。漂うのは、甘い甘いチョコレートや生クリームの匂い。色とりどりの何種類ものフルーツの香り。オーブンの中で立てられる、マドレーヌやクッキーたちの香ばしい芳香。そして、まるで結婚式直前の花嫁のように、飾り立てられるのを待つスポンジケーキたち。

 見ているだけで楽しくなってくるそれらを、恐らくは本人()たちが望んでいる通り色鮮やかに飾り立てる作業は、何と心躍るそれであることか。美しく仕上がったそれらを前に踊りたくなる衝動を抑えながらふと振り返ると、業務用冷蔵庫の磨き上げられたドアに映った現実を突きつけられて、本田拓はがくんと肩を落とす。

そうだった。花も恥じらうような、レース付きのエプロンでも似合いそうなうら若き乙女ならともかく、こんな25歳も過ぎたむさい男が浮かれてみたところで見苦しいだけだ。骨の髄まで染み込んでいる現実を改めて突きつけられて、拓の気分は下降の一途をたどるしかない。その上…。

「拓ー。ちょっと頼むわ」

 店舗や厨房から自宅に続く廊下のほうから、母親の呼ぶ声がする。とりあえず気を取り直して、返事をしながらそちらへ向かうと、ちょうど電話の途中だったらしい母親は締めの言葉を告げて受話器を戻した。

「なに?」

「飯島さんがねえ、そこのコンビニに用があって行こうとしたんだけど、何だか学生さんが入口のとこでたむろってて怖くて入れないって言うのよね。んで、『悪いんだけど、拓ちゃんからひとこと言ってもらえないか』って」

 『飯島さん』とは、近所に住んでいる母親の友達で、拓たち兄弟のことも昔からとても可愛がってくれている年配の女性だった。穏やかで優しいあの女性からしたら、それは確かに怖くて近寄れない状況だろう。

「わかった、ちょっと行ってくるよ」

 言いながら作業場に戻り、共に働いている従業員に声をかける。

「まーた角のコンビニにガキどもがたむろってるらしいから、ちょっくら行ってくるわ」

「またですかー? あそこの高校の生徒ですよね、教師は何やってんスかね」

 従業員の桐野────今年23歳になった青年で、拓の高校時代の後輩でもあったりする────の言うとおり、あのコンビニにたむろっているのはいつも近所のN高校の生徒たちなのだ。N高校は工業系で男子が多く、それ故ガラの悪い連中が目立ちやすいのだ。

「いっそ学校に苦情でも入れてやればいいんじゃないですか? この近隣の住人まとまっての意見なら、いくら何でも学校側も無視できないでしょ」

「まあ、目立った悪さしてる訳じゃなし、そこまでしたくないんだよなあ。とりあえず、話せばわかってくれる訳だし」

「そりゃあ、店長が言えば…ねえ」

 もうひとりの従業員の瀬川────こちらは22歳になったばかりの若い娘だ────が微苦笑で答える。言われなくても、自分が一番わかっていることなので、あえて聞こえないふりをする。

「じゃ、ちょっと後よろしく」

「行ってらっしゃーい」

 ふたりの声を背に受けながら、髪の毛などが落ちないようにかぶっていた業務用の帽子を外して、角のコンビニに向かって歩いていく。歩いてほんの十数メートルほどの場所なので、拓の歩幅でいえば一分もかからずに着くのだ。

現地に行ってみると、なるほど少々ガラのよくなさそうな男子高校生が四、五人、ペットボトルの飲料を飲みながら、住宅街で話すには少々音量の大きい声で話している。確かにあれでは、飯島夫人のような気の弱い人は近づけないだろう。

「あー、もしもし君たち?」

 とりあえず、声をかけてみる。

「…あー?」

 明らかに挑発的な目つきと角度で少年たちが顔を上げる。素直に話を聞く気がないのが丸わかりだった。が。拓の顔を見るなり、その不遜な顔つきは瞬時になりをひそめ、まるで蛇に睨まれた蛙のように一気に青ざめ始めた。

「な、何スか!?

 先刻までと、ほんとうに同一人物かと思いたくなるほどの変貌ぶりだった。

「入口のところで固まってられると、他の人が入れなくて困るから、ちょっと移動してくれないかな」

 と、非常に穏やかな低い声音と口調で拓は言ったのだけど。

「は、はいいっっ どうもすんませんっしたっ!!

 まさに脱兎としか言いようのないほどの俊足で、少年たちはあっという間にその場から消え去ってしまった。後には、ぽつんと拓一人だけが取り残される。

 いつものこととはいえ……やっぱり傷つくよなあ──────。

 少年たちが一目散に逃げていくのも無理はない。何しろ拓の容姿ときたら、身長183cmの長身に加え、流行など関係のないこざっぱりとした短髪、初対面の人間には必ず「柔道か何かやっていたか」と問われるほどの広い肩幅、とどめにとても堅気とは思えないほどの強面だったのだから。けれど髪形以外────髪形は、食品製造業という職業故のこだわりがあるためだが────は、まったく加工を加えていない生来のそれだというのに、いつもいつも、勝手にその内面を誤解されるのだ。拓本人は、元来争いを好まない穏やかな性格だというのに。血の気の多い弟と違い────外見は多少の差異はあれどそっくりであるが────昔から料理や菓子を作るのが好きで、職業まで幼い頃からの夢であったパティシエに就いたというのに、誰もがその見た目だけで誤解し、拓自身は何もしていないのに恐れるのだ。

 慣れたとはいえ、傷つかない訳でもない。

「拓ちゃん、ありがとうね。おかげで、やっとお買い物に行けるわ」

 陰で見守っていたらしい飯島夫人が、ほんとうに感謝している様子で笑いかけてくる。まあいいか、と拓は思う。わかってくれる人はわかってくれるから。ただ、わかってくれる人に出会える間隔が人より長いだけで。

「いいんだよ、おばちゃん。また困ったことがあったら、いつでも言ってよ」

 そう言って、にっこり笑う。自分のこの容姿で、弱い人々を少しでも守ることができるなら──────。

 運命の出会いが近付いていることを、拓はまだ知らない……………。




                   *     *




 それから二日後。夕刻だというのにサングラスをかけた拓は、気のりしない気分のまま、外に出た。今日は、父から受け継いだ洋菓子店の定休日であるのだが、母から厳命を受けてもっとも自分に似合わないであろう場所へと出かけていくところなのだ。

 私立C保育園。甥の樹(いつき)────拓の弟の海(かい)とその妻夏希の第一子であり長男だ────が通う保育園である。現在夏希が第二子妊娠中でつわりがひどく、海は仕事が忙しい時期ということもあり、本来は両親が迎えを頼まれていたのだが、年のせいもあって乳幼児を抱えて連れ帰るのは体力的にキツいということで、自営業で時間の自由がきき、力もありあまっている拓に白羽の矢が立ったと。そういう訳である。

 まいったなあ。もしも団体で泣かれたりしたら、どうすりゃいいんだよ?

 そもそも拓には乳幼児と接した経験などほとんどない。弟の海もそうであるが、樹が生まれてからは懸命に努力しているようで、いまではすっかりよきパパよき夫だ。ほんとうなら自分で迎えに行きたいところだが、これから二人の子持ちになるということもあり、稼がにゃならぬということで、こうなったのだ。

 まだサングラスをかけているほうが怖く見えないという理由から、外出時にはできるだけサングラスをかけているのだが、それでも怪しく見えることには違いない。保育園の門を通り抜けたとたん、保育士らしい女性たちからどよめきが起こった。

「……あ、あの…何か、ご用でしょうか…?」

 拓がまだ何も言っていないというのに、これだ。自分はそんなに不審人物に見えるのかと、拓は内心で泣きたくなった。

「あ、あの……」

 こちらには正当な事情があるのだから、それを堂々と語ればよいのだが、ここまであからさまに警戒されると────好奇心いっぱいの瞳で拓を見つめる子どもたちを、懸命に拓に近寄らせないようにしているのが丸わかりだ────こちらまで気後れしてしまって、言葉が出てこない。緊張の糸が張り詰める中、それを破ったのはひとりの女性だった。

「─────あの。違っていたらごめんなさい。もしかして、本田さんですか?」

 反射的にそちらを向いた拓の目に映ったのは、ふわふわの長い髪を邪魔にならないように束ねた、まるで砂糖菓子のような容姿の可愛らしい女性。一目見た瞬間、拓の胸の中で『リーンゴーン…』と鐘が鳴り響いた気がした。まさに、一目惚れだった。

「は、はいっ こちらでお世話になっている、本田樹の伯父ですっ! 弟夫妻がどうしても都合がつかなくて、代理で迎えにまいりました!!

 直立不動の姿勢でほとんど叫ぶようにして答えると、他の保育士たちもようやくホッとしたようで、張り詰めていた緊張がふっと和らいだ。

「確かにお父さまから『お兄さんが代理で来る』ってお電話いただいてるけど……蘭子先生、どうしてわかったの?」

 他の保育士が件の女性に問いかける。そうか。彼のひとの名前は『蘭子』さんというのか。…じゃなくて、何故なのかは自分も知りたかった。

「だって、樹くんのパパとママが前に言ってらしたじゃないですか。『パパのお兄さんはパティシエだ』って。こうして立ってらっしゃるだけでも、甘い香りが漂ってきて…うふふ、ケーキが食べたくなってきちゃった」

 ああなるほど、ケーキやクッキーの匂いか。自分ではわからないが、そんなに匂っているのだろうか? 『ケーキ』という単語を聞いて、周りにいた子どもたちがとたんに色めき立つ。

「けーき!? けーきどこにあるのっ!?

「違うわよー、このお兄さんがケーキ屋さんなのよー」

 蘭子が訂正したとたん、幼児たちが一斉に拓に群がった。さすがに拓も立ったままでいる訳にもいかず、子どもたちの目線の高さにしゃがみ込みながら、押し寄せてくる質問の波に一人ずつ答えていく。

「おじちゃん、ケーキやさんなの!?

「そーだよー」

 できるだけ怖がらせないように、優しく答える。

「ぼくいちごのケーキがすきっ おじちゃんつくれるのっ!?

「作れるよー。苺のだけじゃなくて、他のもいっぱい作れるよー」

「チーズケーキもつくれる!? うちのママ、こないだこがしちゃったのっ」

「あー、ちゃんとオーブンを見てなかったんだねー。おじちゃんも、たまに失敗するよー」

「ケーキやさんでもしっぱいするの?」

「するよー。ケーキ屋さんだって人間だからねー」

 拓の人生の中で、こんなにも子どもたちに大人気になった経験などあっただろうか? 否、ない。恐る恐るではあるが、何とかコミュニケーションをとれている事実が嬉しくて、勘の鋭い先ほどの蘭子に心から感謝したくなる。

「なんだこれー」

 などと油断をしていたから、かけていたサングラスをいかにも悪ガキといった風の男の子に奪われてしまった。慌てて取り返そうとするが、子どもの足は意外に速く、件の子どもは既に遥か彼方だ。ああマズい。素顔を見られたら、また怖がらせてしまうだろうか。

 しかし、そんな危惧は不要であったようで、子どもの憧れの職業ベスト5に入るであろうケーキ屋に対する尊敬の念は、まるで揺るがないようであった。それどころか。

「うそーっ 樹くんのパパそっくりーっ!!

 かえって保育士たちのほうが大騒ぎである。

「まぎれもなくご兄弟なのねえっ 初めから素顔でいらしてくだされば、すぐにわかったのに」

「あ、の…この顔、怖くないですか……?」

 しゃがみ込んだまま問いかけてしまう。

「樹くんのパパもちょくちょくお迎えにいらしてますから。そりゃあ最初はびっくりしたけど、いまではもう慣れましたわ。ホントによきパパなんですもの」

「なんだあ……そんなに気にしないでよかったのかあ…」

 一番の心配が杞憂であったことに、思わず力が抜けて。拓はそのまま、へたり込んでしまった。そんな拓の前で、ひとりの保育士がはたと気付いて、あわてて先刻の男の子を追いかけていく。

「まさとくん、ダメよ、お兄さんの眼鏡を返してあげなさいっっ」

「もしかして、お顔のことを気にして、サングラスをかけてらしたんですか?」

 先ほどの蘭子が声をかけてくる。

「いや…初対面の人は、俺や弟の顔を見るとたいてい怖がってしまうから……子どもたちまで泣かせたらどうしようかと思っちゃって」

 情けないですけどね、と続けると、意外にも蘭子はにっこりと微笑んで。

「お優しいんですね」

 二度目の鐘の音が、拓の内心で鳴り響く。

「あ、あらやだ、私ったら自己紹介もしないで。保育士の鈴木蘭子と申します。どうぞよろしくお願いします」

 ぺこり…と頭を下げる蘭子に、拓も慌てて立ち上がって、深々と頭を下げる。

「あ、これはご丁寧にっ こちらこそ申し遅れました、樹の父の海の兄で、本田拓と申します。こちらこそ、甥がいつもお世話になって……」

 ふたりが名乗り合ったとたん、他の保育士たちがもれなく吹きだした。

「ご、ごめんなさい、『HONDAタクト』と『SUZUKI蘭』って、昔よくCМで見たスクーターみたいで、つい…」

「ええ、学生時代はさんざんからかわれました。親に文句言ったら、『最後に「と」が付かなかっただけマシだろ』って……でもまさか、似た名前の人と出会うことがあるとは思いませんでしたけど」

 苦笑しながら蘭子を見ると、蘭子も同様に微苦笑を浮かべている。同じような経験を持っているのだろう。

「うちも似たようなものでしたよー。『「子」がつくだけマシだろう』って。いくら兄が『蓮』で姉が『凛子』だからって、あんまりですよねー」

「あ、末っ子なんですか?」

「ええ。だから、優しいお兄さんタイプには弱いみたいです、私」

 その瞬間、拓の胸がドキーンッ!と高鳴った。

 お、落ち着け、俺っ 別に俺を好きとか言った訳じゃないんだからっっ

 そこで、蘭子もはたと気付いたようで、慌てて建物のほうに向き直る。

「嫌だ、こんなところで長話してる場合じゃないですよね、樹くんのお迎えにいらしてたんですから」

「あ、そうだったわ、お仕事お仕事っ」

 他の保育士たちも、つられて慌てだす。

「樹くん、さっき見た時はぐっすり眠ってたんですけど…起きてるかしら?」

 言いながら、乳児クラスらしい教室に飛び込んでいく。拓もゆっくりと歩きながらその後を追うが、内心は樹のことそっちのけで、蘭子のことが大多数を占めていた。

 『蘭子』さんか〜。可愛いひとだなー……ふわふわで、砂糖菓子みたいで、理想のタイプといってもいいぐらいだけど……俺みたいなのは、絶対好みじゃないだろうな。こんな、デカくてゴツくてどう見ても堅気じゃないくせに中身は情けないヘタレじゃな………。

 自分で思っているうちに、だんだん落ち込んでくる。いつも、そうだった。想いを寄せる相手は大概自分を怖がって、そのへんにいる、どう見てもイケメンや人畜無害なタイプへと走って行くのだ。そうして自分は、いつになっても独りぼっち…。

 そんなことを考えていたから、目前に樹を抱いた蘭子がやってきていたことに気付くのが遅れた。樹はまだ目覚めていなかったらしく、すやすやと規則正しい寝息を立てていた。まだこんなに小さいくせに、自分たちに似て目元が鋭い甥の寝顔を見つめながら、「お前も将来苦労しそうだな」とこっそり思う。

 蘭子の手からそっと樹を受け取るが、まだ数えるほどしか抱っこをしたことがないので、どうしていいかよくわからない。そんな自分を見かねたのか、蘭子がいろいろとレクチャーしてくれる。外見も可愛いが、中身もとても優しいのだなと、拓はますます惚れ直してしまう。後で自分が傷つくとわかっていても、止められない想いというものは確かに存在するのだ。

 荷物と眠っている樹を抱えて────ちなみにサングラスはあの直後他の保育士が取り返してきてくれた────保育園を後にして、何となく名残惜しい思いを胸に振り返ると、にこやかに手を振りながら見送ってくれている蘭子の姿が目に入った。たとえ、皆にしていることだとしても、嬉しかった。そんなささやかなことでさえ幸せを感じるほど、自分は淋しかったのだなと、拓はより一層自分自身が哀れに思えてくる。

「……うー?」

 その時、眠っていた樹が目を覚まし、まず拓の顔を見てから周りを見回して、もう一度拓の顔に視線を戻してきゃっきゃっと笑った。乳幼児は、目覚めた時知らない場所や慣れない人といると泣くことがあると聞いてはいたが、自分は父親とよく似ているのでセーフだったらしい。よかったと思う。こんなところで誰のフォローもなく泣かれて、さらに自分がおたおたしていたら、どう見ても誘拐犯ではないか。さすがに、実の甥相手にそれは勘弁してもらいたい。

 それにしても。

「ありがとな、樹ー。お前のおかげで、すごく素敵なひとに出逢えたよ」

 高い高いをしながら言ってやると、父親と同じくらいの身長でのそれだったせいか、樹がほんとうに楽しそうに笑う。乳幼児にしてやる遊びなんて、これと「いないいないばあ」くらいしか知らないのが悲しいところだ。

 たとえ告白や意思表示なんてできなくても。好きでいることぐらいは自由だろうと、拓は二十代半ばの若者とは思えないほどの悟った考えで、想いをそっと胸の奥にしまい込んだ…………。


  





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2013.1.26up

はい、拓さん顔のわりに?純情なお方です。
幸せの後には、怒涛のからかわれ攻撃が待っているでしょうけど(笑)
果たしてこの恋は実るのか? 見守ってやってくださいませ。

背景素材「空に咲く花」さま