─────男は黙ってやせ我慢、などと言ったのは誰だったか。





 夕映への失恋が確定したその日。市原希(いちはらのぞむ)は、初めてそんなことを痛感した。

誰よりも好きな彼女だったから。彼女の心を憂えさせたくなかった。そして、同じ男として、彼女を渡してもいいと思える相手だったから────そうでなかったら、たとえ彼女が泣いたとしても、絶対に彼女を渡さなかっただろう────黙って、身を引いた。自分がそうすることで、ふたりが何の気兼ねもなく幸せになれるなら、悔いはなかった。けれど。

「山下。悪いけど、今日の夕飯付き合ってくれないか」

 彼女の親友であり、事情のほとんどを知っているであろう同僚に、他の人間がいない場所で声をかけずにはいられなかった。夕映との結末は何も話さないままだったが、彼女ならそれでも察してくれるだろうと思ったから。

「そこの、定食屋で構わないから」

 学生の頃から付き合っているという恋人がいる彼女に、期待していることなど何もない。ただ、今夜だけは独りで過ごしたくなかったのだ。

「しょうがないなあ。市原の奢り?」

 気取ったところなどない彼女は、市原の気持ちをすぐに察してくれたらしく、冗談っぽい口調ですぐに快諾してくれた。普段は思わずたしなめてしまうこともある彼女だったが、こんな時は彼女の明るさがありがたい。

 夕刻から夜に移り変わっていく時間帯、職場から歩いていける定食屋に、彼女とは時間をずらして向かう。いくら、昼食時には職場の面子にはよく利用されて夕食時にはそれほど利用されない場所だといっても、下手に誤解をされたくなかったからだ。

「……わかってたんだよ。俺が、とっくに負けてるってことは」

 丼を半分ほど空にしてお冷やを一口飲んでから、希はぽつりと呟いた。

 わかっていたけれど、夕映本人から引導を渡されるまでは……足掻いていたかった。それも、いまではもうかなわぬことだけれど。

「…市原はさ。いい奴なんだから、いつかまたいいコが見つかるよ。今回は、たまたま夕映とは波長が合わなかっただけで。だから、いまはとにかくゆっくり休みなね」

 夕映の親友であり、希とは単なる同僚だというのに、貴絵は労わりの言葉をかけてくれる。いつだったか、「あたしは夕映を幸せにしてくれるなら、市原でも暁さんでも、他の誰かでも構わないのよ〜」と冗談めかして────実際彼女の本音そのものに違いないのだろうが────言った当人にも関わらず、希の気持ちまで慮ってくれる彼女の優しさが嬉しかった。たとえ、誰にでも対するようなそれだったとしても。

「……サンキュ」

 そうして、彼女が最後の一口を口に放り込んだところで、タイミングよく鳴り響く携帯の着メロの音。希が使っている曲ではないから、貴絵の物だろう。

「あっ ごめん、あたしちょっと外で話してくるね」

 普段の彼女だったなら、その場で話し始めてもおかしくないのに────ちょうどピークを過ぎたらしい店内は、まばらに他の客が座っているくらいの様相だったから────「彼氏からかな」と希は間髪入れずに思う。彼女の心遣いは嬉しいが、わかってしまうと虚しさがより募ってしまう。

 そうだよな。彼氏持ちを付き合わせてんのは、誰でもない俺なんだもんな。

 そう思うと、情けなさと哀愁にも似た気持ちが心を満たしていき、店員に向かって手を挙げて、追加注文をせずにはいられなかった。

「すんません、生中ひとつ!」

 それがすぐに来ると同時にほとんど一気飲みをして、貴絵が電話を終えて戻ってくる頃には、二杯目を半分以上空けたところだった。

「い、市原!? あんた、そんなの飲んじゃったら…!」

「バイクは置いて帰れば問題ないだろ〜? いいんだよ、飲みたい気分なんだから」

 貴絵が止めるのも聞かず、三杯目、四杯目と飲み終わらせる頃には、希はすっかり夢うつつの中の住人になっていた。貴絵の、自分を呼ぶ声も遠くから聞こえてくる感覚だ。もう、誰にも構ってほしくない気分だった。だから、あえて外からの刺激を遮断して、そのまま暗い淵へと意識を沈めていった…………。


 脳裏に浮かぶのは、いま一番逢いたいと……そして一番逢いたくないと思っていた、相手の姿。

『─────ごめんなさい。私は、暁さんのことが…………』

 その形のよい唇が紡ごうとしているのは、恐らくは希が一番聞きたくない言葉で……。

「わああっ! うるさい、黙れっ!!

 まだ意識が混濁しているのか、普段の自分だったら決して彼女────に限らず敬意をはらうべき相手全般にだが────には投げかけない言葉を、口にしていた。予想もしなかった声が返ったのは、次の瞬間のこと。

「うるさいのはお前だっ!」

 それと同時に、顔面にぶち当たるやわらかな感触。恐らくは、枕かクッションであろうそれに驚いて目を開けたとたん、更に驚いたことに見たこともないような同年代の青年の顔が目に入った。

「……だれ、だ─────?」

 冷静になって考えても、見たこともない相手、だと思う。なのに、どうして自分は、そんな相手に見下ろされて横になっているのか、希は真剣にわからなかった…………。




        *    *    *




 志野田達(しのだとおる)は、ついさっき切ったばかりの恋人からかけ直されてきた電話に、驚きを隠せなかった。何か言い忘れでもあったかと思い、出たとたんに慌てふためいた彼女の声。

『トオル〜、どうしようっ』

「どうした? こんなわずかな時間に、何かあったのか?」

『さっき、市原とご飯食べてたって言ったじゃない? 戻ったら、市原ってばいつの間にかビール頼んでて、もうグデングデンになっちゃってるのーっ これじゃ自力で帰れなさそうだし、タクシーとかで送っていこうにも、あたし市原の家知らないのよ〜っ』

 貴絵の声は、ほとんど半泣きに近い。

「落ち着け、貴絵。親父の車借りて、いま俺も行くから。落ち着いて、もう一度店の正確な場所と名前を言え。いいな?」

 何とか彼女をなだめすかして、携帯で話したまま免許証を入れてある財布を持って、自室を出て母屋へと走る。車で通勤している父親は、少し前に帰ってきたはずだから、運がよければ車を借りられるだろう。もし借りられなければ、この際母親の乗っている軽自動車かタクシーでもいい。とにかく、酔っぱらった男と一緒にいる貴絵を放っておくことはできない。


「トオル!」

 達が貴絵から聞きだした店の前に着くと、不安だったのか店の入り口の前に立っていた貴絵が、ホッとしたような表情を見せた。

「今日バイトあったんでしょ、なのに、ごめん…っ」

 いつもの快活な様子と違い、いまにも泣き出しそうな貴絵を片手で軽く胸に抱き締めてから、その耳元で穏やかな声でささやく。

「仕方ないさ、こんな状況じゃ。それに、これはお前の責任じゃないから、気に病むな。その代わり、明日の休みに振り替えてもらったから、我慢してくれな」

 それは、いつもその日は貴絵とゆっくり過ごしているからこその言葉。

「うん…うん……」

「で? その困った同僚くんはどこだって?」

「あ、そっちで横にならせてもらってて……」

 貴絵と共に店の中に入ると、あからさまにホッとしたような顔の店員と目が合った。こういう酒も出す定食屋では、そろそろ次の客のピークが来る頃だろうから、例の彼のような客は困るのだろう。

「すいません、ご面倒をおかけして…すぐ、連れて帰りますから」

「いえ、いいんですよー」

 内心ではそう思ってはいないだろうが、こちらが客である手前そう強くも言えないのだろう。自分や貴絵は何も悪くないのにそんな風に思われるのは心外だが、元はといえば自分の友人である暁や夕映との三角関係の結果と思えば、仕方ない。もちろん暁にも夕映にも何の責任もないのだが。

「ほら、しっかりしろよ」

 この時がほとんど初対面の相手だったが────話だけは貴絵や夕映、暁からよく聞いていたが────こんな状態の相手に敬意をはらう必要もないだろうと思い、ぞんざいな口調で話しかけながらその腕を掴んで肩を貸して立ち上がらせる。相手はいまだ意識がはっきりしないらしく、何やら訳のわからない言葉を呟いている。会計は既に貴絵が済ませているという話だったので、貴絵が開けておいてくれた出入り口を通って、やはり貴絵がドアを開けてくれた車の後部座席に何とか相手を横たわらせて、足などを挟まないように気をつけながらドアを閉めた。

 そして、そのまま助手席に乗り込もうとする貴絵の肩に、軽く手をかけて制する。

「貴絵、お前は飲んでないんだろ? なら、自分の二輪に乗ってそのまま帰れ」

「えっ だって、こんなことになっちゃったのはあたしの責任だし、トオル一人に押しつけらんないよっ」

 ついさっき、「お前の責任ではない」と言ったにも関わらず、軽い時もあるけれど根はまっすぐな貴絵はそうは思っていないようだった。

「俺一人で大丈夫だよ。明日の講義は午後からだし、ちょうど今夜遅くまでかかりそうな課題もあるし、その合間に様子を見られるから」

「でも…!」

「あのな。こんな酔っぱらった男と、お前を同じ部屋に置いとくことのほうが、俺は嫌なんだよ。普段どんなにいい奴でも、酒が入ったら何しでかすかわからないんだぞ? しかも、こんな自棄になって酔いが回ってる相手ならなおさらだ。俺一人ならどうにでもなるけど、お前まで危険にさらすのは絶対に嫌なんだ」

 包み隠さず本音を語ると、ようやく貴絵は納得したようで、不承不承といった表情ではあったが小さく頷いた。

「……わかった。トオルの言う通りにする」

「よし。明日は、お前ら二人とも普通に仕事なんだろ? ちゃんと間に合う時間に、腕ずくででも叩き起こしてやるから、安心しろ。フッた直後に欠勤なんてされたら、夕映ちゃんも気に病んじまうだろうしな」

 夕映の性格もよく知っている達が言うと説得力があるのだろう、貴絵もそっと頷く。

「そうだよね…夕映も絶対気にするし、ひいては暁さんも罪悪感持っちゃうよね。あんな大怪我して療養中なのに」

「という訳だ。だから、あいつのことは俺にまかせて、お前は家に帰れ」

「うん…ホントごめんね、トオル……」

「気にするな。詫びはあいつ自身にきっちり入れてもらうし、お前にもそのうち別のことで奉仕してもらうから」

 言い終わると同時に、貴絵の唇に軽くキスすると、普段の達は外では滅多にそんなことをしないことをよく知っていることと、言葉の意味の両方に羞恥心を刺激されたのか、貴絵の頬が一気に真っ赤に染まった。

「も、もうっ」

「ははは。じゃあなー」

 その場に貴絵を残し────貴絵の二輪を置いてある職場までは徒歩でニ、三分ほどだというし、彼女の職場のそんな目前で妙な行為をはたらくような輩がいるはずもないだろうから、それほど心配せずに彼女に向かって軽く手を振ってから車を発進させた。笑顔で手を振り返す彼女────それでもやはり、どこか申し訳なさそうな顔だった────が見えなくなってから、彼女の前では決して見せない鋭い瞳で、バックミラーで後部座席で眠り続ける相手に視線を移して睨みつける。

 ったく。たかだか失恋で、俺だけじゃなく、貴絵にまであんな顔させやがってよ。

 本来の貴絵の性格がどれだけ明るく奔放か知っているからこそのセリフだ。「たかだか失恋」といっても、達には失恋経験はなく────あまり他人に言いたくはないが、昔から大人びていた彼は、恋愛に対してとくに夢を持つこともなく育ち、貴絵が初恋も同然だったのだ────希の気持ちは理解しきれないが、それでも愛しい貴絵に辛い思いをさせたことにそれ以上の憤りを感じていたのだ、希に対して不快な思いを抱いても無理はないことで……。

 そうしてまっすぐ家へと帰り、事前に母親や弟たちに頼んでおいた、自分のベッドの隣に敷かれた敷布団の上に、遠慮も容赦もなく希を転がした。夏だし、あとはタオルケットと、万が一のための洗面器や新聞紙でも用意しておけばいいだろう。

 幸い、希は気分が悪くなったりすることもなかったようで、車の中でも布団に移した後もぐうぐうとのん気な寝息を立てて寝ているだけだったので、非常に嫌ではあったが、希の穿いていたジーンズだけは脱がせてやって────単にまだ暑いこの時期にジーンズを穿きっ放しでは暑いし鬱陶しいだろうと思っただけで、他意はない。むしろ、貴絵ならともかく、何が悲しくて男の服を脱がさなければならないのかと腹が立ったくらいだ────自分の課題を適当なところまで進めてから、達は自分のベッドで眠りに就いたのだが。明け方になって、希がいきなり大声で叫んで安眠を妨害してくれたものだから、先にあったようにキレた訳である。それでなくても、翌朝は希が仕事に間に合うように、かなり早めに起きねばならないというのに、だ。

「……だれ、だ─────?」

「誰だ、じゃねえよ。てめえのせいで迷惑を被った人間の一人だよ」

 キレているせいで、普段とは比べ物にならないほど表情も口調も言葉遣いも荒いまま、答える。

「ったく。ひとの女に辛い思いさせやがって」

 希を睨みつけたまま外していた眼鏡をかけると、何やら考え込んでいた希は、ようやく思い当たったかのような顔を見せた。

「あっ もしかして、山下の…?」

「そうだよ、その山下貴絵のオトコだよ。どんだけ周りの人に迷惑をかけたかわかってんのかよ」

 貴絵だけではない。定食屋の店員たちに、自分に…。こんなことが表沙汰になったら、天原署の他の署員たちも肩身が狭くなるだろうし、何より暁と夕映まで気に病んでしまうだろう。

「そ、か…俺、自棄酒しちまって……すんません」

「たかだか失恋で、周りにこれだけ迷惑かけて自棄酒なんかしやがってよ」

 これにはさすがに希もムッときたらしい。

「たかだかって、あんただって失恋くらいしたことあんだろ!? そんな時、成人してたら飲みたくなる気持ち、わかるだろ!?

「わかんないね」

 間髪入れずに返した答えに、希が間の抜けた顔を見せた。

「俺は失恋なんかしたことないしな。最初に惚れた女とずっと付き合ってるから、ずっと幸せなまんまなんだよ」

 まあ、それでも多少のケンカなどはしたことはあるが。

「って、一人の女しか知んねえのかよ。そういや、山下が検事だか弁護士だか目指してるって言ってたな。経験の伴ってない頭でっかちかよ」

 希が、鼻で笑う気配。今度は、達のほうがムッときた。

「とっくに自覚してんのにウダウダやってて、結局鳶に油揚げさらわれた奴に言われたかねえなっ」

「な…っ 山下か有川に聞いたのかよっ」

「俺は暁さんとは貴絵や夕映ちゃんよかよっぽど長い付き合いだからな、ちっとバイクの趣味が合うからって、つい最近ポッと出の奴とは親しさの度合いが違うんだよ」

「けっ バイクのよさもわかんねえ坊ちゃんのくせによっ」

「そんで頭使わないで身体だけで勝負ってか、単細胞め」

「何だとうっ!?

 二人とも、もはや論点がズレまくっていることに気付いていないのは、いいことなのか悪いことなのか。既に話は夕映への失恋の話ではなく、どちらが暁とより親しいかにシフトしている。


 そして。

「けっ モヤシ野郎」

「うるせえよ、脳味噌きんにくん」

 貴絵や夕映と共に暁の見舞いに訪れて、互いにそっぽを向きながら悪態をつき合う二人の姿があった。

「いつの間に知り合ってて、あんなに親しくなったんだ?」

「さあ…?」

「でも…何か楽しそうだよな」

 双方とも普段はどちらかというと大人びているというのに、二人でやり合っている時は年齢相応の表情や雰囲気になっていることに、本人たちだけが気付いていない。

「あんなトオル見るの、初めてかも…」

「市原くんもよ。男同士だとあんなケンカする人だったのね」

「ま、いいんじゃねえの? あの歳の男なんて、あんなもんだよ」

 次の瞬間、皆に一斉に視線を向けられて、暁が居心地が悪そうに身じろぎをする。

「暁さんだって、ひとのこと言えない歳でしょうにーっ」

 次の瞬間、暁は四人の控えめな笑い声に包まれて、ばつの悪い顔を浮かべる羽目になった。

 そうして不本意ながら、希と達にはお互い新たな友人が一人増えたのであった………………。





    





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2013.3.1up

夕映に失恋した市原のその後です。
双方ともに、まさかこんなことになるとは
思っていなかったでしょうけど
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まさに「なかよく○○○しな」状態ですね。
番外編、残るはラスト一話です。

背景素材「空に咲く花」さま