──────初めて逢った頃から、何故だか心惹かれていた。





 その気持ちを何と呼ぶものなのか、気付いたのは最近だったけれど。

 そんなことを思いながら、職場の廊下を歩いていた市原希(いちはらのぞむ)は、開け放たれたままの出入り口の向こうにひとりの女性の姿を見い出して、口元にふと笑みを浮かべてしまう。つい最近、彼が想いを自覚したばかりの相手────有川夕映(ありかわゆえ)だった。

 生真面目で融通がきかず、お固いだけの女性かと思っていたけれど、ふとした時に見せる気を抜いた時の表情が可愛らしく、さりげない優しさ────決して相手に負担をかけないように、気付かせないようにフォローする細やかさに気付いてつい目で追っているうちに、いつの間にか希の心の中で誰よりも大きな割合を占める存在となっていた。そんな彼女に、付き合っている男がいると知った時の嫉妬の炎は、彼女本人の口から真実を聞いたいまでも、希の胸をちろちろと焦がして消えることはない。恐らく、彼女が例の彼から解放されるその時まで、消えることはないのだろうと自分でも思う。

「のぞむっちゃんてば、何見惚れてるの〜?」

 にやにや、と擬音でもつけたくなるような楽しそうな声が、背後から耳元に届いたのは、次の刹那。

!!

 驚いて振り返ると、記憶の中にあるその姿よりかなり大人っぽくなった相手が、人の悪そうな笑みを浮かべてそこに立っていた。昔は毎日といっていいほどに会っていたというのに、いまではほとんど顔を合わせることがなくなっていた、懐かしい存在だ。

「芳本警部補…驚かせないでくださいよ」

 非難がましい瞳と口調で告げるが、相手はまるで気にする様子もなく、希が見ていた方向に視線を向けて、ようやく得心がいったという顔を見せた。

「ああ、あのコを見てたのね〜……」

「よ、芳本警部補! ご案内致します、どうぞこちらへっ!!

 相手の言葉をかき消すようにより大きな声で言いながら、彼女を連れて離れた場所へと歩き始めた。行き先などどこでもよい。とにかく、他の人間に会話を聞かれなければよいのだ。

 希が選んだのは、建物の端のほうに位置する資料室。ここならば、そう滅多に人が訪れないので、個人的な込み入った話をしても大丈夫だろうと判断したのだ。

「どうぞ」

 言いながら、自販機で買ってきたカフェオレの缶を渡す。「ありがとう」と言ってそれを受け取った相手は、昔とまるで変わらない笑顔を見せた。昔は長くしていた髪をいまはばっさりと短く切って、その美貌もスタイルも以前とは段違いになって、まるで宝石の原石が磨かれて本来の輝きを放つように美しくなった相手だが、中身は昔と大して変わっていないようだ。それは、国家公務員採用試験一種に合格し、いわゆる「キャリア」と呼ばれる立場になって大学卒業後警視庁の警部補となったいまでも変わらないようで、プライベートの時にはこうして人懐こい笑顔を見せてくれる。

 そんな相手と、希がどうして知己の仲かというと、単に彼女が希の姉の昔からの親友であったから、という事実が存在するからだ。希が警察官を目指したのは、昔からの夢だと話していた彼女の影響もないとはいえないが、何より大きかったのは子どもの頃から街中などでよく見かけた白バイ隊員への憧れであったことも、まぎれもない事実。

「あら、希くんてばブラックなんて飲むようになったの? 大丈夫? 無理してない?」

「無理などしていません」

 そう。実際無理などしていない。希ももう成人して久しいのだ、いつまでも子どもの頃のままではない。

「やあだ、敬語なんてやめてよー。昔みたいに『みっちゃん』って呼んでよー」

「まがりなりにもここは職場ですので、公私の区別はつけるべきだと思いますが」

 姉のように慕う気持ちはいまも変わらないが、個人的な知り合いだからといって馴れ合うのはさすがによくないと思ったので、彼女だけ近くの堅い箱に腰を下ろさせて自分は立ったまま缶コーヒーを喉に流し込む。そんな希に一瞬拗ねるような表情を見せた彼女だったが、すぐにいたずらっぽい笑顔を浮かべて、希を見上げてきた。

「ね、さっきの彼女って、希くんと同じ交通課の有川さん…でしょ? 相棒の山下さんと並んで、本庁でも男性職員たちの話題にのぼることが時々あるのよー」

「っ!」

 その言葉を聞いた瞬間、予想もしてなかったがために、希は気管にコーヒーをうっかり流し入れてしまい、非常に苦しい思いを味わうこととなった。

「ちょっと、大丈夫!?

 心配そうに声をかけてくる相手に片手を上げて応えながら、懸命に平静を取り戻す。

「勘弁…してくれよー……」

 何とか落ち着いてから、思わず敬語を忘れて呟いた言葉に、相手の瞳が輝いた気がした。

「やっぱり、彼女のこと好きなの? 彼女、仕事ぶりも性格も評判いいみたいだしねー。初めて会った時はあんなに小さかった希くんが、そんな風に恋をするようになるなんてねー、恵(めぐみ)と一緒にずっと見守ってきたんだもの、感慨深いわー。で? もう告白とかしちゃったの?」

 もう、こうなると逆らう気力すらわいてこない。ちなみに「恵」とは希の姉の名で、短大を卒業して勤め始めた会社での同期の男性と付き合っており、婚約も時間の問題かと言われている。

「告白はしたけど……まだまだ問題があってね。いまのところ、向こうが落ち着くのを待ってるとこ…って感じかな。それ以前に、まず俺を男として意識させるのが先かも知れないけど」

「あらあら。希くんも苦労してるのねー。あたしにできることがあったら、何でも言ってね、協力は惜しまないから」

「いや、それには及ばないと……思います」

 現状を思い出して、途中から言葉を改める。

「やだ、もう戻っちゃった、つまんない」

 彼女がまた拗ねたような顔を見せるが、見なかったことにする。

「それより、お約束していただきたいことがあるのですが」

「わかってるわよーう。彼女のことは内緒にっていうんでしょ? 大丈夫よ、恵にも秘密にしておくから。婚約前の大事な時期に、心配かけたくないものねー」

「快いご承諾、感謝致します」

「ところで」

 資料室を出る前に外の人の気配を探っていたところで────共に出るところを目撃されて、誤解されて夕映の耳にでも入れられたらたまらないからだ────彼女が再び口を開く。

「有川さんて、下の名前は『夕映』さんっていうんじゃなかった?」

「そうですが……それが何か?」

「知ってる? 『ユエ』って中国語で月を意味する言葉だってこと」

「……!」

 月─────言われてみれば、ぴったりな気がする。いつも彼女のそばにいて、明るく場を和ませる貴絵を太陽だとするならば、静かに、けれどいつも皆を見守って困った時にはそっと導いてくれる夕映は、確かに月といえるかも知れない。恐らくは、本人にはその自覚はないだろうけど。

「…警部補は、博識でいらっしゃるんですね」

「だって、自分の名前のことですもの♪」

 そう言って、彼女─────芳本美月(よしもとみつき)は楽しそうに笑う。

 資料室を無事出てから、署長室へと向かう美月を見送って、希は自分のホームともいえる交通課へと戻る。まず目に入ったのは、やはり誰よりも愛しい彼女の姿。やはり、自分は彼女のことが好きなのだと再確認する。

「有川、今朝の書類のことで質問があるんだけど、ちょっといいか?」

「なあに? 市原くん」




──────大丈夫。たとえ何があっても、彼女の笑顔があれば自分はきっと、乗り越えて行ける。そんな想いを胸に、希はゆっくりと彼女に向かって歩き始めた…………。


    





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2013.2.25up

いままで書いたことのない市原の胸の内です。
まだ三角関係だった頃に書いたものなので、
もう結末は見えていますけどね…。

背景素材「空に咲く花」さま