──────それは、ちょっとした噂から始まった。





「聞いたか? 六組の志野田(しのだ)がうちのクラスの山下を好きらしいってよ」

「貴絵、噂…聞いた?」

 中学二年に進級してすぐの春。親友の有川夕映(ありかわゆえ)が訊いてくるのに、山下貴絵(やましたきえ)は軽い調子で手を振って答えた。ポニーテールにしたセミロングの髪が、その後頭部で揺れる。

「デマに決まってんじゃん。志野田ってあれでしょ? 学年一位を毎度キープしてる秀才の。そもそも顔と名前しか知らないような相手よ? 一度も口をきいたことない相手に、どうやったら好かれるっていうのよ」

「わかんないわよ? どこかで貴絵のいいところを見て好きになっちゃったとか、あるかも知れないじゃない」

「ないない。少女漫画の読み過ぎよ」

 などと話していたから。それから数日経ってからの授業終了時に、夕映がかけてきた声にも普通に答えていた。

「貴絵ー、次の授業って体育よね、更衣室行こう」

「あ、ごめん、あたしいまの授業で教科書忘れて六組の理奈ちゃんに借りてきたから、返してから行かなきゃ」

「お、山下、六組に行くのか?」

 それを聞きつけた、ついさっきまで授業をしていた教師が声をかけてくる。

「それがどうかしました?」

「ちょうどいい、志野田に職員室の俺のところに来るように言っといてくれや」

「えーっ」

「頼んだぞ」

 言いたいことだけ言ってさっさと出ていかれては、断ることもできない。ついでだし、仕方がないなと思いつつ、体操着とシューズの入った袋と借りた教科書を持って六組に向かう。

「理奈ちゃん、これ助かったわ、ありがとうね」

「どう致しまして」

 無事教科書を返してから、六組の教室内を見回す。

「貴絵ちゃん、どうしたの?」

「うん、ちょっとね…あ、いたいた。志野田ーっ!」

 ちょっと離れたところで他の男子と話していたある男子の姿を認めて声を張り上げたとたん、教室内が一瞬静まり返って。向けられる複数の視線に何となく居心地の悪さを感じながら、貴絵はこちらに向かって歩み寄ってくる少年の姿をじっと見つめていた。たまに姿を見かけるだけだったからよく知らなかったけれど……少し茶色がかったやわらかそうな髪の、他の男子より少々背が高めの少年だった、志野田達(しのだとおる)という少年は。

「…なに?」

 眼鏡の奥の瞳と声はクールそのもので、やはり自分とはまったく違う世界の人間だなと貴絵は思った。

「三田村先生に、職員室に来るように伝えてくれって頼まれたのよ。確かに伝えたからね、じゃあ」

 言うだけ言って、返事も待たずにあっさりと貴絵は六組を後にする。何故自分があんな居心地の悪い思いをしなければならないのかと思いながら。


 それから。

「先生、今日の日直ですけど何のご用ですか?」

 昼休みの職員室。午後一の授業の担当教諭の元に訪れた貴絵に、教師が不思議そうな顔を見せた。

「あれ? 山下、何で一人なんだ?」

「同じく日直の吉田くんは、気分が悪いって言って午前中で早退したんです」

「そうか…でもお前なら一人で大丈夫かな」

「は?」

 教師が渡してきたのは、一枚の紙片。

「今日の授業で使う資料なんだが、授業が始まる前に図書室から持ってきておいてくれ」

「えっ これ結構量ありますよ、いくら何でも一人じゃ…!」

「無理なら、誰か他の奴に手伝ってもらえ」

 取りつく島もない。だいたいいまのこの時間では、一度教室に戻って図書室に行っていたら、絶対授業に間に合わない。仕方ない、一人で何とかするしかないかと思い、貴絵は図書室へと急ぐ。

 どうも一部の教師や男子たちは、貴絵を女の子扱いしていない節がある。いくらスポーツ万能で他の女子より体力があって、家が道場を営んでいるからといっても、貴絵とて普通の女の子なのだ。いかにもか弱い女の子といった風情の────ほんとうはそれだけでないことを、貴絵はよく知っているのだが────夕映だったならちやほやするくせに、貴絵相手となるととたんにぞんざいになる連中に、貴絵は内心で怒りを押し殺す。

 案の定、資料を全部揃えたら、かなりの量で。いかに貴絵といえども、一人ではかなり辛い重量となっていた。だから言ったじゃないのと思いつつ、まとめて持ち上げようとしたその時。貴絵の眼前にあった資料の本が、半分弱の量に突如減った。消えたとかいうことではない。横から伸びてきた二本の腕が、ひょいと上部にあった本を取り上げたせいだ。

「え?」

 思わずそちらを見た貴絵の視線の先に、先日初めてまともに口をきいたばかりの少年─────志野田達が立っていた。

「時間、ないんだろ? 手伝うから、さっさと運んじまおうぜ」

 それだけ言って、貴絵の返事を聞かずに志野田は図書室から出ていこうとする。

「ま、待って…!」

 残りの本を持って、貴絵も慌てて後を追う。

「何で手伝ってくれるの?」

「俺も用事があってたまたま図書室にいたからさ。ついでだから」

 そっけない口調。けれど、貴絵は気付いていた。つい先刻、職員室にいた時に他の教師と話している志野田の姿を、自分の視界の端でとらえていたことに。図書館にいたなんて、嘘ばっかり。貴絵が大変そうなのを聞きつけて、わざわざ手伝いに来てくれたのだろうか?

「…ありがとう。志野田って、冷たい奴かと思ってたけど、案外親切なんだね」

「俺、普段どんな目で見られてんだよ」

 ほんとうに他愛のない会話だったけれど。胸の奥が何となく暖かくなってくるのを、貴絵は確かに感じていた。志野田のクラスである六組では、「一組の山下が志野田を好きらしい」という噂が流れていると理奈に聞いたのは、その、直後のこと…………。

 驚愕の真実が明かされたのは、その二日後のことだった。隣のクラスの篠原という名の少年と、五組────志野田の隣のクラスの山上という名の少女が付き合い始めたというのだ。噂はあっという間に学年中に広まった。

「なあんだ。『しのはら』と『しのだ』、『やまがみ』と『やました』の間違いかあ」

「変だと思ったんだよな、志野田と山下が、なんてさ」

 皆、好き勝手なことを言っている。

「貴絵……」

 何となく心配そうな顔をしている夕映の前で、貴絵は何も気にしていないような顔でにっこりと笑ってみせる。

「だから言ったじゃない、デマに決まってるって。あー、スッキリしたっ」

 胸のどこかで隙間風が吹いているような、そんな淋しさを感じたのは、夕映にも言えない事実だったけれど。こんなもの、時間が経てばきっと消えてなくなってしまうに違いない。そう思いながら貴絵は、自分でもよくわからない感傷を胸の奥にしまい込んだ……。


 その後しばらくは、志野田との接点もなくて。季節は、初夏を迎えようとしていた。貴絵たちの中学では、毎年この時期に球技大会が開催されるため、夕映と共にバレーボールを選択した貴絵は、体育館で別のクラスとの試合に臨んでいた。勉強はともかく、スポーツなら貴絵の見せ場といっていい。まさに独壇場といえるほどの活躍で────自分だけが目立つようなことばかりでなく、他のチームメイトのフォローやアシストも忘れない────ストレートで自クラスを勝利に導き、チームメイトや応援の女子と共に喜び合う。

「貴絵、すごーいっ」

 応援席で声援を送っていた夕映も嬉しそうだ。そんな夕映に笑顔で応えてから、貴絵は体育館を出ていこうとする。

「貴絵、どこ行くの?」

「顔洗いたいんだけど、そのへんの水道は混んでるじゃない? 穴場のとこ知ってるんだ、そこ行ってくる」

「あたしももう少ししたら試合なんだ、そこ後で教えてねー」

「おっけー」

 夕映と別れて、靴を履き替えて表に向かう。適度に汗をかいて火照った身体に、初夏の風が気持ちいい。持参のタオルをもてあそびながら、貴絵は件の水飲み場へと向かう。あとはそこの校舎の角を曲がるだけだというところで、聞こえてくる水音。珍しい、自分以外にここの存在に気付いている人間がいるとはと思いながら、角を曲がる。

 それは、ひとりの男子。荷物置き場のようになっている、いくらか高い所に眼鏡を置いて、バシャバシャと顔を洗っている。何年生かはわからないが、サッカーを選択した男子だろうか。長めの前髪や横の髪が顔にかかっていて、顔まではわからない。濡れた顔を下に向けたまま、荷物置き場を手探りでまさぐって、何かを捜している気配。もしかして、タオルを持ってきていないのを忘れているのだろうか。戸惑っているような相手の姿を見て、誰とも知れない少年に貸すのは抵抗があったが、困っているのを見過ごす訳にもいかない。この人の好さが自分の弱点かもと思いつつ、「はい」とだけ言って少年に自分のタオルを渡す。

「あ、ありがとう」

 貴絵のタオルで顔の水滴を拭った少年が、ふいに顔を上げる。その顔を見て、貴絵は驚いてしまった。眼鏡こそないが、その顔は見覚えのある志野田少年のものだったからだ。

「……山下?」

 あちらも、貴絵の顔を見て驚いたようだった。

「あ…これ、サンキュ」

「いーえー」

 タオルを受け取って、何となく志野田から水道一つ分空けた所のカランに手をかけた所で、横からかけられる声。

「…………山下は、どこの高校受けるかもう決めているのか?」

 唐突な質問に、貴絵の手が止まる。

「ハッキリ決めた訳じゃないけど……夕映と同じD高校に行けたらいいなって思ってる。あたしの頭じゃ、その一、二ランク下のU高やH高くらいしか行けないかも知れないけどね」

 情けないけれど。たはは、と笑いながら答える。

「『夕映』って、有川か…」

 さすがに夕映の名は知っていたか。自分と違って、夕映は学年でベスト20に入る成績だし。

「もし、勉強で困ることがあったら……俺のとこに来いよ。教えてやるから」

 眼鏡をかけながら、予想もつかないことを言い出す志野田に、貴絵は思わずそちらを向いてしまった。

「なん…で…?」

 彼と自分は、別に友達でも何でもないのに。すると彼は、一瞬困ったような顔をして、それからすぐにニッと笑ってみせた。

「別に。ただ、お前と同じ高校に行ったら面白そうだなと思っただけだよ。タオル、サンキュ。じゃあな」

 そう言うだけ言って、志野田は走っていってしまったから。後には、訳がわからずに茫然としている貴絵だけが残される。

 え? いったいどういうこと? 「面白そう」って何? 友達としては面白そうだけど、女の子としては見てないってこと? もう、何が言いたいのかわかんないわよっ これだから、頭のいい奴はっっ

 何が何だかわからないまま、内心でぶちぶちと文句を並べる。だから、気付かなかった。その言葉こそが、頭脳こそ明晰なものの、自分の中に初めて芽生えた感情すら解明しきれていない志野田少年の、それでも精いっぱいの意思表示だったということに。

 それに気付くのは、それから約二年後の……夕映と志野田少年の助力に支えられ、何とか同じD高校に入学し、同じクラスになった彼に告白された夏のこと。




──────その後の貴絵の人生を変える夏になったことは、言うまでもない…………。



  






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2013.2.23up

このふたりにもこんな初々しい時期があったのですよ(笑)
互いに意識するようになってからどういう経過を経て好きになったのか…
それはそのうち書くかも知れないし、書かないかも知れません(どっちだよ)

背景素材「空に咲く花」さま