〔8〕
そんな暁の思考を打ち切るように、夕映が暁の背後からスッと歩み出たのでハッとする。その背を見やると、同じように夏美の背後で呆気にとられているかのような慎二と目が合った。慎二にも、理解しがたい感情なのだろう。 「どこが好きか、ですか?」 そんな暁や慎二の気持ちとは裏腹に、夕映は冷静そのものの声で答える。 「そうよ。言えるもんなら言ってごらんなさいよっ」 すると夕映は、口元に片手の人差し指を軽く当てて、少々考え込む素振りを見せた。 「……優しいところ…でしょうか」 夕映がそう答えたとたん、夏美の表情が意地の悪さを感じさせる笑顔に変わった。 『ほらごらんなさい、そんなありきたりなところしか見ていないくせに、暁を好きなんて笑わせるわっ』 声こそ違えど、一言一句違わぬ言葉が、二人の女性の唇からほぼ同時に迸った。あまりの衝撃に、暁と慎二、そして当の夏美さえも驚きに目をみはって夕映を見やる。 「あらやだ、こう返すんじゃないかと思ってた言葉が、ぴったり当たっちゃったみたいですねー。さすがに私も驚いちゃいましたわ」 「な…!」 再び鋭い視線を向ける夏美に、先刻────店の中で初めて顔を合わせた時だ────には一瞬怯んでしまっていたらしい夕映は、いまはまるで動じていない。以前自分と父親の前でひったくり犯たちを捕まえた時と何ら変わっていない冷静さだ。 「……もしここで私が全然違う理由を述べたとしても、貴女は結局同じようにして認めやしないのでしょう? なら、真面目に相手をするほうが馬鹿みたいじゃないですか」 夕映の言葉は図星だったらしく、夏美は顔を真っ赤にしてとたんに言葉に詰まったようだ。 「そもそも暁さんは、貴女の真剣な告白に対して、真摯に向き合ってお断りの返事をしたと聞いています。そして私も暁さんの気持ちに応えて、お付き合いを始めました。貴女にとっては辛い事実でしょうけど、暁さんにも私にも何ら非はありません。それでもこうしてつきまとったり言いがかりとしかいいようのない議論をふっかけてくる貴女の行為は、私たちにとっては迷惑以外の何物でもありません。一度でもご自分の行動について省みたことがおありですか? 貴女がそうやって自分のことしか考えずに行動することによって、いままで暁さんの中に築いてきた友人としての評価まで下げることになりかねないんですよ?」 「な、何よ、つい最近ぽっと出てきただけの女がえらそうにっ!」 反論の余地をまったく残すことがないほどの正論を一気にまくしたてた夕映の前で、夏美が右手を高く掲げ、夕映に向かって振り下ろした! 「夕映っ!」 「夏美っ!!」 とっさに止めようと動きかけた暁と慎二の目前で、夕映の身体が緩やかに動き────決して速度は遅くはない。けれど、その躊躇いも無駄もない動作が、暁の目に緩やかなそれに見せつけるのだ────まるで舞踊でも見ているかのような錯覚を与える。恐らくは、武道で培った鍛錬の賜物だろう。夏美の平手は夕映にかすりもせず、虚しく空を切った。 「な…っ!?」 「…状況や議論でかなわなかったら、次は暴力ですか? それでは、そこいらへんの品のよくない方々と何ら変わりはしませんね。貴女がそうして足掻けば足掻くほど、ご自分の立場を悪くする一方だということに、気付いておられます?」 なおも容赦のない言葉を、夕映が投げつける。恐らくは、夏美をとことん怒らせて、それから冷静に戻らせるつもりなのだろうが────人間、一度怒りたいだけ怒ってしまえば、落ち着いた時には冷静に考えることができるようになるものだ────わかっていても、夏美の心情を思うとやはり胸が痛む。そして同じようにハラハラとした表情で女性二人を見守っている慎二に気付いて、もしかしたら夕映のこの糾弾の言葉は、慎二に夏美への想いを伝える決心を固めさせるためのものかも知れないと思った瞬間、夏美が信じられない言葉を口走った。 「あーそう、あんたの言うことはすべて正しいんでしょうね、ご立派よ。どうせあたしはどうしようもないバカですよ、生きててもしょうがないわよねー。あーもう、ならもういっそ死んじゃおうかしらねー。あんたたちも、そうすりゃせいせいするでしょ!?」 完全に自暴自棄になっていて、恐らく夏美自身にも自分が何を言っているのかわかっていない状態なのだろう。いままで見たこともないような投げやりな表情になって、ファミレスに隣接している片側二車線の道路に向かって走り出した! マジかよ、冗談じゃねえぞっ!? 暁とて、こんな結末を望んでいた訳ではない。ただ、夏美が自分を以前のように友人として見てくれさえすればそれでよかったのだ。決して、彼女を傷つけようと思って夕映に恋人役を頼んだ訳ではない! 「夏美っ!!」 必死の形相で夏美を止めようとした暁や慎二より速く、誰かが動く気配。信じられないことだが、四人の中で一番小柄な夕映が、誰よりも速く夏美に追いついてその手首を掴み、手加減など感じさせない勢いで彼女を引き倒した。そしてそのまま彼女の上に馬乗りになって、起き上がることさえできないような体勢に持ち込む。 「な…邪魔しないでよ、あたしは死にたいんだからっ!!」 「!」 次の瞬間、暁は更に信じられないものを見た。夏美の上に馬乗りになったままの夕映が、無言のままに右手を閃かせ、目にも止まらぬ早業で夏美の頬を張り飛ばしたのだ! 「ゆ…っ!?」 誰も、声が出せなかった。暁も慎二も……殴られた当人の夏美さえも。 「な…何するのよっ!!」 一拍の間を置いて、ようやくハッとしたらしい夏美が、勢いよく上半身を起こしかけて声を上げた…が。それに応えることなく、立て続けに見舞われる夕映の平手打ち。普通のもののみならず返る手の甲で浴びせかける裏拳と呼ばれるものも含め、まさに往復ビンタの嵐だった。さすがに見かねて暁は夕映の両手首をつかみ、夏美の上から引き剥がし、自分の前で丁重に立たせる。その間に慎二は夏美を助け起こし、手を貸して何とか立ち上がらせていた。 「信じらんない、言葉で人をさんざん傷つけた後は、今度は本物の暴力!? それでよく他人の性格のことなんか言えたわねっ!」 夏美の言うことももっともだ。けれど、暁の胸に背をあずけるような形で立っていた夕映が、これまで聞いたこともないような悲痛な響きを宿した大声を上げたので、そんな思いも一瞬で霧散してしまったけれど。 「口で言ってもわかんないようなバカには、身体でわからせるしかないでしょうっ!!」 先刻までの冷静さはいったいどこへいったのかと思うほどの、余裕のない叫びだった。 「『死にたい』だなんて……本気で思ってもいないくせに、軽々しく口にするんじゃないわよっ!!」 「なっ!?」 「生きたくても生きられない人だっているのに、よくもそんなことが言えるわねっ 本気で死にたいってんなら、その人たちにその命をあげてよっ 死にたいと思いながら生きるぐらいなら、そんな人たちが生きたほうがどれだけ有意義だか知れないわよ!」 最後のほうは、もはや言葉にならないほどに震えていて……暁の手のひらに伝わってくる感覚から、顔を見なくても、夕映が泣いていることはすぐにわかった。だから、抑え込むように掴んでいたその手を放して、夕映の身体の向きを変えさせてみずからの胸の中に抱き締める。 理由はわからない。けれど、これほどまでに傷ついている夕映を放っておくことなどできなくて─────他の人間の目に晒すことなどしたくなくて、強く強く…抱き締めていた。 「─────慎二」 茫然としているのは二人とも同様だったが、いま夏美に話しかけることは、自身の心の導火線の短さをよく知っている暁には無理なことだったので、あえて慎二一人の名を呼んだ。 「あ…な、何だ?」 「悪いけど、いますぐそいつ連れて帰ってくんないか。いまの俺はたとえ女でも許せる気がしねえから」 それは、偽らざる本音。夕映とはほんとうはただの友人同士で────それも付き合いは他の誰よりも浅く、彼女の性格すら完全に把握しきってもいない────そういう感情など一切持っていないというのに、彼女を傷つけるものすべてを許せないとさえ思っている自分がそこにいた。暁自身にも、みずからの抱くこの感情がどういう類いのものかわかっていないというのに。もしかしたら、妹に抱くそれと変わらないものなのかも知れないけれど。それでも、夕映を悲しませたくないと思う気持ちは確かだったし、できるならいつでも笑っていてほしいと思っているから──────。 「……わかった」 慎二はそれ以上何も答えず、片腕で夏美を促してその場から立ち去っていった。夏美はまだ納得していないようだったが、暁の迫力に気圧されたのか、何も言わないままで慎二に連れられて歩いていった。夕映を抱き締めたまま端に避けた暁の前を、見覚えのある車が一台、停まることもせずに通り過ぎていく。 さすがに店の中にいる他の人間から見えない位置ではあったが、このままではいつ店から出てくる人間に見られるかわからないと思い、夕映を胸に抱いたまま少しずつ歩を進めて、夕映が落としたバッグを拾いつつも店の裏手へと移動する。夕映は暁の胸に顔を埋めたまま、ひとことも発しようとはしない。夕映の過去など何ひとつ知りはしないが、普段はあれだけ理知的な夕映がここまで取り乱したのだ、夏美の言動の何かがよほど彼女の心を傷つけたに違いないのだ。そしてそんな顛末に至らせるきっかけになったのは、誰でもない自分自身で────いくら夏美の押しに困っていたとはいえ、他にも方法がない訳でもなかったのに、半ば強引に夕映に恋人役を押しつけたのは自分なのだ────だからこそ、夏美に対してより自分自身に対して更に大きい怒りがわいてくる。 何やってんだよ、俺は……自分のことだってのに自分自身で対処しきれないで、結果こんな風に女の子泣かせて──────。 以前の夕映宅のキッチンでの騒動の時にも思ったけれど、こうしてしっかり抱き締めていると、夕映の肩の細さをより意識させられて、少々気が強いだけでほんとうに普通の女の子なのだということをまざまざと痛感させられる。 「ご…ごめ、んなさ……もっ、とうまく…やる、つもり…だったの、に…………」 みずからの胸の中で、小さく身じろぎをした夕映がささやいた声が耳に届いた。 「気にすんな。悪いのは、元はといえば俺と夏美なんだから」 それはまぎれもない本音。つい数時間前に頼んだばかりだというのに、夕映をこんなにも傷つけてしまったことで、もう自分自身の行動を後悔していた。だから、夕映の気が済むまで、いつまででもこうしていてやりたかったのだけど。夕映は気丈にも、片手を暁の胸に当てて、その身を離したのだ。さすがにもう片手で、顔の下半分を覆ってはいたけれど。 「ごめんなさい……ジャケット、ひどいことにしちゃって…クリーニング代、払わせてください」 まだ涙も止まっていないようなのに、自分のことよりも暁の服のことを気にしているらしい夕映に、胸が熱くなる。こんな時ぐらい、自分を抑えなくてもいいのに、と。 「気にしなくていい。そんなことより、どれだけ詫びても足りないくらいあんたを傷つけて……誰より自分に腹立ててるんだ。ホントに…ごめん。夏美の気性の激しさを甘く見てた」 「べ、別に暁さんが悪いんじゃ……」 ポケットからハンカチを出して涙を拭いたり顔に当てていた夕映の肩を片手で掴んで、ぐ…っと引き寄せる。申し訳ないと思う気持ちを思いきり込めて、夕映の艶やかな黒髪に顔を埋める。かすかに香るのは、シャンプーの匂いだろうか。そんなことを考えている場合でもないのに、暁の思考力を一瞬奪うほどの芳香が鼻腔をくすぐった。 「あ…暁さん…っ」 慌てふためいたような夕映の声が耳をついて、そこでようやくハッとする。 「あ…っ わ、わり……」 暁の腕の力が緩むと同時に、夕映は暁の手からバッグを受け取って、暁に背を向けて身支度を整え始めたようだった。さすがにそんなところは他人に見られたくないだろうと思い、暁も無言でそっと反対側を向く。つい先刻まで、夕映の肩を抱き締めていたみずからの腕や片手を見つめながら。 何…やってんだよ、俺は……。謝ったり詫びたりするのが先だろ、何抱き締めちまったりしてんだよ…………。 自問しても、「抱き締めずにはいられなかったから」という答えしか返ってこない。そんなことは理由にならないことは、暁自身が一番よくわかっている。けれど、あんな夕映を見たら、抱き締めずにはいられなかったのだ。男だから、女の涙に弱いというのももちろんあるだろうけど、それだけではない何かが、あの時の自分の中には確かに存在した気がして……けれど、それが何かと問われると、まったくもって手がかりさえもつかめはしない。 そんな風に内心で混乱している────表面にはまったく出さなかったけれど────暁の背に、かけられる声。 「お待たせして…ごめんなさい。もう、大丈夫、ですから……」 振り返ると、まだ少し赤い目をした夕映がそこに立っていた。目元は少し腫れぼったくなってはいたけれど、涙はちゃんと止まっていて、少なくとも明日には元の可愛らしい顔立ちに戻っているだろうと思えるほどのものだった。 「大丈夫か? そんじゃ、これ以上遅くなっても悪いし…家まで送ってくわ」 言いながら、バイクを駐めておいた場所までふたりで歩いていって、来た時と同じように夕映に予備のヘルメットを渡す。夕映の家は、既に一度行っているから訊かなくても場所はわかっている。夜間ということもあって、あまりスピードを出し過ぎない程度の速度で夕映の家へと向かって……夕映の家の前で、一度エンジンを切ってからバイクを下りて、夕映からヘルメットを受け取って定位置に収納してから、みずからがかぶっていたものも外してハンドルに引っかける。 そして、不思議そうな顔をしている夕映の前で、深々と頭を下げた。 「ほんとうに……悪かった。俺がよけいなことを頼んだばっかりに、嫌な思いをさせて…。軽率だったと、心から反省している」 とたんに、夕映が慌てだす気配。 「そ、そんなっ 暁さんが悪い訳じゃないってさっきも…っ あれはただ、私が個人的なことで勝手に腹を立てて後先考えずにやっちゃっただけで、あの夏美さん?にもちゃんと謝らなきゃって思ってるぐらいで……!」 それでも。たとえ暁や夏美とは関係のないことが理由だったとしても、原因は自分たちにある訳で。それこそ、夕映には申し訳のないことをしたと暁は思っているから。だから。 「こっちこそ勝手だと思うけど、今夜悪い夢を見ないで済むまじないをしてやるよ」 「え?」 言うが早いか、目前の夕映に一歩大股で近付いて、ほんのちょっと手を伸ばすだけで簡単に触れられる位置に立ってから、そっとそのまっすぐな前髪を持ち上げる。そして、そこに予想もしていなかったものを見い出して、ぎょっとする。古いものなのか、かなり目立たなくはなっているものの、少々斜め気味に横一文字に入った傷跡──────。 そんな暁の様子にハッとしたのか、夕映が慌ててその傷を隠そうとするが、それよりも速くそっとその傷跡の上から唇を押し当てる。驚きはしたが、別に触れたくないとかそんなマイナスの感情を抱いた訳ではなかったから─────むしろ、こんなにか細い身体の女の子にこんな傷跡が残っていることに痛々しさというのか庇護欲というのか、とにかくそんな感情を刺激されたのだ。だから、ありったけの想いを込めて、あえてその傷跡の上から口づけた。 夕映から離れると同時に、ヘルメットをかぶり直して、バイクにまたがって再びエンジンをかける。 「じゃあ、な。おやすみ、またな」 「あ、はい…おやすみなさい……」 いつもの彼女らしくなくぼんやりとしている夕映の声を聞きながら、暁はバイクを発進させる。バックミラーで、ようやくたったいま自分に起こった出来事を認識して、顔を真っ赤にして慌てふためきだす夕映を確認して、口元に笑みを浮かべながら───────。 |
2013.1.8up
暁の想像を絶する女の戦い。
女とて、負けられない戦いが存在するのです。
そして、暁のおまじないは効くか否か?
背景素材「空に咲く花」さま