もっとうまくやるはずだったのに──────。


　夕映の心は、その思いのみに支配されていた。だから、あえて夏美を傷つける言葉をぶつけて怒らせたというのに、とっさに飛び出たに違いない夏美の言葉に、我を忘れてどうするというのだ。

　ほとんど売り言葉に買い言葉のようなもので、夏美自身ほんとうにそう思って言ったのではないことは、頭ではわかっている。けれど、夕映にとってあの言葉は、どうしても聞き流すことなどできない言葉で。脳裏を、最後に見た陽香の笑顔がよぎったと思った次の瞬間には、気付いたら夏美の身体を抑えつけて、何も考えられない状態のままに何度もひっぱたいていた。もし暁に止められなかったら、いつまでだって殴り続けていたに違いない。

　それほどに、夏美が口にした言葉は、夕映にとっては許せないものだったのだ。けれど、それは夕映個人が抱く感情であって、暁や慎二、そして夏美には何の関係もない。だから、夕映があそこまで夏美を責めるのは筋違いというものだが、どうしても自分を止められなくて……気付いたら、心に浮かぶ激情のまま、夏美に向かって怒鳴りつけていた。言っても栓ないことを。

　いまさら……陽香ちゃんが生き返るなんてこと、あるはずがないのにね。

　それでも涙は止められず、暁のジャケットを容赦なく濡らしていく。

　止めなければいけないことはわかっているのに。何も知らないはずの暁が困り果てているに違いないことも、わかっているのに……。けれど暁は何も言わず、夕映をその広い胸の中に抱き締めてくれる。ほんとうに愛しい存在にそうするかのように、事情も知らないまま、夕映のために長い付き合いの友人にまで強い怒りをあらわにして──────。

「ご…ごめ、んなさ……もっ、とうまく…やる、つもり…だったの、に…………」

　途切れ途切れの、涙声で告げる言葉にさえ、暁は優しく応えてくれる。ほんとうに、優しい人なのだなと、夕映は再確認することしかできなくて。止まらない涙を無理に堰き止めて、平常の状態に戻るので精一杯で、とても暁や夏美をそれ以上思いやることはできなかった。自分でも、身勝手だとわかっているのに。

　けれどそんな夕映に対しても暁はどこまでも優しくて、「気にするな」と告げてくれる。家にまで送ってくれて、夕映のことだけを労わってくれるその優しさが心に染みて……またこぼれそうになる涙を懸命にこらえた。だから、暁が口にした言葉と行動を正確に把握するのに、普段より格段に時間がかかって。

「こっちこそ勝手だと思うけど、今夜悪い夢を見ないで済むまじないをしてやるよ」

　そう言われて、前髪を上げられてからきっかり二秒後、暁の驚いたような表情を見て、ようやく現実に立ち戻った。

──────傷!!

　額の傷跡も、身体の傷跡も、夕映は決して自発的に他人に見せたりはしない。無遠慮に事情を訊かれるのも嫌だったし、同情を買おうとしているように思われるのも嫌だったからだ。だから、すぐさま暁の手を払いのけて、いつものように前髪を下ろし直そうとしたのだけれど、行動に出たのは暁のほうが速かった。まるで躊躇う様子を見せることもなく、夕映の額に、傷跡の上から唇を押しあててきたのだ。

「…っ!!」

　いままで、異性に────まあ同性でも同じだが────そんなことをされたことなどなかったから、夕映の頭の中はパニック状態だ。暁が、いったい何を思ってそんなことをしたのかはわからない。けれど、「悪夢を見ないおまじない」という言葉から考えて、夕映の恋愛経験の少なさを見抜かれてのことだということは……何となくわかった。何故なら、暁の言葉通り、つい先刻まで思考のすべてを占めていたはずの怒りや哀しみ、悔恨の念すらすべて吹っ飛んでしまって、もう暁の唇の感触や温かさ、抱き締められていた時の腕の強さだけしか思い出せなくなってしまっていたから。それが暁の狙いだったとすれば、夕映は完全にその策略に嵌ってしまったことになる。

　私に対して恋愛感情なんて持ってないくせに、どうしてそんなこと平気でできるの？　それとも、相手が女の子だったら誰にでもそういうことができる人なの？

　考えても、答えは出ない。

　とにもかくにも、そんな考えに完全にとらわれてしまって、他のことなどもう何も考えられなくなって、眠れないと思う前にベッドの中ですっかり眠りに就いていて……気付いた時には世間は完全に朝を迎えていて、そんなことを考えているどころではなくなってしまって、慌てて支度を始める。今朝は、帰りにスクーターを取りに行く都合上徒歩で出勤しなければならないから、いくらか早めに出なければならないのだ。


「それじゃ、行ってきまーすっ」

　いつもよりすべての支度に時間をかけずに家を飛び出したとたん、夕映はおのれの家の前で信じられないものを見い出して、驚きに目を見開く。

「…はよ。よく眠れたか？」

　それは、エンジンのかかっていないバイクにまたがっていた暁。本人は既にヘルメットをかぶって、昨夜も借りた予備のヘルメットを手に佇んでいる。

「おはようございます……ど、どうしたんですか…？」

「送ってやろうと思って待ってた。昨日は俺の勝手で愛車をうちの店に置いていかせちまったからな、いつもより早く家を出なきゃなんないのは大変だろ」

　そう言って、ヘルメットを渡そうとしてくるので、夕映は思わずそれを押し戻す。

「あ、もしかして、迷惑だった…とか？」

　暁の顔が曇るのを見て、夕映は慌ててかぶりを振った。

「ち、違うんですっ　後ろに乗せてもらうなら、それに適した格好に着替えてきますから、ちょっとだけ待っててくださいっ」

　言うだけ言って、夕映はきびすを返して再び家の中へと入っていく。そのまま階段を駆け上がって自室に戻り、履いていたスカートを脱いでジーンズに履き替える。上半身には、どちらでもおかしくないような服を着ていてよかったと思う。まさか暁がそんなことを考えていたとは、思いもしなかったというのに────そういえば、「明日は何時頃家を出る予定なのか」と世間話のついでに訊かれていたことを、いまさらながらに思い出す────驚いたなどというレベルではない。

「お待たせしましたっ」

　着替えて再び姿を現した夕映に、暁は満足そうに微笑んで、改めてヘルメットを渡してくる。夕映も今度は拒否しなかった。けれど、昨日の今日でどんな顔をしていいのかわからなくて、暁に対してどう接していいかわからない。だから、

「もう少ししっかりつかまってねーとあぶねーぞ？」

　と言われて、信号待ちの際に前を向いたまま腕を伸ばされてきて、手を引っ張られた時にはどうしていいかわからなくて、戸惑いまくってしまった。

　暁は、誰にでも平気であんなこと────昨夜の「おまじない」のことだ────やこんなことができるのだろうか？　夕映の心中が戸惑いに支配されていく。もしも、誰にでもできるというのなら、自分にはしないでほしい。後で馬鹿を見るとわかっていても、つい誤解してしまいそうになるから──────。

「ほい、到着っと」

　夕映の職場の裏手にバイクを停めて────そうしてほしいと、夕映が先に伝えていたからだ────暁は片脚を地面につける。完全に停止したのを確認してから、夕映は暁の後ろから降りて、ヘルメットを外して軽く頭を振って髪の乱れを整える。

「わざわざありがとうございました。助かりました」

「いや…帰りは迎えに来てやれなくて悪いな。意外と夕方は客が多いんだ」

「いえ、そこまで甘える訳にはいきませんから」

　暁の職種からすれば、仕事帰りに寄る客も多いことは聞かなくてもわかる。

「じゃ、仕事頑張れよ」

「暁さんも」

　なるべく普通に挨拶を交わして、職場の入り口に向かって歩き始める。背中に暁の視線を感じていたが、どうしても振り返れなくて……気恥ずかしさと申し訳ないと思う気持ちと感謝の思いとが入り混じって、自分でもどんな顔をしていいかわからなかったからだ。

　どうしてここまで優しくしてくれるのか。そして自分は、どうしていつの間にか暁の存在を自然に受け容れているのか────初対面の時は、あんなにも敵愾心を燃やしていたというのに……まあそれは誤解が元だった訳だけれど────暁の気持ちも自分の気持ちも何もかもわからなくなって、夕映は仕事に没頭することで平常心を保つことにした。




　　　　　　　　　　　＊ 　      　　＊　　　　　＊




　夕刻。「今日は暁さんのところにスクーターを取りに行くから」と言って、相変わらず意味深なニマニマ顔を浮かべる貴絵と別れ、夕映は徒歩で暁の元へと向かう。

昨夜のその後のことを多少訊かれはしたが、曖昧にごまかして答えているうちに貴絵は何かを察したのか、それ以上深く訊くことはしなくなった。夕映の目元も、今朝には普通に戻っていたからかも知れない。正直いって、昨夜のことは夕映にとっては醜態としかいいようのない出来事だったので、それ以上訊かないでいてくれることはありがたかった。

そうして、暁の実家兼職場である店舗にまず顔を出すと、店主の男性が暁はガレージにいる旨を教えてくれたので、丁重に礼を言ってからそちらへと足を向ける。店主が何も言わなかったので思いもしなかったが、そこにいたのは暁一人ではなかった。

「お、来たか」

　堅そうな箱に腰を下ろして部品を磨いていたらしい暁の前に、もう一人の人物の影を見い出して、夕映はぎくりと身を強張らせる。夏美本人ではなかったが、昨夜彼女と共にいた慎二青年その人だったからだ。

「あ…！」

　慎二当人にわだかまりはないが、何しろ昨夜の自分を見られてしまっていて、なおかつ彼の想い人であるという夏美を思いきり傷つけてしまった女なのだ、自分は。どんな顔をして会えばいいというのか。

「あ…昨夜はどうも」

　慎二本人はといえば、夕映に何ら負の感情を持っていないかのように、むしろ慎二のほうが自分を恥じているかのように会釈して挨拶をしてきたので、夕映は何だか毒気を抜かれた気分になってしまった。

「あ…こんにちは……昨日はその…お連れさまに思いきり失礼な真似をしてしまって、何とお詫びすればいいのか…………」

　気まずいものの、逃げる訳にもいかずそれだけ言った夕映に、こちらは暁と違って一般的なサラリーマンなのか、きちんと着込んだスーツのネクタイを所在なさ気に指でもてあそびながら────昨夜は一度家に帰ってから夏美に呼び出されたのか、ラフな私服姿だったのだ────慎二は意を決したように口を開いた。

「いえ…昨夜のアレは、夏美が悪かったんです。貴女は何一つ悪いことは言ってないし、やってもいない。夏美も根は悪いコじゃないんですが、何しろあの気性でしょう。深く考える前に行動に出ちゃって、何度失敗して後悔したか数えきれないくらいなんです、昔から」

　なるほど幼なじみならではと思える言葉を、慎二は口にする。

「暁のことも…好きだったのはほんとうだと思いますけど、いまとなってはもう半ば意地になっているだけと言っていいでしょう。頭では解っていても、感情がついていかない。夏美にしてみれば、予想も何もしていないところにまさに鳶に油揚げをさらわれた状態だったのだから、無理もないでしょうけど」

「油揚げって俺かよ」

　それまで黙って聞いていた暁は不満げだ。それに微苦笑で応えながら、慎二は続ける。

「だからといって、暁と貴女を傷つけていいという免罪符にはなりませんけどね。夏美自身、自分が悪かったことはわかっているみたいです。自分が正しいと確信している時の夏美は、あんなにもおとなしく引き下がらないし、その後の車の中で一言も話をしないなんてこと、あり得ませんから。ただ、いまは……まだ気持ちの整理がつかないんだと思います。落ち着けば、きっと自分から謝りに来ると思います。この暁と同じで、熱しやすく冷めやすいけど、腹の底にはなんにもありませんから。都合のいい話だとは思いますが、どうかそれまで待っていてやってくれないでしょうか」

　そう言って慎二は、夕映に向かって深々と頭を下げた。この人は、ほんとうに夏美のことが好きなのだなと、夕映は思った。でなければ、ここまで彼女のことを理解できないし、自分が悪い訳でもないのに頭まで下げられはしないと思うから──────。

「あ……どうか、顔を上げてください。夏美さんのご気性については、何となく暁さんと似たものを感じていましたから、わかります。私だってさんざん酷いことを言ったりやったりしてしまったし、一方的に謝ってもらおうなんてとても思えはしませんし。ただ、冷静にさえなっていただければそれでいい訳で……」

　慌てて答えた夕映に、わずかに顔を上げた慎二は、ふ…っと微笑んで。

「優しい方ですね……暁が貴女を好きになるのもわかる気がします」

「えっ　そんな…っ」

「あそこまで言ってもらえれば、夏美ももう考えなしにあなたがたに突撃してくることはないと思います。止められないで便乗した奴が何を言ってるんだって話でしょうけども」

　そこで慎二は、初めて自嘲的な笑みを見せた。夏美のことではなく、自分自身のことを恥じているのだろう。

「おふたりにハッキリ言っていただけて、僕も目が覚めました。たとえただの幼なじみとしか思われていなくてもいい。都合のいい相手としか思われてなくても構わない。僕もまっすぐぶつかって……玉砕してきます。居心地のいいポジションに甘えて、いつまでもただ眺めているだけじゃなく…結果がどうであれ、自分の気持ちを伝えて、一人の男として見てもらえるよう……もう他の男に目を向ける隙なんか与えないぐらい、がんがん攻めていきます」

「おー。頑張れよ。ああいうタイプは、自分が押すのには慣れてても、意外と押されるのには耐性がないんだ」

　茶化すように言う暁に、慎二はいたずらっぽい笑みを向けて。

「…暁もそうだったりしたのかい？」

　そう言われた瞬間、そばにあったペットボトルの飲み口を口に含んだ暁が思いきり吹きだした。

「やだ、暁さん汚いっ」

　こちらに向いていた訳でもないが、夕映は思わず一歩引いてしまった。

「慎二てめっ　よけいなこと言ってんじゃねえよっっ」

「はは。じゃあ、僕はこれで。また今度、次は夏美も一緒に改めてお詫びに来ます。どうぞ、おふたりともお幸せに」

　もう一度深々と頭を下げて謝罪の言葉を口にしてから、慎二はそばに置いてあったビジネスバッグを手に帰っていった。後には、どことなく気まずい雰囲気に包まれたふたりだけが取り残される。

「あ、の…」

「ん？」

「あの慎二さん？に私のこと何か言ったんですか…？」

　暁相手にだって、夕映は過去について何も話していないけれど、何か感付いているような慎二の態度に疑問を抱いたのだ。こう言っては貴絵に失礼かも知れないが、少なくとも初対面でもある程度性格を把握されるような貴絵よりは、自分はわかりにくい性格をしている自覚はあったので。

「あ、ああ…『アイツの職業は警察官で、非惨な現場に行くこともあるだろうから、夏美のあの言葉は許せなかったんだろう』って、あんたが来る前に言ったからかな」

「…………」

　そうか、そちら方面での見解か…確かに、暁の言う通り目を覆いたくなるほど凄惨な現場に訪れたことも一度や二度ではない。大人ばかりか、幼い子どもが命を落とした現場でさえも……そんな現場では必ず陽香の顔が脳裏をよぎって逃げたくなるけれど、そんなことが許されるほど甘い仕事でもなく。幾度、やりきれない思いで眠れぬ夜を過ごしたのか覚えていない。

「そう…ですか……」

「それより。次の休みっていつだよ？」

「え？」

「合わせられるなら、朝からどっかでかけようぜー」

　何を…言っているのだ？

「何故ですか？　夏美さんの件はもう解決したも同然でしょう？」

　すると、暁のほうこそ「何を言っているのか」と言いたげな顔で、こちらを見た。

「…あのなあ。夏美が諦めたからって、はいそうですかってすぐやめられると思うか？　しばらくの間はそういうふりをしとかないと、すぐに嘘だってバレちまうじゃねえかっ」

　と、いうことは。

「じゃあ何ですか!?　私は、暁さん側の事情が片付かないと、他の人と恋愛すらできないということですか!?」

「だから最初にちゃんと頼んだじゃねえかっ　それでもいいって了承したのはあんたのほうだろ!?　まさか、そこまで深く考えてなかったとか言うんじゃねえだろうなっ」

「…っ！」

　図星である。いままで、誰とも付き合ったことがなかったから、そこまで考えが及ばなかったのだ。ここまできてから、夕映はおのれの迂闊さを呪った。

「とにかく。いまさら『やめた』なんて言わせねえからな。それじゃ、何の意味もなくなっちまう」

　その言葉が、まるで裁判長からもたらされる判決のように夕映の中に響き渡って……一瞬にして、頭の中が真っ白になった。

「な…何でそんな面倒くさい案件を持ち込んでくれるんですかっ！」

「俺だけが悪いんじゃねーよっ！」

　ガレージから店舗へと続くドアの陰で、店主の男性が必死に笑いを堪えていることに、ふたりは気付く由もなかった…………。