〔10〕





 夕映と出会って、三ヵ月。早いもので、世間は既に初夏の気配を見せ始めている。出会った頃は、春といってもまだまだ風も冷たくて、バイクに乗るのもまだ少し辛いくらいだったのに、いまでは半袖で乗っても平気なくらいだ。


 そんなある日の昼休憩────職場といっても実家でもあるので、自力で弁当など作るはずのない暁の気性をよくわかっている母親が、昼食だけは暁の分も用意してくれているのだ────の時間、母親から味噌汁の椀を渡されて礼を言いながら受け取る。

「ところで暁よ」

 そこにかけられる、向かい側に座る父親の声。

「あんだよ?」

 そちらを見ないまま、味噌汁をまずは一口。

「おめえ、あの夕映ちゃんとはどのへんまで仲が進んでるんだ?」

 予想もしない言葉を投げかけられて、思わず味噌汁を吹きだす。

「なななななっ!?

「もうやだよ、汚いね、この子は!」

 母親の投げつけてきたタオルで口元や胡坐をかいていた脚元を拭いたりしてから、信じられないものを見る目で父親を見やる。

「……『悪さしたら承知しねえ』んじゃなかったんかよ?」

 それは、数週間前に致し方ない事情で恋人のふりを頼んだ夕映に、暁がその立場に甘んじて彼女に何かしようものなら、すぐにでも自分に言いつけろとまで言い切った、他の誰でもない父親本人の言葉ではなかったか。

「そらあ、おめえがいい加減な気持ちでよそのお嬢さんに手を出したら、本人だけでなく相手の親御さんにも申し訳が立たねえっつう親心じゃねえか。んでも、おめえにしては珍しく? それともあんな純情可憐なお嬢さんだからか、清く正しい男女交際をしてるって話だからよ、本気だっつーんなら温かく見守ってやろうってのも、また親心ってもんだ」

「誰からの情報だよ……貴絵ちゃんかトオルくんか?」

 暁がここに住んでいるのならともかく、近場とはいえバイクで10分はかかるアパートで一人暮らしをしているいまの状態で、夕映とどういう付き合いをしているのかまで親が知っているはずもない。となると、答えは一つしかない。自分と夕映の共通の友人たちである、あのふたりの存在だ。とくに貴絵は、夕映がこれまで異性と付き合ったことがないということもあって────いまどき信じられない話だが、ほんとうにその通りらしいのだ────ふたりの仲をお節介ともいえるほどに過剰に応援している節がある。彼らなら、ふたりの仲の進展具合を把握するのも容易いだろう。

「ネタ元は言えねえなあ」

 にやり、と人の悪い笑みを父親が浮かべる。

 何が「言えねえ」だ、他にねえじゃねえかっ!

 「親心」と父親は言うが、どう見ても面白がっている様子なのは、火を見るより明らかだ。ちなみに母親は、面白がっているというより、息子の恋バナに興味津々といった風で、無言のままで目を輝かせて、暁の次の言葉を待っている。

「進展も何もねえよ。ときどき一緒に食事に行ったり、そのへんに遊びに行ってるぐらいだ」

 それは、事実。例の夏美の騒動の時にはどさくさにまぎれて額にキスなどしてしまったが、それ以上のことは何もなく────ちょっと触れるだけでも気をつけているぐらいだ。暁のようにそれなりに恋愛経験がある相手ならともかく、異性とろくに触れ合ったこともなさそうな相手に、そうおいそれと手なんか出せるものか。本気で好きならともかく、あまり大きな声では言えないが、彼らふたりは仮初めの恋人同士なのだから。軽い気持ちで手など出して、いつか夕映がほんとうに好きになった相手と出逢った時に後悔するようなことは、絶対に避けねばならないのだ。

 友人であり、仮初めの恋人とはいっても、実の妹に対するような気持ちを彼女に抱いている自分に、暁は気付いていた。

「何だよ、ほんとに何もなしかよ、つまんねえ」

「あに期待してやがんだ、バカ親父」

「親に向かって『バカ』だと!?

「事実だろうがっ」

 思わずいきりたつ男二人を、母親が近くにあった新聞を丸めてべしべしと叩く。

「いいからさっさとご飯食べちゃいなっ 食べ終わらないうちにお客さんが来ても知らないよっ」

 母親の活にハッとして、二人そろって座り直して食事を再開する。そうだった。客商売は、いつ客が訪れるかわからないのだ。そうして早々に食事を終えて、少々食休みをとった後、再び仕事に戻る。今日は、普段のような整備の他に、新しく商品を購入した客のための登録などの事務系の仕事も待っているので、忙しいのだ。


 それから、二時間ほど経った頃。陸運支局に行って手続きを済ませてきた暁は、昼間の市街地をバイクで疾走していた。ちなみに手続きに来るのは父親でも何の問題もないが、普段は元気そのもののはつらつさを誇っているくせに、こういう時には「二輪のほうが狭いところを通れる分早くていいだろ。俺? 俺はもう歳だからな、二輪なんざもう辛くてな」とここぞとばかりに年齢を強調するから始末が悪い。おかげで、仕事を一通り覚えてからは、役所や陸運支局に行くのはすっかり暁の役目となってしまっていた。

 ったく、あの親父。すっかり横着を覚えちまって、面倒くせえったらありゃしねえ。

 内心で毒づきながら、目前の赤信号を睨みつけてからゆっくりと視線を目の高さに落とす。すると、交差点の向こう、十数メートル行った先で、端のほうに縦に連なって停まっている二台の車が目に入った。後から来た他の車がその二台を避けるように隣の車線に移っては走り去っていく様子からして、接触でもしてその処理をしているのだろう、双方の運転手らしい女性たちの他に、婦警の制服が見える。

 暁は次の交差点では左に曲がるつもりだったから、進行には何ら障害になり得ないところだが、その制服姿の女性に多少どころではない見覚えを見い出して、一瞬どきりとする。これも父親が変なことを言い出すからだと思いながら、自身の視力のよさを呪いたくなってくる。視線の先で女性たちの話を聞いているらしい夕映は、何か困ったことでも起きているのか、何となく表情が陰っているように見える。仕事中の姿などろくに見たことはないが、いつもはきはきしている夕映にしては、何となく変な印象を受けた。あまりに気になったので、左向けにウインカーを出すべきところなのに指が動かず、結局信号が変わると同時にそのまままっすぐ走り始めてしまった。

 停止している車の陰にバイクを停めて、エンジンを切る。ヘルメットを外すと同時に、夕映や貴絵、見知らぬ女性たちの話す声が聞こえてきて……先刻は気付かなかった低い声も、耳に飛び込んできた。

「…それで? こちらの方の車が急に、貴女の車の前に車線変更してきた、と。そういう訳ですか?」

「はい……ウインカーは出ていたんですが、わりと寸前だったし…何より車間距離が足りなさ過ぎて、危ないと思ってブレーキをかけた時には、もう間に合わなかったんです」

「ちょっと! あたしはちゃんと距離を確かめてから車線変更したわよ!? そっちがスピード出し過ぎてたんじゃないのっ!?

「そんなことはありませんっ 私はちゃんと標識に書いてある通りのスピードで走ってました!」

「んじゃ何だよ。こっちが無理に車線変更してきたからぶつかっちまったってのか? てめえの腕のなさを棚に上げてうだうだ言ってんじゃねえよっ」

「…っ!」

「貴方が運転していた訳じゃないんでしょう!? ややこしくなるから、当事者でない人は黙っててくれます!?

 話から察するに、真面目そうな口調と服装の女性が制限速度をちゃんと守って走っていたところに、もう一人の女性が運転する車が無理に割り込んできたせいでブレーキが間に合わず、接触してしまったという話か。あまり他人のことは言えないが、もう一人の女性は見るからにあまり善良そうに見えない。口調や服装は別として、その言い分や恐らくは恋人か伴侶かの同乗者が相手の女性を威嚇するようにしているのを止めもしないあたり、暁のその勘は外れてはいないだろう。

「どうなんだよ、はっきり言えよっ」

「……っ」

 相手の真面目そうな女性は、もういまにも泣き出しそうな顔をしている。さすがに見かねたらしい夕映が彼女の盾になるように男の前に立ちはだかるが、婦警だと思ってなめているのだろう、男の横柄な態度は変わらない。恐らくは、こんな女相手に粋がるような男より夕映や貴絵のほうが腕っぷしも上だろうが、さすがに手を出してきた訳でもない相手を実力行使で黙らせる訳にもいかないので、ストレスがたまりまくっているのだろう、夕映も貴絵も苛立ちを懸命に堪えているのが表情や口調から見てとれる。

とくに貴絵など、夕映より気が短い分、内心でどれだけ涙ぐましい努力をしているのかと思うと、はからずもこちらの胸が痛んでくる。以前達が、「あいつにしては、結構いろいろ我慢して頑張ってるみたいなんですよ」と少々心配そうに言っていたことを、いまさらながらに思い出す。

「だから、当事者でない方は引っ込んでてくださいって、何度も言っているでしょう!?

「ああっ!?

 貴絵の、切羽詰まったいまにもキレそうな声を聞いた瞬間、達の顔が一瞬脳裏をよぎって、気が付いた時には暁の身体は車の陰から飛び出していて、夕映が庇うようにしていた女性の背後でまっすぐ背筋を伸ばし、仁王立ちで立っていた。

!?

 暁の顔を見た男の表情が、一瞬にして変化する。それまでの横柄そのもののようなそれから、戸惑っているようなそれに。心なしか、焦り始めているように見えるのは気のせいか。

「…………」

 暁は何も言おうとはしない。ただ、男の目を真正面から見据えているだけだ。相手の男は少々体格はよいが、とくに鍛えている風でもない。もし屈強な相手だったとしても、暁には一歩も退くつもりなどなかったが。こんな、明らかにか弱い女性を相手に威嚇するような男など、同じ男としてとても許せなかったのだ。

「…!」

 貴絵の表情が目に見えて変わるが、夕映は何も気付いていないらしく、かすかに首を傾げたのと同時に、相手の変化に気付いたらしい夕映との間に挟まれる形になった女性が振り返ってくるが、貴絵とその彼女に向かってそっとみずからの唇に人差し指を当てる。何となく、夕映には知られたくなかったから。

「ちょっと、どうしたのよっ」

 明らかに狼狽し始めた男を不審に思ってか、相手の女性が男に向かって声を上げるが、男は首を軽く横に振るだけで、先ほどまでの勢いはどこへいったのかと言いたくなる。

「じゃあ、お話を続けさせていただきますね」

 夕映が不思議に思って振り返るのを避けるためか、貴絵が本題に戻る算段をつける。男の助勢もなくなって、更には暁の眼力が効いたのか────ちなみに暁は別に睨んでいる訳でも何でもなく、まったく平常の目つきであるので、それでここまで恐れられるのかと少々哀しくもなってくるが、こういう場合には見事な効力を発揮するのでまあよしとしておく────女性は先刻までの勢いもなりを潜めて、至って平穏に事情聴取は終了した。

 さすがにこちら側の女性が全面的に悪くないことにはならなかったが、彼女の主張通り相手の過失のほうが明らかに大きい結果となったので、とりあえずよしとすることにする。

「何よ、この根性なしっ!」

 男を罵倒する女性の声が聞こえてくるが、そもそも男の力をアテにして明らかに自分より気の弱い相手を威嚇して、自分の過失を軽くしようとしたお前こそ何なのだと呆れ果てて何も言えない。

「あ、あのっ」

 相手のふたりにばかり気をとられていたので、目前で自分に背を向けて立っていた女性がいつの間にかこちらに向き直っていたことに、暁は気付かなかった。

「どこのどなたか存じませんが、ほんとうにありがとうございましたっ!! もし貴方がいらっしゃらなかったら、私いったいどうなっていたことか…!」

 そう言って深々と頭を下げる女性の声に、みずからの車に戻りかけていたらしいふたりが驚いたような顔で振り返ってくる。

「えっ!?

 ふたりは多分、暁が偶然通りかかった彼女の知り合いか何かだと思っていたのだろう。まあ確かに、まったく知らない相手をわざわざ庇いにくる物好きが世間にそうそういるとも思えないし、これは彼らの勘違いを責めることはできない。「関係ない奴だったのかよ」とでも言いたげな目つきで暁を睨みつけてくるが、それぐらいで動じる暁でもない。

「いや……たまたま通りかかっただけなんだけどさ、まさかいかにもか弱そうな女性に態度や口調で圧力をかけてくるような男がこの世にいるとは思えなかったけどさあ、何だか気になって来ちまった。警察官もいるってのに、野次馬みたいに悪かったなあ」

 『まさか』の後にさりげなく力を込めて、睨みつけてくるふたりから目をそらすことなく暁は言い切った。その際に、視線にも力を込めることも忘れない。

「そんなことありませんっ ほんとうに助かりましたものっ」

 暁とふたりの無言のやりとりに気付いていないらしい女性がほんとうに嬉しそうに告げてくるので、ふっと表情をやわらげて彼女を見下ろす。

「いやー、まさか暁さんが通りかかるなんて、思ってもみなかったわあ」

「ちょ、ちょっと貴絵っ いつから気付いてたのよ? 私全然気付かなかったわよっ」

 貴絵と夕映の対照的な声が響き渡る。

「いや、陸運支局からの帰りなんだけどさ、二人が仕事してる姿が何か珍しくて、思わず見物にきちまった」

 へら…と笑いながら言うと、貴絵は同じような表情で笑い、夕映は何となく気恥ずかしそうな顔でふいと横を向いた。

「おまわりさんのお知り合いだったんですかー」

 のほほんとした空気を醸しだしている四人とは裏腹に、険悪な雰囲気を醸し出しているふたりに気が付くが、暁は何も気付いていないような顔をして、素知らぬ様子で言葉を紡ぐ。

「まさか警察官もいる真ん前で、恫喝とか暴力沙汰とかやらかすようなバカはいないと思うけどさー。いまの世の中、信じられないことが平気で起きたりするからさ」

 一歩も退かない意思を瞳に宿し、まっすぐに男の目を見てねめつけると、男にも暁の覚悟や自信のほどが伝わったらしい。幸か不幸か、この外見のせいでケンカを売られることも数多く、そんな風に鍛えられているうちにいつの間にか、そこいらの雑魚には簡単にやられはしない技量を身につけていたのである。

 すっかり戦意を喪失したらしい男は、初めの勢いはどこへやら、自慢の牙を折られた猛獣のようにおとなしく車に戻って、女と共に去っていってしまった。後は、双方の保険屋同士でうまくやってくれるだろうから、目の前の彼女が連中と直接会うことはもうないだろうと暁は思った。それならそれで、ひと安心である。

「じゃあ、私もこれで……皆さん、ほんとうにありがとうございました!!

 最後に三人にこれ以上ないというほどに丁寧に深く頭を下げてから、女性もみずからの車に乗って去ってしまったから。後には、貴絵と夕映、そして暁だけが取り残される。

「…あー…ホント、暁さんが来てくれて助かりました。あのままだったら、あたしがもう限界だったからさー、思いっきりキレて何やってたかわかんなかったわ」

 それは事実だろう。気の短さでは暁といい勝負かもと達に言わしめた彼女のことだ。ついでにいうと、暁のように一般市民ではなくまがりなりにも警察官という立場の彼女が公的な場でキレたりしたら、どんな結果が待っているかは想像に難くない。達でなくても心配になるというものだ。

 そしてそんな彼女とは対照的に、

「私からもお礼を言います。キレた貴絵を一人で宥める自信なんてなかったし……ほんとうにありがとうございました」

 一応の謝意とお辞儀をするものの、どことなくよそよそしい感じのする夕映が、暁の心に妙にひっかかって、気になって仕方がなくなってしまった…………。



    





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2013.1.10up

少しずつ外堀が埋まっていく?ふたりの周囲。
急によそよそしくなった夕映の胸の内は?
そちらはまた次回にて。

背景素材「空に咲く花」さま