〔11〕
「有川さーん、こっちの書類に記名してくれるー?」 「あ、はい、いまいいですよー」 先輩から書類を受け取って、さらさらと自分の名を書く。 「はい、どうぞ」 「ありがとう」 先輩に書類を渡して、再びモニターに向かい直すが、先輩がそのまま脇に立ったままなので、不思議に思って再びそちらを向いてその顔を見上げる。 「先輩? もしかしてまだ何かご用がありました?」 気がつかなくてすみませんと続ける夕映に、先輩である女性が慌ててみずからの顔の前で手を振った。 「あ、ごめんごめん、違うの。ただちょっと、有川さんにプライベートで訊きたいことがあってさ」 「? 何ですか? すぐ済むことなら、いまでも構いませんよ」 「じゃあ……訊いちゃうけど」 「はい」 とくに気にしないで先を促した夕映は、次の瞬間、先輩女性の口から飛び出した言葉に、軽い気持ちで応えたことを心の底から後悔することとなる。 「こないだ、私と有川さんて非番の日一緒だったじゃない? その時、偶然街中で見ちゃったのよね、有川さんが目つきの鋭い男の人と歩いているとこ! ねーねー、あれって彼氏!?」 「っ!!」 あまりにも衝撃的なことを言われて、キーボードの上に置いたままだった夕映の両手が、凄まじい勢いでキーボードの上を滑っていく。モニターに打ち出されるのは、訳のわからないアルファベットや平仮名の羅列……。 「あああああっ 報告書がーっ!!」 慌てふためきながら、キーを操作して元の文面に戻していく。 「せ、先輩っ いきなり何を言うんですかーっ!!」 「いいじゃなーい、いま課長は会議に行っちゃってていないんだし、ちょっとぐらい」 「えっ なに、有川さんの恋バナっ!?」 「いままで聞いたことないのよね、それってマジ!?」 付近にいた他の先輩女性たちもわらわらと集まってきて、夕映はもうパニック寸前だ。困り果てて周囲を見回すと、ちょうど近くの給湯室から出てきた貴絵と目が合って、貴絵は既に状況を察しているような表情でこちらに向かって歩いてきたので、天の助けとばかりに手を伸ばしかける。 「先輩が見たのって、背が高くて髪の毛は肩を過ぎるくらい長い男の人ですか?」 「そうそうっ 山下さんも知ってるの? じゃあやっぱり彼氏なの〜?」 にまにまと顔をほころばせて貴絵に問う先輩に、夕映は貴絵の目をまっすぐに見つめて小さく首を横に振る。何とかうまくごまかしてほしい、お願いだから。そんな夕映の気持ちが通じたのか、貴絵はにっこりと満面の笑みをその顔に浮かべて答える。 「そうなんですよー、そのひとってば夕映の彼氏なんですよー、もうできたてのほやほやっ 一ヶ月…もうすぐ二ヶ月になるんだっけ?」 「───────」 心の底から後悔すること、本日二回目。貴絵の性格はよく知っているはずなのに、あまりに慌てたせいで、肝心なところで読み違えていたことに夕映はいまさら気が付いた。めまいを起こすかと思った夕映の周囲で、女性陣の姦しい歓声が沸き起こる。そばの廊下を歩いていた署員たちが思わずびくりと身をすくませるようなそれも、もはやいまの夕映の耳には入っていない。 「えーっ えーっ ほんとにそうだったの!? きゃーっ♪」 「ねえねえ、どんな人なのっ!?」 「見た目はちょっと怖いけど、根はすごく優しい人ですよー」 「山下さん、詳しいわねえ」 「あたしの彼氏の友達で、バイク屋さんなんですよ。あたしは彼氏づてで元々知り合いだったんですけどね、あたしたちのスクーターを買いに行った時に夕映と知り合って、いつのまにか…って感じで」 「きゃー、マジでーっ!? やっぱり友達づてでって多いのねえ、あたしもそれで探してみようかしらっ」 「ねえねえ、有川さん、どっちから告ったの? やっぱり彼のほうから!?」 「えっ あの、その…っ」 既に思考回路の活動が停止してしまっていた夕映は、まともに答えることすらできない。周囲から向けられるのは、好奇心に満ちた興味津々の瞳、瞳、瞳。もうどうしていいかわからなくなってしまった夕映を救ったのは、渋味を帯びた低い中年男性の声だった。 「何を騒いでいるっ 仕事はどうしたっ!?」 「きゃっ 課長っ!」 さすがに課長の一喝の威力は絶大で、周囲の皆が蜘蛛の子を散らすように三々五々に散っていく。 「やばっ 有川さん、後でねー」 後なんてないと言いたいところだが、課長の前でもあるし先輩相手でもあるのでぐっと我慢する。ハッと思い出して瞬時に貴絵のほうを見るが、騒ぎを大きくしてくれた張本人は、涼しい顔をして既に自分の席に戻って仕事を再開している。誰のせいでこんなことになったと思っているのだと、内心で思いきりアカンベーをして恨みがましい視線を投げつけてから、夕映は目前の自分の仕事の続きにとりかかることにした。 「ごちそうさまでした」 そう言って夕映が自分の弁当の包みの端をきゅ…っと結んだとたん、待ってましたと言わんばかりに先輩たちの瞳が輝いたことに夕映は気付いたが、あえて見なかったふりをする。できることなら、このまますっとぼけて逃げきれないものだろうかと思った、ちょうどその時。 「ところで有川さ…」 「有川さん、ちょっといいかな?」 タッチの差で先輩より先に声をかけてきたのは、やはり先輩の男性署員だった。同じ交通課の同僚とはいえ、白バイ隊の彼とは職務上でもそれほど言葉を交わしたことはなかったが、少しも嫌なところなど見えずむしろ親切な面しか見たことのない誠実な先輩だった。 「はい、何でしょう?」 「あ、こんな公衆の面前では話しにくいことなんで……ちょっと、あっちに一緒に来てくれるかな?」 「あ、はい、構いませんよ。じゃあ先輩方、それと貴絵、お先に失礼」 実にさりげなく笑顔で言いながら、夕映は軽い足どりで先を行く先輩の後に続く。あの包囲網から逃れられるなら、普段はそんなに接点のない男性の呼び出しでも嬉々として応じたいくらいだ。けれど、それは甘い考えであったことを、本日三度目の後悔をもってして味わうこととなる。 てっきり食堂の外の廊下で話をされるものと思っていた夕映は、そこではなくもう少しひとけのない場所へと誘導されて、首を傾げる。まだ、人目が気になるというのだろうか? 「あの、せんぱ…」 声をかけようとした夕映の前で、男性が唐突に振り返ったので、思わずどきりとする。 「…………唐突で申し訳ないんだけどさ。有川さんて、付き合っている男がいるってほんとう?」 「──────は?」 ほんとうに。まったく予想もしていなかった言葉を投げかけられて、夕映は間抜けそのものとしか言いようのない表情と声で、返事をしてしまった。 「あ、いや、午前中、他の女子たちと話してるのがちょっと聞こえてきて……」 どことなく言い訳がましい口調で言いながら、男性は続ける。 「実は俺、有川さんが就任してきた頃から、ずっといいなって思っててさ。よかったら、そのうち一緒にどこかにでかけないかって誘おうと思ってたから、すごく気になって……」 このひとは、何を言っているのだろう? 夕映の真っ白になった頭の中に、その言葉だけがようやく浮かんできたところで、どこからともなく乱入してくる複数の男性署員たち。 「抜け駆けなんてきたねーぞ、俺だってずっといいと思ってたんだからなっ」 「そうっスよ、先輩、ずっこいっスよ!!」 「有川さん、俺も第一印象から決めてましたーっ お願いしますっっ」 「てめー『ねるとん』なんて古いんだよ、ちょっと待ったに決まってんだろ、おらあっ」 「ちょっと待って」と言いたいのは、こちらのほうである。いったい、何がどうしてこうなっているのだ? 「有川さんっ どうなんですかっ!?」 「付き合ってる奴が、ほんとにいるんスか!?」 唐突に矛先を向けられて、思わず後ずさってしまう。 「あ、はい……」 「うわあああっ やっぱマジだったのかよーっ!」 「もっと早く動いておくんだったーっ!」 この状況では、とても仮初めの恋人だなどと言えるはずがない。とりあえずそれだけ答えた夕映の前で、男どもはそれぞれに阿鼻叫喚の叫びを上げて、それこそ懐かしの『ねるとん』の如く走り去っていく。後に残されるのは、本気で訳がわからなくて茫然とする夕映ただひとり…………。 「………………」 そんな夕映の背後から、かけられる声。 「いや〜、さすが夕映。やっぱ隠れファンが山ほどいたのねえ」 それは、先刻食堂のテーブルで別れた貴絵。まったく罪悪感など感じられないような表情で、驚いたような口調で小さく息をつく。 「元はといえば、あんたのせいでしょ〜っ!?」 貴絵の両頬を両手で左右にむにーっと引っ張りながら、夕映はストレートに文句をぶつける。そうだ。そもそも、貴絵がよけいなことを言わず、恋愛に関しては口下手な夕映に代わってうまくごまかしてくれれば何の問題もなかったはずで、夕映とてこんな面倒に巻き込まれることはなかったはずなのだ。いまはまだ暁以外の相手とどうこうすることはできないし、他の誰かとの恋愛を思い描くこともできない心境であったから、その手の話題からはさりげなく逃げていたというのに……貴絵のおかげでとんでもない騒動に巻き込まれたものだ。夕映でなくても文句を言いたくなるのも当然のことといえよう。 「いひゃいいひゃいっ」 情けない声を出す貴絵にとりあえず気が済んだので、夕映は手を離してそっぽを向いた。 「あっ 夕映、怒らないでよ〜、謝るから〜」 「もう遅いわよ。まったく、面倒くさいったら」 「でもさあ、これである意味スッキリしたんじゃない?」 「どういう意味よ?」 「『恋人がいる』ってだけで簡単に諦められるような軽い気持ちの人は、これで見極められたでしょ? それでも諦めないような人ならよっぽど本気で夕映を好きってことだろうし。また後でフリーになった時に申し込まれた場合の参考になるんじゃない?」 「……」 まあ、貴絵の言うことも一理ある気がするが…それでも、貴絵がやってくれたことへの恨みは消える訳ではない。 「うまいこと言っても、迷惑を被った慰謝料はちゃんともらうわよ」 脇で貴絵の舌打ちの音が聞こえた気もするが、聞こえなかったことにする。 「『アリス』のケーキ、二つでどうよ?」 「ケーキじゃ長もちしないから、ケーキは一個で他に焼き菓子いくつかね」 「えー、夕映のよくばりーっ あ、でも夕映はもちょっと太ったほうが、暁さんも喜ぶか」 「そこでその名前を出すっ!?」 「何よ〜、愛しのダーリンの名前じゃない〜♪」 「愛しくないっ!」 そんなやりとりを、物陰から見つめている人物がいることに、この時の夕映はまったく気付けなかった…………。 「まったくもうっ 今日は貴絵のおかげで、えらい目に遭っちゃったわよっっ」 「まあまあ。隠れた害虫をまとめて駆除できたと思えば」 「害虫って……」 共に働く同胞たちに向かって、何たる言い草だ。そこに、やはり唐突にかけられる声。 「有川、これからちょっと時間あるか?」 同期の市原希(いちはらのぞむ)だった。白バイ隊員になることを目標に、日夜誰よりも真剣に仕事に励んでいて、夕映が尊敬する人間の一人である。 「市原くん? どうかしたの?」 市原も既に私服に着替えているので、仕事のことではなさそうだが……けれど、彼の性格からして、昼間のような浮わついた話ではないだろう。と、思った夕映は本日最大の驚きに襲われることとなる。 「あ、いや…ちょっと……」 いつもはきはきしている市原にしては何だか歯切れの悪いその様子に、夕映は首を傾げるだけだったが貴絵は何やら感付いたようで、「じゃあ夕映、あたしは約束があるからお先に〜」と言いながら走り去っていってしまった。後には、夕映と市原だけが取り残される。 「とりあえず、ここじゃ邪魔になるから駐輪場に行くか。有川も今日は二輪だろ?」 「あ、うん」 それももっともなので、素直に頷いて市原の後に続く。歩いている間に言うべきことでもまとめていたのか、駐輪場に着いてほとんどすぐ、市原が口を開いた。 「あの、さ。午前中と昼休み、聞こえてきたんだけど」 ああ、あの騒ぎのことか。真面目な市原のことだから、職場での私的な話、それも浮わついた話は控えたほうがいいと思っているのかも知れない。 「あ、うるさかったわよね、ごめんなさい。私もまさか先輩があんなこと言い出すとは思ってなかったし、貴絵まで悪ノリしちゃったから…って、これじゃまるで他人のせいにしてるみたいよね、私がきちんと対処していればあんな騒ぎにならなかったんだから、やっぱり私が一番不注意だったわ、ホントにごめんね、これから気をつけるわ」 「あ、いや、そういう意味じゃなくて……」 違うのか? 真剣に市原の意図がつかめなくて、夕映はそっと自分より10cmほど高い市原の顔を見上げるが、市原は軽く狼狽したような表情を見せてからそっと息をつく。それから、ようやく意を決したように話し始める。 「……その…付き合ってるって言ってた相手、まだ一、二ヶ月しか付き合ってないって話だったよな?」 「あ、うん」 自分でも忘れかけていたが、確かにそのぐらいだったはずだ。 「有川は…そいつのこと、やっぱ好き…なのか……?」 好きといえば、好きと言えるかも知れないが────もちろんそれは、友人としての話だが、市原に言えるはずもない。 「ま、まあ、一応……」 「相手の奴は? 有川のことをちゃんと好きでいてくれてるのか?」 暁の気持ち? そういえば、考えたこともなかった。そもそも恋人役を頼まれたのも切羽詰まった事情からだったし、もし貴絵が達と付き合っていなくてフリーだったなら、夕映ではなくて貴絵のほうが適任だった気さえする。友人としては好いてくれているだろうが────でなければ、いくら条件が合う相手だからといって、恋人役など頼んできたりはしないと思うから────それ以上の気持ちがあるかなんて、一度も考えたことなどなかった。 「……わかんない…………」 暁は優しくしてくれるけれど、それは誰に対しても同じようにしているそれで、夕映だけに特別な何かをしてもらった覚えはあまりない。だから、言葉を選ぶ間もなく、正直な感想が口をついて出てしまったのだが。それを聞いたとたん、市原の表情が一変した。それまでのどこか自信がなさそうなそれから、険しさを帯びた、こちらが思わず気圧されてしまいそうなそれに。 「…何だよ、それ。自分のこと好きかどうかもわかんない相手と付き合ってんのか? お前は、それでいいのか!?」 「だ、だって……」 「『だって』何だよ?」 もう、隠しておけなかった。うまくごまかすすべなど、もともと恋愛経験に乏しい夕映が持ち合わせているはずもなく。頼りになる貴絵もいないこの状況では、何故だかわからないけれど確実に気分を害しているような市原に詰め寄られたら────それでなくても、もともと心身共に市原には勝てる気がしないのだ────夕映にはもう、白旗を上げるしか手は残されていなかった…………。 そして夕映は、人間とはここまで呆れ返った顔ができるものかという事実を、いま初めて知ることとなる……。 「なん…だよ、それ……」 その顔の持ち主は、言わずと知れた市原だ。 「…………」 夕映はもう何も言うことができず、食後のアイスティーをストローをくわえて飲むしかなかった。 「いくら、できるだけ穏便にことを済ませるためって言ったって、普通やるか? そういうこと」 「私だって…できるなら、違う方法をとりたかったわよ。だけど、私に相談するより先に、向こうが演技を始めちゃったんだもの……」 さすがに夏美とのひと悶着については詳しくは話せなかったけれど、その部分は省いても何ら問題はなかったので、要点だけをかいつまんで話した。 「それに、もう少しだけ我慢すれば解放されるんだし。でもその前に、先輩に見られちゃったのは誤算だったけど」 「その上、山下まで悪ノリしちまったしな」 「っ! そうよ、貴絵! あそこで貴絵がうまくごまかしてくれれば、あんな大騒ぎにならなくて済んだのにっ」 こらえきれなくてつい目前のテーブルをパシンッとたたいてしまったので、隣のテーブルに座っていたサラリーマンが驚いてこちらに顔を向けたのに気付き、口元をおさえて俯いてしまう。その頭上に響くのは、低いくすくす笑い。驚いて顔を上げると、先ほどとはまるで違う、実に楽しそうな顔で市原が笑っていた。 「有川のそんなところ…初めて見たな。そういう意味では、件の男にちょっとだけ感謝したいかも」 「市原くん……ここまで話しちゃったついでだから、厚かましいとは思うけどお願いが…」 「わかってる。他の誰にもこの話は言わないでほしいってんだろ」 こくりと夕映はうなずく。 「初めから、誰にも話すつもりはなかったよ。有川にとっては不名誉以外の何物でもないからな」 「…………」 そうだろうとは思っていたけれど、やはり市原は実直で誠実な相手だった。 割り勘でお会計を済ませてから、二人はそれぞれの愛車の脇に立ち────市原は学生時代に免許を取得したという中型二輪に乗っていたのだ。そういうところは暁と似ているなと夕映は思う────夕映がメットインの部分からヘルメットを出している間に、市原は手早くメットをかぶって、シールド部分を持ち上げてこちらを見たので、一瞬どきりとしてしまう。 「な…なに?」 「いや。今日、話が聞けてほんとうによかったと思って」 言いながら、市原はバイクのエンジンをかける。 「なんで?」 他人のこんな茶番劇の内情など、知っても仕方ないだろうに。 「だって、有川がまだほんとうの意味では誰のものにもなっていないってわかったからさ。もう少しすれば、名実共にフリーに戻れるんだろ? そしたら俺にもチャンスはめぐってくるかもと思ったら、嬉しくてさ。だから、その時がきたら、覚悟しとけよ?」 親指と人差し指をまるで銃のように形作って、市原は夕映にその先を向ける。一瞬撃つ真似をしてから、メットのシールドを下ろして、「じゃあ、また明日」とだけ言って、走り去ってしまったから。後に残された夕映がその言葉の意味を正確に理解するのに、きっかり10秒ほどの時間を要してしまった。 「ええええええっ!?」 夕映の、心底驚ききった叫び声が、夜風に乗って消えていった………………。 |
2013.1.11up
夕映、受難の回です。そして暁にはライバル登場!?
ふたりの行く末はどうなる?
ところで『ねるとん』は下は何歳の人にまで通じるのでしょう…。
背景素材「空に咲く花」さま