〔12〕
暁がいた店先にやってきたのは、ひとりの青年。暁と同年代と思しき、まっすぐな黒髪を短くした、外見からも内面からも爽やかさが香ってきそうな、実直そうな相手だった。 「いらっしゃい。何かお求めですか?」 「あ、いや、ちょっと単車の調子が悪いんで、見てもらいたいんですけど」 「わかりました、じゃあここのすぐ隣のガレージに持ってってもらえます? 俺もすぐ行きますんで」 「はい」 それだけ告げてから、住居部分に続くドアを開けて、そろそろ夕飯の支度にとりかかっているはずの母親に声をかける。 「おふくろー、いまちっと整備関係のお客さんが来ちまったから、店のほう頼むわー」 「はーい」 父親はついさっき、お得意さんでもある友人に、「エンジンがかからなくなってしまった」と電話で言われ、念のため積んで持って帰れるように二輪を載せられる車ででかけてしまったから、向こうで直せるにしろ預かってくるにしてもまだ当分は帰ってこれないだろう。そんな訳で、母親に声をかけてからガレージに向かう。 ガレージに入ると同時に目についたのは、暁のものと同じ排気量の中型二輪だった。更にいうと、自分のものを買う際に最後まで現在の愛車とどちらにするか悩みまくったものと同型のものだったので、思い入れは人一倍あるそれだ。何だか嬉しくなって、中腰になってしげしげと眺めてしまう。 「あの…俺のが何か?」 「あ、別に何でもないんスよ。ただ、俺のを買う時に最後まで悩んだヤツと同じヤツだったんで、ちっと個人的に思い入れがあって」 「ひょっとして、あそこに駐まってるヤツっスか?」 「そうっス。いや〜、あの時はマジで悩んだなー」 「俺もあれ、最後まで候補に入ってましたよ。結局最後には、色合いで決めちまったほど」 「形も性能もそう変わんなければ、最後はやっぱそんな単純な理由で決めちまいますよね。他の人から見たらホントにささいなことなんだけど」 「ああ、それはわかります」 なかなか趣味が合いそうな客で嬉しいじゃねえか。いままで、来たことない客…だよな? 軍手をはめて、彼が「調子が悪い」という箇所を見ながらさりげなく話題を振ると────もちろん二輪がらみの話だ────他のことでもなかなか好みが近いらしく、ますます嬉しくなってくる。こんなに好みが近い相手は、そうそう会えるものでもないだろう。 「お客さん、うちは初めて…っスよね?」 消耗している部品を取り外して、在庫の中から新しいものを捜しながら問いかけると、相手はあっさりとそれを認めた。 「だよなあ、こんなに好みが近いお客さんなら、俺が忘れる訳ねえもんなあ」 同好の士を見つけられた喜びで、暁はすっかり上機嫌だ。相手も悪い気はしていないらしく、機嫌は悪くなさそうだった。が、時折複雑そうな表情を見せていることに、浮かれきった暁は気付いていない。 その後、首尾よく部品交換を終え、相手にエンジンをかけて調子を見てもらうと、不満はすっかり解消したらしく、満足げに口元に笑みを浮かべていたので暁もホッとする。やはり、客に喜んでもらえるのが整備士として一番の喜びだから。料金を受け取り、釣りや領収書と共に名刺代わりのカードを手渡す。暁の家のような個人営業の店では、一見で終わらないように、こうして地道に営業活動を続けるしかないのだ。 「あ、どうも……」 それだけ言って釣りその他を財布にしまった相手がそのまま黙り込んでしまったので、暁は不思議に思って内心で首をかしげてしまう。 「─────『アキラさん』って、あなたですか」 答えを求めているというより、ほとんど確認のような口調だった。 「そうっスけど…どっかで会ったことありましたっけ?」 店の看板その他には『早坂モータース』としか書いていないから、ここに初めて訪れて暁の下の名前まで言える人間は、そう滅多にいない。だから、軽い気持ちでそう訊ねたのだけれど。相手は、先刻までの二輪絡みでの同好の感情など完全に払拭したような真剣な瞳で、暁を見返してきた。懸命に記憶をさらうが、ほんとうに見覚えも何もない。 「俺、市原っていうんスけど」 「はあ」 やはり、名前にも聞き覚えはない。 「そこの天原署で交通課に勤務してまして、有川や山下の同僚っつーか同期です」 そこまで聞いてから、暁はようやく彼の言いたいことを理解した────ほんとうの意味で、ではなかったけれど。彼女たちからこの店のことを聞いて、仕事帰りに寄って来たのかと、そこでようやく得心がいった。 「ああ! 夕映…ちゃんや貴絵ちゃんの同僚さんかあ。これはこれは、さっそくご利用いただきありがとうございます」 言いながら深々と頭を下げると、相手の表情とその身を包む雰囲気が一瞬にして険しく、そして冷たくなった気がした。 「…有川から聞いたんスけど」 「え?」 「その気のない相手からのちょっかいから逃げるために、あいつを偽の恋人に仕立て上げてんですってね」 「!」 思わず顔を上げて、自分よりわずかに背の低い相手の顔をまっすぐ見据えた瞬間、相手の表情が苦々しいものに変わった。 「ああ、有川を責めないでやってくださいよ。職場で『恋人がいる』って暴露されたあいつの様子が何となくおかしかったんで、俺が勝手に問い詰めて訊きだしただけで、他の誰もそのことは知りませんから」 そんなことは、疑ってもいない。あの夕映が、自分からすすんでそんなことを口にするような性格ではないことは、出逢ってまだ数ヶ月の暁でさえも把握していることだったから。 「いや別に、そんなことで彼女を責めたりなんかしませんがね。あのコの性格は、つきあいが短くてもわかってるし」 そう返したとたん、市原と名乗った青年の片眉が不機嫌そうに上がったのは、決して目の錯覚ではないだろう。 「なら、あいつがすすんでそんな茶番をやってられる性格かどうかもわかってるはずですよね?」 山下のほうならともかく、と付け足された言葉に思わず同意して吹きだしそうになるが、相手の真剣な表情を見ていたら、そんなことはとてもできなくて……。 「見ての通り、あいつはあんな素直な性格です。たとえつきあいがそう長くない相手でも、それなりに親しい相手が困っていたら、放っておけないほどに……あなたのやっていることは、そんなあいつの優しさにつけ込むようなことじゃないんですか」 「…っ!」 市原の言葉のひとつひとつが、見えない鋭利な刃と化して暁の胸に突き刺さる。いちいち正論であったからというのは、誰でもない暁には一番よくわかっていることで…………。 「あいつがまだ誰ともつきあったことのないまっさらな状態ってことも、わかってるんでしょう? 職場でも男相手の時はどこか構えてるところがあるからわかるんスよね。そんなあいつを、いつまでそんな茶番に付き合わせるつもりですか」 言われてみれば、確かにその通りだ。暁と付き合っていることになっているうちは、夕映は他の誰とも恋愛なんてできるはずもなくて。 「いい加減、あいつを解放してやってほしいんスよ」 「…………」 暁が何も言えないままでいる目前で、市原はこれ以上ないというほどに複雑そうに顔を歪めて、それから、最高に苛立っているかのように「あーもうっ!!」とほとんど叫びながらみずからの頭をがりがりとかいたので、暁は目をみはることしかできなかった。 「そうやってもっともらしいこと言って、本人のいないところでろくに知らない相手を責め立てて、男らしくないことはわかってんスよ! いまの俺は、誰よりもみっともねえことしてるって自覚も、ちゃんとあるんですっ だからもう、恥も外聞もなくぶっちゃけちまいますけどっ!!」 あまりの勢いに、暁のほうが気圧されてしまう。 「俺は、有川のことが好きなんスよ、同じ交通課に配属された頃から!」 「!!」 予想もしなかった言葉が市原の唇から飛び出した瞬間、それまで冷酷そのものと評してもよいぐらいだった市原の表情が、急速に赤くなっていく頬とほぼ同時に年齢相応の青年のそれになって、誰よりもみずからを恥じているような様子に変わった。 「……『バカみてえ』って笑ってくれて構わないっスよ。事実、その通りなんだから。あーちくしょう、もっとスマートに済ませるつもりだったのに。有川のこと心配してるようなこと言って、結局あいつの彼氏ってことになってるあんたに嫉妬してるだけなんだ、あー俺超カッコわりいっ!! あんたも呆れ返ってるから言葉も出ないんでしょ、笑ってくれて構わないっスよ、そうされても仕方ないことしてんだからっ」 口を挟む暇がなかったから黙っていただけで、暁には市原を笑うつもりなど毛頭ない。何故なら、いまの市原が感じているような感情は、かつての自分にも覚えがあったからだ。その時の自分を思い出すと、いまの市原など目ではないほど恥ずかしい行動をした自覚があるので、とても他人のことなど笑えはしない。 「……笑わないっスよ。いや、むしろ笑えない、かな」 「!?」 「昔の俺も、似たような…いやもっとひどいことやった記憶があるから。他人のこと笑えるほど、いまの俺だってそんなに成長してないと思うし」 そう言ってやると、頭を抱えていた市原が驚いたような表情で頭を上げた。 「─────『彼女』の件も、できるだけ早く何とかしますよ。このままでいいなんて、俺も思っていないし」 何より、彼女のことを真剣に想っている相手がこんなに近くにいるなら、確かに彼女をいつまでも拘束しているのは罪としかいいようがない。彼女が彼をどう思っているのかは知らないが、少なくとも彼女が自由に恋愛する権利を奪うことなど暁に許されていることではない。 「そう言ってもらえると…俺も助かるんですけど……でもまあ、俺はただの同僚以上に思われてないみたいだから、先は長そうですけどね」 「んなこたないっしょ」 夕映の性格からして、こんなに真面目でまっすぐな性格の相手に好意を抱かない訳がないと暁は思っていた。暁でさえ、こんな短時間のやりとりで既に市原に好意を抱き始めているのだ、彼ともっと長い間接してきた夕映ならば、絶対に好意以外の感情は持っていないだろうと確信できた。 「そう言ってもらえると嬉しいけど、俺がそういう意味でいままで眼中になかったってことは、もう確認済みなんです。つい最近…そちらとのほんとうの関係を訊きだした直後ですけどね。俺、別れ際にあいつに告ってるんですよ。その翌日のあいつの緊張度合いといったら……いつもの冷静さはどこいったって感じで、すんげーミスしまくりで挙動不審で…あれは完璧に予想外の相手から告られての反応ですね」 苦笑いをしてはいるが、市原の落胆ぶりは、暁には何故か手に取るようにわかって……同じように告白をして、相手にとって自分は恋愛対象外だったとわかって愕然とした経験が、暁にもあったからかも知れない。 それから、ニ、三他愛のない話を交わしてから、市原は帰っていった。その後ろ姿からはもはや、途中までの気迫は感じられなくて……彼はほんとうに、夕映のことが好きなのだなと暁は思った。 それにしても。あの時のアレは、そういうことかよ。 あの時─────つい先日、仕事中の夕映と貴絵に出くわした時のことだ。あの時、貴絵は普段とほとんど変わらなかったが、夕映はどこかよそよそしかった。アレは、市原青年に既に告白された後、つまり暁とのほんとうの関係を話してしまった後ろめたさ故のものだったのだろう。確かにあの態度は気にはなっていたが……無理に訊きだすのもどうかと思い、とりあえずふれないようにしていたのだ。けれどその原因が、自分との関係だとすれば、もう放っておくことはできない。市原はああ言ったが、もしも彼女も彼を好きなのだとしたら、邪魔なのは自分のほうということになる。想い合うふたりを引き裂いてまで、自分の都合を押し通すほど暁も自分勝手ではないのだ。 市原の後ろ姿が完全に雑踏に消えるのを見届けてから、つなぎの胸ポケットに入れていた携帯を手にとって、しばし前に登録した番号へと電話をかけ始めた…………。 「あ、の…話って、何ですか?」 先日よりはだいぶマシになってはいるが、やはりどことなくよそよそしい様子で夕映が問うてくる。河に向かって石を投げていた手を止めて────昔よくやった水切りという投げ方をやってみていたのだが、さすがにブランクがあるせいか昔のようにはうまくできなかった────そっと後ろを振り返る。 「昨日の夕方さ、うちの店にご新規さんのお客さんが来たんだよ。買い物とかでなくて、単に愛車の調子が悪いんで見てくれってことでさ、部品をちょっと取り替えただけでそっちはすぐ終わったんだけどさ。そのお客さんのうちに来たホントの目的ってのは、実は違ったんだよな」 「え?」 夕映は何も気付いていない様子だ。 「そのお客さん……天原署の交通課所属の署員だって言ってさ。夕映、ちゃんらと同期だって、若い兄ちゃんだったよ」 ここまで言えば、さすがに夕映にも暁の言いたいことが通じたらしい。それまできょとんとしていた顔が、見る見るうちに赤くなって、まるで昨日の市原青年のようにどうしていいのかわからないような表情になって両手で口元を覆ってしまった。 「そ…その人って、もしかして……」 「うん。もしかしなくても、市原って名乗ってた」 「やっぱり」とでも言いたげな表情で、夕映は俯いてしまった。 「おかしいと…思ったんですよね。昨日までは普通だったのに、今日になっていきなり気まずそうに視線をそらしたりするんですもの。私は何もした覚えがないし、貴絵も何も知らないって言うし。貴絵は時々悪ふざけをしたりするけど、こっちが真剣に訊いたことにはちゃんと真剣に答えてくれるから……いったい何があったんだろうって、二人で話してたんです」 あれは、そういうことだったんですねと夕映は続ける。 「彼に…告られたんだって?」 「!」 まさかそんなことまで市原が話しているとは思わなかったのだろう、いつもの毅然とした態度とはまるで違う、おどおどと表現するしかないような頼りなげな様子で、夕映はとたんに落ち着きをなくす。 「ごめんなさい、暁さんにとってはあまり他に知られたくない話だったろうに、市原くんに話しちゃって……まさか私も、後であんなこと言われるなんて思ってもみなくて」 「ああいや、謝るのはこっちのほうだよ。夕映ちゃんが他の誰かと恋愛する機会を奪っちまってんだから。あの彼みたいな相手がいたっておかしくない年頃だってのにな。だから、もし君もあの彼のことが好きだってんなら……」 「そ、そんなことありませんっ!!」 豪胆を誇る暁でさえも度肝を抜かれるような大声が、夕映の唇から迸った………………。 |
2013.1.12up
ついに初対峙の暁と市原…。
真実を知ってしまった市原くんは、黙っていられなかったようです。
夕映の真意は? 次回、ドツボにハマる夕映?
背景素材「空に咲く花」さま