〔13}





──────わからない。何もかもが、わからない。



「よっ おはよう!」

「っ! お、おはよう……」

 市原に暁とのことをすべて話してしまった翌朝、いままでと何ら変わりなく声をかけてくる市原に、夕映は何とか平静を保って返事をする。昨日の今日で、いつもとまるで変わらない様子を見せる市原のこともわからないし、市原がいったい自分のどこを好きになったというのかもわからない。おかげで自分は昨夜はなかなか寝付かれなくて寝不足だというのに。

「ねー、夕映。市原と何かあった?」

 貴絵に唐突にずばり核心を突かれたので、とっさに取り繕うこともできずに、赤くなっていくみずからの顔を止められなかった。いまがパトロール中のミニパトの中で貴絵と二人きりで、更に自分が運転している最中でなくてよかったと、夕映はしみじみと実感した。もしも自分がハンドルを握っていたら、操作ミスを起こさない自信がまるでなかったから。

「やっぱり。夕映ってば、朝から市原と顔を合わせた時だけ何か変だったんだもん。もしかして……市原に告られでもした?」

「な…っ!」

 何でそんなことまでわかるのだ!? そう思って貴絵のほうを向き直った夕映は、「にま〜っ」としか表現のしようのない表情の貴絵とばっちり目が合ってしまって、慌てて視線をそらした。

「市原があんたを好きなんて、見てりゃすぐわかるっての」

「そ…そうなの!?

 では、周囲の人間すべてにバレバレだということなのだろうか!?

「ああ、気付いているのはある程度以上の恋愛経験がある人だけだと思うわよ? 市原もなかなか本心を隠すのうまいから。あたしもトオルと付き合って長いからねー、それなりに修行積んでますって」

 ならばよいけれど……それにしても、決して少なくはないであろう人数にはバレているのかと思うと、恥ずかしくて仕方がない。

「んで? あんたは何て返事をした訳?」

 話をしながらも、眼は抜かりなく周囲にまんべんなく視線を注ぎながら、貴絵は問う。

「へ、返事も何も…別れ際に、『フリーになったあかつきには覚悟しとけよ』って言うだけ言って帰られちゃったから、何も言えなかったわよ」

「『フリーになってから』…? あー、やっぱり暁さんとのことも吐かされちゃったかあ、そうじゃないかと思ったのよねー。夕映ってば、絶対犯罪とかやんないほうがいいわよー? 取り調べとかする側ならともかく、される側になったらあっさりボロ出しちゃいそうだから、完全犯罪なんかぜーったい無理!」

 貴絵に言われてから、夕映は初めて自分が致命的なミスを犯したことに気付いた。顔が、ますます熱を帯びていくのがわかる。

「で、どうなの? 市原のこと、どう思ってんの?」

「どうも何も…いままでそんな風に見たことなんてなかったし……努力家で、尊敬できる同僚ってこと以上には思えないわよ」

「えー、市原かっわいそー」

「…っ!」

 貴絵は確か、夕映と暁を付き合わせようと────いまのように見せかけではなく、ほんとうの意味でだ────していたのではなかったか? なのに、ここでどうして市原に同情的なセリフが出てくるのか。

「ね、ねえ、貴絵…?」

 助手席の窓から身を乗り出して、駐車違反の車のタイヤと路面にチョークで印と必要事項を書き込みながら、夕映は振り返らないままで貴絵に声をかける。

「なーにー?」

「貴絵は、私と暁さんをどうにかさせようとしてたんじゃなかったの…?」

 なのにどうして、市原をも応援するような言葉を口にするのか。

「んー、暁さんもいい人なのはわかってるから、夕映をまかせてもいいなあとは思ってたんだけど、市原もなかなかいい奴だからさあ。ぶっちゃけた話、あんたを幸せにしてくれるなら、どっちでもいいのよね、あたしは」

「何よ、それっ 二人のどっちにも失礼な話じゃないっ」

「だって仕方ないじゃない。あたしはトオルと違って暁さんと元から友達だった訳でもないし、三人の中で誰が一番大事かって言われたら、あんたって即答しちゃうぐらいだもん」

「……!」

 冗談かと思われそうだが、貴絵が本気でそう言っていることは、付き合いの長い夕映にはよくわかっている。貴絵という人物は、そういう相手なのだ。


『有川…夕映ちゃんっていうの? あたし、山下貴絵っていうの。「夕映」と「貴絵」って、まるで姉妹みたいね』


 そう言ってほんとうに嬉しそうに笑った……初めて会った、中一の春の日のことを、いまもよく覚えているから──────。

「まったく、あんたって人は……」

「なーに? 惚れ直した?」

 くすくすくす。男二人に対してまるで罪悪感を抱いていないような無邪気な笑顔で微笑まれると、怒る気も失せてしまうから不思議だ。貴絵という娘は、こういうところがにくめないから人生を得しているように思える。本人は自覚しているのかわからないけれど。少なくとも達は、貴絵のこういうところに惚れたのかも知れないと、夕映はそっと思う。

「で、どうすんの? 晴れてフリーになった時は、どっちを選ぶの?」

 信号の下に出る矢印に従って右折しながら、貴絵が問うてくる。

「そんなの…わかんないわよ。暁さんが私を好きだなんて決まった訳でもないし。どう思ってるのかさえわかんないのよ…?」

 だからといって、前述の気持ち以上のそれがないのに、市原と付き合うなんて彼に対して失礼極まりない。

 そう続けた夕映に、貴絵は「そっか」とだけ答える。

「あたしから見たら…」

「あっ 貴絵、信号無視車両発見! 早く追ってっ」

 ふいに見かけた違反車両のことで頭がいっぱいになってしまったから、貴絵の言葉の続きは夕映の耳にはまったく入っていなかった。

「あたしから見たら、暁さんは絶対夕映のことが好きだと思うけどね」




         *               *     *




 そんな会話を交わした二日後だったから、仕事中に予想もつかない形で街中で暁とばったり出会った時には、夕映は自分でも信じられないくらい挙動不審になってしまった。

 何で…こんなに後ろめたい気分になるんだろう。市原くんに全部話しちゃったから? でも暁さんとの交際のふりはある意味人助けで……市原くんなら、他の人に話さないって約束してくれたことを話すようなことはないと思うし…。

 そうは思っていても、暁の目をまっすぐ見ることができない。暁なら、市原のことを話しても怒りはしない気がするけれど、何故だか心は晴れなくて……。恐らく、暁の目にも自分の態度は不自然に映っているだろうけれど、どうしてもいつものようには振舞えなかったのだ。自分はいったいいつから、こんなに臆病になってしまったのだろう?

 だから、それから数日経った頃に暁から呼び出しを受けた時には、ついに来たかという気分になってしまった。

 食事の間は、暁は普段とまるで変わらない態度で、自分の考え過ぎかと思いかけていたのだけれど。会計を済ませて表に出たとたん、「悪いけど、もう少しだけ付き合ってくんねーか?」と言われて、心臓の鼓動が一瞬にして早まった気がした。けれど懸命に表には出さないようにして、暁の後ろに乗って河川敷へとやってくる。

「あ、の…話って、何ですか?」

 そう切り出した夕映の前で暁が語った内容は、予想もしていなかった内容で……。

「そ…その人って、もしかして……」

「うん。もしかしなくても、市原って名乗ってた」

 途中から半ば予想はしていたが、まさか市原がそんな直截的な行動に出るとは思っていなかったので、驚きもひとしおだ。

「ごめんなさい、暁さんにとってはあまり他に知られたくない話だったろうに、市原くんに話しちゃって……まさか私も、後であんなこと言われるなんて思ってもみなくて」

「ああいや、謝るのはこっちのほうだよ。夕映ちゃんが他の誰かと恋愛する機会を奪っちまってんだから」

 暁の返事にホッとしたのも束の間、その次に続く言葉に、夕映は自分の耳を疑った。

「…あの彼みたいな相手がいたっておかしくない年頃だってのにな。だから、もし君もあの彼のことが好きだってんなら……」

 え…もしかして、私が市原くんのことを好きだって誤解されてる? ていうか、むしろ市原くんと付き合うことを奨励されてるの? 私が、他の男の人と付き合うほうが、暁さんは嬉しいの……?

「そ、そんなことありませんっ!!

 自分でも、思ってもみなかった言葉が口をついていた。それも、信じられないぐらい大きな声で、ほとんど反射的にといっていいぐらいの速度で。これではまるで……。

「いまの…どういう…?」

 自分でも自分の気持ちがわからなくなって、真っ赤になっていくみずからの顔を自覚しながらも、これ以上よけいなことを口走らないように両手で口元をおさえて視線を暁の足元に落とした夕映に、半ば混乱しているような暁の声がかけられる。訊かれたって、自分でも自分の本心がわからないのだ、答えられる訳がない。もうどうしていいかわからなくなって、思わずぶるぶると首を横に振って、何とか言葉を紡ぎ出す。

「わ…わたし、何言ってるんでしょうね……ごめんなさい、今日はもう帰ります!」

 もう、何を言っていいのか、どんな顔をしていいのかわからなくて、即座にきびすを返す。

「あっ 待っ…!」

 もう恥ずかしくて、この場にいることすら耐えられなくて、暁の引き止める声も聞こえないふりで駆け出しかけた夕映の片足が乗ってしまったのは、他の石とは段違いに大きい石。あまりにも高さが違ったせいで、後ろ向きにバランスを崩してしまう。

「きゃ…っ!」

「あぶねえっ!!

 とっさに伸ばしてくれたらしい暁の両腕が抱き留めてくれたおかげで、何とか地面に倒れ込むことだけは回避できて、ホッと息をついた。こんな、石だらけのところで後ろ向きに転んだりして、頭でも打っていたらと思うとぞっとする。ようやく落ち着いてきたところで、暁に横抱きの形で支えられているおのれの現状に気付いて、ハッとする。

「あ…ありがとう、ございます……よく言われるんですけど、一見そう見えないのに私って結構抜けてる、らしいんですよね…」

 この際だ、笑ってごまかしてしまおうと思って見上げた夕映の視界に飛び込んできたのは、深い夜の闇を思わせる、感情の読み取れない色の瞳。時折反射する遠くの車のヘッドライトが、まるで獲物を捉えた肉食獣の瞳の光を思わせる。そのまま、ほどよく筋肉がついた胸の中に抱き寄せられて……。

「あき、らさ…?」

 問いかけるように顔を上げた夕映の眼前に、いつの間に近付いていたのか暁の相変わらず感情の読み取れない表情を浮かべた顔が迫っていて……名前すらろくに呼びかけられないまま、唇と唇が接近していく。みずからの唇が言葉にならない声を紡ぐのが、夕映にはわかったけれど、何を言おうとしたのかは自分にもわからなくて…………。

「───────」

 互いに瞳を見交わしながら、唇が触れ合うまであと数ミリというところで、背後から響き渡る、元気のよい犬の鳴き声。

「───っ!!

 心臓が、停まってしまうかと思った。暁とほぼ同時に、飛び跳ねなかったのが不思議なほどにびくりと大きく身を震わせて、慌てて互いの身を離す。見ると、ゴールデンレトリバーと思しき大きな犬が、人懐っこい様子でこちらに向かって駆け寄ってくる。「こ、これ、お待ちなさい、ラルフっ!」と息も切れ切れに言いながら、追いかけてくるのは中年の婦人。その手に持った袋からして、散歩の最中に犬に急に走りだされた拍子にリードを手放してしまって、慌てて追いかけてきたのだろう。

「…『ラルフ』? よっしゃ、こっちこいっ!」

 暁の叫びに反応して、ラルフと呼ばれた犬はちぎれんばかりに尻尾を激しく振りまくって、暁の胸の中に飛び込んでいく。暁も受け入れ態勢は万全だったらしく、多少よろめいたものの何とか犬を抱き留めて、そのすさまじい顔舐め攻撃に圧倒されながらも、ほとんど手探りでリードを捜しあてて、しっかりとそれを掴む。

「まあまあまあ、うちの犬がごめんなさいっ 大丈夫ですかっ?」

 はたで見ていても可哀想なほどに息をはずませた婦人が、申し訳なさそうに言いながら暁に駆け寄ってくる。

「いや、犬は大好きなんで、大丈夫っスよ。それより、こんなでかい犬の散歩は男にまかせたほうがいいですよ? リードを振り払われるくらいならともかく、最悪の場合は引きずられて怪我なんかしかねませんから」

 リードを婦人に渡しながら、暁が告げる。

「いえ、いつもは息子に行ってもらってるんですけどね、今日は残業でまだ帰れないらしくて……こういう時に限って、お父さんも飲み会が入っちゃうしで…ホントごめんなさいね、お邪魔しちゃって。それじゃラルフ、帰りましょうね」

 笑顔で去っていく婦人にリードを引かれ、犬は未練がましそうに暁を振り返りながらも、ゆっくりと歩み去っていく。あの様子なら、後は彼女一人でも大丈夫だろう。そう思った夕映の脳裏に、たったいま言われた言葉がよみがえった。

『ホントごめんなさいね、お邪魔しちゃって……』

 気付かれていないと思っていたけど、ついさっきのアレを見られていたのだろうか!? 夕映の顔と全身がかあっと熱くなる。

「……帰るか。送ってく」

 それだけ言って、ジーンズのポケットに両手を突っ込んだまま、暁が先に立って歩き始める。そのあまりの素っ気なさに、暁にとっては先刻のことなど大したことはないことだったのかと思ってしまって……自分だけが焦って馬鹿みたいだと夕映が思った瞬間、決してこちらに顔を向けようとしない暁の両耳が、真っ赤に染まっていることに気が付いた。

 もしかして……暁さんも、恥ずかしかったりするの…?

 自分などより、よっぽど恋愛経験がありそうなのに。けれどそうなると、どうしてあんなことをしようとしたのかがわからない。あの照れ具合やその前に話していた内容からして、少なくとも遊びで手を出そうとしたようには思えない。市原の気持ちを知っていて、なおかつ夕映の気持ちを慮ってくれるような彼が、そんなことができるような人間だとは……思えない。じゃあ…もしかして……? ひとつの可能性に思い当たって、夕映の顔が更に熱を帯びる。

 街灯の光がかすかに届く中、ほとんど無言のままでヘルメットを受け取ってかぶり、エンジンをかけた暁の単車の後ろに乗り込み、いつものように暁の腰につかまる。暁もほとんど反射的な様子で動くのみで、何も言おうとはしない。そのままほとんど言葉を交わさないまま夕映の家に向かい、家の前でそっとシートから降りる。

「送ってくださって、ありがとうございます……」

 それだけ告げるのが精いっぱいだった。

「…いや。またスクーターをうちに置いていかせちまったから、明日の朝また迎えに来るよ。それとも……あの彼に迎えに来てもらったほうがいいかな」

「!」

 暁は名前こそ言わなかったが、それが誰のことを指しているのかは、いまの夕映には訊かなくてもわかることで……思いもしなかった言葉に、夕映の胸の奥が小さくツキン…と痛んだ。理由なんて、自分でもわからないのに。

「市原くんとは…そんな関係じゃありませんから」

 そう答えたとたん、暁が驚いたような表情で勢いよく振り返ってきたので、夕映のほうが驚いてしまう。

「ホントに…?」

 どうして、暁がそんな反応を見せるのだろう。暁は、自分と市原が付き合ったほうが嬉しいのではなかったのか?

「市原くんのことは、同じ警察官として尊敬はしていますけど、そんな個人的な感情なんて考えたこともありませんでしたし」

「そ、か……そうなんだ」

 言いながら、暁は何だか複雑そうな表情を見せた。

「俺、てっきり……そうだよな、夕映ちゃんの気持ちが一番大事なんだもんな」

 複雑そうなのは変わらないが、先刻よりは少し明るくなったような気がする瞳を見せながら、暁は再び前を向いた。

「じゃあ、明日はこないだと同じくらいの時間に迎えに来るよ。それでいいかな?」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げて言うと、暁はようやくいつもと変わらぬ笑顔を見せた。

「じゃあ俺はこれで。また明日」

「はい。お休みなさい、気をつけて帰ってくださいね」

 微笑みながら告げると、暁は軽く片手を上げて、それからゆっくりと単車を発車させた。その広い背中の後ろ姿が、曲がり角を曲がって消えていくまで、夕映は自宅の前でそっと見守り続けた…………。


    





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2013.1.13up

夕映、ドツボにハマってしまったようです。
だけど、暁もドツボの仲間入り?
そして真に哀れなのは市原なり…?

背景素材「空に咲く花」さま