〔14〕
「いまの…どういう…?」 真剣に彼女の意図がわからなくて、思わず聞き返したとたん、夕映は真っ赤な顔のままぶるぶると首を横に振って、やっとといった風に言葉を発した。 「わ…わたし、何言ってるんでしょうね……ごめんなさい、今日はもう帰ります!」 まるで、夕映自身にも自分の気持ちがわかっていないような反応に、そのまま別れたくなくて慌てて引き留めようとした目の前で、夕映の身体が突然後ろ向きに傾いだ。 「きゃ…っ!」 「あぶねえっ!!」 とっさに両腕で支えて、その細い身体を抱き留める。以前抱き上げた時と同じく、相変わらず細い身体だった。 「あ…ありがとう、ございます……よく言われるんですけど、一見そう見えないのに私って結構抜けてる、らしいんですよね…」 半ば引きつったような笑顔で言う彼女の、いまにも泣きだしそうに見える瞳から目が離せなくなって……気付いたら、みずからの胸の中に彼女を抱き締めていた。 え……俺、何やってんだ……? 自問しても答えは出ない。その間にも身体は勝手に動き続け、彼女からわずかに身を離して、その目をまっすぐに見つめる。遠くに見える街灯や走り過ぎる車のヘッドライトを頼りに、その綺麗な瞳をもう少し近くで見たくなって、気付かないうちに顔を近づけていた。 「あき、らさ…?」 戸惑っているようなか細い彼女の声が耳をつくが、自分でも何をしているのかわかっていないのだ、答えようがない。やがて、唇と唇が触れ合うまであと数ミリといったところで、突然聞こえてきた犬の大きな鳴き声に、これ以上ないというほどに驚いてしまう。 「───っ!!」 いま、自分は何をしようとしていた? とっさに互いに身を離したところに、乱入してくるゴールデンレトリバー。 「…『ラルフ』? よっしゃ、こっちこいっ!」 ぜいぜいと息を切らせて犬を追ってくる飼い主を見かねて、たったいま知ったばかりの犬の名を呼ぶと、犬はとんでもなく嬉しそうな素振りを見せて、自分の胸に飛び込んできた。犬の扱いには慣れているが、さすがにこんな大きな犬と触れ合ったことはなかったので、多少手こずったが何とか走るのをやめさせることはできた。その後の怒涛の顔舐め攻撃にはまいってしまったけれど。 もう少しで可愛い唇を堪能できるってとこだったのに、これかよっ 偽らざる本音は何とか胸の中に隠しきって、飼い主の女性に犬のリードを手渡す。犬はもう少し遊んでほしそうだったが、とりあえずいまはもう勘弁してほしい。 「ホントごめんなさいね、お邪魔しちゃって。それじゃラルフ、帰りましょうね」 大型犬の扱いには慣れていないとはいえ、さすがに人生の先輩には、自分たちがどういう状況だったのか見抜かれていたようで、かあっと顔が熱くなる。やはり年長者は侮れない。 「……帰るか。送ってく」 照れ隠しにそれだけ呟いて、絶対に彼女に顔を見せないようにして先に立って歩く。男として、また年上として、こんな醜態を晒す訳にはいかない。彼女も恥ずかしいのだろう、ほとんど口をきかないままで自分の後に続いてくるのが気配でわかった。何とか赤面がおさまった顔に何でもないような表情を乗せて、最近ではほとんど彼女専用と化している予備のヘルメットを渡す。つい最近、何となく気まぐれでこちらをかぶった時に、彼女の髪から香るものと同じ、恐らくシャンプーの香りらしきものを感じ取って、まるで中高生男子のように一瞬胸を高鳴らせてしまった事実は絶対に誰にも言うつもりはない。 そんなことを考えていたから、いつものように彼女が自分の腰に控えめにつかまってきたのに気付いた時も、妙に意識してしまって平静を保つのが大変だった。異性に免疫のない少年でもあるまいに、自分はいつからこんなに初心(ウブ)になってしまったのか。心のどこかで、自分自身を嘲笑う自分も確かに存在しているというのに……。 「…いや。またスクーターをうちに置いていかせちまったから、明日の朝また迎えに来るよ。それとも……あの彼に迎えに来てもらったほうがいいかな」 夕映の家の前で彼女を降ろした時、言葉少なに告げる彼女にそう答えたとたん、彼女の身体が一瞬動揺したかのように震えた気がした。 いまさら思い出すのもどうかと思うが、まっすぐな目をして夕映を好きだとはっきり言い切った彼に「できる限り早急に彼女を解放する」と約束したというのに、自分はいったい何をやっているのか。もしあの時邪魔が入らなかったら、好き合っているふたりに割り込むような最低なことをしていただろう。そんなことにならなくてよかったと思う反面、ふたりが仲睦まじく寄り添う姿を想像するだけで、胸の奥が痛みを訴えかけていた。理由など、自分にもわからないのに。 「市原くんとは…そんな関係じゃありませんから」 その言葉を聞いた瞬間、考えるより早く身体が反応して、即座に振り返ってしまったために驚きを隠せないような夕映の顔が視界に飛び込んできた。 「ホントに…?」 やはり自覚がないままに、言葉を紡いでいた。 「市原くんのことは、同じ警察官として尊敬はしていますけど、そんな個人的な感情なんて考えたこともありませんでしたし」 「そ、か……そうなんだ」 市原に同情を感じながらも、目の前に立ち込めていた霧が一瞬晴れた気がした。そうだ。市原の気持ちにばかり感情移入していたが、彼がどんなに彼女を想っていたとしても、それに応えるつもりが彼女になければ、仕方がないのだ。もちろん、その気がない夕映に無理に市原と付き合わせるつもりなど、暁にはなくて……。 「俺、てっきり……そうだよな、夕映ちゃんの気持ちが一番大事なんだもんな」 基本的なことを忘れていた自分に、思わず苦笑いを浮かべる。何よりも初歩的なことなのに、自分はどうしてそんなことに気付けなかったのか。不思議そうな表情を浮かべてこちらを見ている夕映と、明朝の約束を取り付けてから、いつものように簡単な別れの言葉を交わして暁は帰途につく。 住宅街から抜けて大きめの道に出るにつれて加速していくバイクと共に、暁の心の全体を覆っていた厚い雲が、風に押し流されていくように徐々に消え去っていって……差し込んでくる陽の光────実際の時間は夜だから、単なる比喩表現のようなものだが────が暁の全身をまんべんなく照らし、辺りに立ち込めていた霧さえもすべて消し去ってくれたような気さえしてくる。市原に遠慮しないでいいとわかった瞬間に訪れた己の心の変化に、さすがの暁もその真相に気付いて……ずっと自分の中で燻っていた謎のわだかまりの正体を、たったいま完全に自覚した。 そうだ……俺は、彼女が好きだったんだ─────多分、初めて逢った頃から。だから、苛立ちながらも放っておけなかったし、恋人役を頼んだのもどこかでそれを望んでいたからで…彼女を泣かせた夏美を許せないと思ったのも……それが理由だったから。 何ということだ、気がつけば何てことはない。自分の行動のひとつひとつの理由が簡単に解き明かされていくことに、快感さえ覚える。 自覚してしまえば、後は早い。いつ彼女に偽りの恋人関係の終焉を持ちかけようかと思っていたが、そんな気は一瞬にして霧散した。代わりに浮かんでくるのは、独占欲。市原がどれほど彼女を想っていようとも、夕映本人にその気がない限り、渡すつもりなどまったくない。心を占めるのは、武者震いを伴った高揚感。これまで市原に対して抱いていた後ろめたさなど、いまはもう心のどこにも存在しない。彼に対してフェアではない、とたしなめる声もどこからか聞こえてはくるが、夕映といまの関係になった時には市原の存在すら知らず、暁本人でさえ自分の気持ちに気付く前のことだったのだから、悪いとは思うがいまさら関係を解消するつもりもなく、むしろラッキーだったとまで思ってしまっている。何しろ相手は夕映と同じ職場で働く人間なのだ、もしも何もない状態で同じ時に互いに彼女への想いを自覚していたら、不利だったのは暁のほうだったに違いないだろう。 そしていまは、彼より早く夕映に近付けている事実にホッとしている。夕映に嫌がられない限り、暁のほうから夕映を手放す気はないし、市原に遠慮するつもりもない。けれど、そのままでいられるほど暁の性根も曲がっている訳でもなく、アパートに帰り着いて入浴も済ませ、後は寝るだけという落ち着いたスタイルにまで持っていってから、携帯のアドレス帳からかけ慣れた相手の名前を呼び出して、オンフックボタンを押す。コールニ回ほどで相手が出た。 「ああ、トオルくんか? ちょっと話があるんだけど、いま大丈夫かな?」 相手の了承を得てから、暁は一度深呼吸してから、ゆっくりと話し始めた…………。 やがて、10分ほど待った後に先日目の当たりにした二輪が走ってくるのを遠目に発見し、相手が近付くにつれてよく見えるようにその場で片手を大きく振って合図する。視力には自信があるから、あの二輪とヘルメット、そして運転者の体格は間違ってはいないはずだ。そんな暁に気付いたのか、署の敷地内に入ろうとしていたらしい相手は、そちらにウインカーを出すこともせず、暁のそばに寄ってきて片足をついて走行を止める。 「……早坂、さん? こんな朝っぱらからどうしたんスか」 「…悪いな。ちっとだけ…5分ぐらいで済むと思うから、ちっとだけ時間をもらえねえかな」 暁の真剣な眼差しから何かを感じ取ったのか、市原はそれ以上訊こうとはせず、エンジンを切った二輪を押したまま、暁の誘導に従って署の裏手に回る。 「で、何スか? 何か話があるんでしょう?」 さすがに市原は察しが早い。 「以前さ。俺、早急に彼女を解放するって言っただろ。悪いけどあれ撤回する」 市原の片眉が怪訝そうに上がるが、決して目をそらさないままで続ける。 「彼女本人がやめたいって言わない限り、俺からは絶対に彼女を手放さない。もちろん彼女の意思はこれから確かめるけど、たとえ偽装から始まった関係でも、俺は絶対に別れようとは言わない。彼女が俺を男として見れないってんなら男らしく諦めるけど、それ以外の理由でなんか絶対彼女の元から離れねえから」 決意のままに、一気に言い切る。昨夜、迷いながら、そして言葉を選びながら達に告げた内容そのままの言葉を。 「それは、つまり……」 市原の瞳も真剣そのものだ。 「宣戦布告、と取ってもいいってことっスね?」 「ああ。俺は、彼女が好きだ。多分…初めて逢った頃から──────」 既に自覚した想いでも、内心や電話越しでなく他人を目の前にして言うのがこんなに恥ずかしいとは、当の暁も思っていなかった。けれど、自分の口からちゃんと言わなければならないこともあると、暁はわかっていたから。赤面しそうになるのを懸命にこらえて、市原の顔をまっすぐに見据えて言い切った。 「……わかりました。彼女のどこを、なんて野暮なことは訊きませんよ、俺だって同じ穴の狢だし。だいたい初めに嫉妬に狂ってみっともねえことしちまったのは、俺のほうですからね、その結果そちらに火をつけちまったと思えば、前言撤回されても責めることはできねえってもんで」 自嘲気味にため息をつきながら、市原はみずからの頭をぽり…とかく。 「ただし」 それまでとは違う真剣極まりない声に、暁の身体が一瞬震える。 「こっから先は、正々堂々、彼女の気持ちを最優先でお願いしますよ」 「それは望むところだ」 暁とて、力ずくで女性をどうこうしようと思うほどクズでもないし、情けない話だが、武芸に秀でた彼女をヤンキーに毛が生えた程度の自分如きがどうにかできるとも思っていない。そして何より、彼女には自分自身の意思で、市原ではなく暁を選んでほしかったから──────。 「とりあえずいまは、俺の気持ちを彼女に伝えることから始めようと思う。そっちは伝えてあるのにこっちは伝えてないなんて、フェアじゃないからな。って、俺が言えた義理じゃねえけども」 「…いや。それは当然の権利だと思いますよ。一見そっちにアドバンテージがあるように見えるけど、実際には既成事実は何もないんだし。なら、同じ職場で毎日会える俺のほうが有利ともいえるでしょう」 「既成事実──────」 暁の脳裏に、つい昨夜の出来事がよみがえって、不覚にも顔がにやけそうになって懸命に抑えた、が、時既に遅く市原には気付かれてしまったようだ。市原の顔が、みるみる険しくなっていく。 「まさか、もう手出ししちまったとか言うんじゃないでしょうね!?」 「してないしてないっ 危なかったけど、まだ何もしてないっ!」 言わなくてもいいのに正直にそこまで言ってしまった自分に、後になってから暁自身「馬鹿だ」という感想しか抱けなかったが、市原にはかえってそれがよかったようで、怒り狂う鬼のような形相になりかけていた市原の顔が、あっという間に平静なそれに戻る。 「…まあ、同じ男として、気持ちはわからんでもないですけどね。これからはマジで、彼女の気持ちを確かめるまでは抜け駆けなしで頼んますよ」 「それは重々わかってるさ」 暁とて、彼女の気持ちを無視して突っ走るつもりなど毛頭ない。 「それじゃ、俺はそろそろ行きます。そっちが気持ちを伝える前に、少しでも点数かせいどかないとね」 半ば冗談ぼく言ってはいるが、それは市原の本音そのものだろう。暁という、本物の────というのも何だか変な言い方だが────恋敵を得て、焦り始めたのがその瞳からありありと見てとれる。 「なあに、アドバンテージはいまのとここっちにあるんだ、さっさと気持ちを伝えて、あっという間にぶっちぎってやるさ」 こちらも冗談めかして返すと、市原の瞳が不敵に輝いた気がした。 「こっからがほんとうのスタートラインってことで」 「ああ。どっちが先にチェッカーフラッグを受けるか、競争だな」 「それと、勝利の女神を手にするか、ですね」 市原が差し出してきた右手を握って、固く握手を交わす。 「できれば彼女には、レースクイーンのカッコしてゴールで待っててほしいとこだけど、絶対やってくんないだろうしなあ」 そう暁がにやけた顔で呟いた瞬間、市原の手にグ…ッと力がこもった。 「痛てててててっ! 冗談っ 冗談だっての!」 放された手にふーふーと息を吹きかけていた暁に、かけられる声。 「それじゃ。これから、よろしく頼んますよ、『暁さん』」 「ああ。おてやわらかに頼むぜ、えーっと…」 「希。市原希(いちはらのぞむ)っス」 「『希くん』」 そうして、男二人は恋敵同士とは思えないほどの爽やかな笑顔を交わして、それぞれの職場へと去っていった…………。 |
2013.1.14up
ついに暁の自覚&宣戦布告。
夕映は、このタイプの違う二人の男のどちらを選ぶのか?
背景素材「空に咲く花」さま